ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

原本ヨハネ福音書研究巻8

2016-02-08 13:14:38 | 聖研
原本ヨハネ福音書研究巻8

巻8 十字架と復活

 (1) 逮捕(18:1~12)
 (2) ユダヤ人共同体における尋問 (18:13~27)
 (3) 総督邸における裁判 (18:28~19:16)
 (4) 処刑・埋葬 (19:17~42)
 (5) 復活物語(20:1~29)
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第1章 逮捕

<テキスト18:1~11>
語り手:イエスは弟子たちをうながしキドロンの谷の向こう側に行かれました。そこには庭園があります。ここはイエスと弟子たちの好きな場所で時々休みに来る、いわば秘密基地のような所でした。当然イエスを売り渡そうとしていたユダもここをよく知っていました。イエスと弟子たちはその庭園に入りました。ちょうどそのとき、ユダがローマ兵の一隊とユダヤ人のお偉方が派遣した下役たちを引き連れてやって来ました。彼らはそれぞれ松明や灯火や武器を手にしていましす。イエスはここで何が起こるの何もかもご存知で、自分の方から進み出て、声をかけられました。

イエス:あなた方は、誰を捜しているのですか。
ローマ兵:われわれはナザレ人イエスを捜している。
イエス:私だ。

語り手:イエスが「私だ」と言われたとき、その威厳ある言葉と態度に圧倒されて、彼らは思わず後ずさりし、そのうち何人かは押し倒されたほどでした。彼らがあまりにもグズグズしているので、イエスがもう一度声を張り上げました。

イエス:あなた方は、誰を捜しているのだ。
ローマ兵:ナザレ人イエスだ。
イエス:私だ、と言っているではないか。私を捜しているのなら、この人たちには手を出すな。

語り手:そのとき、突然シモン・ペトロが隠し持っていた短剣を抜いて、大祭司の僕、マルコスに打ちかかり、彼の右耳を切り落としました。それを見てイエスはペトロを叱りつけました。

イエス:剣を鞘におさめなさい。私のために父が準備して下さった杯を私は飲むのだ。

語り手:このようにしてイエスはローマの兵士たちと千卒長、ユダヤ人の下役たちによって逮捕され、縄を掛けられました。

教会的編集者の挿入句:18:9

<以上>

18章冒頭の「イエスは弟子たちをうながしキドロンの谷の向こう側に行かれました」という言葉は14章31節を受けている。キドロンの谷とは、ゲッセマネの別称であろう。ヨハネ福音書がマルコ福音書(共観福音書も同じ)と著しく異なる点は、マルコではユダが引き連れているのは、祭司長、律法学者、長老たちから送られユダヤ人の一団であるが、ヨハネではローマ兵たちである。マルコではローマ兵の姿が見えない。
マルコでは出会いの場面で最初に声をかけたのはユダで、「先生」と言いイエスに接吻している。これがイエスの人物認定であったらしい。ヨハネではユダの役割は案内してきただけで、イエスの方からローマ兵に対して「あなた方は、誰を捜しているのですか」と声をかけ、「ナザレのイエスだ」という答えに対して「私だ」と答えている。この「私だ」は「エゴ エイミ」である。このイエスの「エゴ エイミ」という言葉には異常な力があるらしく、この言葉を聞いてローマの兵隊たちは後ずさりし、ある者はひっくり返ったという。ここで同じ質問が繰り返された時、イエスの重要な発言がある。「私だ、と言っているではないか。私を捜しているのなら、この人たちには手を出すな」。こういう場面でもイエスが弟子たちに対する配慮を忘れない。この言葉が後にイエスが「身代わりになった」という思想へと発展したのではなかろうか。
その時突然、ペトロが隠し持っていた剣を抜いて、大祭司の僕、マルコスに打ちかかり、彼の右耳を切り落とした。それを見てイエスはペトロを叱りつけました。「剣を鞘におさめなさい。私のために父が準備して下さった杯を私は飲むのだ」。このエピソードはマルコも述べている。ただ、イエスの言葉はマルコでは、ペトロに対してではなく、ユダヤ人たちに対して「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか」(Mk.14:48)。マタイ福音書ではペトロとユダヤ人たちとの両方に同じような言葉をかけている。ルカはイエスがその僕の耳に手を触れて「癒す」という小さな奇跡を行っている(Lk.22:51)。

第2章 ユダヤ人共同体における尋問

<テキスト18:13~27>
語り手:イエスを逮捕した一団は取りあえず近くのアンナスの邸宅に連行いたしました。アンナスは祭司長カイアファの舅で、実は当時実権を握っていた男でした。
イエスを連行している後ろの方からペトロともう一人の弟子がつけていました。その弟子は祭司長の知り合いということで、祭司長邸の中庭に入れてもらえましたが、ペトロは門の外で立っていました。それでそのもう一人の弟子が門番に頼み込んで、やっと中庭に入れてもらいました。ところが門番の側にいた女使用人がペトロの顔を見て首を傾げました。

門番の女:あんたも、あの男の弟子の一人だよね。
ペトロ:<どぎまぎしながら> いや、違う。私じゃない。

語り手:その日はかなり冷え込んでおり、中庭では奴隷や下役たちが炭火をおこして、火の周りにたむろしていました。ペトロも彼らと一緒に火に当たっていました。
一方、邸の中では祭司長がイエスに、その弟子たちの動向やイエスの教えについて質問していました。
 
イエス:私はいつも会堂や神殿で正々堂々と話をしてきた。そこにはいろんなユダヤ人たちが集って、私の話を聞いてくれた。私は決して秘密でこそこそと活動していたわけではありません。それなのに、それ以上の何を私から聞きたいのでしょうか。私の話を聞いた人たちに、私が何を話していたか聞いたらいいじゃないですか。調べてご覧なさい。彼らは私が言ったことを何でも知っているでしょう。

語り手:イエスの言葉を聞いて、そばに立っていた下役の一人がイエスを殴りました。

下役:祭司長様に対してそんな口の聞き方があるか。失礼じゃないか。
イエス:私の返事のどこが悪いのか、はっきり言ってみなさい。間違ったことを言っていないのに何故殴るのだ。

語り手:そんなことがあって、アンナスはイエスをもてあましたのか、縛ったまま大祭司カイアファのもとに送りました。ここでもやはり炭火がたかれ、人々がそれに当たっていました。そこでもペトロは彼らの輪の中に入って火に当たっていました。そこにいた人々がペトロの顔をジロジロ見つめ、「お前もあの男の弟子だったよね」と迫りましたが、ここでもペトロは「私じゃない」と否定いたしましたが、運悪く、そこにはペテロが耳を切り落としたマルコスの身内の者がいて、「お前があの庭園であの男と一緒にいるのを見たんだけどな」と言いました。それでもペトロは否定しました。が、ちょうどそのとき鶏の鳴き声が聞こえました。

教会的編集者の挿入句:18:14

<以上>

(a) 逮捕されたイエスが最初に連行されたのが大祭司アンナス邸であった。大祭司アンナスは既に隠退していたが実権を握っていたと思われる。ローマの兵隊たちがイエスを何故ここに連行したのか理由はわからない。ともかく実力者だということは知られていたのか。ここでは、ほとんど実質的な取り調べはほとんどなされていない。ただ、ここでペトロがイエスを否認したという出来事が印象的である。

(b) 退職大祭司アンナスの邸から現役の祭司長カイアファの邸に移送される。ここでも、ほとんど取り調べはなされない。ヨハネ福音書ではイエスの処刑は既に決定されたことである(Jh.11:53)。ここでも大きく取り上げられていることはペトロの否認の件で、ここではイエスが逮捕された時ペトロが剣で耳を切り落としたマルコスの身内の者が登場している。それでもなお否定するペトロの耳に鶏の鳴き声が聞こえる。時刻は夜明け前であること示している。
松村克己は14節から27節、つまりペトロの否認の記事を後代の編集者が挿入したために不自然さが起こっているという。

第3章 総督邸における裁判

<テキスト18:28~19:16>
語り手:イエスは祭司長カイアファの邸では尋問らしい尋問もされず、そのままローマの総督官邸に送り込まれました。その時は、もう明け方近くで、ユダヤ人たちは官邸に入ろうともしませんでした。その日は過越の食事をする日で外国人の家に入ることは穢れると考えられていからでした。それで総督ピラトの方が外に出て来てイエスを連行してきたユダヤ人たちに尋ねました。

ピラト:この男の罪は何か。
ユダヤ人たち:この男に罪がなければ、我々は貴下のもとに連れてくる筈はありません。
ピラト:成る程、それならあなた方自身でこの男をあなた方の法律に従って裁けばいいじゃないか。
ユダヤ人たち:我々には人を死刑にする権限がありません。

語り手:それを聞いて、ピラトは一旦官邸に戻り、正式にイエスを召喚して言いました。

ピラト:あなたはユダヤ人の王なのか。
イエス:それはあなた自身の質問ですか。それとも誰か他の人から言われたことなんでしょうか。
ピラト:私はユダヤ人でもないのに、そんなことを問題にするはずがないでしょう。あなたと同胞の連中と祭司長たちが、あなたを私のところに訴えて来たのです。いったい、あなたは何の罪を犯したのですか。
イエス:私の王国はこの世のものではありません。もしも私の王国がこの世のものだったなら、私の家来たちが、ユダヤ人に働きかけて私を引き渡さないように闘ったでしょう。私の王国はこの世のものではありません。
ピラト:それではあなたは王ではないのですね。
イエス:私が王だというのは、あなたが仰っていることです。私は真理について証言するために生まれてきたのです。真理を求める人はみな私の声を聞きます。
ピラト:真理とは何ですか。

語り手:そこで審問は打ち切られ、ピラトは再び官邸から出てユダヤ人たちの前に立ち、「私はあの男はいかなる訴因も当てはまらない。過越の時に私が私の権限内で一人を釈放するという慣習があります。それで私はユダヤ人の王と言って訴えているこの男をあなた方のために釈放することにしたいと思う。

ユダヤ人たち:<狂ったように>釈放するのはそいつではない。誰かを釈放するなら、バラバを釈放しろ。

語り手:バラバは強盗でした。ピラトは群衆の声があまりにも大きく、このままでは治まりそうもないので、再び官邸内に退き、官邸内で兵士たちにイエスを鞭打させ、兵士たちが作った荊の冠を被せ、紫色の衣を着せ、兵士たちにイエスに対して「ユダヤ人の王様、ご機嫌いかがですか」などとふざけさせ、さらに殴らせ、痛めつけた。 イエスは見るも無惨な姿になった。
そして再びピラトは官邸から出てきて、群衆の向かって演説した。

ピラト:よく見ろよ、俺はあの男をお前たちの目の前に引き出す。俺自身はあの者にいかなる訴因も見出せない。そのことをお前たちに分からせるためだ。

語り手:イエスは見るも無惨な姿で群衆の前に引き出されました。荊の冠と紫色の衣をつけたままです。

ピラト:よく見ろよ、この男を。
祭司長たちや下役たち:<彼を見て、わめき立てた>十字架につけろ、十字架につけろ。
ピラト:お前たちがこの男を引き受けて、十字架につければいいではないか。もう一度言うぞ。俺はこの男を十字架につける理由を見出せないのだ。
ユダヤ人たち:我々には律法がある。その律法によれば、この男は自分を神の子であるというのだから、殺されねばならないのだ。

語り手:ピラトはユダヤ人たちのこの言葉を聞いて怖くなってきました。それで、また官邸に入り、イエスに言ました。
ピラト:お前はどこから来たのだ。
イエス:………。
ピラト:俺に対しても沈黙か。俺にはお前を釈放する権限もあるし、十字架につける権限もあるのだぞ。それが分からないわけではなかろう。
イエス:上から与えられたのでなければ、あなたは私に対していかなる権限も持っていない。だから、私をあなたに引き渡した者たちの罪は非常に大きいのです。

語り手:そこでピラトはイエスを釈放しようと決意しました。しかしまたユダヤ人たちが叫んびました。

ユダヤ人たち:もしこの男を釈放したら、あなたは皇帝に反逆することになりますよ。自分自身を王という者は誰でも皇帝に反逆する者だからね。

語り手:この言葉を聞くとピラトはさらに怖くなり、イエスを外に引き出し、裁判官席に着座しました。それは過越の準備の日、時刻はおよそ第6時(正午)頃のことです。

ピラト:見よ、彼がお前たちの王だ。
ユダヤ人たち:殺せ、殺せ、十字架につけろ。
ピラト:お前たちの王を十字架につけるのか。
祭司長たち:皇帝以外に我らに王はいない。

語り手:このようにして、ピラトはイエスを十字架刑にすることを承認し、イエスは死刑執行人たちに引き渡されました。

教会的編集者の挿入句:18:32

<以上>

(a) イエスに対する本格的な尋問は総督官邸に送られて、ようやく始められた。現在の日時でいうと14日、木曜日未明のことだと思われる。その日は夕方、過越の食事をする日であったので、イエスを連行してきたユダヤ人たちは非ユダヤ人の邸に入ることは汚れるということで官邸前に集まっていたようで、裁判は門前で行われたようである。尋問はピラトがユダヤ人たちにイエスの罪状認定から始まる。彼らは犯罪を犯していない者を連れてくる筈がないではないかと答える。始めから結論を決めてかかっているようである。これにはピラトも気を悪くして、ユダヤ人共同体の中での犯罪なら、ユダヤ人共同体内部で裁判すればいいではないか、と突っぱねる。それに対してこの男の犯罪は死刑に相当するものなので、ユダヤ人共同体内の法律ではその権限がないという。どうやら結論ありきの裁判のようである。ピラトはその返事にますます機嫌を悪くして官邸内に入ってしまう。そして、おそらくイエスを官邸内に留めて、そこで単独でイエスを尋問する。「あなたはユダヤ人の王ですか」(Jh.18:33)。イエスはユダヤ人の王であると称し民衆を扇動してローマ帝国に反抗しようとしているというのがユダヤ人たちが訴えている罪状らしい。
それに対してイエスは逆に「それはあなた自身の質問ですか。それとも誰か他の人から言われたことなんでしょうか」(Jh.18:34)と問い返す。イエスが「ユダヤ人の王」か否かという質問は誰が問うのかということによって意味がかなり違ってくる。ユダヤ人が問う場合には「キリストであるか、どうか」という宗教的な意味になるし、ローマ人の口から出る場合には政治的な意味となり「反逆者」と見なされる恐れが十分にあった。共観福音書ではイエスはあっさり「そうだ」と答えている(Mk.15:2)。しかしヨハネ福音書ではイエスの反問に対してピラトは機嫌を害し、「私はユダヤ人でもないのに、そんなことを問題にするはずがないでしょう。あなたと同胞の連中と祭司長たちが、あなたを私のところに訴えて来たのです。いったい、あなたは何の罪を犯したのですか」と問い返す。ピラトは非常に冷静である。イエスが問題にしているような微妙な点には興味はないようだ。そこでイエスはこの質問に対して直接に答えないで、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」と言う。つまり、イエスはユダヤ人のいう意味での王ではあるが、ローマ人の言う王ではない、という答えである。その答えを聞いて、「それではあなたは王ではないのですね」とピラトは駄目押しする。それに対してイエスは、「私が王だというのは、あなたが仰っていることです。私は真理について証言するために生まれてきたのです。真理を求める人はみな私の声を聞きます」(Jh.18:37)と答える。岩波訳(小林稔)でも「あなたの方が、私を王だと言っている」と訳している。つまりピラトの質問に対してイエスはイエスともノーとも言っていない。マルコ福音書でもこの部分は同じ文章になっている。ピラトの「あなたはユダヤ人の王ですか」という質問に対して「それはあなたが仰っていることです」(Mk.15:2)と答えている。それを口語訳では否定ではないから肯定であるという理屈で「そのとおりである」と訳している。
ヨハネにとってはこの問いに対する肯定にも否定にも興味はなく、むしろもっと重要なことをイエスに答えさせている。「私は真理について証言するために生まれてきたのです。真理を求める人はみな私の声を聞きます」。ただ、ピラトの関心はイエスがローマ的な意味での「ユダヤ人の王」なのか、どうかということだけが重要で、イエスとの問答においてイエスの無罪を確信し、「真理とは何か」という言葉だけを残してその場を離れた。

(b) 「真理とは何か」
ピラトは自ら「真理とは何か」という重要な問いを発しつつ、それには関心がないのか、すぐにその場を離れた。後にはその問いだけが残った。イエスが生まれ、生き、死ぬということにおいてこのイエスの発言は非常に重要である。「私は真理について証言するために生まれてきたのです。真理を求める人はみな私の声を聞きます」。これは大変な言葉である。「真理について証言する」、「これが真理だ」、「ここに真理がある」。ピラトでなくても、「真理とは何か」と聞きたくなる。
ヨハネ福音書では「真理(アレーテイア)」という言葉は25回も使われている。マタイが1回、マルコとルカがそれぞれ3回と比べると断然多い。その25回のうち教会的編集者の文章において8回で、原著者は17回も使用している(4:23,24,5:31,32,33.8:32,40,44,45,46,10:41,14:6,18:37,38)。それらを全部ここで取り上げて論じるわけにはいかない。ある個所では、「霊と真理」(4:23~24)をもって神を礼拝する、という意味で用いられている。ある個所では言っていることが「本当だ」(5:31,32,33,10:41)という意味でも用いられている。8:32では「真理があなた達を自由にしてくれる」と言う。ヨハネ福音書で注目すべき言い方は、「その真理は私が神から聞いたもの」(Jh.8:40)である。ここから、さらに展開して、「私が真理を語るが故に私を殺そうとしている」(Jh.8:40~46)と言う。その極めつけが、「真理を求める人はみな私の声を聞きます」であろう。ヨハネ福音書の著者は激しい。「あなた方は悪魔という父親から出て来ている。そしてあなた方の父親の欲望を実行しようと望んでいる。悪魔は最初から人殺しなのだ。そして真理の中にいるわけではない。真理が彼の中にはないからだ。彼が虚偽を語る時は、自分自身のものの中から語っている。 彼の父親もまた嘘つきであるからだ」(8:44)。ここで述べられている「真理」とは科学的、哲学的に定義づけられるような客観的な概念ではない。
「私は真理について証言するために生まれてきたのです」という言葉を聞くと、「〜〜のために生まれてきた」という言葉が意味を持ってくる。考えて、探求して、得られるような「真理」ではなく、真理自体がこちら側に向かって迫ってくる。著者はそれがあの言葉だと言っているように思う。ヨハネ福音書の中心的なメッセージ、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(Jh.3:16~17、口語訳)である。これが「真理とは何か」という問いに対するヨハネ福音書の答えである。

(c) ピラトは官邸前に集まっているユダヤ人たちにイエスの無罪を宣言する。しかし彼らはそれを受け入れない。むしろ騒ぎが大きくなるだけであった。こうなると権力者は弱い。裁判の結果よりはこの騒動をどう治めるべきかということを考える。そこでピラトは一つの提案をする。過越祭には犯罪者を一人釈放する権限が総督に与えられているので、それをイエスに適用しようという。ここでピラトは大きな誤算をしている。イエスの支持者がかなり多くいるとピラトは考えていた。だからイエスを釈放することは歓迎されると考えていたのである。このことが返って問題をこじらせてしまって、人々はそれならバラバを釈放せよと騒ぎ出す。それでピラトは再び官邸内に戻り、どうしたらこの荒れ狂った群衆を鎮めることが出来るか作戦を考えたのであろう。もう、イエスが有罪か、無罪かは関係なく群衆を鎮めるためにはパーフォーマンスしかない。官邸内でイエスをむち打ち、殴ったり、蹴ったりで傷だらけにした上、茨の冠を被せ、紫色のマントを着せ、いかにも無惨な格好にして群衆の目に引き出し、兵隊たちに「王様ご機嫌いかがですか」などとふざけた芝居をさせた。そしてピラトは群衆に「よく見ろよ。この男を」と言い、俺はこれ程酷い拷問をしたが、やはり彼は無罪であると言った。もうこれだけ痛めつけたのであるから、もういいだろう、というのがピラトの作戦であったようだ。
しかし、そこまでしても群衆は鎮まらず、祭司長や下役共も群衆と一緒になって「十字架につけろ、十字架につけろ」を騒ぎ続けた。今度はピラトも怒り、「お前たちがこの男を引き受けて、十字架につければいいではないか。もう一度言うぞ。俺はこの男を十字架につける理由を見出せないのだ」と演説したが、彼らは「我々には律法がある。その律法によれば、この男は自分を神の子であるというのだから、殺されねばならないのだ」という。

(d) さすがのピラトもこの言葉を聞いて問題の深刻さを理解し、イエスに対して1対1で尋問した。最早、尋問ではなく相談である。これ程同胞から憎まれている男、「お前はどこから来たのだ」、というのがピラトの尋問であった。イエスはピラトの問いかけに答えようとしない。ピラトはいらだち、お前を生かすも殺すも俺の胸一つだぞ」と自分の権力を誇示する。しかしイエスは冷静である。「上から与えられたのでなければ、あなたは私に対していかなる権限も持っていない。だから、私をあなたに引き渡した者たちの罪は非常に大きいのです」(Jh.19:11)。前半の言葉はわかりやすいが、後半の言葉には説明が必要であろう。結局、ピラトは不本意ながら民衆の圧力に負けてイエスの処刑を許すことになるのだが、ピラトとユダヤ人たちとの罪の大きさを比べたならば、ユダヤ人の罪の方がはるかに大きいということを意味している。著者ヨハネはイエスを十字架上で殺した責任はローマではなくユダヤであると考えている「そこでピラトはイエスを釈放しようと決意しました。しかしまたユダヤ人たちが叫んびました」。それでもなおピラトはイエスを許そうとしたが、今度は逆にユダヤ人たちから脅迫されている。

第4章 処刑・埋葬

<テキスト19:17~42>
語り手:十字架刑の執行場所は、「しゃれこうべ」、ヘブライ語ではゴルゴタと呼ばれる所で、そこまで受刑者が自分自身の十字架を背負って行くことになっていました。そこでイエスは他の2人の受刑者と一緒に十字架につけられました。イエスの十字架を挟んで3本の十字架が立てられました。ピラトは罪状書きを書かせ十字架につけさせました。刑場は町から近かったので誰でも読めるように、ヘブライ語、ローマ語、ギリシャ語で「ナザレ人イエス、ユダヤ人の王」と書かれていました。この罪状書きを見て、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに 「ユダヤ人の王などと書かないでください。事実に反します。この男は自分がユダヤ人の王だと言っていた、と書き改めてください」と申し入れしましたが、ピラトががんとして受け入れず「俺が書いたことは、俺が書いたことだ」と言い放ちました。
イエスを十字架につけた兵士たちは、イエスの衣をはぎ取り、4つの布片にして、それぞれの兵士が一片ずつとって分け合っていました。
イエスの十字架の足元にはイエスの母と、彼の母の姉妹のクローパーのマリアと、マグダラのマリアが立っていました。それでイエスは母と自分が愛した弟子が立っているのを見て、母に「女よ、見なさい、あなたの息子です」と言い、また、その弟子には「見なさい、あなたの母です」と言いました。そしてその時からその弟子はイエスの母マリアを自分のところに引き取りました。
これでなすべきことはすべて成し遂げられたと確認してイエスは「私は渇いた」と言われました。それを聞いて兵士の一人が酢をつけた海綿をヒソプにの枝につけて、彼の口にさし出しました。それでイエスは唇を酢で湿らせて、「成し遂げた」と言い、頭を垂れて霊を引き渡しました。
その日が過越の食事の備えの日であったので、とくにその安息日は大いなる日に当たっておりましたので、ユダヤ人たちは安息日に十字架に屍体が残らないようにとピラトに頼みました。それでピラトは兵士たちに十字架上の罪人の死を確認したうえで死体を取り去るように命じました。それで兵士たちが十字架につけられた最初の者の脚を折り、またもう一人の脚も折りましたが、イエスはその時既に死んでおりましたので脚を折りませんでした。
その後、イエスの弟子でありながらユダヤ人を怖れてそのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフがピラトにイエスの御遺体を十字架から降ろして引き取ることを願い出ていました。ピラトはそれを許しましたので、彼はイエスの御遺体を十字架から降ろし、刑場から遠くない庭園の中の墓地に運びました。またニコデモも没薬とアロエを混ぜたものを100リトラほど持ってやって来ました。彼はかつて夜にイエスを訪れた人です。それで彼らはイエスの御遺体をユダヤ人の埋葬の慣習に従って香料をかけ、亜麻布で包み、まだ誰も納めたことのない新しい墓に丁重に葬りました。これらの埋葬の儀はユダヤ人の備えの日のために大急ぎで執り行われました。

教会的編集者の挿入句:19:23b~24、34~37

<以上>

(a) 先ず、十字架に貼り付けられる罪状書きの文章が問題になった。ピラトはユダヤ人たちがイエスを「ユダヤ人の王」として訴えたことについては、そうではないという確証を持っている。しかし、ここでイエスが処刑されるということは不本意なことではあるが、ユダヤ人たちの圧力に押されてイエスを「ユダヤ人の王」として処刑することになったのである。つまり「ユダヤ人の王」ということが罪である。しかしユダヤ人たちはイエスが「ユダヤ人の王と詐称したことが涜神の罪」なので、罪状書きを書き直すことを要求したが、このことについては、ピラトは妥協しなかった。ピラトはあの時のイエスの言葉を理解していた。やはりイエスはユダヤ人の王なのだ。

(b) イエスの十字架の足元には「イエスの母と、彼の母の姉妹のクローパーのマリアと、マグダラのマリア」と「自分が愛した弟子」とが立っていた。このことは共観福音書には見られない。そしてイエスはその弟子に母を託した。この弟子が誰であるか最後まで明らかにされない。伝統的にはそれはヨハネであり、本書の著者であるとされるが何の確証がない。
松村克己は「彼が使徒ヨハネであるという伝説に従えば少なくともヨハネはそこに居合わせたことになるが、これが既に述べたように『理想的な弟子』を類型的に描いている」という。
田川建三は「この人物はヨハネの著者が創作した人物である可能性が極めて高い」とし、「多分母親に対するイエスの愛情を示すためにこういう話を創作したのだろうが、もしかするとイエスの弟子のうちの誰か一人がイエスの母を引き取ったという点は事実かも知れない。しかし、その場合は、ペテロたちがエルサレムでキリスト教をはじめてしばらくたイエスの弟ヤコブがその一員となり、やがてその権力的指導者となったのだから、そうしてそのヤコブが母親を引き取らなかったのか、疑問が残るが」という。
小林稔はいろいろな説を紹介し、その可能性を検討し、「著者のキリスト者についての理想像が描かれている、ということは言ってよいであろう」と結論している(139頁)。

(c) ヨハネ福音書ではイエスがこの世に来た目的は「私を遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げること」だということは2回も繰り返されている(Jh.4:35,5:36)。十字架上のイエスはそれが「成し遂げられた」と確認した。そのホッとした気持ちが「私は渇いた」という言葉に表されている。そして最後に「成し遂げた」と言い、頭を垂れて霊を引き渡しました。日本語的感覚では最後は「息を引き取る」、つまり吸い込んで終わるが、イエスの国では息を吐き出して終わる。その感覚が「霊を引き渡す」という言葉である。人間は神から神の霊(息)を「吹き入れられて」(Gen.2:7)生きる者になる。
ヨハネ福音書においては十字架上のイエスは、穏やかな時間を過ごし、使命を達成したという満足感に満たされ、安らかに息を引き取っている。ヨハネが描く十字架上のイエスは、共観福音書に見られるような、十字架上で「エロイ、エロイ、ラマ、サバタクニ」(Mk.15:34)と叫んだような壮絶な死ではない。いわば「勝利の死」(Jh.16:33)、栄光の死である。

(d) イエスの死体は急いで埋葬されたようである。引き取り人は「アリマタヤ出身のヨセフ」という人で、この人は金持ちで(Mt.27:57)、サンヘドリンの議員で「善良で正しい人」であったという。彼はイエスを死刑に処すという決議や行動には加わらず、神の国を待ち望んで(Lk.23:50~51)いたという。「ひそかにイエスの弟子となった」、ただ「ユダヤ人をはばかって」このことを公にしなかった人である。またかつて夜、イエスのもとを訪ねたニコデモも「没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持って」、アリマタヤのヨセフに協力した。彼らはイエスの死体を「香料を入れて亜麻布で巻き」「まだだれも葬られたことのない新しい墓」に葬った。著者はこのことを「ユダヤ人の埋葬の習慣」と説明している。それは本書の読者がヘレニズム世界の人々で、火葬の習慣とは違うからである。ユダヤ地方の墓は岩壁に横に掘られた洞穴であり、ここに香料と亜麻布で巻い死体を次々と並べて納める。勿論これは丁寧な埋葬の場合である。イエスはこのような墓として準備されて未だ用いられてはいなかったヨセフの新しい墓に納められた。それは十字架につけられた処の近くにあったからである。その埋葬は決して栄光の死に相応しい埋葬であった。イエスは決して犯罪者として死に、犯罪者として埋葬されたのではない。

第5章 復活物語

シーン1 復活日の朝

<テキスト20:1~10>
語り手:安息日が終わった翌日の朝、つまり日曜日の朝、まだ夜も明けきらない暗いうちに、マグダラのマリアはイエスが葬られている墓に来ました。見ると、心配していた墓石は取り除かれ、墓穴がぽっかり開いています。それを見て驚いたマリアは直ぐにシモン・ペトロとイエスが愛していたもう一人の弟子の所に行き、報告しました。

マリア:イエス様の御遺体がなくなっています。どこに持って行かれたのか、分かりません。

語り手:それを聞いたペトロともう一人の弟子はすぐに墓を見に行きました。2人は一緒に走りましたが、もう一人の弟子の方がペテロよりも速く、墓場に着きました。彼は墓穴をのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見ましたが、中には入りませんでした。やっとたどり着いたシモン・ペテロが先に墓の中に入り、そこに亜麻布が置いてあるのを確認いたしました。また、御遺体の頭に被せていた手ぬぐいは亜麻布とは別の所にキッチンとたたまれて置いてあるのも確認しています。そこで、最初に墓に到着したもう一人の弟子も中に入って来ました。彼もその現場を見て信じました。それで2人の弟子たちは家に戻りました。

教会的編集者の挿入句:20:9

<以上>

ここにも「イエスが愛していたもう一人の弟子」が登場し重要な役割を担っている。彼の方がペトロより若く、墓場にはペトロよりも早く到着した。中を覗いたらしいが、墓には入らずペトロの到着を待った。墓に最初に入る特権をペトロに譲ったのであろう。墓の中に入ったペトロは現場を詳しく見てイエスの遺体がないことを確認する。ペトロに続いて入った弟子も同様に墓の内部を確認する。彼は確認しただけではなく「信じた」という。彼は何を「信じた」のだろうか。遺体がないことを信じるのもおかしい話で、これを読む読者には彼がイエスの復活を信じたということは理解出来る。ペトロは現場を見て、それをそのまま確認しただけであるがもう一人の弟子はペトロと同じものを見て、イエスの復活を信じたという。

シーン2 マグダラのマリアへの顕現

<テキスト20:11~18>
語り手:一人残されたマグダラのマリアは、どうしたらいいのか分からずぼんやりと墓穴の入口で立ち、泣いていました。泣きながら、ふと墓の中を覗きました。すると、そこに、彼女は見たのです。白衣を着た2人の天使が座っているのを、一人はイエスの遺体が置かれていた頭の所に、もう一人は足の所に見たのです。
天使:ご婦人よ、あなたは何故泣いているのですか。
マリア:私の大切な先生のご遺体がありません。どこに持ち去れたのか私には分からないのです。

語り手:こう言って、後ろに何か気配を感じ、ふり向きますと、そこにイエスが立っていました。しかしマリアはそれがイエスだと気がつかなかったようです。
 
イエス:女よ、 何故泣いているのですか。誰を探しているのですか。

語り手:それでもマリアはそれが園丁だと思って、その人に言います。

マリア:ご主人、もしもあなたが彼のご遺体をどこかに持って行かれたのでしたら、どこに置かれたのか仰ってください。私が引き取りますので。
イエス:マリア。

語り手:その声を聞き、マリアはハッとして振り返り、へブライ語で叫びました。

マリア:ラボニ!(編集者註:これは「先生」という意味です)。

語り手:こういう経験をしたマリアは直ちに弟子たちの所に帰り、弟子たちに「私は主を見ました」と語り、その時の主が話されたことを報告いたしました。

教会的編集者の挿入句:20:17

<以上>

この場面、復活したイエスがマグダラのマリアに単独で顕現した物語である。四福音書を通じて墓場で顕現した物語はこれだけである。しかも一人の女性に単独で。マタイ福音書では天使からイエスが復活したことを告げられた3人の女性たち(マグダラのマリアと他のマリア)が「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」その途中でイエスが現れ「平安あれ」と語ったという記事がある。その時、彼女たちはイエスに近寄り「イエスのみ足を抱いて拝した」(Mt.28:9)。よく似た出来事であるが、ヨハネの方が叙述がかなりリアルである。もし、この記事が本当だとしたら、復活したイエスが最初に顕現したのはマグダラの・マリアということになる。

シーン3 11弟子たちへのイエスの顕現

ここでは原本に教会的編集者の手がかなり加えられており、物語が錯綜している。

<テキスト20:24~29>
語り手:11人の弟子たちはマリアの報告を受けましたが、双子と呼ばれているトマスは、その人の手に釘の痕を見なければ、私は信じない、と言いました。その8日後、トマスを含む11人の弟子たちが集まっているところに、イエスが現れて弟子たちの真ん中に立って語られました。

イエス:平安、汝らにあれ。

語り手:それからトマスの方を向き、手を差し出して言われました。

イエス:私の手を見なさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
トマス:先生、信じます。
イエス:あなたは私の身体に残った徴を見て信じました。見ないで信じる者が幸いなのです。

教会的編集者の挿入句:20:19~23、20:24~27の大部分、20:30~31

<以上>

田川建三によると、シーン3が原本ヨハネ福音書と教会的編集者の編集の手が入った現行のヨハネ福音書との違いが最も明瞭に出てくる部分である。現行では19節からこのシーンは始まり29節で終わる。30~31節はこの福音書全体の締め括りである。19節から29節の11節の内の19節から23節、24節から27節の大部分が教会的編集者の挿入だと見なされている。ここまでの厳密な分析、ほとんど高度な解剖のような作業がなされる。12頁に及ぶ専門的な分析を、ここに再録することは、私には荷が重すぎる。(参照:田川建三『新約聖書〜〜訳と註〜〜』の718頁から730頁まで)。
それらをすべて除くと、上のような物語となる。
物語は11人の弟子全部が揃っているところに、マリアが「私は主を見ました」という報告(経験)を聞いたところから始まる。その時、他の10人の弟子たちはマリアの言葉を信じるが、トマスだけは信じない。そしてトマスは言う。「その人の手に釘の痕を見なければ、私は信じない」。それから8日後、復活したイエスが11人の弟子たちの前に姿を現し、「平安、汝らにあれ」と声をかけ、特にトマスに対しては手を差し出して「私の手を見なさい」と声をかける。そして声も出ないトマスに対して、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言う。トマスは恐縮し「先生、信じます」と答える。そのトマスに対してイエスは「あなたは私の身体に残った徴を見て信じました。見ないで信じる者が幸いなのです」(Jh.20:29)と言う。
これが復活したイエスが11人の弟子たちに顕現した時の出来事であろうと思われる。田川建三は「見ないで信じる者が幸いなのです」という言葉こそが原本ヨハネ福音書の結びの言葉であり、結論であるという。

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