ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

第9回 マタイ福音書講釈 教会生活についての説教(18章)

2014-08-26 09:14:37 | 聖研
みなさま、
朝夕は一入、秋を感じる気候となりました。全国各地を襲った大雨による被害に心をいためています。一日も早い、復旧をお祈りいたします。
先日の聖書研究会での原稿をお送りします。今回は付録として18章の後半を添付いたしました。

第9回 マタイ福音書講釈 教会生活についての説教(18章)

取り上げられているテキスト
(1) 18:15~20 特定18
(2) 18:21~35 特定19

取り上げられていないテキスト
18:1~14

1.構造
マタイ福音書18章は「一つの説教」という形態を取っている(18:1~19:1)。しかし内容的に見て、この説教は明らかに二つの説教から構成されている。一つは3節から9節までと、もう一つは15節以下。最初の方の主題は「小さな者」、後半の方は「赦し合う仲間」で、10節から14節の「迷い出た羊」の譬えは「説教」というよりも、この2つの説教を結びつける役割を果たしている。つまり「躓いて、教会から出ていこうとしている信徒」つまり「小さい者」を「迷い出た羊」に譬えて語り15節以下で教会が彼に対してどういう風にして立ち返らせるのかという方法が論じられる。しかしこれら2つの「説教」の雰囲気にかなり大きな落差があり、一つの説教とは思えない。
ルカ福音書の方にも99匹の羊と見失った1匹の羊の譬え話があるが、これらがもともとは同じ譬えであったことは明らかであるが、ルカはルカなりに、マタイはマタイなりに、全く異なる文脈で用いている点が興味深い。これを混同してしまってはならないことは当然である。ルカの方では明らかに「徴税人や罪人」のことが念頭に置かれ、「迷い出た」のではなく、「見失った羊」(ルカ15:4)が主題であるが、マタイの方は教会の仲間の一人が教会の中で「つまずいて」「迷い出た」(12節)信徒のことが主題である。
鍵の言葉、つまり説教の題名は「教会で大切にされなければならないもの」ということになるであろう。
以上を整理すると下記のようになる。
(1) 03~05 幼子のように
(2) 06~10 小さな者を躓かせる者
(3) 12~14 迷い出た羊の譬え
(4) 15~20 赦し合う仲間
(5) 21~35 赦すとは

後半の方はすでに2回の主日説教で取り上げられているので今日は、前半について考えることとする。(下記の付録参照)

2.「天国で一番偉いのは誰か」
前半は2つのエピソードが組み合わされている。最初のエピソードは天の国で一番偉いのは誰か」。そこでの結論を受けて第2のエピソードが語られる。これらはいずれもマルコのエピソードからの引用である。
マルコはこのエピソードを弟子たちの間で密かに議論されていたことをイエスが耳にして、弟子たちを戒める話である。つまり弟子たちの集団内での上下関係が問題になっている。基本的には平等のはずなのに、そして現在は確かに平等ではあるが、将来、イエスがメシアとして君臨した時に上下関係が問題になるだろうということを予想しての議論である。つまり一緒に入社した新入社員が将来誰がいちばん出世するかという議論に似ている。そんな議論は先生には聞かされないし、基本的には馬鹿らしい議論である。その話を耳にしたイエスが一番偉くなるのは一番謙遜な人だと教えたという場面設定になっている。その「一番謙遜な人」とはイエスの御名のために子供を受け入れる者だと語られたのである。ここでの「子供」という説明が少々難しい。なぜならマルコの物語では子供は「すべての人に仕える者」という理解である。日本では子共といえば大切にされ、甘やかされる存在であり、大人が子供に仕えるというイメージが強い。しかし当時は、いや今でも経済的後進国に行くと「子供」も働き手であり、しかも最も卑しい仕事をさせられるのが通常である。だから「子供」というと誤解されるが、実際は最も下の立場でその場にいる全員に仕える者という意味であろう。そしてイエスは一番偉いのは子供、つまり最も下の身分の者を受け入れる者が一番偉いのだというのである。
このエピソードを基本構造はそのままで、マタイは「天の国で一番偉いのは誰か」という話に作り替え、天の国で一番偉いのは、子供だという。ここで「偉い」と訳される言葉は「大きい者」という意味で「小さな者」と対比させている。そもそも天の国で誰が一番大きいかという議論の前に、この小人のように「小さな者」にならなければ「天の国」に入ることさえできませんよ。というのがマタイでのイエスの説教の内容である。つまり天の国での上下関係はこの世の論理でいうと最も小さな者が最も大きな者だというのである。

3.小さな者をを躓かせる者
さて、5節と6節との間には大きな飛躍がある。本来、5節までのエピソードと6節以下のエピソードとは無関係である。しかし関係がないわけではない。共に教会における人間関係が主題だからである。教会において誰が一番偉いかという議論と、教会における人間関係につまづき、教会から離れようとしている人の問題は同じ土俵の問題である。教会の中で誰が一番大切にされなければならないのか。さて、話は難しくはないが、言葉遣いはヤヤコシイ。教会における人間関係の「大きな者」と「小さな者」とは現実と本質と逆転している。教会で誰が一番偉いのかと問われたら、誰でも間違いなく「牧師」あるいは「司祭とか主教」と答えるに違いない。5節までの議論では最も小さい者が一番偉い、つまり「大きな者」と述べられた。ところが6節以下のところでは、その最も大きな者が「小さな者」と呼ばれ、躓いている。大きな者はちいさな者に躓きはしない。たとえ躓いてもそんなものは蹴散らしてしまう権力がある。躓くのは小さな者である。大きな者が小さな者を躓かせている。こう言ったらはっきりするであろう。教会の中で最も大切されるべき者が大切にされていないという現実が問題になっている。現在の流行り言葉で言うと、教会内におけるパワハラの問題である。
ここでの話は非常に厳しい。読めばわかる。
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい」(マタイ18:6~9)。
この部分もマルコ福音書からの引用である。マルコではこの部分は「イエスの名前を使って悪霊を追い出している者」(マルコ9:38~41)に続く部分で、弟子たちが「やめさせましょうか」という言葉に対して「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口を言えまい」とたしなめた場面に続いている。つまりマルコでの「わたしを信じるものこれらの小さな者」とは「イエスの名を使って奇跡行為を行う人々」である。彼らとは「イエスの名」の威力を信じる素朴な人々のことを意味している。このエピソードをマタイは教会内における人間関係に適用している。
7節はマルコにはない。明らかにマタイによる挿入句であろうが、前後の文脈から見ても、あるいはこの文章そのものも何かゴタゴタしていてよくわからないし、出典もはっきりしない。田川さんはこの文章を次のように翻訳している。「躓きのゆえに世に禍あれ。躓きは来たらざるをえないが、しかし、躓きを来たらせる人物に禍あれ」。この「禍あれ」とは一種の呪いの言葉である。まぁ、いろいろ考えて、おそらく当時流行っていた一種の呪いの言葉で、「小さな者の一人を躓かせるものに対して、「ザマーミロ、バチあたりめが」ぐらいの意味であろう。
それにしても、この部分のイエスの言葉は厳しい。この厳しさは「小さな者」に対する優しさに反比例する。次の10節の「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」という言葉がこの説教における結びの言葉である。でも何かこのまま終わってしまうと不満が残る。
というわけでマタイはもう一言付け加える。「言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。このダメ押しの一句は強烈である。教会内で躓いた小さな者は黙って教会を去り、教会では何事もなかったかのように平穏になるかもしれないが、天の国ではこの小さな者の天使が神に訴えている、という。

4.11節の問題
もう一言付け加えると、実はここには11節がある。新共同訳では飛んでいる。そこに小さな十字のマークが入っているが、それは写本によっては、こういう句が入っているという印である。これがマタイ福音書の最後に掲載されている。開いてみて驚く。「人の子は、失われたものを救うために来た」。おそらくこれは、「失われた1匹の羊」の譬えに付加されていた言葉であろうが、マタイはこの譬えをここに引用する際に「失われた羊」ではなく「迷い出た羊」に書き換えたために省いた行っくだと思われる。その句が、後代にここに紛れ込んだのであろうと思われる。
ともかく、ここまでが一つの段落である。聖書を読む場合にどこからどこまでを一つの段落とするかということは「一種の解釈」であり、ましてそこにタイトルを付けることはひとつの解釈を読者に押し付けることになるから注意が必要だということを実例である。


付録 マタイ18章15節以下の2つのテキストについて

日本聖公会の主日日課としてはこの部分は特定18(15~20)と特定19(21~35)に分けれているが、この2つ部分はワンセットにして読まれるべきであろう。14節までの部分で、教会で最も大切にされるべき「小さな人」が躓いて教会から離れようとしているという状況において、「小さな人」を躓かせた人に対して激しい批判がなされている。15節以下では、必ずしもそのことに対する直接のメッセージではないとしても、ともかく「和解の手続き、あるいは懲戒の手続き」(15~20)が述べられ、必ずしもそれを受けてというわけではないが、「教会内で信徒同士がどこまで赦し合うべきか」(21~35)ということが述べられている。つまり、懲戒と赦しとがセットになっている。私自身も何回も特定18と特定19のテキストで説教をしてきたが、ここでそれらの説教をまとめて、問題点を整理しておく。

1.教会とは何か。
先ず、教会には「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という権能が与えられているとマタイは言う。福音書において「教会」という単語を使っているのはマタイだけで、しかもマタイはそれをたった2回しか使っていない。そのいずれの場合にも教会の権能としてこの言葉が用いられているのは興味深い。つまりマタイにとって、これこそが地上にある教会の本質を示しているのだと考えていたのであろう。教会に所属しているということが、天国に繋がっていることの徴であり、保証である。逆に、教会から切られた人間は天国でも切られる。
ヨハネ福音書にも類似した言葉がある。復活の主が弟子たちに現れ、世界宣教へと弟子たちを派遣する時に「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦され、だれでもあなたがたが赦さなければ、赦されないままで残る」(ヨハ20:23) 。考えてみると、これは非常に責任の重いことである。
教会には「教会法(キャノン・ロー)」がある。それを日本聖公会の場合「法憲法規」という。法憲法規には必ず「懲戒の章」がある。懲戒の章では、何が懲罰の対象になるか、懲罰の内容は何か、ということが記されている。信徒の場合の懲罰は戒告と陪餐停止の2つだけであるが、聖職の場合は、戒告、職務の一部執行停止、有期停職、終身停職などが決められている。そしてそれらを調査し、判断する基準、つまり審判廷規則がある。これらの手続きの一つでも欠けると実際に判決できない。何故、これほどの細かい規則が定められているのかというと、教会における懲戒の判断が個人的な恨みや主観的、恣意的なものにならないようにするためである。日本聖公会の歴史において、公式に審判廷が開かれて懲戒を受けたという事例は私の知る限りない。なぜなら古い法憲法規では審判廷規則が不備であったからである。というより、実際には自主的に辞職したり、そこに至るまでに話し合いで解決したからであろう。とはいえ教会法には必ず懲戒の章はある。なぜなら、このことに教会の本質が示されているからである。
近代以前のキリスト教会においては「破門」という懲罰があった。これは教会の交わりの外に放り出すということであり、キリスト教が社会全体を支配している状況では、現実的に「生きる」ことが不可能になることを意味した。その点では、日本での「村八分」の方がまだ「優しさ」が残っている。
プロテスタンティズムは、ルターがローマ教会から「破門」されたことに端を発して成立した。いわば、教会による「破門」という判決を無意味化したことによってプロテスタント教会は成立したのである。非常に興味深いことは、日本基督教団の法規では、懲戒の章について「戒規施行細則」第1条でこの様に規定されている。「本戒規は教団及び教会の清潔と秩序を保ちその徳を建つる目的を以てこれを行なうものとする。但し、本戒規はその適用を受けたるものと神との関係を規定するものにあらず」。要するに、教会から懲戒されても、それはあくまでも教団という人間の組織とその個人とのいわば利害関係を明白にしているだけで、その個人と神との関係については教会は何も言えない、ということを明白にしている。
日本の社会のようにキリスト者が少数者の場合、まして多くの教派が並列し、一つの教会と縁が切れても簡単に外の教会に移って立派に信仰生活を全うできるような状況の中では「教会追放」というような懲罰はほとんど無意味になっている。日本聖公会の法憲法規では、聖職の免職という懲罰はあっても「教籍剥奪」、つまり「破門」という懲罰はない。

2.教会での懲戒
本日のテキストでは、教会から追放するための「手続」が述べられている。先ず第1の手続は、問題を持つ信徒の所へ1人だけで行き、忠告する。それがうまく行かなかった(つまり、「聞き入れなければ」)次に、「ほかに1人か2人」で行って忠告する。第3のステップとして「それでも聞き入れなければ」教会に報告する。ここで問題は公になる。おそらく、ここで「審判廷」が開かれることになるのであろう。それでも駄目な場合に、教会から追放する。教会から追放された者は天の国でも追放されたものとなる。いわば、天の国の司法機能がこの世の教会に託されている。これは実に怖ろしいことでもある。
ここで実は私たちは非常に重要な局面に立たされている。教会の本質的機能は「罪の赦しを宣言する」ということにあるのではないか。カトリック教会でも聖公会でも、聖餐式等において司祭は会衆に赦しの宣言をする。つまり教会には「罪の赦しを宣言する権能」が与えられていると信じている。それは裏返して言うと、「罪を宣告する機能」も持っているということである。罪を罪として宣告できないものは、罪を赦すこともできない。このことをいい加減に考えるとき、教会は本質を失う。

3.7の70倍赦す
21節以下の出来事は以上のことを背景にして読まなければならない。もっとも、連続しているようで、それぞれ独立しているから、メッセージにはズレが有るのは当然である。これらをつなぐ小さなチェインが21節のペトロの言葉の中にある、「兄弟が」という言葉である。これは一般化されるべき質問ではなく、「兄弟間」、つまり教会内のことである。教会は教会の教会内部の人の罪をどこまで赦さなければならないのか。答えは明白である。とことん、無限に、どこまでも赦すべきである。
その答えに満足できないペトロは伝統的な道徳基準を持ちだして「七度まで赦せばいいのではないか」と反論する。この道徳基準でも実際にはほとんど不可能に近いと思われる。それ対してイエスはそれでも未だ不十分であると「七度を七十倍するまで」と、とんでもない基準を述べる。つまり、私たちが考えられる道徳の基準を吹き飛ばすような、もはや道徳基準とは言えないような、レベルである。道徳的基準というものは言わば私たちの努力目標のようなものであり、努力すれば可能である、というのでなくては役にたたない。むしろ、あまりにも高すぎるレベルでは私たちは始めから諦めてしまい、そんなものは棄ててしまうであろう。

4.譬え話
そこで、訳が分からなくなっている弟子たちに対して一つの譬え話を語る。ある王様が家来たちの借金を計算した。そこに王様から1万タラントンの借金をしている家来がいた。新共同訳聖書の付録によると、1タラントンが6000デナリオン、1デナリオンが肉体労働者の日当に当たる。仮に1日千円で換算する、1万タラントンは千円の6000倍で約600億円という莫大な金額になる。要するに、始めから返済するということは諦めてしまった方がいい金額である。王様はこの家来を王宮に呼びつけ借金を返済せよと命じる。しかし到底返済など出来もしないのに、「もうしばらくお待ちください、必ず全額お返しいたしますから」と出来そうもないことを必死になって頼む。寛大な王様はこの家来がどんなにがんばっても返済など出来そうもないと思い、この借金を棒引きにする。家来は大喜びで王宮から出る、そこで一人の友人にばったり出会う。実は、この家来はその友人に百デナリオンの金を貸していた。百デナリオンという金額は労働者百日分の日当で、大雑把に計算すると約十万円ほどになる。つまり少し倹約し努力すれば返済可能な金額である。早速、この家来は友人に借金を返せと請求した。しかし、その友人はもう少し待ってくれ、必ず返すると一所懸命に頼むが、彼は赦さず、その友人を裁判にかけて監獄にぶち込んでしまう。それを見ていた友人たちは、その事を王様に報告する、王様は非常に立腹し、この家来に向かって「この悪人め、お前が一所懸命赦してくれと願うから、お前の莫大な借金を棒引きにしてやったのに、お前は同僚のささいな借金を赦すことが出来ないのか」と言い、彼を監獄にぶち込んでしまう。
さて、この譬え話をどう理解したらいいのだろうか。この物語は「あなたの友人の罪を徹底的に赦しなさい」という倫理・道徳を教えているのだろうか。もし、この物語が「徹底的な赦しの勧め」であるとすると、一つおかしなことになる。さすがに寛大な王様もこの家来を赦さなかったという結末は、やはり神の赦しにも一つの限界があることを示すことになる。こういう間違いは、この物語を倫理的・道徳的な教えとして理解することから出て来る。
むしろ、この物語は「赦さねばならない、しかし赦せない」という倫理・道徳に悩み、迷う私たちをあざ笑うかのように、「何をそんなに小さなことに悩んでいるのか。そんなことに悩んでいるあなたは一体何なのか」ということを問う。ペトロと同じように、もし私たちが「私たちに悪いことをした友人をどこまで赦すべきか」という倫理的な質問をするならば、その答えは明白である。「徹底的に赦しなさい」。これ以外に答えはない。しかし、あなたにそんなことが出来るのか。どうせ、よくがんばったところで、七度赦すのが精一杯ではないか。あなたの赦しには限界がある。人間の出来ることなど、どうせその位である。人間と人間の間の問題はせいぜい百デナリオンの問題である。しかし、今あなたがそこに居て、生きているのには、どれ程の負債があるのか知っているのか。それが一万タラントンの問題である。
この物語は私たちにそのことを語っているように思う。聖書は人間について、神に莫大な負債ががある者として語り、しかもその負債が赦された者と述べている。つまり神と人間との関係の問題なのである。聖書の教えの中で、現代の特に日本人に分かりにくいところは、このてんである。私たちは神に対して負債があるというような負い目は感じていない。まして、神に赦して頂かねばならないような罪を持っているとは思えない。私たち日本人にとって、罪とは、せいぜい百デナリオンの問題なのであって、一万タラントンの問題になっていない。つまり罪や罪の赦しの問題は人間と人間の間の倫理・道徳の問題であって、人間の存在の問題つまり人間と神との間の宗教の問題になっていない。それでは現代の日本人には宗教的問題はないのであろうか。決してそうではない。
「赦されて、赦す」という、この物語を倫理・道徳のレベルを越えて、表現すると、「生かされて、生きる」ということである。私たちが今こうして生きているのは、実は生かされているのだということなのである。これは教えられて納得するような事柄ではない。あなたが、あなたの生きているそのままの姿をじっくりと見ること、「一体私とは何なのか。どうして、ここに今生きているのか」というようなことを、深く反省し、自分で発見する事柄なのである。
人間は心の問題にせよ、身体の問題にせよ、自分で自分の力や努力によって生きているかのように考えている。しかし身体の中に小さな小さな石が一つ出来ても、自分でどうすることも出来ないのである。たった一つの小さな石がその人をベットに縛り付け、生活を破壊し、人生を変えてしまう。一つの偶然の出会いがその人の職業を決定し、愛の秘密を教え、人生の方向を指し示し結婚を決意させる。人間は自分で生き、自分の努力で道を開き、自分の人生の主人は自分であると思い込んでいるかも知れない。しかし本当にそうなのか。自分は「生かされている」ということを悟った時、本当の人間の生き方が始まる。「天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした」(18:23)。実際に、具体的に計算をし始めると一生かかっても返済不能な莫大な負債を抱えていることに気付く。そのして、その莫大な負債が全部棒引きにされていることに気付く。それが「天の国」なのだというのが、この譬えの意味である。友人との貸し借りというような些細な問題に悩んでいるのか。その友人に貸し付けた金の7の70倍赦してやってもまだお釣りが来るだろう。それがあなたの人生なのだ。信仰者とは、そういう計算ができる人間を意味している。教会とはそういう人間の集団なのだろうとマタイは語る。

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