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第5回 マタイ福音書講釈 宣教派遣の説教(9:35~11:1)

2014-04-28 10:43:11 | 聖研
第5回 マタイ福音書講釈 宣教派遣の説教(9:35~11:1)

1.マタイ福音書における第2の説教
先ずこの説教の状況設定(9:34~38)があり、次に12使徒への権威の授与(10:1~4)と派遣命令(10:5~8)があって、9節から説教が始まる。説教の構造は:
(1)派遣先に至るまでの旅の心得(9~10a)
(2)派遣先での生活上の諸注意(10b~15)
(3)次に派遣先での活動上の諸問題(16~23)
(4)派遣される者と派遣する者との関係(24~33)
(5)神から派遣された者としてのイエスの目的(34~39)
(6)送り出す言葉(40~42)

今回は(1)、(2)、(3)と(6)を取り上げる。

2.資料分析と語義
基本的にはマタイはマルコ6:6b~13と13:9~12を下敷きにして、それらを書き改めながら論述している。
9節
「帯の中に」帯の中には身の回りの必要のための財布ではなく、隠し持つべき大金である。
「金貨も銀貨も銅貨も持つな」(マルコは「銅貨」、ルカは「銀貨」)マルコはイエスの生活の中で「銅貨」が最も大きな通貨だったのか、ルカは銅貨ぐらいはいいだろうと考えたのか。マタイの場合は、観念化して非現実的で建前論を語る。彼らが大金を持って旅行をするはずがない。
10節
「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」。
持って行ってはならないもの「袋、2枚の下着、履物、杖」
マルコでは「下着は2枚着るな」、「履物は履くように」、杖は1本だけ(杖は基本的には防具)。
杖と履物を禁止するということの意味。非現実的である。裸足で無防備。それは神殿内の聖域に入るときのスタイル。マタイは宣教活動をそのように位置づけている。
「働く者が食べ物を受けるのは当然である」はマルコにはなく唐突で 11節とのつながりもぎこちない。 ある。10節の後半から話題は派遣先についてからの生活問題で、おそらくマタイが無理矢理に挿入したのであろう。マタイやルカの時代の教会での伝道者の生活を反映している。ルカでは「食物」ではなく「報酬」(ルカ10:7)となっている。これをイエスの言葉とすることによって権威づけている。
11節
「ふさわしい人はだれか」マタイにしかない。派遣先で誰の家に居候するのか、現地で考えよ。
12節と13節 マルコにはないが、ルカ10:5~6と一致。
「挨拶せよ」シャローム
「あなた方に返ってくる」の意味が不明。シャロームという挨拶に対して相手も「シャローム」と返事をする。そうすると両者の間にシャロームが成立する。ここではこちらの「シャローム」に対して「シャローム」が返ってこない意味。
14節
「足の埃を払い落とす」 きっちりとした決別。
15節
「ソドムとゴモラ」マルコにはない。滅びの象徴の町(創世記18:16~19:28)
16節
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」は、マルコにはない。ルカと共通。ルカでは冒頭に「行きなさい」という言葉がある。マタイでは「行きなさい」を省いている。それを入れると、15節までとが完全に分離してしまう。ルカではこの句は72人の派遣の文脈で用いられている。
おそらく、ルカ、マタイ当時の派遣式での常套句であったのかもしれない。

17節~23節前半
これはマルコ13:9~13とほぼ同じである。比較してみると(Mtはマタイ、Mkはマルコ)

Mk9~10 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
Mt17~18 人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。
◯マタイはMk10の「まず、福音があらゆる民に述べ伝えられねばならない」という言葉を除去する。その意味は「迫害」が起こる前に「宣教」があるということを示している。それをマタイは同時的にして「証し」の意味に変更を加えている。

Mk11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
Mt19~20 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
◯ 緊迫度がかなり緩められている。

Mk12~13 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
Mt21~22 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
◯ ほとんど同じ。

Mt23a 一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。
◯マタイが付加した言葉。
マタイはマルコでの終末論的説教の一部を抜き出して、通常の宣教活動についての説教中に置いた。おそらくマタイの時代においてはここで述べられている状況が通常であったのであろう。

23節後半
「はっきり言っておく」
これはいわゆる「アーメン言葉」、大体は「アーメン言葉」はイエス自身にさかのぼるとされるが、この節の場合は他に並行記事がないのでなんとも言えない。マタイ共同体で作り出された言葉だろうか。この句をどう理解するのか。23節前半までの最後とみるか、24節以下の冒頭と見るか。意見が別れる。
「イスラエルの町を回り終わらないうちに」
マタイ集団にとっては自分たちの使命は「イスラエルの民」であり、一生懸命頑張っても、「回りきれない」と思っている。だから、非ユダヤ人にまで手が届かない。 

40節~42節
派遣説教の締めくくりの言葉について一言。(後で、詳しく論じる)
3.3つのポイント
(1) 「シャローム」(12節)
「シャローム」と挨拶せよと命じられている。シャロームという言葉はユダヤ人社会では昔も今も普通に用いられる日常的な挨拶の言葉であり、わざわざ「命じられる」ような言葉ではない。しかし、ここではそれがことさらに命じられているのは、この言葉の意味する事柄があなたが派遣された任務である。それだけの重さをもって「シャローム」と挨拶する。それに対してその家の人が「それを受けるにふさわしければ」「シャローム」と応える。この応答は単なる挨拶のレベルを超えている。それが出会いである。
小林秀雄の弟子で文芸評論家の佐古純一郎氏がキリスト者になったとき、その経験を「大いなる邂逅」と表現した。昭和23年4月29日、森有正氏の講演を聞いて、彼はキリストとの出会いを経験したという。その日の日記に彼はこう記している。大いなる邂逅、まさしく、大いなる邂逅であった。長い長いさすらいの後に、いまわたしは、真実なる一人のお方に巡りあうことが許されたのである。それを大いなる邂逅と呼ばないで、何と呼べばいいのだろうか。私がバプテスマの恩寵にあずかってから、その感激と喜びがまださめない3週間目の6月13日の深更に、太宰治が玉川上水に入水して自らの人生の幕を閉じ、たのであった。それは私にとって、大きなショックであったが、しかし、太宰治の悲劇的な死は、私にとって新しい生涯への大きな決意をも意味したのである」(佐古純一郎著作集8,「大いなる邂逅」p146、春秋社)。佐古氏が「大いなる邂逅」という著書を教文館から出された昭和33年以後、その言葉は一種の流行語となった。ちょうどその頃、私は東京聖書学院の学生で佐古純一郎さんの著書に取り憑かれたように読む耽ったことを思い出す。キリスト教との出会いとは繊細な文芸評論家の人生を変える力がある。佐古さんはその後、大学教授を経て神学校に入り牧師になった。「シャローム」という挨拶は単に日常的な挨拶のレベルを超えて一人の人間の生涯を変える。しかし、この「シャローム」にきちんと向かい合うことができなかった太宰治は自殺という悲劇を克服できなかった。「このあなたがそこの家に迎えられ、滞在したら、その家に『平和』がもたらされる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなた方に返ってくる」。

(2) 「狼の群れ」(16節)
「人々を警戒しなさい」マルコでは「自分のことに気をつけなさい」となっている。どう違うのか。口語訳では「人々に注意しなさい」となっている。文語訳では「人びとに心せよ」。この「人々」とは誰のことであろう。教会の人々をも含めて派遣先のすべての人びとを「狼」と考えるている。
宣教とは相手を信じることからしか始まらないが、信じ切れるのかどうか。ヨハネ福音書に面白い記事がある。これも主日礼拝では取り上げられないテキストなのでほとんど知られていないが、(これは実は非常に恥ずかしいことである)2:23~25を読む。
「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」。
イエスはイエスを「受け入れない人々」のところに派遣された。イエスは拒否され続け、最後に十字架刑に処せられた。その中でイエスは12人お弟子を与えられた。しかしその中の一人によって裏切られた。派遣とはそういうものである。 

「冷たい水一杯」
あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。
ここで言う「小さな者」とは誰か。キリスト者は多くの場合このテキストを「この世の貧しい人、虐げられている人」と解釈している。それは正しいのか。ここでは明らかに「小さな者」とはイエスから遣わされた者である。イエスから遣わされた者が「小さな者」である。そこに住んでいる人たちから与えられ、恵まれ、保護されるべき小さな者である。ここからしか、宣教は始まらない。福音は上から下へ向けて発せられるのではなく下から上に向けられている。

40節:弟子たちを受け入れる者はイエスを受け入れることであり、イエスを受け入れることは神を受け入れることであるという構造。<宣教者――イエス・キリスト――神>
41節:預言者を預言として承認する者は預言者と同じ恩恵を受ける。
42節:「この小さな者」が「イエスの弟子であるという理由」で「一杯の冷たい水」を与える。

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