その評価が分かれるとしても。彼を優秀とする評価が存在し、基本的に日本の官僚が優秀であると評される事に、かなりの違和感を感じる。
誰って、前川喜平の事である。
【日本スゴイ=俺スゴイ】#前川喜平 「ネット右翼諸君、君たちは確立された自己が無いから、国家だとか民族だとかに自己同一化する」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1560628715/-100
誤解しないで頂きたいのだが、俺は日本の官僚を優秀だと思っている。
そして、その優秀さはツールとしての優秀さであって、別にどんな思想の持ち主であっても構わないと思っている。
実際、前川喜平のウィキを確認すると、以下のような記述もある。
【Wiki】前川喜平
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E5%B7%9D%E5%96%9C%E5%B9%B3
優秀だったらいいんだよ。こいつサイテーだと思うんだけどな。
とりあえず、こいつの事を「正義感あふれる人格者」だと思う人は、ウィキの出会い系バー問題あたりの報道と、御本人の言い訳とかを読んでみればいいと思う。
現在の、吠えまくってるツイッターの文章とかも、読んでみればいい。
思想が最低なのは、まあ言うまでもないのだけど。決して優秀ではない。
「能ある鷹」ってのは、爪を隠す事ができるのだ。
キチガイな主張でも、反論されないような、または反論されても問題ないような論陣を張る事ができる。
例えば、竹中平蔵氏がそうだと思う。俺は竹中平蔵氏の主義主張は全面的に間違っていると思うが、彼と論戦をして勝てる気がしない。アレが優秀な人であろう。
前川喜平がやってる事は、誰に対してもできる批判である。…だから、批判というよりは罵倒といった方がいいかもしれない。
この一文、「ネット右翼諸君」を「パヨク諸君」に変えても、「キチガイ諸君」に変えても、「テロリスト諸君」に変えても、「ある嘘つきの管理人」に変えても、何に変更してもほぼ違和感がない。
「批判」ってのは、「良いところと悪いところをはっきり見分けて評価する事」である。一方、「罵倒」とは「ひどくののしる事」である。
前川喜平のやってる事は、反論の準備ができていない一方通行である。
つまり、反論してくる人々を、同質の人間として見ていない。遥か下賤のものと、見下しているのだ。
今は本当に、いい時代になったと思う。
ネットが発達する前は、これが許されていたのだ。反論してくる人々を、自分たちと同等の人間扱いする必要がなかった。
香港のデモなんかもそうだ。
別に、中国は体制が変化したわけではない。でも、天安門事件のような人権弾圧は難しくなった。現在進行形で行われている中国のチベット自治区のような人権弾圧は相変わらず存続しているが、人権弾圧を継続する事はできても、発展させる事は困難だと思う。
それは、自己正当化が困難だからだ。
批判はともかく、罵倒の自己正当化は困難である。そして、昔は必要なかった、前川喜平に対し「反論してくる人々」は、やがて大多数の日本人となっていくのである。
冒頭の繰り返しとなるが。日本の官僚は、優秀である。反論が必要だとわかれば、彼らは適応できるに違いない。優秀である事を強いられるのだ。
そして、優秀でなくなった前川喜平のような連中は、正しく老害として淘汰されていくのである。
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誰って、前川喜平の事である。
【日本スゴイ=俺スゴイ】#前川喜平 「ネット右翼諸君、君たちは確立された自己が無いから、国家だとか民族だとかに自己同一化する」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1560628715/-100
誤解しないで頂きたいのだが、俺は日本の官僚を優秀だと思っている。
そして、その優秀さはツールとしての優秀さであって、別にどんな思想の持ち主であっても構わないと思っている。
実際、前川喜平のウィキを確認すると、以下のような記述もある。
【Wiki】前川喜平
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E5%B7%9D%E5%96%9C%E5%B9%B3
人物
座右の銘は「面従腹背」[9]。教育基本法改正や道徳の教科化は「やりたくない仕事」だったという
座右の銘は「面従腹背」[9]。教育基本法改正や道徳の教科化は「やりたくない仕事」だったという
優秀だったらいいんだよ。こいつサイテーだと思うんだけどな。
とりあえず、こいつの事を「正義感あふれる人格者」だと思う人は、ウィキの出会い系バー問題あたりの報道と、御本人の言い訳とかを読んでみればいいと思う。
現在の、吠えまくってるツイッターの文章とかも、読んでみればいい。
思想が最低なのは、まあ言うまでもないのだけど。決して優秀ではない。
「能ある鷹」ってのは、爪を隠す事ができるのだ。
キチガイな主張でも、反論されないような、または反論されても問題ないような論陣を張る事ができる。
例えば、竹中平蔵氏がそうだと思う。俺は竹中平蔵氏の主義主張は全面的に間違っていると思うが、彼と論戦をして勝てる気がしない。アレが優秀な人であろう。
前川喜平がやってる事は、誰に対してもできる批判である。…だから、批判というよりは罵倒といった方がいいかもしれない。
ネット右翼諸君、君たちは集団に帰属し、異質な者たちを排斥することによってしか安心が得られない悲しいナショナリスト、憐れなレイシストだ。
この一文、「ネット右翼諸君」を「パヨク諸君」に変えても、「キチガイ諸君」に変えても、「テロリスト諸君」に変えても、「ある嘘つきの管理人」に変えても、何に変更してもほぼ違和感がない。
「批判」ってのは、「良いところと悪いところをはっきり見分けて評価する事」である。一方、「罵倒」とは「ひどくののしる事」である。
前川喜平のやってる事は、反論の準備ができていない一方通行である。
つまり、反論してくる人々を、同質の人間として見ていない。遥か下賤のものと、見下しているのだ。
今は本当に、いい時代になったと思う。
ネットが発達する前は、これが許されていたのだ。反論してくる人々を、自分たちと同等の人間扱いする必要がなかった。
香港のデモなんかもそうだ。
別に、中国は体制が変化したわけではない。でも、天安門事件のような人権弾圧は難しくなった。現在進行形で行われている中国のチベット自治区のような人権弾圧は相変わらず存続しているが、人権弾圧を継続する事はできても、発展させる事は困難だと思う。
それは、自己正当化が困難だからだ。
批判はともかく、罵倒の自己正当化は困難である。そして、昔は必要なかった、前川喜平に対し「反論してくる人々」は、やがて大多数の日本人となっていくのである。
冒頭の繰り返しとなるが。日本の官僚は、優秀である。反論が必要だとわかれば、彼らは適応できるに違いない。優秀である事を強いられるのだ。
そして、優秀でなくなった前川喜平のような連中は、正しく老害として淘汰されていくのである。
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