最初に釈迦が正直に感情的になって舍利弗を叱った原因は何かといえば、修行の浅い舎利弗がついにボロを出したということですよね。
これはどうやら素直に考えて、普通の状況の展開だったと考えて良いようですね。
そして、それで動転した舍利弗でしたが、その後、冷静になって今度は釈迦のほうこそがどうもおかしいと正直に指摘し始めましたね。
さらにそれは、舍利弗からも見て周囲の四衆の状況も明らかに釈迦を疑い出していることを見計らってのことでした。
そのどういうふうに釈迦はおかしいのかということですが、それはただ今後は舍利弗たちには教えないという不平に対してだけではなく、別な意味もあるようなのです。
それは舍利弗が正直に語りだした偈の中で、釈迦が自らであるという表現を繰り返して使っている意味不明な表現から何かが解かってきそうなのです。
それは釈迦はとかく自らを強調して、まるで自分一人で佛法や佛道を達成してきたかのような言い分に対して、舍利弗からすれば釈迦は自分勝手すぎであり、一緒に修行してきた者への労りや共同成果への感謝がないということでしょうね。
つまり、舍利弗の根本的な言い分は一緒に運営してきた教団の和や統率を釈迦自らが乱すに等しいということであり、まるでバラバラに解散させるような言い方は怪しいということらしいのです。
どうやらこの辺で皆さん、そろそろ理解できてきたでしょうか?つまり、釈迦の考えは舍利弗の考えている教団の調和第一主義とはまったく逆のようだということなのです。
これはどういうことかと言えば、釈迦が今まで弟子たちに教えてきた佛法や佛道とは、共有せず自立して各々が得るためのものであったようだということです。
このように方便とは各々の立場に応じた説法であることが、このことを明らかに意味していることがだんだんわかってきましたね。
リンクHPへ ⇒ 第10-2日-舍利弗-四衆の心の疑を知り-方便品第二-五十六行-六十二行/
これはどうやら素直に考えて、普通の状況の展開だったと考えて良いようですね。
そして、それで動転した舍利弗でしたが、その後、冷静になって今度は釈迦のほうこそがどうもおかしいと正直に指摘し始めましたね。
さらにそれは、舍利弗からも見て周囲の四衆の状況も明らかに釈迦を疑い出していることを見計らってのことでした。
そのどういうふうに釈迦はおかしいのかということですが、それはただ今後は舍利弗たちには教えないという不平に対してだけではなく、別な意味もあるようなのです。
それは舍利弗が正直に語りだした偈の中で、釈迦が自らであるという表現を繰り返して使っている意味不明な表現から何かが解かってきそうなのです。
それは釈迦はとかく自らを強調して、まるで自分一人で佛法や佛道を達成してきたかのような言い分に対して、舍利弗からすれば釈迦は自分勝手すぎであり、一緒に修行してきた者への労りや共同成果への感謝がないということでしょうね。
つまり、舍利弗の根本的な言い分は一緒に運営してきた教団の和や統率を釈迦自らが乱すに等しいということであり、まるでバラバラに解散させるような言い方は怪しいということらしいのです。
どうやらこの辺で皆さん、そろそろ理解できてきたでしょうか?つまり、釈迦の考えは舍利弗の考えている教団の調和第一主義とはまったく逆のようだということなのです。
これはどういうことかと言えば、釈迦が今まで弟子たちに教えてきた佛法や佛道とは、共有せず自立して各々が得るためのものであったようだということです。
このように方便とは各々の立場に応じた説法であることが、このことを明らかに意味していることがだんだんわかってきましたね。
リンクHPへ ⇒ 第10-2日-舍利弗-四衆の心の疑を知り-方便品第二-五十六行-六十二行/
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