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原本ヨハネ福音書研究巻4(下)

2016-02-08 11:46:53 | 聖研
原本ヨハネ福音書研究巻4(下)

巻4 生きた水

 (1) イエスの点と線 (7:1)
 (2) イエスの兄弟たちの提案(7:2~9)
 (3) 仮庵祭にて(7:10~13、25~36)
 (4) 祭の最終日に (7:37~52)
 (5) 討論1 イエスの自己証明 (8:12~20)
 (6) 討論2 上からか、下からか (8:21~30)
 (7) 討論3 イエスを信じる者 (8:31~59)
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<承前>

第6章 討論 (8:12~59)

祭が終わった後か、あるいは祭りの期間中か、ハッキリしないが、ともかくイエスは神殿内の賽銭箱の近くで説教をした。その説教をめぐってユダヤ人との討論が始まった。討論は3つの部分に分けられる。

討論1 イエスの自己証明をめぐって

<テキスト8:12~20>
イエス:私は世の光です。私に従う人は暗闇の中を歩くことがありません。何故なら彼自身の中に命の光を持っているからです。
ユダヤ人たち:あなたは自分自身で自分自身のことを証言している。そんな証言は当てにならないし、本当のことだとは信じられません。
イエス:どうぞご心配なく、たとえ私が自分自身のことを証言したとしても、それが本当のことだから本当なんです。なぜかというと、私は自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、知っているからです。しかし、あなた方は私がどこから来て、どこへ行くのか、知らないでしょう。あなた方は外見的な事柄で人を判断したり、裁いたりしますが、私はそのようなことで判断したり、裁いたりしません。しかし、もし私が誰かを裁くとすれば、私の裁きは真実です。なぜなら、私は一人ではなく、私をお遣わしになった方と一緒に判断しているからです。あなたたちの律法には、二人が行う証言は真実であると書いてあります。私は自分自身について証言をしていますが、その証言には私をお遣わしになった父も連帯保証人になってくれています。
ユダヤ人たち:あなたは「父」ということをよく言いますが、その父はいったいどこにいるのでしょう。
イエス:あなた方は、私も私の父もご存じない。もし私が何者かを知ったら、私の父もわかる筈です。

語り手:イエスはこれらのことを神殿の境内の宝物殿の近くで話されました。しかしその時誰もイエスを捕らえませんでした。イエスの時がまだ来ていなかったからです。

<以上>

(a) ここでのイエスの説教はかなり率直で言葉としては単純で、わかりやすい。要するに「私は世の光」だから、「私に従う人は暗闇の中を歩くことがない」とかなり断定的に語っている。わかりやすいだけにそれを見ていた民衆の反応も率直である。そんなに重要なことを自分で断定的に言ったって、信じられない。その根拠は何か。それを証言する証人はいるのか。この時のイエスの反論は面白い。「あなた方」、つまり一般の人間は自分がどこから来て、どこへ行くのか知らないでしょう、という。それはそうであろう。人間はどこから来てどこに行くのか知らない。それこそ哲学の大テーマである。ところはイエスは断定的に言う。つまり、あなた方はあなた方はどこから来て、どこに行くのか「知らない」ということに対して「私は自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、知っているからです」(Jh.8:14)と。だから私はあなた方とは違うという理屈である。それが「私」という人間の特殊性だという。じゃぁ、それを証明することが出来るのか。あるいは反論することが出来るのか。これはもはや共通の理解を求める対話を支える論理ではない。独断的な宣言である。

(b) それを根拠にイエスの主張はさらに発展する。あなた方が何かを判断する場合に、外見的な事柄で判断するが、私はそのような見方はしない。私の判断は「私は一人ではなく、私をお遣わしになった方と一緒に判断しているからです」という。つまりイエスは全てのことを神と共に判断している。神という「視点」から見ている。だから「私の裁きは真実です」と主張する。しかも、この種の議論では場違いな感じがしないでもない「あなたたちの律法」を持ち出す。律法に由れば二人の証言は真実だからだという。いかにも律法学者らしい議論である。ここでも、イエスは「私をお遣わしになった父も連帯保証人になってくれています」とまで言う。神を「私の父」と呼び、私の連帯保証人だという。私でも、いや誰でもこういう議論をする人が目の前に現れたら、笑い出すであろう。いや、笑う前にこの人は気が狂っていると思うに違いない。ユダヤ人たちは笑うのを堪えて、「あなたは「父」ということをよく言いますが、その父はいったいどこにいるのでしょう」と反論する。この反論には半分は皮肉が込められている。その反論に対してイエスの方も黙っていない。半分は上げ足どりのような感じで、「あなた方は、私も私の父もご存じない。もし私が何者かを知ったら、私の父もわかる筈です」と言う。この会話の中でこの言葉を読むと、揚げ足とりのように聞こえるが、これこそがイエスがここで語っているメッセージそのものであるが、人々はそれに気が付かない。

討論2 上からの者、下からの者

前回の討論とは異なる場面設定であろうが、再び議論している。前回の議論の中で「私はどこから来て、どこに行くのか知っている」ということがイエスの義論の根拠であったが、今回もそのことを踏まえての議論である。

<テキスト8:21~30>
イエス:やがて、私は死に、この世を去ります。私が死んだ後、私がどこに行ったのか必死になって捜すでしょうが、私が行く所にはあなた方は来ることはできません。あなた方はあなた方自身の罪のために、私が行く所には来れないのです。
ユダヤ人たち:この男は一体に何を言っているんかね。「私の行く所にあなた方は来れない」などと言ってるが、自殺でもするつもりなんかな。
イエス:分からんでしょうね。あなた方は下からの者ですからね。私は上からの者なんですよ。分かりやすく言うと、あなたがはこの世に属しているが、私はこの世には属していないのです。だから、あなた方は自分自身の罪のために死ぬことになると、私は言ったのです。「私はある(エゴー エイミ) 」ということを信じなければ、あなた方は自分の罪のうちに死ぬことになります。
ユダヤ人たち:えっ、何だって、あんたが言っていることがよくわからん。あんたは一体、何者なんだ。
イエス:そんなこと、どうしてあなた方に言わなければならないんですか。むしろ私の方からあなた方について言いたいこと、考えて貰わなきゃならないことがたくさんあります。しかし、それをいちいち取り上げるつもりはありません。私は、ただ、私をお遣わしになった方の真実、私はその方から聞いたことを世に向かって話すだけです。
 
語り手:ユダヤ人たちはイエスが父について話しておられることを悟らなかったのです。

イエス:あなた方は人の子が上げられたときに初めて、「私はある(エゴー エイミ)」という意味が分かるでしょう。そのときになって、私が、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるでしょう。私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださいます。私をひとりにしてはおられません。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからです。

語り手:この討議を通して、多くの人々がイエスを信じました。

<以上>

(a) イエスは公衆の前でいきなり自分の死が間近いであろうと宣言する。重い病人ならそういうこともあろうが、現在、元気で人々の前で堂々と演説している人がいきなり自分自身の「死の予告」をするというのは異常である。しかも「死後」、人々は「どこ行ったのか」と探すという。普通、死んだ人間が「どこへ行ったか」などと考えない。イエスは変なことを言う。「私が死んだ後、私がどこに行ったのか必死になって捜すでしょうが、私が行く所にはあなた方は来ることはできません。あなた方はあなた方自身の罪のために、私が行く所には来れないのです」(Jh.8:21)。確かに変な話である。だからこれを聞いたユダヤ人たちが「この男は一体に何を言っているんかね。『私の行く所にあなた方は来れない』などと言ってるが、自殺でもするつもりなんかな」(Jh.8:22)という発言は正常である。

(b) 実はこの議論は前にも一度出て来た議論である。イエスが仮庵祭の中頃、人々の前に姿を現したときにも同じような議論がなされた(Jh.7:32~36)。その時は「死後」ということがそれ程強調されなかったので、ギリシャ人の中のディアスポラのところにでも行ったのであろう、と話し合っていた。が、ここでは「死後」ということが明瞭であるので、議論の次元は全く異なる。人間は死後、どこに行くのか、という議論である。イエスはここで恐ろしいことを宣言する。「分からんでしょうね。あなた方は下からの者ですからね。私は上からの者なんですよ。分かりやすく言うと、あなたがはこの世に属しているが、私はこの世には属していないのです。だから、あなた方は自分自身の罪のために死ぬことになると、私は言ったのです。『私はある(エゴー エイミ) 』ということを信じなければ、あなた方は自分の罪のうちに死ぬことになります」Jh.8:23~24)。ここでイエスは自分と他の人たちとの根本的な違いを表明している。上からの者は死後、上に帰るが、下からの者、つまりこの世に属している者は、「自分自身の罪のために死ぬことになる」(Jh.8:24)。
ここでの議論には非常に重要なことが含まれている。つまり「上からの者」はここで死んでも上に帰るだけで永遠に死ぬことはない。しかし「下からの者」はイエスが何者であるかということを信じなければ、自分自身の責任によって死んだらそれでおしまい。完全な終わりを意味する。ここに「裁き」という分かれのポイントがある。
ここでの議論全体がイエスの口からこれを宣言させるために設定されている。ヨハネ福音書全体の流れにおいても、ここまでにこれ程明瞭に宣言されたことはない。

(c) ここに「私はある」という訳語の原文は「エゴー・エイミ」である。この表現はJh.8:28にも用いられており、ヨハネ福音書においては要になる重要な言葉なので少々説明しておく。口語訳では「わたしがそういう者である」と訳している。新共同訳では「『わたしがある』ということ」と訳している。岩波訳では「わたしが<それ>であること」という変な表現をしている。田川建三も「私だ」という訳し次のように説明している。「これは、『私は○○である」という文の○○を敢えて言わない、一種の絶対用法。文意からすれば、私は私そのものであって、○○という形容語、補語によって説明するのを拒絶する言い方である」(416頁)。ヨハネ福音書においては「イエスが何者であるか」という問いに対する最も重要な答えである。ところがここでの議論では「あんたは一体、何者なんだ」(Jh.1024)という群衆の質問に対して明白に答えていない。いや、答えているのであるが、それが答えとして受け止められていない。

(d) ここで突然イエスは、誰に向かって語っているのか、ほとんど独り言のようにポツンと語る。この言葉にほとんど誰も注意していないようであるが、実はこの言葉がその後の全教会の歴史において最も重要な言葉となる。「あなた方は人の子が上げられたときに初めて、「私はある(エゴー エイミ)」という意味が分かるでしょう。そのときになって、私が、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるでしょう」(Jh.8:28)。ここで述べられている「人の子が上げられたとき」とは単純に上に持ち上げるという意味であるが、ヨハネ福音書においては特殊な意味に用いられている。この語だけで「十字架の木の上に上げる」「磔にする」という意味に用いられたり、あるいは「天にあげられる」つまり「昇天するの」意味に用いられたりしている。イエスが「私が天から下ってきた生命のパンなのです」(Jh.6:50)と語ったとき、多くのイエスの共鳴者たちがその言葉に躓いてイエスから離れていった。その時、こんな程度のことで躓くのかとイエスは嘆き、「もし人の子が父の元に上って行くのをあなた方が見たら、どうします」(Jh.6:62)と言われた。この時も「上っていく」という言葉を使われている。同様にJh.12:32でも「人の子は地上から引き上げられ」とこの言葉が用いられているが、ここでは「どんな死に方をするのか」(Jh.12:34)というニュアンスが強い。
そしてその時に、「初めて、『私はある(エゴー エイミ)』という意味が分かる」という。これは弟子たちの実体験を示していると思われる。

討論 3 イエスを信じる者

<テキスト8:30~59>
語り手:イエスを信じるというユダヤ人たちとの対話が行われました。

イエス:私の言葉を信じ、それを持ち続けるならば、あなた方は本当の私の弟子となり、あなた方は真理を悟り、真理があなた方を自由にします。
ユダヤ人たち:私たちはアブラハムの子孫で、今まで誰かの奴隷になったことはありません。それなのに、どうして「あなた方を自由にします」などと仰られるでしょうか。
イエス:本当のことを言うと、罪を犯す人は誰でも罪の奴隷なのです。奴隷はどれほど長く家にいても決して家族にはなれません。しかし息子はいつでも家族の一員です。だから、もし息子があなた方を自由にすれば、あなた方は自由になれます。あなた方がアブラハムの子孫だということぐらいは、私も承知しています。だが、あなたたちは私を殺そうとしています。私は父のもとで見たことを話しているのに、私の言葉があなた方の中で生きていません。あなた方はあなた方の父が語っていることを行おうとしています。
ユダヤ人:私たちの父はアブラハムだ。
イエス:あなた方の父がアブラハムだと仰るなら、アブラハムがやっていたようにやればいいじゃないですか。しかし、あなた方はあなた方に真理を語っている者を殺そうとしています。私は私自身が神から聞いた真理を語っていますのに、私を殺そうとしています。アブラハムはこういうことを決してしませんでした。しかし確かにあなた方はあなた方の父がやっていることをしているのです。
ユダヤ人:私たちは正統なユダヤ人で、私たちの父は唯一人、神のみです。
イエス:もし神があなた方の父であるならば、あなた方は私を愛するはずです。なぜなら、私は神のもとから来て、ここにいるからです。私は自分勝手に来たのではなく、神が私をここにお遣わしになったのです。なぜ私が言っていることを分かってもらえないのだろうか。それはあなた方が私の言葉を聞こうとしないからです。はっきり言いましょう。あなた方の父は悪魔です。だからあなた方はあなた方の父が願っていることを実行したいと思っているのです。悪魔は最初から殺人者なので、真理をよりどころとしていません。悪魔の内には真理がないからです。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っているのです。自分自身が偽り者であり、偽り者たちの父だからです。しかし私が真理を語るので、あなた方は私を信じないのです。あなた方のうち、いったい誰が私に罪があると責めることができますか。私は本当のこと話しているのに、なぜ私を信じないのですか。神に属する人々は神の言葉を聞きます。あなた方が聞かないのは神に属していないからです。
ユダヤ人:これではっきりした。お前はサマリア人で、悪霊に取り憑かれている。このことがズバリ本当のことだ。
イエス:私は悪霊などに取り憑かれていません。自分の父を尊敬しているのにあなた方は私を敬わない。それはそれでいい。私は私の名誉など求めたいとは思っていません。私は名誉を求めたり、判定されることを願っていない。私を判定するのは私以外のお方の役割です。
ユダヤ人:もう決定的だ。お前は悪霊に取り憑かれている。お前は「私の言葉を守る者は永遠の生命を持つ」などと言う。お前は私たちの父アブラハムよりも偉いのか。アブラハムも死んだし、預言者たちもみんな死んだじゃないか。いったい、お前は自分を何様だと思っているんだ。
イエス:私が私自身の名誉を求めているのなら、私の名誉なんてむなしいものだ。私に名誉をを与えてくださるのは私の父である。ところが、あなた方は私の父を「我々の神だ」と言っています。あなた方はその方を知りませんが、私は知っています。もし私がその方を知らないと言えば、あなた方と同様、私も嘘つきになってしまいます。しかし私はその方を知り、その言葉を守っています。あなた方の父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていました。そして、それを見て、喜んだのです。
ユダヤ人:ははは、お前はまだ50才にもなっていないのに、どうしてアブラハムに会えたのか。
イエス:本当のことを言うと、私はアブラハムが生まれる前から「私はある(エゴー エイミ)」です。

語り手:イエスのこの言葉を聞いて、ユダヤ人たちはイエスに石を投げつけようとしたので、イエスは身を隠して神殿の境内から出て行かれました。

教会的編集者の挿入:8:51

<以上>

ここまでにもかなり多くの者が「イエスを信じる」と告白してきている。が、一体、その信仰とはホンモノであるのか。

(a) イエスを信じるとは
イエスは先ず、イエスを信じるという者に対して次の言葉を投げかける。「私の言葉を信じ、それを持ち続けるならば、あなた方は本当の私の弟子となり、あなた方は真理を悟り、真理があなた方を自由にします」。「自由である」ということこそがイエスの生き方であり、イエスの言葉を信じる者の在り様である。ところが、一部の者はこの言葉に躓いてしまった。私たちはイエスを信じたから自由になったのではなく、「アブラハムの子孫」だから、イエスを信じる前から自由で、奴隷になったことなどないと言い出しのである。この議論の背景にはアブラハムの本妻の子イサクとアブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルとの間の伝承がある(Gen.16:1~16、21:9~13)。パウロも正妻の子と奴隷の子という伝承を例えにして「自由」と「奴隷」とを対比させている(Gal.4:21~31)。その意味では「私たちはアブラハムの子孫で、今まで誰かの奴隷になったことはありません」(Jh.8:33)ということを誇りにしていたのであろう。だから、このイエスの言葉にカチンときたらしい。それなのに、どうして「あなた方を自由にします」などと言うのか。おそらくイエスは自分の言葉がこういう風に曲解されるとは予想していなかったであろう。

(b) 真の自由とは
イエスはこの問題を正面に据えて人間の本質課題としての罪の問題を語る。イエスは「罪を犯す人は誰でも罪の奴隷なのです」という。会話の内容のレベルがまるで違う。本当はここでユダヤ人たちはイエスの言う「奴隷と自由」との次元、自分たちが考えている「奴隷と自由」のと次元の違いに気が付かなければならないであろう。自分たちの「自由」にこだわって、「自分たちはアブラハムの子孫である」。だから自由であるということに固執する。それでイエスは議論のテーマを「アブラハムの子孫」ということを中心に語り始める。「よしわかった。あなたたちがアブラハムの子孫であることにそれ程こだわるのであるならば、アブラハムの子孫らしくせよ」。

(c) アブラハムの子孫とは
ここからの議論が少々ややこしくなる。しかし、あなた方はアブラハムの子孫らしくないことをしようとしているではないか。つまり「あなた方に真理を語っている者を殺そうとしています」と言う。意味は明らかだ。「真理を語っている者」、つまりイエスを殺そうとしている。ここに一つの混乱がある。今、イエスと話している相手は、少なくともイエスを信じているユダヤ人である。イエスを殺そうとしているユダヤ人は彼らではない。この混乱、イエスにとっては「イエスを信じると言う者」も、「イエスに反対している者」も本質において違わないと思っていることを示している。ところで「アブラハムはこういうことを決してしませんでした」のにあなた方はしようとしている。次の一句がポイント、「確かにあなた方はあなた方の父がやっていることをしている」が、その父というのはアブラハムとは言えない。ここでイエスは「父」という言葉の内容を問うている。あなた方の行動の規範になっている者はもはやアブラハムではない。

(d) 神を父と呼ぶ者
これを聞いて、ユダヤ人たちはますます頑固になり、アブラハムではないと言うなら、それをもう少し広げて「私たちは正統なユダヤ人で、私たちの父は唯一人、神のみです」(Jh.8:41)と言う。この言葉を聞いて、イエスは重要な発言をする。
「もし神があなた方の父であるならば、あなた方は私を愛するはずです」。この断定は凄い確信である。もう理屈ではない。その理由がさらに凄い。「なぜなら、私は神のもとから来て、ここにいるからです」。ここで展開しているイエスの論理には問題がある。つまり疑問がそのまま答え、つまり理由になっている。イエスのこの確信の根拠は「私は自分勝手に来たのではなく、神が私をここにお遣わしになったのです」。もうこうなったら、説明して、論証して相手を納得させるなどというレベルの話ではない。今度はイエスの方が疑問を出す。「なぜ私が言っていることを分かってもらえないのだろうか」。ここで論じているイエスの理屈は、こういうことである。そしてイエスは最終的に、「それはあなた方が私の言葉を聞こうとしないからです」と言う。つまりイエスの言っていることが分からない理由、イエスを信じられない理由は、聞こうとしない姿勢にあると言う。つまり、信じるか、信じないかは、その人の生き方の根拠による。何を根拠にして生きているかが、ここでは問われている。だから、イエスはここで恐ろしいことを言う。「はっきり言いましょう。あなた方の父は悪魔です」。ここで問われている「あなたがたの父」とは自分自身が立っている「場」、イエスはあなた方は「悪魔を父としている」と。「なぜ私を信じないのですか。神に属する人々は神の言葉を聞きます。あなた方が聞かないのは神に属していないからです」。議論がここに至るともう決別しかない。

(e) お前は悪魔に取り憑かれている
これを聞いたユダヤ人側もイエスに最大の侮辱的なことがを発する。「これではっきりした。お前はサマリア人で、悪霊に取り憑かれている。このことがズバリ本当のことだ」。 ここで言う「サマリア人」というのは当時の最大の差別語である。しかも、「悪魔に取り憑かれているサマリア人だ」。これで決定的な決裂である。イエスの最後の言葉には何かしら哀愁が漂っている。「私は悪霊などに取り憑かれていません。自分の父を尊敬しているのにあなた方は私を敬わない。それはそれでいい。私は私の名誉など求めたいとは思っていません。私は名誉を求めたり、判定されることを願っていない。私を判定するのは私以外のお方の役割です」。これを受けてユダヤ人からも決定的な決裂の言葉が発せられる。「もう決定的だ。お前は悪霊に取り憑かれている。お前は「私の言葉を守る者は永遠の生命を持つ」などと言う。お前は私たちの父アブラハムよりも偉いのか。アブラハムも死んだし、預言者たちもみんな死んだじゃないか。いったい、お前は自分を何様だと思っているんだ」。

(f) 決裂
もうこれ以上、生産的な対話は出来ない。ただ単なる言葉の投げ合いである。イエスは言う。「あなた方の父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていました。そして、それを見て、喜んだのです」。この言葉はここで言っても仕方がないことであるが、イエスは言ってしまった。その言葉を聞いてユダヤ人たちはますますいきり立ち、笑いだし、「ははは、お前はまだ50才にもなっていないのに、どうしてアブラハムに会えたのか」という。しかし、イエスはここでも冷静に真実を語る。「本当のことを言うと、私はアブラハムが生まれる前から「私はある(エゴー エイミ)」です」。この貴重な言葉も、この場では空しく消えていき、ユダヤ人たちはイエスに向かって石を投げつける。危うくイエスは石を避けて、その場を離れ、身を隠す。この対話を通じてイエスを信じると言っている者たちの「信仰の実態」が明らかになった。

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