ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

原本ヨハネ福音書研究巻5

2016-02-08 12:54:25 | 聖研
原本ヨハネ福音書研究巻5

巻5 良い羊飼い
 
 (1) 生まれつきの盲人を癒す
  シーン1 癒しの奇跡 (9:1~12)
  シーン2 事件、その事実確認 (9:13~34)
  シーン3 事件、その後で (9:35~41)
  シーン4 ユダヤ人の間で対立 (10:19~29)
 (2) イエスの説教
  シーン1 「良い羊飼い」(10:1~18,30)
  シーン2 説教、その後で (10:31~42)
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第1章 生まれつきの盲人を癒す

この出来事は何時、何処でということが特定されていない。シロアムの池に近いところからエルサレムでの出来事と思われる。この部分は7つのシーンに分けられる。

シーン1 癒しの奇跡 <9:1~12>
語り手:さて、イエスと弟子たちとが町を歩いていたとき、一人の目の見えない男を見かけました。イエスは誰にでも気軽に声をかけられる癖があります。この時も、その男に、どうして目が見えなくなったのですかというようなことを話しかけておられました。その男は生まれたときから目が見えなかったと言います。そこで弟子たちは、その男に聞こえないように気を使いながらイエスに質問いたしました。

弟子たち:先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰かの罪の結果なのでしょうか。それは本人のせいですか。それとも、両親のせいですか。
イエス:それは本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもありません。生まれながらの障害をそういう風に過去の何かの因縁のように考えるのは根本的に間違っています。そうではなくて、むしろこれからこの障害を通して神が何をなさるのかということを考えなければなりません。過去の原因を探索するのではなく、将来に向けて希望を持って受け止めることが大切なことです。神は必ずこの人の障害を通して、神が生きておられることを証明なさるでしょう。
(ここからはイエスの独り言)私は私を遣わされ方の仕事を生きている間に仕上げなければならない。そのうち私はここを去るときが来る。私は世にいる限りは、世の光として生きる。だが、私が居なくなったら、この仕事を誰が引き嗣いでくれるのだろうか。

語り手:イエスは、こう話ながら地面からひと握りの土を手に取り、それを唾でこねて、その男の目にお塗りになり、言われました。

イエス:シロアムの池に行って泥を洗い落としてごらん。

語り手:目の見えない男はイエスに言われたとおり、手探りで池に行き、目を洗い落としました。すると、不思議なことに目が開き、光を感じるようになりました。彼にとって初めて見る景色です。それで喜び勇んでイエスの元に帰ってきました。彼のことをよく知っている近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々は、互いにいろいろ噂話をしていました。

人々A:彼は本当に、あそこに座って物乞いをしていた人なの。
人々B:いや違う。似ているけど、別人だろう。
元盲人:私はあそこで座って物乞いをしていた盲人です。間違いありません。
人々C:それじゃ、どんな風にして、あんたの目が見えるようになったんですか。
元盲人:私もよく分かりません。ただ私の知らない人が、何かを私の目に塗り、シロアムに行って洗いなさいと言われましたので、私はその通りにしただけです。そうしたら見えるようになりました。ただそれだけです。
人々D:じゃ、その人は今どこにいるのですか。
元盲人:知りません。

 <以上>

(a) ここで問題になっていることは、何故、生まれながらに目の見えない人がいるのかという原因である。この問題を極度に広げると人間の個性の発生は何かという問題に突き当たる。これだけ多くの人間が存在しながら、すべての人間がそれぞれの個性をもっている。個性の多くは両親と成育過程における環境に還元しきれる問題ではない。例えば、その一つが障害者問題であり、あるいは驚くべき天才の出現である。何故、人間はこれ程多様なのか。その原因を求めることは人間には不可能である。何故、私は私で、彼のようでないのか。同じ両親から生まれ、同じように育てられているのに、弟はあのように才能があるのに、私にはないのか。この問題には誰も答えられない。

(b) ここでは生まれながらの盲人を前にして、イエスと弟子たちとが会話をしている。弟子たちはイエスに問う。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰かの罪の結果なのでしょうか。それは本人のせいですか。それとも、両親のせいですか」。この問いに含まれているのが当時の通念なのだろう。そこには「本人か、両親か」という二つの答えしかない。本人とも言い切れないし、両親とも言えない。あるいは両方ともというやり場のない答えしか出て来ない。第三の答えがない。イエスの答えは単純に「神の業がこの者において顕れるためである」(田川訳、岩波訳もほぼ同じ)である。イエスは本当にこんなことを言ったのだろうか。いや、この発言をイエスの口に入れた著者は一体何を考えているのであろう。いくら「神の業が顕れるため」とは言え、そのために生まれつき目が見えなくされてしまったら、たまったものじゃない。こんな答えはその当人にとっては何の解決にもならない。従ってこの発言は私の愛するイエスらしくない。本人か、両親かという問いを単に神に置き換えただけで、過去に向けての問いであることに違いない。この問題において、私たちが過去の原因を追及することには限界がある。人間には当然のことながら「わからないこと」、「知り得ないこと」がある。むしろ私たちの課題は、今、目の前に座っている生まれながらの盲人と共に、将来に向かってどう生きるかということである。イエスのこの言葉の中心的なメッセージは、私たちの目を過去から将来へと展開させることである。私たちが障害者と共に目を将来に向ける時、そこに神の創造的業を見ることが出来るのである。

(c) この問題をより根本的に問うならば、人間の個性の問題に行き着くであろう。人間は個性において人間である。10人おれば10人の個性があり、100人おれば100人の個性がある。その個性は優れた点もあれば劣った点もある。走るのが速い人もおれば遅い人もいる。耳のいい人もおれば聞こえにくい人もいる。お喋りもおれば無口の人もいる。すべての人間がその人の個性をもっている。実に多様である。同じものを見ていても、それぞれが異なった映像として受け止めている。人間社会は多様だからこそ豊かである。障害者問題を人間の個性の問題に還元してしまうことには限界があるであろう。しかし「神の業を現すためには」それぞれの個性がその個性を活かすことによってしか始まらない。

(d) ここでイエスは不思議なことを語る。「私は私を遣わされ方の仕事を生きている間に仕上げなければならない。そのうち私はここを去るときが来る。私が世にいる限りは、世の光として生きる。だが、私が居なくなったら、この仕事を誰が引き嗣いでくれるのだろうか」(Jh.9:4~5)。このセリフの意味はよく分からないので、イエスの独り言にしておく。

シーン2 事件、その事実確認 (9:13~34)

この出来事も、このままで終わらなかった。しかも、障害者問題とは全く無関係な方向に展開していった。

<テキスト9:13~34>
語り手:結局、人々は事実関係がはっきりしないまま、元盲人をファリサイ派の所に連れて行きました。その日が安息日だったからです。

ファリサイ派の人A:さて、あなたはどのようにして見えるようになりましたか。
元盲人:その時、私はまだ目が見えていませんでしたから、よく分かりませんが、私の知らない人が私の目に何か泥のようなものを塗ったのだと思います。それで、私はあの方に言われたとおり、シロアムの池に行って、泥を洗い落としました。すると不思議なことに目が見えるようになったのです。きっとあの人は神さまの使いだと思います。
ファリサイ派の人B:黙れ。いらんことを言うな。そんな筈がないではないか。その男は明らかに安息日の規定に違反している。そんな男が神のもとから来た筈がないではないか。
ファリサイ派の人C:しかし罪のある人間が、はたしてこんな奇跡を行うことができるでしょうかね。

語り手:訊問するファリサイ派の人々の間で意見が分かれ議論が始まりました。しかし、いくら議論をしても事実関係がはっきりしません。そこで、彼らは元盲人を再尋問することになりました。
 
ファリサイ派の人D:お前はお前の知らない人に目を開けてもらったということだが、いったい、お前はその人のことをどう思っているのだ。
元盲人:はい、あの方は神さまから遣わされた預言者だと思っています。

語り手:それでファリサイ派の人たちはこの人が本当に盲人であったのか、どうかを確認するために彼の両親を呼び出すことに致しました。つまり、奇跡そのものがなかったことにしたいのだと思われます。

ファリサイ派の人A:この男は生まれつき目が見えなかったと言っているが、彼はお前さんたちの息子さんですか。
元盲人の両親:はい、そうです。確かに私たちの息子で、生まれた時から目が見えませんでした。
ファリサイ派の人A:分かった。それで、その息子がどうして見えるようになったんですか。
元盲人の両親:それは私ども分からないのです。どなたが息子の目を開けて下さったのでしょうかね。それは本人にたずねて下さい。もういい年をしているのですから、自分のことは自分で言うでしょう。

語り手:両親がこのような返答をしたのは、ユダヤ人たちを恐れていたからです。というのは、その頃、ユダヤ人の誰かが、イエスをキリストだと告白したら、会堂追放者にすると決めていたからです。

語り手:さて、ファリサイ派の人たちは両親への訊問も不発に終わってしまったので、もう一度、元盲人を呼び出し、厳しく訊問いたしました。

ファリサイ派の人A:もう一度聞くぞ。今度は、神の前で正直に答えなさい。われわれは、あの者が罪ある人間だと確信しているのだ。
元盲人:あの方が罪人であるかどうかは私は知りません。ただ一つ知っていることは、私は目が見えませんでしたが、今は見えている、ということだけです。
ファリサイ派の人B:じゃ、もう一度確認するが、あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。
元盲人:もうすでにお話しいたしましたのに、あなた方は少しも聞いてくれません。何回も同じことを聞かないで下さい。それとも、私の話を聞いて、あなた方もあの方の弟子になりたいのですか。
ファリサイ派の人C:馬鹿なことをいうな。お前は彼の弟子かも知れんが、われわれはモーセの弟子だ。神がモーセに語られたことを知っているが、あの者がどこの馬の骨かそんなことを知るもんか。
元盲人:あの方がどこから来られたか、あなた方がご存じないとは、実に不思議なことです。あの方は私の目を開けてくださったのですよ。神さまが罪人の言うことをお聞きにならないことぐらいは、私でも知っています。しかし神さまは神さまをあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになられます。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことはございません。あの方が神さまのもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。
ファリサイ派の人D:生意気なことを言うな。お前は全く罪の中に生まれたのに、われわれに説教でもするつもりなのか。

 <以上>

(a) たまたま、それが安息日であった。そんなことは誰も気にしていなかったが、一部のファリサイ派の人々はそれを問題にした。ベトザタの池での癒しの出来事と同じ展開である。今度は少しややこしい。何しろ癒された本人はそのプロセスを見ていない。癒してくれた相手も見ていない。従って尋問そのものが難しい。
安息日だということを知って、盲人の癒しを行ったイエスとは誰か、何者か。ファリサイ派の人々は問う。肝心の癒された男もイエスを見ていないし、何が行われたのか見ていない。彼が言えることは見えなかったのに見えるようになったという事実だけである。彼らにとってはそんなことはどうでもよかった。ただ、それが安息日に行われたということだけが問題なのである。癒された男にとっては癒してくれた人は神の使いだと思っているし、それを証言する。しかし、安息日の規定を破るような人間が神の使いである筈がないではないかと、ファリサイ派の人々はその一点にだけこだわっている。そのうち尋問する側でも内部で意見が対立し始める。事実を確認することすら出来ないのである。

(b) そこでファリサイ派の人々は癒しの事件そのものがあったのかどうか事実確認をするために彼の両親を呼び出し二つのことを尋問する。一つは彼があなた方の息子かどうか。もう一つは彼は本当に盲人であったのかどうか。要するにファリサイ派の人々の質問の意図は、盲人が見えるようになったという事実そのものをなかったこととして一件落着することであった。これもおかしなことで要するに「見なかったこととしよう」という典型的な権力者たちの常套手段である。しかしそれは見事に否定された。事件はあったのである。それでは、どのようにして、誰によってそのことがなされたのか。これについては当然両親にも分からないことであった。それは本人に聞いてくれという。要するに両親は逃げ腰である。

(c) ここで一寸脇道にそれて、生まれながらの盲人等障害者を子に持つ両親の心境について考えておこう。子供がまだ幼い間は両親の手によって何とか世話も出来るが、子供が成長すると、両親の手に負えなくなって来る。その時重要なことは社会の協力である。この盲人は「こじき」であったと述べられているが、これは一種の「社会福祉」ではないだろうか。乞食することが社会福祉であるなどというと、現代的な感覚では大きなギャップがあるが、福祉行政が十分に整っていない社会では、そういう形での「協力」が実践されていたのではないだろうか。神殿の出入り口に座っていると、神殿にお参りに来た人々がお金や食べ物等の施しを受ける。毎日、そこに座ることによって当然「緩やかな人間関係」も生まれてくる。町中の人々が彼のことを覚えている。だから両親にとって地域社会における評判が重要である。旧約聖書で言えばルツ記に見られるような「落ち穂拾い」などもそうである。それでも、両親の気は収まらないであろうし、最も大きな心配は自分たちが死んだ後どうなるのか。死ぬに死に切れない問題がある。そこにこそ「地域共同体」の暖かさが求められている。近代以前の社会にはそれなりの「暖かさ」があった。しかし近代以後の冷たい社会では、制度的にそれを補完する必要が迫られている。生まれながらの盲人はイエスによって見えるようになった。おそらくそのことを本人以上に喜んだのが両親であろう。その両親に対してファリサイ派の人々の冷たさはどうであろうか。

(d) そこで語り手が両親が逃げ腰である理由を解き明かす。つまり彼らはユダヤ人を恐れていたという。それは「その頃、ユダヤ人の誰かが、イエスをキリストだと告白したら、会堂追放者にすると決めていたからです」(Jh.9:22)。この点については少し説明がいるであろう。
エルサレムの神殿がローマの軍隊によって徹底的に破壊された(70年)後、ユダヤ教は混乱し、ほとんど壊滅状況にあった。その中で生き残ったユダヤ人たちは、ローマ帝国への恭順を示し、帝国の認可のもとエルサレムの郊外ヤムニアの地に集まり、帝国の認可を得て、ユダヤ教の神学校を作った。そこでは、新しい時代に相応しいユダヤ教の構築が進められた。それは神殿ではなく律法を中心とするユダヤ教であり、礼拝規定や祈祷文等が作られた。問題はその中に「18祈祷文」がある(1896年に発見)。その第12祈願に次のような文章が記されていた。
「背教者たちに望みが与えられないように。傲慢なる王国は我々の時代に根絶されるように。またナゾラ人たち(キリスト教徒)とミーニーム(異端者)は一瞬にして滅び、生命の書から消されて、義しい人びとと共に書き入れられないように。主なるあなたは讃べきかな。傲慢な者たちを卑しめ給う方よ」。
この祈願はユダヤ教のシナゴグからキリスト者を追放する規定であると同時に、一種の「踏み絵」という機能も果たしたらしい。それが書き加えられたのは70年から100年の間で、そうするとヨハネ福音書の執筆はそれ以後ということになる。しかし使徒言行録を読むとパウロが活躍していた頃からキリスト者をシナゴグから追い出す動きはかなり活発であることがわかる。つまりそれは「18祈祷文」によって一斉に始まったことではない。
ここで用いられている「会堂追放者」という言葉はヨハネ福音書では3回用いられている。ここと、12:42と16:2で、ここ以外のところでは「会堂から追放される」「会堂から追放する」と動詞的に訳されている。田川建三もこの言葉についてはいろいろ論じた上で、結論として「多分、この単語を史上初めて用いたのがヨハネ福音書の著者である。あるいは彼の周囲のユダヤ人出身のキリスト信者の間だけで用いられるようになっていたものであろう」(同448頁)と言う。つまり、「18祈祷文」におけるキリスト者のシナゴグからの追放は、パウロが活躍していた50年頃から既に始まっていた運動の最後の決着であった。従って、Jh.9:22の「会堂追放者」を「18祈祷文」によるキリスト者の追放とは関係がない。

(e) 本人への尋問はまるでコメディーである。尋問する側と尋問される側とがまるで噛み合わない。噛み合わない原因は、尋問されている元盲人の犯罪ではなく、彼を癒した不明の男に関する取り調べである。ところが取り調べられているこの元盲人の男は「彼」のことをまるで知らない。見てもいない。どうやって見えるようになったのかも分からない。尋問する側は「彼」を犯罪者だと決めてかかっているが、元盲人にとっては「大恩人」なのである。

シーン3 事件、その後で <9:35~41>

語り手:ファリサイ派の人たちは腹を立て、元盲人を外に追い出しました。イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになりました。それで彼を探し出して呼びかけました。

イエス:あなたは、私が誰かわかりますか。<しばらく沈黙の後>あなたはあなたの目を開いた方を信じますか。
元盲人:信じたいです。でも旦那、その方はいったいどんな人なのですか。
イエス:そうか、あなたはその人に会いたいのか。その人は今あなたの目の前にいます。あなたと今、話しをしているのが、その人です。
元盲人:ああ、あなたでしたか。信じます。主よ。<彼はイエスの前にひざまずいた>
イエス:私がこの世に来たのはこの世を裁くためなのです。見えない者が見えるようになり、見えている者が見えなくなるためです。

語り手:元盲人と一緒にいたファリサイ派の人がこれを立ち聞きして、言いました。

ファリサイ派の人:何だって、まさか、お前は私たちを盲人だというのか。
イエス:そうだ。もしもあなた方が盲人であったなら、あなた方は罪を犯さないで済んだであろうが、あなた方は、自分たちは見える、と言うのであれば、あなた方の罪は続くのだ。

 <以上>

(a) ところが話はこれで終わらない。イエスはこの男が法廷から放免されたということを聞き、彼を探して訪ずれる。ここでのイエスと彼との会話は非常に重要なので、も少し原文に忠実に読み直す。原文ではこうなっている。イエスはこの男を捜し出し、最初に口にした言葉は「あなたは人の子を信じますか」である。いきなり、こういう言葉を初めて逢った人から言われたら、誰でも驚くであろう。その驚きの言葉が次の言葉である。「私がその人の子を信じるとして、ご主人、その人の子とは誰なのですか」。 このセリフは面白い。信じようとしても、あるいは信じたいと思っても、それが誰でどういう人なのか、まだ会ったことがない。生まれてから今まで「見える」という経験をしたことがない、前に立っている男がどういう男かもわからない。しかし彼の心の中では、あの時、あの場所で、声をかけてきた男を知っている。まだ、見たことはないが声は知っている。心の中で「あの人だ」と叫んでいたのかも知れない。その時その人は「あなたはその人の子に会ったのです」と言う。彼の心の中で「確かにあの人と会ったことがある」と思う。彼は続けて「あなたと話している者がその人の子です」という。これですべてのことがハッキリした。「人の子」とはあの人のことだ。それで彼は思わず、跪き、「信じます、主よ」と言って彼を拝んだ。ここでの会話が「人の子」をめぐって展開していることは注目しておくべきであろう。

(b) それで終われば「めでたし、めでたし」であるが、その時、イエスが一言付け加えた。いや、一言多いのがイエスである。「私がこの世に来たのはこの世を裁くためなのです。見えない者が見えるようになり、見えている者が見えなくなるためです」(Jh.9:39)と語る。そのことで黙っていないのがファリサイ派の人々である。彼らはイエスの言葉をその言葉を自分たちへの当てこすりだと感じたらしい。彼らは腹を立て、「何だって、まさか、お前を私たちは盲人だというのか」と言う。面白い。彼らは自分たちが見えていない、ということを自覚していたのだろうか。いやむしろ、見えていないということが見えていない。だから見えていないと言われたら怒る。怒って見えていると主張する。じゃ何が見えているというのかと聞かれたら、答えられない。みんなが見えている程度に見えている。逆に生まれながらの盲人にしたら、見えるようになって初めて見えていなかったということがわかる。これを整理したら、次の言葉になる。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(Jh.9:41)とイエスは語られた。ここに「罪」という概念が入ってきて事柄はハッキリする。ここでいう「罪」とは何らかの「犯罪」という意味ではない。見えていないのに、見えていないということを知らないということを意味しているだけである。イエスがこの世に来たということは、見えていないということを分からせるためである。それを「裁く」という言葉で言いあらわしている。

(c) 9章まで読んで10章に入ると、いきなり「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」で始まり「良き羊飼いの話」が始まるのはいかにも唐突である。また9章の終わりの部分におけるイエスのかなり激しいファリサイ派批判に対するファリサイ派の人々の反応がなく議論が中途半端で終わっている感じがする。それで、ここに10章19節以下を繋ぐと文章の流れがスムーズになる。そして改めて10章の始めに戻るとイエスの良き羊飼いの説教もスムーズである。松村はこのことについて「10章ではまた資料上の錯簡(乱丁)ということが問題となる。19~29節の部分は9章に続けて読むと連絡もよく、30節は18節に続けるとスムーズである」とだけ述べて、評価は避けている。
小林稔は「パピルスに書かれていた原稿が綴じられる前に、何らかの理由で順序が入れ替わったしまった、という仮説(錯簡説)に基づいて、順序を入れかえて読む試みがいくつかなされている。10章19節から29節までを9章の最後に移し18節と30節を直結すると文章がスムーズに流れる。しかし筆者は、パピルスが入れ替わったという可能性は大いにありうるとは思うものの、そのような仮説を採用すると、古代人とは少々考え方の異なる現代人の論理でテキストをいじくってしまう恐れがあるので、一応は今の順序で説明を試み、どうしても説明できないときに限って入れ替えてみることにしよう」(同、216頁)と述べている。

シーン4 ユダヤ人の間で対立 <10:19~29>

語り手:この話をめぐって、ユダヤ人たちの間でまた対立が生じました。

ユダヤ人A:彼は悪霊に取り憑かれて、狂っている。だのになぜ、あなたたちはあいつの言うことに耳を傾けるのか。
ユダヤ人B:悪霊に取り憑かれている人がああいう発言は出来ないでしょう。それに悪霊が盲人の目を開くなんていうことはにはあり得ない。

語り手:その頃、エルサレムでは「宮きよめの祭」、つまり「神殿奉献記念祭」が行われていました。冬でした。イエスが神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲み、言いました。

ユダヤ人たち:いつまで、私たちに気をもませるつもりなのか。もしあなたが本当にキリストなのかどうか、はっきり言ったらどうだ。
イエス:私はいつでもそう言っているでしょう。それなのに、あなた方がそれを信じようともしないだけじゃないですか。私の父の名において私が行っている行為そのもが私が誰なのかということを証明しているではありませんか。それなのに、あなた方はそれを認めようとしない。その理由は簡単です。あなた方が私の羊ではないからでしょう。私の羊は私の声を聞き分けることができます。私も私の羊を見分けることが出来ます。だから彼らは私についてきます。だから私は彼らに永遠の生命を与えますし、彼らを見失うこともないでしょう。また誰も彼らを私の手から奪うことは出来ません。私に彼らを与えて下さった父は誰よりも強く、だれも父の手から奪うことはできないからでです。

<以上>

イエスの発言を聞いても何も理解出来なかった人たちは、イエスを狂人扱いする。少なくともイエスのいう言葉を論理的に理解出来た人は、狂人の論理ではない、と言う。しかし引っかかっているのは、奇跡の可能性である。この疑問は、イエスという人物に対する疑問である。神殿奉献記念祭の時、とうとう彼らの疑問は爆発した。冬であった。
ユダヤ人たちはイエスを取り囲んで、「いつまで、私たちに気をもませるつもりなのか。もしあなたが本当にキリストなのかどうか、はっきり言ったらどうだ」と迫る。イエスは「私はいつでもそう言っているでしょう」(Jh.10:24)と言う。これに続く言葉がイエスのホンネである。分かりやすい。ここで出てくる「私の羊は私の声を聞き分けることができます」(Jh.10:27)という言葉が10章1節以下で語られるイエスの説教「良い羊飼い」を引き出す。

第2章 イエスの説教

シーン1 説教「良い羊飼い」<10:1~18,30>

イエス:私はこれから大切なことをお話しいたしますので、よく聞いてください。羊たちが飼われている中庭に門を通らないで、塀を乗り越えたりなどして侵入する人は盗人であり、強盗です。たとえ、その人の職業が羊飼いであっても、あなた方にとっては盗人です。門を通って、入ってくる人だけがあなた方の羊飼いです。門番は正規の羊飼いには門を開き、羊たちは彼の声を聞き分けます。羊飼いは自分の羊の名前を1匹づつ呼んで中庭の中から連れ出します。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って歩きます。羊はその声を知っているので、ついて行きます。しかし、ほかの者には決してついて行かず、かえって警戒して逃げます。その人の声を知らないからです。みなさん方もよくご承知の通りです。

語り手:イエスは分かりやすい実例を用いて話し始めましたが、聞いている人はそれが何を意味しているのか、ピンとこなかったようです。

イエス:別の角度から話しましょう。私が羊たちの門だとします。そうすると開門する前に来た人はすべて盗人であり、強盗です。だから羊たちはその人たちを無視します。私が門なんです。私を通って入る人が来れば、羊たちはうれしそうに、その人に近づき、門から入ったり出たりして美味しい牧草にありつくことが出来ます。盗人は盗み、殺し、滅ぼすために入って来ますが、私は羊たちが元気になり、よく育つために来たんです。
先ほどの実例に戻りますと、私は良い羊飼いなんです。良い羊飼いとは羊のために命を捨てる覚悟が出来ています。本当の羊飼いではなく、自分の羊を持っていない雇われた羊飼いは、狼が来たり何か身に危険が及びますと真っ先に逃げ出します。羊たちを置き去りにしたままです。その間に狼がやって来て、羊を襲い追い散らしてしまいます。その人は雇い人なので羊のことを心にかけていないからです。よくある話ですね。
私は良い羊飼いです。私は自分の羊たちを知っていますし、羊たちも私のことを知っています。それは父が私を知っており、私が父を知っているのと同じことです。私は羊たちのために命を捨てます。
私が身を挺してでも守らなければならない羊たちは、中庭の外にもいます。私はその羊たちも導かなければならないと思っていますし、願ってもいます。きっと、その羊たちも私の声を聞くでしょう。こうして中庭の羊たちも中庭の外の羊たちも同じ一つの群れになって、一人の羊飼いに導かれることになります。
私は私自身の生命を捧げます。だからこそ、父は私を愛してくださっているのです。それは私が再び生命を得るためなのです。誰も私の生命を私から取り上げることはできません。そうではなく私は自分の意志で私の生命を棒げるのです。私は自分でそれを棒げる権利を持っていますし、またそれを得る権利も持っています。私の父は私にこれを命じられたのです。私と父は一つです。

<以上>

(a) 説教は、当時の牧羊、羊飼いと羊との密接な関係を語る(1~5)。しかし聴衆はこの比喩(パロイミア)が理解出来なかったらしい(Jh.10:6)。ここで著者は「比喩」という言葉を用いているが、それは「譬え」(パラボレー)ではない。それで7節以下では、比喩を「羊と羊飼いとの関係」から「羊と羊の門」に切り換え、ハッキリと「私は羊の門である」と宣言して話を展開する(Jh.10:7~10)。
この門、ただの門ではない。むしろ「門番」みたいである。かと思うと、11節でこの門は羊飼いに再び早変わりする。やはり門では話が展開しないようで羊飼い、しかも「良い羊飼い」でなければならないようである。その理由は良い羊飼いと悪い羊飼い、無責任な雇い人とを対比するためであるらしい。そしてその比喩の結論として14節以下で、何故私は良い羊飼いなのかを語る。「私は自分の羊たちを知っていますし、羊たちも私のことを知っています。それは父が私を知っており、私が父を知っているのと同じことです。私は羊たちのために命を捨てます」(Jh.10:14)。
これは最早比喩でもなくリアルなこととして語る。この説教が公開の場で語るイエスの最後のメッセージである。

シーン2 説教、その後で <10:31~42>

語り手:ユダヤ人たちは、「私と父とは一つです」という言葉を聞いて、怒り、石を拾い、イエスを石打にしようとしました。
 
イエス:私は父の御心に従って多くの善いことしてきました。その中のどの行為のために、私を石打ちにして殺そうとしているのですか。
ユダヤ人:私はお前が行った善いことで石打しようとしているのではない。ただ一つ、お前が神を冒涜したからだ。お前は人間の分際で自分を神としているからだ。
イエス:そうか。わかった。じゃ聞くが、聖書に「わたしは言う。あなたたちは神々である」(Ps.82:6)というみ言葉が書かれているのを知っているでしょう。あなた方が後生大事にしている聖書の言葉ですよ。そこでは神の言葉を受けた人たちのことを「神々」と呼んでいますよね。その聖書のみ言葉は間違いなんですか。あるいは、何時の間に廃棄されたのですか。それなら、神が聖別してにこの世に遣わされた者を、「私は神の子だ」と言ったと言って「お前は神を冒涜している」などと言っていいのでしょうか。もし、私が父の御心をおこなっていないのであるなら、私を信じなくてもいいでしょう。しかし行っているのであれば、私を信じなくても、その行っていることを信じたらどうですか。そうすればあなた方は私のうちに父が、また私が父のうちにいるということがわかり、了解するでしょう。

語り手:そこでユダヤ人たちは再びイエスに石を投げつけようとしたが、イエスは彼らから逃れて、ヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた地方に行って、そこに滞在されました。そこに多くの人たちが来て、イエスに言いました。「ヨハネは何の奇跡もおこないませんでしたが、彼があなたのことについて話したことは、すべて本当でした」。そこでは、多くの人がイエスを信じました。

<以上>

(a) ユダヤ人たちはイエスの「私と父とは一つです」という言葉に鋭く反応した。この反応は彼らの神学から見えれば当然のことである。それは石打の刑に相当する。ここでのイエスの反論は頂けない。論理的にかなり無理がある。イエスは聖書から「わたしは言う。あなたたちは神々である」という言葉を引用している。これは詩82:6の言葉であるが、ここでは神から啓示を受けた人間を、つまり預言者たちを「神々」と呼んでいるではないか、という。そうだとすると、神によって派遣された私、神の命に従って行動しているに私が「神の子」だと言ってどこが悪いのかという。まさにユダヤ教のラビ的論理である。これはイエスの言葉と言うよりも著者ヨハネの論理であろう。この論理に従うとイエスが神の子だというレベルが預言者並みになってしまう。重要なことは、イエスのメッセージは「私を見よ」で、私の生き方を見れば、「私のうちに父が、また私が父のうちにいるということがわかる」という点である。

(b) これがイエスの公の場での活動の最後の締め括りである。「ヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた地方に行って、そこに滞在されました」。おそらく、ここがイエスの出発点であったと思われる。ここから出発して、ここに戻る。そして、そこで人々は洗礼者ヨハネのことを思い出す。「ヨハネは何の奇跡もおこないませんでしたが、彼があなたのことについて話したことは、すべて本当でした」。イエスの隠れ場所に人々が来たというのも不自然であるし、ここで多くの人がイエスを信じたというのも、何かありそうである。これで巻5は終わる。
 

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