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原本ヨハネ福音書研究巻7

2016-02-08 13:10:10 | 聖研
原本ヨハネ福音書研究巻7

巻7 最後の晩餐

 (1) 洗足(13:1~20)
 (2) 最後の教え
  シーン1 イスカリオテのユダ (13:21~27,30)
  シーン2 弟子への最後の教え (13:31~14:31) 
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はじめに
松村克己は「第13章からヨハネ福音書は第2部に入る。不特定多数の人々に向かって語りかけ、働きかけてきたイエスは人々から「身を隠し」(Jn.12:36)、少数の弟子たち、神の国の中心となるべき12弟子、イエスと運命を共にするために選んだ「自分の者たち」(Jh.13:1)にのみ語る。語られる内容は、決別に当たっての最後の教訓という形式をとってはいるが、彼と彼らとの間柄が何であるかということ、一言で言えば信仰の開明であり、堅信の奨めである。彼と彼らとの間は彼と天の父との関係に根差していること、彼によってまた彼と共に、彼らもまた天の父の子となることを教える。第17章までの部分はヨハネ福音書における最高峰であり、山上の垂訓に比べ手も遜色のない珠玉の文学である。繰り返し熟読玩味して信仰の秘儀を学ぶべきである」と述べている」。松村の場合は、原本に含まれていない15章から17章を含んで考えている。
田川建三は「共観福音書と比べると、現在見られる形では、ヨハネの最後の晩餐の場面は異常に長い」と述べ、この章の「最初に『洗足』の場面を置いたのは、明瞭に、マルコ福音書に見られる聖餐式設定の場面を代替するためである」という。その上で「『晩餐』そのものの話はほとんど何も記されていない。2節と4節に、これは晩餐の時のことだよ、文字通りひとこと言及されているだけである」。「この著者が晩餐そのものよりも『洗足』の話だけを語ろうとしていることは、明白である。その話の作りも、いかにもヨハネ的な創作である」。13章21節以降ないしは18節以降はイエスの長い説教であり、これは17章の終わりまで続く。この長い説教の大部分は教会的編集者が書いた説教だと思われる。「最初のうちは(第13章)、それでも遠慮がちにところどころに自分の説教的挿入を加えていっただけだが(それでも後半になるとどんどん増える)、14章になると、著者の原文よりも教会的編集者の文章の方がずっと多くなり、15章~17章はついにまるごとこの編集者の作文である」(田川:558頁)。

第1章 洗足(13:1~20)

<テキスト13:1~20>
語り手:さて、過越の祭が近づいてまいりますと、イエスは非常に緊張してきました。いよいよ、この世を離れ父の御許に帰る時が来たのです。その時、気になることは弟子たちのことでした。それでイエスは弟子たちをとことん愛していることを示すためには何をしたらいいのか考えました。
夕食が始まる前、イエスと12人の弟子たちは食卓に着きました。イエスは弟子たちを見回しました。とくに日頃から気にかけていた弟子の一人イスカリオテのユダの様子を見ていますと、いつもの快活さが見られません。彼もかなり緊張しているようです。おそらく悪魔が既に彼の心奥深くに入り込み、イエスを売る決意をさせたのだろうと思われます。イエスは、何とかそれだけは避けたいと思っていましたが、それもどうやら手遅れのようです。彼の決意もかなり固そうに思われます。
イエスは父が、これからのことをすべて自分に任せてくださったように感じました。父は私を全面的に信頼しておられる。そうならば、私も弟子たちを信頼しよう。イエスは密かに自分に語りかけました。もう躊躇することはありません。
イエスは静かに席を立ち、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまといました。それから水桶に水を入れ、弟子たちの足元にしゃがみ込みました。弟子たちはこれから何が始まるのか驚きました。人間は本当に驚いたときには何もできず呆然とするだけです。彼らはイエスの異様な行動を黙って見つめるだけでした。最初の弟子の足を手で丁寧に洗い、腰にまとった布で拭き取りました。そして、次々と同じように弟子たちの足を洗いました。シモン・ペトロのところに来たとき、流石にペトロは気を取り直し、イエスに言いました。

ペトロ:先生、あなたが私の足をお洗いになるのですか。
イエス:私が何をしているのか、今はあなたは分からないでしょう。でも後になってわかります。
ペテロ:私の足など絶対に洗わないで下さい。
イエス:もし私があなたを洗わなければ、あなたは私と何の関係もないことになりますよ。それでもいいのですか。
ペテロ:先生、それなら足だけでなく、手、頭も。

語り手:全部の弟子たちの足を洗い終わると、上着を着て、席にお着きになりました。

イエス:さて、私が何をあなた方にしたのか、分かりましたか。あなた方は私のことを、「先生」とか、また、「主」とか呼んでいますが、それはその通り正しいのですが、その私が、主とか先生と呼ばれているこの私があなた方の足を洗ったのです。ですから、あなた方もお互いの足を洗いあうべきでしょう。私は身をもってその模範を示したのですから、あなた方も私がしたようにして欲しいんです。本当のことを言うと、召使いは自分の主人よりも偉いわけはなく、遣わされた者は遣わした者よりも偉くはありません。もしこのことが分かり、それを実践すれば必ず幸せになります。

教会的編集者の挿入:13:10~11,18~20

<以上>

(a) イエスと弟子たちとの最後の晩餐は何時行われたのだろうか。ヨハネ福音書の時系列を十字架による処刑から遡ると、イエスの処刑後、「その日が過越の食事の備えの日であったので、とくにその安息日は大いなる日に当たっておりましたので、ユダヤ人たちは安息日に十字架に屍体が残らないようにとピラトに頼みました」(Jh.19:31)とあり、その日の日没から安息日(ニサンの月の15日)が始まるとされる。つまり処刑は現代的に言うと金曜日(同14日)の日中ということになる。その日の朝、「イエスは祭司長カイアファの邸では尋問らしい尋問もされず、そのままローマの総督官邸に送り込まれました。その時は、もう明け方近くで、ユダヤ人たちは官邸に入ろうともしませんでした。その日は過越の食事をする日で外国人の家に入ることは穢れると考えられていからでした」(Jh.18:28)とあり、過越の食事が金曜日の日没以後、(ニサンの月の15日土曜日)にもたれることを示している。そうすると、イエスが逮捕されたのは13日木曜日の日没後、ユダヤ暦では日付が変更され14日金曜日で(太陽暦では13日金曜日)、イエスと弟子たちとの最後の晩餐は13日の木曜日の夕方ということになる。マルコ福音書によると過越の食事は除酵祭の第1日、即ち小羊をほふる日とされるが、その日に過越の食事がなされているように描かれているのは間違いであろう。
ここでヨハネではイエスの処刑は小羊をほふる日ということである。まさにイエスは犠牲の小羊である。
ヨハネ福音書ではイエスについての最初の言葉が洗礼者ヨハネによる「ご覧なさい、あの方が『世の罪を取り除く神の小羊』です」(Jh.1:29)という言葉であった。そしてその死は過越祭における「小羊をほふる日」であった。つまり、始と終わりとが見事に対応している。

(b) イエスは世を去るに当たり、心残りなことは弟子たちのことであった。「イエスは弟子たちをとことん愛していることを示すためには何をしたらいいのか考えました」(Jh.13:1)。ここで「とことん愛している」という言葉を新共同訳では「この上なく愛し抜かれた」と訳し、口語訳では「最後まで愛し通された」、フランシスコ会訳では「終わりまで愛し抜かれた」と訳している。この言葉には「最後まで」という言葉が含まれている。つまり、ここから十字架上での死に至るまで愛したという意味であろう。要するにここからの全ての行為は弟子たちに対する愛の実践だという。弟子たちに対するイエスの愛について、松村克己は次のように述べている。「弟子たちをトコトンまで愛して、彼らのうちに、彼が知っている父なる神の愛を知らせ、この愛によって互いに相愛する群れを確立することであった。「最後まで」の愛とは単に時間的に最後までという意味だけではなく、程度において徹底的にという意味を含む。イエスの弟子たちに対する愛は十字架を前にして極度にまで高められた」。
その具体的行為の始まりが弟子たちの足を洗うという行為であった。その冒頭にイスカリオテのユダの裏切りということが述べられていることを注目すべきであろう。イエスの「とことんの愛」は裏切るであろうユダをも含んでいる。

(c) 「最後の晩餐」の記事はMt.26:26~30,Mk.14:22~26,Lk.22:15~20等共観福音書にも見られる。それらの記事のいずれも聖餐式の制定が主なる内容である。ところがヨハネ福音書だけは聖餐式制定については一切触れられず、それに代わるものとしてイエスが弟子たちの足を洗ったという出来事が記録されている。食事の前に足を洗うという風習は特別なことではなかったようで、通常は、部屋の入口でその家の僕が手桶を準備して来客の足を洗うことになっていたようである。ところが最後の晩餐では、既に彼らは食卓に着いていたようである。考えてみると、彼らは足を洗っていない。
この場面を松村克己は次のように描写している。「招かれた客を入り口で迎えその『足を洗う』のは僕の役割である。イエスの一行の夕食は他人を交えない内輪だけの食事で、その食卓のマスターはイエスであり、弟子たちは招かれた客である。彼らの足を洗う僕がここにはいない。この家はおそらくヨハネ・マルコの母の家、後に弟子たちが集まるのを例とした家であろう。イエスは弟子たちだけでの別れの宴を持つことを望んだので、彼女は奴隷を出さず水と手拭いだけを用意してそこに置いたのであろう」。かなり想像が含まれているがおおよそこのような情景であったであろう。

(d) ペトロとの会話。さすがに弟子の中での最年長者、先生が弟子の足を洗うという逆転した状況にいたたまれなくなったのであろう。ペトロはイエスが彼の足を洗うことを拒否する。その時のイエスの言葉、「もし私があなたを洗わなければ、あなたは私と何の関係もないことになりますよ。それでもいいのですか」(Jh.13:8)。「あなたは私と関係がないことになる」、直訳すると「私と共に分け前を持つことがない」で、ポイントは「共に」ということにありそうである。イエスと関係があるということは、イエスと共に分け前の共同所有者になること。分け前はともかく、「共同」ということが重要である。イエスのこの言葉の中に福音の神髄が込められている。「イエスと共に立つ」、「イエスと共に生きる」、「イエスと共に死ぬ」、これらをすべて込めた一語が「イエスと関係がある」ということである。
「それなら足だけでなく、手、頭も」。この言葉は、半分ぐらい、いや半分以上、いやもっとかな。イエスの言葉に対する冗談だと思う。これに続く10~11節は、この言葉を冗談として受け止めきれなかった教会的編集者たちの苦心の付加であろう。ここで洗礼式や聖餐式のことを思い浮かべること自体が、この文章が教会的編集者の言葉であることを示唆している。

(e) 「さて、私が何をあなた方にしたのか」以下の文章は分かりやすい。ほとんど解説を必要としない。何故、ここで聖餐式制定の出来事ではなくイエスが弟子たちの足を洗ったという出来事をここで語っている意図を、イエスの口を通して語っている。こっちの方が聖餐式というサクラメントよりはるかに重要だと著者ヨハネは考えている。「本当のことを言うと、召使いは自分の主人よりも偉いわけはなく、遣わされた者は遣わした者よりも偉くはありません」(Jh.13:16)の言葉は、例の「アーメン、アーメン、汝らに次ぐ」という定型句に始まる言葉である。特に重要なイエスの言葉を意味している。「召使いは自分の主人よりも偉いわけはない」。これは当たり前のこと。ところがここではイエスが召使いのように弟子たちの足を洗った。このことは一般社会ではほとんどあり得ないことである。しかし、これをあなたがたも実践せよと言う。この教えはかなり厳しいが言っていることは分かりやすい。問題は、これと同じように、「遣わされた者は遣わした者よりも偉くはありません」と言う。この言葉は、同じことを別の例で繰り返したに過ぎないように見える。しかし実はそこには隠れた意味がある。この「遣わされた者」という名詞は「アポストロス」で、教会では「使徒」を意味する。ヨハネ福音書が書かれた当時、既に12弟子たちの「使徒職」は確立しており、主から派遣された者として教会内では高い地位であった。ついでにもう一つ説明を加えると、ここで「派遣する」という意味の言葉は、「アポステロー」と「ペンポー」と二つあり、この二つの名詞形を実に上手く使い分けて「使徒(遣わされた者)」は「派遣した者」よりも偉くはないという。今ここで、彼らの主であるイエス自身が謙虚であったよりも、もっと謙虚でなければならないということを示している。

第2章 弟子への最後の教え

ここまで語るとイエスは一仕事終わった時に感じる、一種の安堵感と、これから嫌なことを言わなければならないという気持ちで、しばらく沈黙が続いた。ここから二つのシーンがある。

シーン1 イスカリオテのユダ

<テキスト13:21~27、30>
語り手:イエスはこのことを話し終わると、何か思い悩んだ様子でしたが、意を決したように重い口を開き話し始めました。

イエス:実は、あなた方のうちの一人が私を裏切り、売るでしょう。

語り手:イエスのこの言葉は弟子たちを動揺させました。誰のことだろう、とお互いに顔を見合せました。イエスの席の隣に座っていた弟子、彼は普段から「イエスが愛している者」と呼ばれていましたが、ペトロはこの弟子に、「誰のことか尋ねよ」と目で合図をしました。その弟子がイエスの耳元でささやくように尋ねました。

その弟子:先生、それは誰ですか。
イエス:私がパンをスープにひたして与える者だ。

語り手:そういうとイエスはパンを千切り、それをスープにひたし、イスカリオテのユダに与えました。するとその一片のパンと一緒にサタンが彼の中に入りました。それを見て、イエスは彼に言いました。

イエス:あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい。

語り手:イエスのその言葉を聞いて、ユダはイエスからパン片を受け取り、すぐに出て行きました。外は真っ暗な闇夜でした。

教会的編集者の挿入:13:28~29

<以上>

(a) この場面はイスカリオテのユダの裏切りを公にした場面である。マタイ福音書では26:21、マルコ福音書では14:18、ルカ福音書では22:21に記録されている。いずれも最後の晩餐の席である。マルコとマタイではこれを聞いた時「弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」という。ルカもほぼ同様である。共観福音書ではこの告知の前にすでにユダは行動していることを述べている。しかし他の弟子たちはそれを知らない。こういう場面で「まさかわたしのことでは」という心配をするということは、そうではないとは言い切れない何かを心に抱いているのであろう。ヨハネ福音書では、イエスのこの発言は唐突であり、ユダについてはこの食事会が開かれる前に「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(Jh13:2)とだけ述べている。
ヨハネ福音書ではここまでにイスカリオテのユダは2回登場しているが(Jh.6:71,12:4)、いずれの場合も「裏切る者」と言われている。まさに「裏切る者」というレッテルが最初から付けられている。もっとも、これは著者と読者だけが知っていることで当事者たちは知らないことである。
ともあれ、この予告がなされた時、ヨハネ福音書では「誰か」とお互いに疑っているが、自分に対しては裏切らないと思っている。ここが共観福音書と異なる点である。

(b) ここに登場するのが、イエスの隣に座っていた「イエスが愛している者」という謎の人物である。この人物と洗礼者ヨハネの弟子でアンデレともう人地の「無名の弟子」(Jh.1:40)とが同一人物かどうか明記されていない。ペトロは彼に無言で合図し、裏切り者は誰か訊ねさせる。その時、イエスは彼の質問に周囲にわからないように示す。私は、イエスが彼にだけこのような重要なことを教えたとは思えない。事実、この後もその人物か誰かということは明らかにされないまま、事態は進み、イエスは誰にも分からないように、ユダに「あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい」と語り、ユダはすぐにその席を離れて外出している。教会的編集者は、同席していたものは誰も彼が裏切り者だということに気が付かず、会計としての仕事をしてたという解説を挿入している。多分その通りでだったであろう。ここで重要なことは、イエス自身はユダの裏切りを知っていながら、そのことを他の弟子たちにはわからないように配慮していることである。にもかかわらず、「イエスが愛している弟子」にだけは暗示的にではあるが述べている。その理由が判らない。

シーン2 弟子への最後の教え

ここからかなり長いイエスの説教が始まる。この部分は原本と教会的編集者の言葉とが錯綜しており、そのまま読むと何が何やらわからなくなる。

<テキスト13:31、36~38、14:1~31>
語り手:さて、ユダが出て行くと、それまで部屋の重苦しい空気が一変し、新しい光が差しこみ、何かが始まりそうだという空気に満たされました。

イエス:今や人の子は栄光を受け、神も人の子も崇められるときが来ました。
ペテロ:先生、あなたはどこに行かれるのですか。
イエス:私が行く所に、今はあなたはついて来ることができません。いずれにしても、何時の日か、あなたはついて来ることになるでしょうが。
ペテロ:先生、何故今すぐにあなたについて行くことができないのですか。私は自分の生命をあなたのために棒げる覚悟です。
イエス:あなたはあなたの生命を私のために棒げると言われるのですか。それはありがたいことですが、本当のことを言うと、あなたは鶏が鳴く前に私を知らないと三度も言うことになるでしょう。
あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。たとえこの世でどんなことがあっても、あなた方には究極的な安息の地が与えられているのです。私の父の家にはあなた方のために永遠に憩う場所が備えられています。そうでなければ、私はあなた方のために場所を用意しに行くと言ったでしょう。私がどこに行くのかということも、その道もあなた方は知っています。

語り手:それを聞いたトマスは、イエスの言葉を中断して、質問しました。

トマス:先生、あなたがどこに行かれるのか、私たちは知りません。それなのに、どうしてそこに行く道を知ることができるでしょう。イエス:私が道であり、真理であり、生命なんです。誰も私を通らずに、父のもとに至ることはできません。あなた方が私を知っているのであれば、私の父をも知ることなるのです。そして今からは、あなた方は私の父を知るでしょうし、それが父を見るということなのです。
フィリポ:先生、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。
イエス:こんなに長い間、あなた方は私と一 緒にいるのに、私のことがまだ分からないのかな。フィリポ、いいかい、私を見た人は父を見たのです。それなのに、どうしてあなたは父を見せてほしい、などと言うのですかね。私が父におり、父が私におられる、ということが、あなたは信じられないのですか。私があなた方に話す言葉は私が私の思いで話しているのではありません。父が、私の中におられる父が、働きかけ、私に語らせておられるのです。私が父の中に、また父が私の中に、ということについては、私を信じてください。私が信じられないなら、私の働き、私の生き方を信じればいいでしょう。
これらのことについては、今はまだ十分に理解出来ないかも知れませんが、父が私の名において遣わして下さるであろう保護者、すなわち聖霊のことですが、あなた方にすベてのことを悟らせ、また私があなた方に言ったすベてのことをあなた方に思い起こさせて下さるでしょう。だからあなた方は何も心配することはありません。
私はあなた方に平安を残していきます。それは私の平安です。私は、世とは違う仕方で、私の平安をあなた方に与えます。だからあなた方はどんなことが起こっても怯えないで、落ち着いていなさい。
今、そのことをあなた方に言っておくのは、それが実際に起こってきたときに、あなた方が信じ続けることが出来るためなのです。もうこれ以上、あなた方に話しておかねばならないことはありません。兵士たちが近づいています。しかし彼らは私とは何の関係もないのです。しかし世界が、私が父を愛し、父が私に命じたままに私が行動していたことを知るためなのです。さぁ、立ち上がりなさい。出かけましょう。

教会的編集者の挿入:13:32~35、14:3、12~25、28

<以上>

(a) 冒頭でイエスは「今や人の子は栄光を受け、神も人の子も崇められるときが来ました」と宣言する。この宣言を聞いてペトロはイエスがどこかに行くというように聞いたらしい。これまでにイエスはユダヤ人に対しても弟子たちに対して、誰もついてこれないところに出かけるという話をしている(Jh.7:34,8:21)。だからイエスの話を聞いて、いよいよその時が来たと思ったらしい。そこでペトロが弟子たちを代表して率直に「先生、あなたはどこに行かれるのですか」。「私が行く所に、今はあなたはついて来ることができません」と答えた上で、一言付け加える。「いずれにしても、何時の日か、あなたはついて来ることになるでしょうが」。弟子たちはイエスが行ける所なら、どこでも行けると思っている。それでペトロは自分たちの覚悟を語る。「先生、何故今すぐにあなたについて行くことができないのですか。私は自分の生命をあなたのために棒げる覚悟です」。これは弟子たち全員の率直な気持ちであったであろう。この言葉を聞いて、イエスの話は予定外の方向にそれてしまう。ペトロの裏切りを予告する。人間の覚悟とはそんなものである。しかしイエスの覚悟は違う。

(b) ここからがイエスの説教の本題。「あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。たとえこの世でどんなことがあっても、あなた方には究極的な安息の地が与えられているのです」。あなたがたの「究極的な安息の地」とは即ち「父の家」である。ここにあなたがたの居場所がある。このことは裏返すと、この地は何らかの使命を果たすために生きている場所、つまり派遣先であるということを含蓄している。
イエスは「私がどこに行くのかということも、その道もあなた方は知っています」という。知っているはず、しかし知らない。このギャップは何処から生まれるのだろうか。理解力の問題ではなく「先入観」の問題。先入観を持って人の話を聞くと、その人が本当に言いたかったことが分からなくなる。

(c) この部分について、かなり長いが松村克己の解説を紹介しておく。
<以下引用>
「わたしの父の家にはすまいがたくさんある」。父の家にはイエスだけが住める場所しかないのではない。地上に天国をもたらすということは逆に言えば天国に多くのすまい持つということである。イエスはこのために来て、このために世を去らねばならない。「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ」(Jh.16:7)。もしそうでなければ「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」とは言わなかったであろう。だから「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。「わたしがおる所」とは、父なる神と子なる神との交わりであり、イエスは人々をここへと招き、弟子たちにこのことを保証する。イエスとの交わりが弟子たちにとっては神との交わり、永遠を意味する。そしてこのことが人生の目標に他ならない。「また来て」とは復活ともとれるし再臨ともとれる。そしてそれは何れも本当であり何れをも意味する。復活以前においては再臨と復活とは一つのことである。復活が訪れて再臨はさらに待たれるものとなり、一つのものは二つに分かれた。わたしたちはこの二つの時の間を生きている。そして彼を信じる者、その弟子は信仰において彼と共にいるので「わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」とイエスは言う。
このことをイエスは弟子たちに自覚させようとしたが、彼と共に在りながら、弟子たちは彼が言う信仰が何かということを悟ることができない。先生はそう言われるがわたしたちは先生の行き先を知らない、どうしてその道を知ることができるのか、とトマスは抗議した。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない 」。道・真理・生命の3つは形式的には並列されているが、中心思想は「道」で、真理と生命とは道をに対する畳みかけであることは間違いない。だからモハットはこれを「わたしは真にして生ける道である」と訳している。道はいうまでもなく父への道であり、この道を行くことによって真理と生命とが経験される(Heb.10:20)。真理とはそこで神がその真の姿において示されて出会われるということであり、生命とはそこで神が魂に生き生きと働くということである。イエスは一度彼らのもとを離れ、自由な恵みの霊として再び来ることによってこの本質を一層明瞭に発揮する。そのことを分からせるために、今、彼を信じる弟子たちの信仰がはっきりと自覚されていなければならない。信仰は静止しているものではなく、「信仰より信仰へ」(Rom.1:17)という姿でのみ生きる。そのことを彼は次の言葉によって弟子たちに確かめる。「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」(Jh.14:7)。「神を見る」とは彼方の世で与えられる約束であって(1Jh.3:2)誰も未だこれを見たものはいない。この身のまま神を見るものは死なねばならないと言い伝えられて来た。「心の清い人々は神を見る」(Mt.5:8)。これは最大の祝福であるがこの世では不可能なことと考えられていた。にもかかわらず、イエスは「 わたしを見た者は、父を見たのだ」と言う。もちろん、この「見る」は外面的感覚的な「見る」ではない。イエスを霊的洞察によって見る、その人格の秘密を把えることが神を見るということである。そのためには「心の清さ」が必要である。「幼な児の心」「生まれたばかりの乳飲み子」(1Pet.2:2)の澄んだ眼が必要である。それは新たに、霊によって生まれた者の眼である。詩人は「あなたの光りによって光を見る」(Ps.36:9)と歌ったが、光である神を見るこの眼は神から賜わる信仰である。「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしに来ることはできない」(Jh.6:44)。この眼、この信仰の眼に神はキリストにおいて自らを馴染ませてくださる。従ってこの「見る」は単なる観想や傍観ではなく、精神的、倫理的要素を含んでいる。ヨハネ福音書においては「見る」「信じる」「知る」はほとんど同一の含蓄をもって相互に交換できる言葉である。「わたしたちに父を示して下さい」と願うフィリポの言葉は、余計な問いとしてイエスを悲しませたに相違ない。「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」と、イエスはフィリポに迫りつつ「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか」 と問い返す。このことが理解できればフィリポは既に父を見ているのである。(中略)イエスはさらに言葉を継いで言う。わたしが語る言葉、わたしが行う行為は、「自分から」のものではなく「父がわたしの内におられて」なされているのである。「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい」。もしこの言葉がを信じられないなら、「わざそのものによって信じなさい」、とイエスはじゅんじゅんと訴える。イエスの心は次第に高揚して新しい真理を語り始める。<以上引用>
以上、恩師・松村克己の文章をかなり長く引用したが、先生の薫り高い聖書講釈を少しでも味わっていただきたい。

(e) 以上で弟子たちに対するイエスの教えは次の言葉で終わる。「今、そのことをあなた方に言っておくのは、それが実際に起こってきたときに、あなた方が信じ続けることが出来るためなのです」。この言葉はJh.14:1の言葉と響き合っている。「あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。そして私をも信じなさい」。「もうこれ以上、あなた方に話しておかねばならないことはありません。兵士たちが近づいています。しかし彼らは私とは何の関係もないのです。しかし世界が、私が父を愛し、父が私に命じたままに私が行動していたことを知るためなのです。さぁ、立ち上がりなさい。出かけましょう」(Jh.14:30~31)。この言葉は、Jh.18:1に続く。

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