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我慢とは方便の基本概念、考えなくとも真実を得てから悟る不思議  【勧持品第十三】その10

2015年03月13日 12時12分56秒 | 生活・経済
この勸持品第十三の菩薩摩訶薩たちの取り乱した状況を現代の右翼団体のように意味のない空元気のように思えてきます。
ただ反発的であることが、逆に何とかして欲しいという腹にたまった切実で正直な願いを曝け出したい気持ちだけは伝わってくるようです。
 
これは修行者の誰もにある内面的な不服や悩みに相違ないことだと思いますが、その辛さゆえに佛法があると言っても過言ではなく、佛法の存在する前提とも言えるでしょう。
 
これらはとにかく、佛に頼らず自分たちで解決したり知識を深めて行かなければならない基本原則な課題であって、佛法を得ることの前提となる、このような不平不満は表に出さないように我慢するという姿勢が受け身の基本なのかもしれません。
 
ところで、菩薩といえばある程度高度な修行がすでに済んでおり、その修行成果を一般衆生へ分け与える立場であるわけでしょうが、それ故に与える一方だけになってしまっては、基本の受け身の構えを失ってしまいます。
 
その受け身の厳しさがある故に清淨で立派な荘厳の具足がなされているわけでしょうから、どんなに出世の立場に成ろうと受け身の厳しさは保持しなければならないということでしょう。
 
その点でも釈迦は方便の大切さを示すのでしょうが、一般の衆生が腹いせに無頓着になろうとすることの気持ちを良く知るためが教える側の方便理解ということかもしれません。
ある意味では、辛さを正直に辛いと表示するよりも方便に変えて平気なように我慢をすることで何でもないことだということもあるでしょう。
 
つまり、我慢は方便の基本概念とも言えるでしょうが、それに対し第一佛乗では方便を捨てよという指導になるのは、我慢修行で付いた悪い癖や判断の鈍りを振り払い、基本をしっかり積んだ上での出たところ勝負で思い切りの効果を思いがけなく得る、習慣や実績で考えているだけでは計り知れない不可思議な真実を知る、つまり真実を得てから悟ることになるということかもしれません。 
 
 
リンクHPへ ⇒ 第10-13日号  悉く是の諸惡を忍ばん  【勧持品第十三】(五十一行~五十八行)