ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

『原本ヨハネ福音書研究』より抜粋(3:1~21)

2017-03-10 11:02:10 | 聖研
『原本ヨハネ福音書研究』より抜粋(3:1~21)

第2章 ニコデモとの会話

<テキスト3:1~12>
語り手:そんなことがあって、イエスの評判がかなり広まった頃のある夜、ファリサイ派の指導者でユダヤ人議会の議員でもあったニコデモという人物が、ひそかにイエスを訪れました。彼にはイエスにいろいろ質問したいことがあったようでした。

ニコデモ: 先生、私どもは、あなたのすばらしさについては十分に存じております。神の助けがなければあれだけの奇跡を行うことはできないでしょう。
語り手: ニコデモの態度はなかな紳士的です。さすがにユダヤ人社会においては第1級の教養人のようです。しかし、その男がいったい何をしに来たのでしょうか。ニコデモの言葉に耳を傾けながらイエスはいろいろと思い巡らし、しばらく様子を見ていました。わざわざ、お世辞を言いに来たわけではなさそうですし、何かを探りに来たとも思えません。と言って、多くのファリサイ派の連中のように、ただ議論をふっかけてイエスの言葉尻を捕まえて、批判するために来たのでもなさそうです。彼は彼なりに問題意識を持ち、かなり真剣にものを考える人物と思われます。しかし遠慮しているのか、それとも問題が十分に言葉として熟していないのか。それでイエスは自分の方から問題を切り出してみようと思い、単刀直入に語りました。

イエス:はっきり言って、人間は新しく生まるのでなければ、神の国を見ることはできません。
ニコデモ: 新しく生まれる! そんなことが出来るわけがないでしょう。歳をとった人間が、どうして新しく生まれるなどということができますか。もう一度母親の胎内に入って生まれ直すなどということは不可能ですよ。
イエス:なるほど、それはその通りです。じゃ、言い直しましょう。はっきり言って、誰でも霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉体から生まれたものはどこまでも肉体です。同じように、霊から生まれたものは霊なんです。人間は新しく生まれなければならないと言った私の言葉にそれほど驚くこともないでしょう。むしろ当たり前のことです。
イエス:霊はごく自然にどこにでも吹いています。あなたも私も霊の吹く音を聞いています。しかし、それがどこから来て、どこへ行くかを知ることはできません。霊から生まれた者とはそういうものなんです。
ニコデモ: どうしても新しく生まれるということが私には理解出来ません。そんなことは不可能です。
イエス: あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなこともわからないのですか。
これは地上での話なんですよ。それを信じないようでは、私が天上のことを話しても信じる筈がありませんね。

教会的編集者の挿入: Jh.3:11

<以上>

巻2(Jh.3:~4:)には、ニコデモとの会話とサマリアの婦人との会話が記されている。これら二つの会話が設定されている状況や会話の相手の違いは大きい。一見するとそれぞれが全く別な出来事のように見えるが、実はこれらは明らかにワンセットになっている。時間と場所としてはエルサレムの神殿で行われた過越祭からの帰りとされているようである(Jh.4:43)。これらに共通する主題は宗教である。もっとも「宗教」と言っても神殿を中心とする従来の既成宗教ではなく、人間の根源的な生き方に関わる宗教である。

(a) ヨハネ福音書におけるニコデモとの会話の意味
「そんなことがあって、イエスの評判がかなり広まった頃のある夜」、原文ではただ「夜」とだけしか書かれていない。この夜というのは何時のことか、原文には何も書いていない。しかし、4:43に「二日後、イエスはそこを出発してガリラヤへ行かれた」とあり、サマリアでの出来事はエルサレムからガリラヤへの旅の途中として設定されている。だとするとニコデモの訪問はエルサレム滞在の終わり頃、多分、最終日ではなかったかと想像する。イエスはエルサレムで神殿の粛清の他にもいろいろなことをされたのであろう。その評判を聞いてニコデモはイエスのもとにやって来た。それも夜、ひそかに訪れた(Jh.19:38)。かなり深刻な様子がうかがえる。ニコデモは言う「先生、私どもは、あなたのすばらしさについては十分に存じております。神の助けがなければあれだけの奇跡を行うことはできないでしょう」(Jh.3:2)。これはお世辞とか皮肉ではなく、彼の率直な感想であろう。その言葉を聞いてもイエスは黙っている。おそらくニコデモの態度を観察していたのであろう。

(b) 「新しく生まれる」ということ
長い沈黙の末、イエスがやっと口を開いた。「はっきり言って、人間は新しく生まるのでなければ、神の国を見ることはできません」(Jh.3:3)。読者としてはいかにも唐突に聞こえるかも知れないが、2人の間では一切の無駄話は不要である。これはニコデモの無言の問いに対するイエスの率直な答えである。イエスはこれでニコデモは「分かる」と期待した。要するにニコデモの訪問の目的は、「私の父の家を商売の家にするな!」(Jh.2:16)と言って神殿の中で大暴れしたイエスの真意を確かめたいと思ったに違いない。つまりイエスの「神殿観」が聞きたかったのであろう。それは必ずしもイエスに対する批判・譴責ではない。おそらくニコデモ自身も多少はそれを感じていたに違いない。
そうすると、このイエスの発言は一見するとちぐはぐである。もちろんイエスはニコデモの気持ちを理解した上で、「人間は新しく生まるのでなければ、神の国を見ることはできません」と答えられたに違いない。ところがニコデモにはその真意が理解出来ない。そこで彼はチンプンカンプンな反応を示す。ニコデモのこの言葉もいわば冗談で、まさかそういうことを述べていないということぐらいは分かっている筈だ。それでイエスは「人間が新しく生まれる」という言葉を「霊によって生まれる」と言い換える。イエスもこれで分かるかと期待したが、どうも分かっていない様子である。これではかえって問題がややこしくなるが、イエスの側にはそれが必要な言い換えであったと思われる。それは次のイエスの言葉で明らかになる。「肉体から生まれたものはどこまでも肉体です。同じように、霊から生まれたものは霊なんです。人間は新しく生まれなければならないと言った私の言葉にそれほど驚くこともないでしょう。むしろ当たり前のことです」。
一体、ここでイエスはニコデモに対して何が言いたいのであろうか。問題は神殿という建物をどう理解するのかということである。ユダヤ人社会における神殿については前回既に論じたので、ここでは繰り返さないが、ここでイエスが問題にしているのは、神殿についての議論ではなく、それを見る人の視点の問題である。イエスとニコデモとでは同じ神殿を見ても、実は違うものを見ている。立場が違うのだから見方が異なるのは当然だと誰でも思う。いわばそれが社会常識である。
この問題は神殿だけの問題ではなく、現実にあるすべての事柄についての見方にも通じることである。立場が違えば見方が違う。ニコデモが神殿を見るとき、神殿の経営主体の一員として経営的視点から見ている。そこにはいろいろな課題があり、問題がある。そのことでニコデモは日夜、頭を痛めていたのかも知れない。それがニコデモの「視座」である。つまり神殿を神殿として素直に見ることが出来ない。それは世間でよくあるような「偏見」では決してない。いわば当然のこととされている。
つまり、「人間は新しく生まるのでなければ、神の国を見ることはできません」という答えはニコデモその人自身に向けられている。端的に言って、あなた自身が「新しく生まれ」なければ私が見ているものを見ることが出来ない。「新しく生まれる」ということが分からないなら、「霊から生まれる」と言い直せば分かるかい。これがここでニコデモに対してイエスが言いたいことである。

(c) 「霊」と「風」
ここでイエスが「霊から生まれる」と言い直したのには意味がある。「新しく生まれる」という言葉と、「霊から生まれる」という言葉とが同じ意味なのだということがポイントで、その上でイエスは「霊」について語りはじめる。
さて、ここで一寸面倒なことを説明する。聖書の時代のギリシャ語では「風(プニューマ)」という単語は「風」でもあるし「霊」でもある。つまりプニューマという一つの単語が風と霊との二つの意味を持ち、それらが区別されない。ほとんどの日本語訳は「吹く」という動詞に引っ張られて「風」と解して「風はごく自然にどこにでも吹いています。あなたも私も風の吹く音を聞いています」と訳している。この訳だけを読んだらごく当たり前のことを言っていると思う。ところが、この「風」という訳語を「霊」に差し替えたらどうなるか。わけが分からなくなるであろう。ところがそれに続く文章を見ると「風から生まれた者とはそういうものなんです」とすると今度はそれが何のことか分からなくなる。だからどちらかに決めることができない。それで両方を別々に訳すと文章としてはすんなりするが、今度はその意味がわからなくなる。要するに聖書における「霊」を日本語で考えることは難しいのである。まぁ、そういう面倒なことは一応頭の片隅に片づけておいて先にすすむ。
それでは一体、「霊から生まれた者とはそういうものなんです」という言葉をどう理解するか。ここでは単純に考えて、「霊によって生まれる者」とは、「霊がどこから来て、どこへ行くか」を知らない者だと言う。ここでの「知らない」とは何を知らないというのか。この「知らない」ということを「風」について考えると分かりやすい。普通は「風がどこから来て、どこへ行くか」ということを知っている人だけが「風が吹いている」ということが分かるわけではなく、そんなこと知らなくても「風が吹いている」ということは風が吹いている中に立ち、そこで風の音を聞きさえすれば分かる。そのためには何の知識も必要ない。それと同じことが「霊」についても言える。要するに霊を知るために霊についての情報をいくら重ねても何にも役に立たず、「霊」を知るためには霊を経験するしかない。

(d) 「視座」の問題
実は、このことはすべての事柄についても言えることである。私たちはすべての物事についても、あるいはすべての人間についても、そのことについてのいろいろな情報を集め、知識を貯め込むことによっては、その事柄あるいは人物が分かることに至らない。エルサレムの神殿についても、神殿の建設の年月日や、建築家の名前や、財政状態を知っていることが神殿のことが分かることにならない。むしろ、そのような情報が神殿というものを知ることを妨げている。神殿とは神殿の入口から入って、そこで祈ることによってそれが何かということが分かる。上(b)で、神殿についてのイエスとニコデモとの立場が違うということを述べた。ニコデモは「ファリサイ派の指導者でユダヤ人議会の議員」としての立場から神殿を見ている。その意味では神殿についてはイエスよりはるかに多くの知識を持っている。それがニコデモの「視座」である。その点、イエスはその視座がない。いわば「無視座」である。だから神殿は肌で感じる「風」のようなものである。いわば神殿に対して、今、生まれた幼子のように見ることが出来る。神殿は文字通り「神の殿(家)」である。ところがニコデモが神殿を見るとき、この門にはいくら金がかかったとか、この神殿の年間収入は幾らだとか、ここを訪れる参拝者は年間で何万人だとか、ここで消費される犠牲の動物はどれ程の量か等々、いろいろなことがあって、もっとも肝心の「神の殿」だということが見えなくなっている。こういうのを「立場的視座」とか「観念的視座」という。それに対してイエスはすべての観念を排除してモノをありのままに感じ、見る。それが「新しく生まれる」ということであり、「霊から生まれる」ということでもある。
同じことがイエスに対するニコデモの視座についても言える。ニコデモはイエスに会って率直に「私どもは、あなたのすばらしさについては十分に存じております。神の助けがなければあれだけの奇跡を行うことはできないでしょう」と述べている。しかしここに既に一つの問題が隠れている。それは「私どもは」という言葉に示されている。ニコデモはこのような「世間の評価」に従ってイエスを見ている。その評価が好評か悪評かに関係はない。今、目の前にいるイエスをありのままに見ているのではなく「世間の評価」というフィルター(色眼鏡)を通して見ている。あるいはニコデモ自身の頭の中で描いているイメージとしてのイエスと相対しているのかも知れない。これはニコデモだけの話ではなく、ほとんどすべて人は、ほとんどすべてのことをこのようにして見ている。

(e) 私とは何か
さて、この「観念的視座」の究極的対象は「私」である。わたしは「私」のことを知っているのか。人間はこの世の生を受け、自分では何も知らないうちに成長し、その成長の過程で両親からの言葉や学校での評価、友人たちからのさまざまな関わりの中で、つまり社会の中で「自分はこういう人間だ」と思わされている。八木誠一はそれを「文化的自己」という(八木誠一『新約思想の成立』新教出版社、142頁以下)。つまり生まれたままの人間は自己を観念的にしか見ることが出来ない。それが上で述べた「観念的視座」である。言い換えると「自分自身の実体」を見ていない。それで「自分探し」などという言葉が流行る。つまり人間は改めて「自分」を意識的に見直さなければ「自分」が見えてこない。自分が見えていない人間が、いくら「神の国」のことを論じてもそれはただ言葉の上を上滑りしているだけで、まして「神の国」を見るととか「神の国に入る」ということは出来ないのは当然である。このことについてヨハネと同じことを言っているのがマタイで「心をいれてかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(Mt.18:3)という。つまり、幼な子のように単純素朴にありのままを見るということである。八木誠一は、これを「文化的自己」から「宗教的実存」への転換として論じている(同、154頁以下)。

(f) 「地上の話」
二人の対話がどうも噛み合わない。とうとうイエスの方も、どうしたら分かって貰えるのか考え込む。11節で突然語調が変わる。それまでは「わたしとニコデモ」との対話であったものが、「わたしたち」と「あなたがた」との対話に変化する。おそらく11節の言葉はイエスの言葉ではなく、後から挿入された教会的編集者の言葉であるらしい。それで私は省いている。そして12節の「私」は明らかにイエス自身を指すので、ここでイエスの言葉に戻る。
イエスはあくまでも「地上での話」をしている。「新しく生まれる」ということも「霊から生まれる」ということも「地上での話」、つまり現実において経験できる話である。ところがニコデモは「天上のこと」つまり何か深遠な宗教的な話がしたいと思っているらしい。イエスは言う。現実的な話が理解出来ない人に天上のことを話しても通じるはずがない。この言葉はなかなか厳しい。「新しく生まれるとはどういうことか」「神の働きとは何か」というような深遠な宗教談義をしている限り、その問題は頭の中だけのことで、人々は安全なのである。その話は直接自分に向かってこない。それに対して現実の話とは、それを信じるか、信じないかという私の決断を迫ってくる。ここでのイエスの話はニコデモの決断を迫る。イエスとニコデモとの対話はここまでである。
ここで「地上での話」として、洗礼式のことに一寸だけ触れておきたい。イエスは「新しく生まれる」ということの言い換えとして「霊から生まれる」と話した。この「霊から生まれる」という言葉がイエスにまで遡れるかどうか、私は多分に疑問だと思っている。むしろこれは原著者による「新しく生まれる」ということについての解説だと思う。要するに、「新しく生まれる」ということは「洗礼を受ける」ということなんだと言いたかったのであろう。それを受けて、更に後代の教会的編集者は「水と」という言葉を補った。キリスト教の伝統では「新しく生まれる」ことのサクラメントとして水による洗礼式を位置付けている。
日本聖公会の文語の祈祷書では、洗礼の勧告の中で、洗礼の意味を述べている部分で、「その生まれつかぬものを与え」という言葉がある。この言葉が今度の改正祈祷書では省かれている。非常に残念に思う。(英語でも同様。 He will grant to this Child that thing which by nature he cannot have;)人間は本性として、あるいは生まれながらのままでは決して持っていない、しかし非常に重要なもの、それが洗礼によって与えられるという主張である。つまりキリスト教ではこれが「新しく生まれる」ということ、キリスト教用語では「新生」という。ただ、この伝統は幼児洗礼の慣行によってかなり意味が薄められているのは事実であるが、そのこと自体についての議論はここでは省略する。

第3章 イエスを信じるということ

13節では、イエスのことを「人の子」とか、「神の御子」など3人称単数形で語られ、「天から降ってきた人の子が、また天に上げられる」と述べられるが、おそらく13~14節は文体の特徴から見て教会的編集者の挿入であろう。ただし、ここに出てくる「降る」「上る」という概念はヨハネ福音書におけるキリスト論においてカギとなる言葉であるが、ここではそれを取り上げない。15節以下の言葉はイエスの言葉とも言えないし、語り手の言葉とも言えないし、教会的編集者の言葉でもない。つまり、話者不明である。それでここでは著者自身が顔を出していると、私は解釈する。これはヨハネ福音書の特徴の一つでもある。

<テキスト3:15~21>
著者:神の子を信じる者は誰でも永遠の命をもつのです。神はそれ程、この世を愛しておられるのですよ。だから、ご自分の御子をこの世にお与えになったのです。それはその神の御子を信じる者が滅びないで永遠の生命を持つためなんです。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではありません。かえってこの世が彼によって救われるためなんですよ。言い換えると、彼を信じる者は裁かれることがなく、信じない者はすでに裁かれてしまっているということです。神の前での審判とはこういうことなんです。光がこの世に来たのに、人間たちは光よりもむしろ闇が好きなんです。というのはその人間たちのやっていることが悪いので、暗い方が都合がいいんでしょうね。つまり、悪いことをやっている連中は、光が嫌いで、光のあるところには近寄ろうとしないものなんです。なぜなら明るいところに来たら自分たちのやっていることが全部暴露され糾弾されるからです。でも、真埋を実践している人たちは光のところに来ます。なぜなら自分のやっていることが神の意志に基づいているということに確信があるからです。

教会的編集者の挿入:Jh.3.13~14

<以上>

この部分はヨハネ福音書の「最も重要なメッセージ」、ヨハネ神学の「核心」が述べられている。それは一言で言うと、15節の「神の子を信じる者は誰でも永遠の命をもつのです」という宣言である。ヨハネ福音書の執筆目的を記した最後の言葉でも、「これらのことが書かれたのは、イエスがキリスト、神の子であることを信じるためである。そしてまた、信じて、彼の名において生命を持つためである」(Jh.20:31、田川訳)。もっとも、Jh.20:31は教会的編集者の言葉であると思われるが、その点では原著者の意図を継承していると見るべきであろう。
「神の子を信じる者は誰でも永遠の命をもつのです」(Jh.3:15)といわれたら、誰でも「何故、どのようにして、そんなことがあり得るのだろうか」と問うであろう。16節はその答えである。「神はそれ程、この世を愛しておられるのですよ。だから、ご自分の御子をこの世にお与えになったのです。それはその神の御子を信じる者が滅びないで永遠の生命を持つためなんです」。これがキリストによる「救済劇」のすべての出発点であり根拠である。言い換えると、キリスト教に対するすべての「何故」に対する答えがこれであると言ってもいいであろう。イエスの登場、十字架の死、復活、昇天、これらのすべての究極的な謎、何故、神はこんなことをなされるのか、その答えが「神の愛」である、とヨハネは言う。ここには「愛」「永遠の命」「裁き」「光と闇」「真理」というヨハネ神学の主要概念がほとんど全部出揃っている。これらを一つ一つ論じると、いくら時間が合っても足りないので、ここでは単語リストだけを上げておく。

最新の画像もっと見る