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ぶんやさんの記録

原本ヨハネ福音書研究より抜粋(第13章)

2017-04-12 08:17:59 | 聖研
原本ヨハネ福音書研究より抜粋(第13章)

はじめに
松村克己は「第13章からヨハネ福音書は第2部に入る。不特定多数の人々に向かって語りかけ、働きかけてきたイエスは人々から「身を隠し」(Jn.12:36)、少数の弟子たち、神の国の中心となるべき12弟子、イエスと運命を共にするために選んだ「自分の者たち」(Jh.13:1)にのみ語る。語られる内容は、訣別に当たっての最後の教訓という形式をとってはいるが、彼と彼らとの間柄が何であるかということ、一言でいえば信仰の開明であり、堅信の奨めである。彼と彼らとの間は彼と天の父との関係に根差していること、彼によってまた彼と共に、彼らもまた天の父の子となることを教える。第17章までの部分はヨハネ福音書における最高峰であり、山上の垂訓に比べても遜色のない珠玉の文学である。繰り返し熟読吟味して信仰の秘儀を学ぶべきである」と述べている」。松村の場合は、原本に含まれていない15章から17章を含んで考えている。
田川建三は「共観福音書と比べると、現在見られる形では、ヨハネの最後の晩餐の場面は異常に長い」と述べ、この章の「最初に『洗足』の場面を置いたのは、明瞭に、マルコ福音書に見られる聖餐式設定の場面を代替するためである」という。その上で「『晩餐』そのものの話はほとんど何も記されていない。2節と4節に、これは晩餐の時のことだよ、文字通りひとこと言及されているだけである」。「この著者が晩餐そのものよりも『洗足』の話だけを語ろうとしていることは、明白である。その話の作りも、いかにもヨハネ的な創作である」。13章21節以降ないしは18節以降はイエスの長い説教であり、これは17章の終わりまで続く。この長い説教の大部分は教会的編集者が書いた説教だと思われる。「最初のうちは(第13章)、それでも遠慮がちにところどころに自分の説教的挿入を加えていっただけだが(それでも後半になるとどんどん増える)、14章になると、著者の原文よりも教会的編集者の文章の方がずっと多くなり、15章〜17章はついにまるごとこの編集者の作文である」(田川:558頁)。

第1章 洗足(13:1~20)

<テキスト13:1~20>
語り手:さて、過越の祭が近づいてまいりますと、イエスは非常に緊張してきました。いよいよ、この世を離れ父の御許に帰る時が来たのです。その時、気になることは弟子たちのことでした。それでイエスは弟子たちをとことん愛していることを示すためには何をしたらいいのか考えました。
夕食が始まる前、イエスと12人の弟子たちは食卓に着きました。イエスは弟子たちを見回しました。とくに日頃から気にかけていた弟子の一人イスカリオテのユダの様子を見ていますと、いつもの快活さが見られません。彼もかなり緊張しているようです。おそらく悪魔が既に彼の心奥深くに入り込み、イエスを売る決意をさせたのだろうと思われます。イエスは、何とかそれだけは避けたいと思っていましたが、それもどうやら手遅れのようです。彼の決意もかなり固そうに思われます。
イエスは父が、これからのことをすべて自分に任せてくださったように感じました。父は私を全面的に信頼しておられる。そうならば、私も弟子たちを信頼しよう。イエスは密かに自分に語りかけました。もう躊躇することはありません。
イエスは静かに席を立ち、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまといました。それから水桶に水を入れ、弟子たちの足元にしゃがみ込みました。弟子たちはこれから何が始まるのか驚きました。人間は本当に驚いたときには何もできず呆然とするだけです。彼らはイエスの異様な行動を黙って見つめるだけでした。最初の弟子の足を手で丁寧に洗い、腰にまとった布で拭き取りました。そして、次々と同じように弟子たちの足を洗いました。シモン・ペトロのところに来たとき、流石にペトロは気を取り直し、イエスに言いました。

ペトロ:先生、あなたが私の足をお洗いになるのですか。
イエス:私が何をしているのか、今はあなたは分からないでしょう。でも後になってわかります。
ペテロ:私の足など絶対に洗わないでください。
イエス:もし私があなたを洗わなければ、あなたは私と何の関係もないことになりますよ。それでもいいのですか。
ペテロ:先生、それなら足だけでなく、手、頭も。

語り手:全部の弟子たちの足を洗い終わると、上着を着て、席にお着きになりました。

イエス:さて、私が何をあなた方にしたのか、分かりましたか。あなた方は私のことを、「先生」とか、また、「主」とか呼んでいますが、それはその通り正しいのですが、その私が、主とか先生と呼ばれているこの私があなた方の足を洗ったのです。ですから、あなた方もお互いの足を洗いあうべきでしょう。私は身をもってその模範を示したのですから、あなた方も私がしたようにして欲しいんです。本当のことを言うと、召使いは自分の主人よりも偉いわけはなく、遣わされた者は遣わした者よりも偉くはありません。もしこのことが分かり、それを実践すれば必ず幸せになります。

教会的編集者の挿入:13:10~11,18~20

<以上>

(a) イエスと弟子たちとの最後の晩餐は何時行われたのだろうか。ヨハネ福音書の時系列を十字架による処刑から遡ると、イエスの処刑後、「その日が過越の食事の備えの日であったので、とくにその安息日は大いなる日に当たっておりましたので、ユダヤ人たちは安息日に十字架に屍体が残らないようにとピラトに頼みました」(Jh.19:31)とあり、その日の日没から安息日(ニサンの月の15日)が始まるとされる。つまり処刑は現代的にいうと金曜日(同14日)の日中ということになる。その日の朝、「イエスは祭司長カイアファの邸では尋問らしい尋問もされず、そのままローマの総督官邸に送り込まれました。その時は、もう明け方近くで、ユダヤ人たちは官邸に入ろうともしませんでした。その日は過越の食事をする日で外国人の家に入ることは穢れると考えられていからでした」(Jh.18:28)とあり、過越の食事が金曜日の日没以後、(ニサンの月の15日土曜日)にもたれることを示している。そうすると、イエスが逮捕されたのは13日木曜日の日没後、ユダヤ暦では日付が変更され14日金曜日で(太陽暦では13日金曜日)、イエスと弟子たちとの最後の晩餐は13日の木曜日の夕方ということになる。マルコ福音書によると過越の食事は除酵祭の第1日、即ち小羊をほふる日とされるが、その日に過越の食事がなされているように描かれているのは間違いであろう。
ここでヨハネではイエスの処刑は小羊をほふる日ということである。まさにイエスは犠牲の小羊である。
ヨハネ福音書ではイエスについての最初の言葉が洗礼者ヨハネによる「ご覧なさい、あの方が『世の罪を取り除く神の小羊』です」(Jh.1:29)という言葉であった。そしてその死は過越祭における「小羊をほふる日」であった。つまり、始と終わりとが見事に対応している。

(b) イエスは世を去るに当たり、心残りなことは弟子たちのことであった。「イエスは弟子たちをとことん愛していることを示すためには何をしたらいいのか考えました」(Jh.13:1)。ここで「とことん愛している」という言葉を新共同訳では「この上なく愛し抜かれた」と訳し、口語訳では「最後まで愛し通された」、フランシスコ会訳では「終わりまで愛し抜かれた」と訳している。この言葉には「最後まで」という言葉が含まれている。つまり、ここから十字架上での死に至るまで愛したという意味であろう。要するにここからの全ての行為は弟子たちに対する愛の実践だという。弟子たちに対するイエスの愛について、松村克己は次のように述べている。「弟子たちをトコトンまで愛して、彼らのうちに、彼が知っている父なる神の愛を知らせ、この愛によって互いに相愛する群れを確立することであった。「最後まで」の愛とは単に時間的に最後までという意味だけではなく、程度において徹底的にという意味を含む。イエスの弟子たちに対する愛は十字架を前にして極度にまで高められた」。
その具体的行為の始まりが弟子たちの足を洗うという行為であった。その冒頭にイスカリオテのユダの裏切りということが述べられていることを注目すべきであろう。イエスの「とことんの愛」は裏切るであろうユダをも含んでいる。

(c) 「最後の晩餐」の記事はMt.26:26~30,Mk.14:22~26,Lk.22:15~20等共観福音書にも見られる。それらの記事のいずれも聖餐式の制定が主なる内容である。ところがヨハネ福音書だけは聖餐式制定については一切触れられず、それに代わるものとしてイエスが弟子たちの足を洗ったという出来事を記録している。食事の前に足を洗うという風習は特別なことではなかったようで、通常は、部屋の入口でその家の僕が手桶を準備して来客の足を洗うことになっていたようである。ところが最後の晩餐では、既に彼らは食卓に着いていたようである。考えてみると、彼らは足を洗っていない。
この場面を松村克己は次のように描写している。「招かれた客を入り口で迎えその『足を洗う』のは僕の役割である。イエスの一行の夕食は他人を交えない内輪だけの食事で、その食卓のマスターはイエスであり、弟子たちは招かれた客である。彼らの足を洗う僕がここにはいない。この家はおそらくヨハネ・マルコの母の家、後に弟子たちが集まるのを例とした家であろう。イエスは弟子たちだけでの別れの宴を持つことを望んだので、彼女は奴隷を出さず水と手拭いだけを用意してそこに置いたのであろう」。かなり想像が含まれているがおおよそこのような情景であったであろう。

(d) ペトロとの会話。さすがに弟子の中での最年長者、先生が弟子の足を洗うという逆転した状況にいたたまれなくなったのであろう。ペトロはイエスが彼の足を洗うことを拒否する。その時のイエスの言葉、「もし私があなたを洗わなければ、あなたは私と何の関係もないことになりますよ。それでもいいのですか」(Jh.13:8)。「あなたは私と関係がないことになる」、直訳すると「私と共に分け前を持つことがない」で、ポイントは「共に」ということにありそうである。イエスと関係があるということは、イエスと共に分け前の共同所有者になること。分け前はともかく、「共同」ということが重要である。イエスのこの言葉の中に福音の神髄が込められている。「イエスと共に立つ」、「イエスと共に生きる」、「イエスと共に死ぬ」、これらをすべて込めた一語が「イエスと関係がある」ということである。
「それなら足だけでなく、手、頭も」。この言葉は、半分ぐらい、いや半分以上、いやもっとかな。イエスの言葉に対する冗談だと思う。これに続く10~11節は、この言葉を冗談として受け止めきれなかった教会的編集者たちの苦心の付加であろう。ここで洗礼式や聖餐式のことを思い浮かべること自体が、この文章が教会的編集者の言葉であることを示唆している。

(e) 「さて、私が何をあなた方にしたのか」以下の文章は分かりやすい。ほとんど解説を必要としない。何故、ここで聖餐式制定の出来事ではなくイエスが弟子たちの足を洗ったという出来事を語っている意図を、イエスの口を通して語っている。こっちの方が聖餐式というサクラメントよりはるかに重要だと著者ヨハネは考えている。「本当のことを言うと、召使いは自分の主人よりも偉いわけはなく、遣わされた者は遣わした者よりも偉くはありません」(Jh.13:16)の言葉は、例の「アーメン、アーメン、汝らに次ぐ」という定型句に始まる言葉である。特に重要なイエスの言葉を意味している。「召使いは自分の主人よりも偉いわけはない」。これは当たり前のこと。ところがここではイエスが召使いのように弟子たちの足を洗った。このことは一般社会ではほとんどあり得ないことである。しかし、これをあなたがたも実践せよと言う。この教えはかなり厳しいが言っていることは分かりやすい。問題は、これと同じように、「遣わされた者は遣わした者よりも偉くはありません」と言う。この言葉は同じことを別の例で繰り返したに過ぎないように見える。しかし実はそこには隠れた意味がある。この「遣わされた者」という名詞は「アポストロス」で、教会では「使徒」を意味する。ヨハネ福音書が書かれた当時、既に12弟子たちの「使徒職」は確立しており、主から派遣された者として教会内では高い地位であった。ついでにもう一つ説明を加えると、ここで「派遣する」という意味の言葉は、「アポステロー」と「ペンポー」と二つあり、この二つの名詞形を実に上手く使い分けて「使徒(遣わされた者)」は「派遣した者」よりも偉くはないという。今ここで、彼らの主であるイエス自身が謙虚であったよりも、もっと謙虚でなければならないということを示している。

第2章 弟子への最後の教え

ここまで語るとイエスは一仕事終わった時に感じる一種の安堵感と、これから嫌なことを言わなければならないという気持ちで、しばらく沈黙が続いた。ここから二つのシーンがある。

シーン1 イスカリオテのユダ

<テキスト13:21~27、30>
語り手:イエスはこのことを話し終わると、何か思い悩んだ様子でしたが、意を決したように重い口を開き話し始めました。

イエス:実は、あなた方のうちの一人が私を裏切り、売るでしょう。

語り手:イエスのこの言葉は弟子たちを動揺させました。誰のことだろう、とお互いに顔を見合せました。イエスの席の隣に座っていた弟子、彼は普段から「イエスが愛している者」と呼ばれていましたが、ペトロはこの弟子に、「誰のことか尋ねよ」と目で合図をしました。その弟子がイエスの耳元でささやくように尋ねました。

その弟子:先生、それは誰ですか。
イエス:私がパンをスープにひたして与える者だ。

語り手:そういうとイエスはパンを千切り、それをスープにひたし、イスカリオテのユダに与えました。するとその一片のパンと一緒にサタンが彼の中に入りました。それを見て、イエスは彼に言いました。

イエス:あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい。

語り手:イエスのその言葉を聞いて、ユダはイエスからパン片を受け取り、すぐに出て行きました。外は真っ暗な闇夜でした。
教会的編集者の挿入:13:28~29

<以上>

(a) この場面はイスカリオテのユダの裏切りを公にした場面である。マタイ福音書では26:21、マルコ福音書では14:18、ルカ福音書では22:21に記録されている。いずれも最後の晩餐の席である。マルコとマタイではこれを聞いた時「弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」という。ルカもほぼ同様である。共観福音書ではこの告知の前にすでにユダは行動していることを述べている。しかし他の弟子たちはそれを知らない。こういう場面で「まさかわたしのことでは」という心配をするということは、そうではないとは言い切れない何かを心に抱いているのであろう。ヨハネ福音書では、イエスのこの発言は唐突であり、ユダについてはこの食事会が開かれる前に「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(Jh13:2)とだけ述べている。
ヨハネ福音書ではここまでにイスカリオテのユダは2回登場しているが(Jh.6:71,12:4)、いずれの場合も「裏切る者」と言われている。まさに「裏切る者」というレッテルが最初から付けられている。もっとも、これは著者と読者だけが知っていることで当事者たちは知らないことである。
ともあれ、この予告がなされた時、ヨハネ福音書では「誰か」とお互いに疑っているが、自分に対しては裏切らないと思っている。ここが共観福音書と異なる点である。

(b) ここに登場するのが、イエスの隣に座っていた「イエスが愛している者」という謎の人物である。この人物と洗礼者ヨハネの弟子でアンデレともう一人の「無名の弟子」(Jh.1:40)とが同一人物かどうか明記されていない。ペトロは彼に無言で合図し、裏切り者は誰か訊ねさせる。その時、イエスは彼の質問に周囲にわからないように示す。私は、イエスが彼にだけこのような重要なことを教えたとは思えない。事実、この後もその人物が誰かということは明らかにされないまま、事態は進み、イエスは誰にも分からないように、ユダに「あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい」と語り、ユダはすぐにその席を離れて外出している。教会的編集者は、同席していた者は誰も彼が裏切り者だということに気が付かず、会計としての仕事をしてたという解説を挿入している。多分その通りでだったであろう。ここで重要なことは、イエス自身はユダの裏切りを知っていながら、そのことを他の弟子たちにはわからないように配慮していることである。にもかかわらず、「イエスが愛している弟子」にだけは暗示的にではあるが述べている。その理由が判らない。

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