ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

原本ヨハネ福音書研究巻4(上)

2016-02-08 11:36:35 | 聖研
原本ヨハネ福音書研究巻4(上)
巻4 生きた水

 (1) イエスの点と線 (7:1)
 (2) イエスの兄弟たちの提案(7:2~9)
 (3) 仮庵祭にて(7:10~13、25~36)
 (4) 祭の最終日に (7:37~52)
 (5) 討論1 イエスの自己証明 (8:12~20)
 (6) 討論2 上からか、下からか (8:21~30)
 (7) 討論3 イエスを信じる者 (8:31~59)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

巻4の場所は巻3後半と同じエルサレムではあるが季節は仮庵祭で、神殿においてイエスとユダヤ人たちとが「イエスはメシアか」ということをめぐって激しく議論される。巻4にはいわゆる奇跡物語はない。

第1章 イエスの点と線

<テキスト7:1>
語り手:パンの奇跡の後、ユダヤ人たちのイエスに対する敵意はますます激しくなりました。そのためイエスはできるだけ彼らとの接触を避け、ユダヤ地方には近づかず、主にガリラヤ地方で活動されました。
<以上>

ヨハネ福音書におけるイエスの時間経過と活動地とを整理しておく。

1. ヨルダン川の向こう側のベタニア(1:28)
 (a) イエスの登場
 (b) 最初の弟子たちのとの出会い

2. ガリラヤ
 (a) ガリラヤへ行こう(1:43)
 (b) カナでの婚礼(2:1~12)
 (c) 家族、弟子たちと共にカファルナウムに帰る(2:12)

3. エルサレムへの旅
 (a) 過越祭のためエルサレムへ(2:23)
 (b) 神殿の粛清(2:13~20)
 (c) ニコデモとの対話(3:1~)

4. ガリラヤへ帰る
 (a) ユダヤ地方アイノン (3:23)
 (b) シカル(サマリアの町 (4:5)
 (c) カナの近辺:役人の息子の癒し(4:46~54)
 (d) ガリラヤ湖畔パンの奇跡(6:3~13)
 (e) ガリラヤ湖水上歩行(6:18~21)
 (f) カファルナウムにて議論(6:24)

5. 2回目の過越の祭のためエルサレムへ(5:1)
 (a) ベトザタの池での癒し(5:1~9)
 (b) イエスはガリラヤ地方の巡回 (7:1)

6.イエスの兄弟たちと議論 (7:3)を経て、活動拠点をエルサレムおよびその周辺に移す。
 (a) 仮庵祭のためエルサレムへ (7:10)
 (b) 神殿の境内で説教 (7:28)
 (c) シロアムの池、盲人の癒し (9:1~12)
 (d) 神殿奉献祭、神殿の境内 (10:22)
7.ベタニア周辺
 (a) ヨルダン川の向こう側 (10:40)
 (b) ベタニア:ラザロの甦り(11:38~44)
 (c) 荒野に近い地方のエフライム (11:54)
 (d) ベタニアにて香油を注がれる (12:1)

8. エルサレムにて
 (a) エルサレム入城 (12:12)
 (b) ギリシャ人の来訪 (12:20)
 (c) キデロンの谷にて逮捕 (18:18)

第2章 ユダヤ人の祭(参照:富田正樹著『キリスト教資料集』(日本キリスト教団出版局)

ヨハネ福音書には次の3つの祭が出ている。
(1) 過越祭(ペサハ)ニサンの月 15〜21日(西暦では3~4月頃)
イスラエルのエジプト脱出(出エジプト)を記念する祭。出エジプト記12章に記されているように、小羊の肉と種なしパン(マッツア)を主とした食事をする。つまり、小羊の血を家の戸口に塗ることによって災いを免れた(過ぎ越した)ということを記念する。

(2) 仮庵祭(スコット)ティシュリの月 15〜21日(西暦では9~10月頃)
エジプト脱出後、荒野において天幕で40年間、暮らしたことを記念し、草ぶき小屋作ってそこで7日間ほど食事をする行事。祭がもっとも盛大に行われるのは最終日である。ディアスポラではこの祭は「律法の祭り」と複合して9日間になった。捕囚期後、イエスの時代には祭の期間中、毎日エルサレム神殿へ市内のシロアムの池から黄金の器で水を汲んで運び、朝晩2回行われる犠牲の際、供え物とともに祭壇に水を注ぐ行事が行われた。

(3) 神殿奉献記念祭(ハヌカ)キスレーヴの月 25日から1週間(西洋暦では11~12月
旧約聖書続編の「マカバイ記」に記録されているマカベア戦争(紀元前167年)でエルサレム神殿を奪回し、独立を果たしたことを記念する祭。この時神殿では一日分の灯油で8日間燃え続けたことに因み、神殿の燭台を燃やし続けることから「光の祭」とも言われる。

第3章 イエスの兄弟たちの提案

<テキスト7:2~9>
語り手:さて、ユダヤ人の仮庵の祭が近づいた頃、イエスの兄弟たちがやって来て、いろいろ忠告しました。

兄弟たち:いつまでユダヤ人たちを恐れてびくびくしているのです。祭の時には大勢の人たちが全国から集まりますから、ユダヤ人たちも下手に手を出すこともないでしょう。なにしろ、あなたは有名人で多くの人たちがあなたを慕っているのですから。こういうときにこそ、ユダヤの地に出かけあなたの素晴らしい力を弟子たちや他の人たちにも見せるチャンスです。大きな事をしようと思う人は地方でこそこそ行動していては駄目です。あなたのしている仕事を人々にしっかり見せることも重要な方策でしょう。
イエス:(彼らの親切そうな忠告に対して)私の時はまだ来ていませんが、あなた方には関係がないでしょう。あなた方はいつでも、どこでも、好きなように行ったらいいでしょう。あなた方と世間とは同類だから、あなた方を憎むこともありませんが、私は憎まれています。私の生活態度それ自体が世間に対する批判になっているからでしょう。もし、あなた方が望むなら、ぜひ祭に行ってらっしゃい。でも、私は今のところこの祭に行く気はしません。きっと、まだ私の時が来ていないからでしょう。

語り手:イエスの兄弟たちもイエスの本当の心を理解していなかったのです。彼らも他のユダヤ人たちと同じようにイエスの奇跡にだけ興味がありました。それでイエスは兄弟たちの忠告を無視してガリラヤにとどまられたでした。

<以上>

仮庵の祭が近づいていた頃、突然、イエスの兄弟たちが登場し、これまでと雰囲気が全然変わる。彼らはお互いに兄弟であることの親しさからかなり強烈にイエスに一つの提案をする。
「イエスの兄弟たちもイエスの本当の心を理解していなかったのです」と、語り手は解説している。しかし兄弟たちの提案は確かに考慮すべき点であろうと思う。しかしそれに対するイエスの反応は冷ややかである。例の「私の時はまだ来ていませんが、あなた方には関係がないでしょう」と返事する。カナの婚礼の時に母マリアに対して答えた場合と同じ返事である(Jh.2:4)。ただ、ここで注目すべき点は、兄弟たちの提案は単に仮庵祭に行けということではなく、活動の拠点をガリラヤ地方からユダヤ地方、つまりエルサレムに移せということであろうと思われる。田舎でいくら有名になっても影響力は知れている。やはり「大物」になるためにはエルサレムで勝負せよということであろう。勿論、イエスは名声を博し有名になることを望んでいるわけではないが、兄弟たちはそれを望んでいたのであろう。しかしイエスの行動を決めるのはイエス自身ではなく父(なる神)で、だからどんなにいい提案でもそれはイエスには関係はない。兄弟たちがどういう狙いでイエスにこの提案をしているのかハッキリしないが、語り手(つまり、著者)の解説によると兄弟たちはイエスの奇跡が見たかったのだという。しかし奇跡を見たいだけならガリラヤでだって見ることが出来る。むしろ奇跡を見るというより、イエスが奇跡を起こすことによって起こるハップニングを見たいのではないだろうか。

第4章 仮庵祭にて

イエスは仮庵祭に行くことを断ったが、兄弟たちと別れてからひっそりとエルサレムに向かう。おそらく、この間に神からの指示があったのであろう。神の作戦はイエスと兄弟たちとを分断する狙いがあったのかもしれない。

<テキスト7:7:10~13、25~36>
語り手:兄弟たちにはエルサレムに行くことを断りましたが、実は彼らが出かけた後、イエスは人目を避け隠れるようにしてエルサレムの祭に出かけました。予想通り、ユダヤ人たちは祭には必ずイエスは姿を現すものと思い、いろいろ手を回してイエスを探し回っていました。そんなん、こんなんで、かえってイエスの噂はますます膨らんでいきました。

群衆A:イエスはどこに行った。
群衆B:イエスは良い人だ。
群衆C:いや、あいつは人々をたぶらかすけしからん奴だ。

語り手:一般群衆の間ではイエスについての噂は二分していました。しかし人々はユダヤ人たちを恐れて、イエスについてあからさまに話す者はいませんでした。仮庵祭は7日間続きます。祭も既に半ばを過ぎた頃、突然イエスは神殿の境内で堂々と教え始められました。イエスが神殿の境内で話をするのは始めてことでした。それで驚いたのはユダヤ人たちです。しかしイエスがあまりにも堂々としているので誰もイエスに手を出すことが出来ませんでした。イエスが神殿の境内で話しをしているのを見て、エルサレムの人々は不思議に思いました。

群衆A:彼が、お偉方が殺そうと狙っているイエスなのか。あんなに堂々と話しているのにお偉方連中が何も言わないのはおかしいね。ひょっとすると、議員たちも本当はこの人がキリストだという秘密情報でも持っているのかね。また、情報隠蔽か。
群衆B:いや違う。俺たちは彼がどこの出身かを知っているし、彼についての秘密なんかないようだぜ。本物のキリストが現れるときは、その出身地や経歴などがわからんと言うじゃないか。

語り手:人々がいろいろと議論をしている中で、イエスは大声で自分自身のことを話されました。

イエス:皆さん方は私がどこの出身かとか、何をしてきたのかとか、私が話していることについてよくご存知の筈です。そうです。私には何も隠し事はありません。なぜなら私は自分勝手にここに来て、好き勝手なことをしているわけではないからです。私は遣わされてここに来たのです。私をお遣わしになった方は真実な方ですが、皆さん方その方のことをご存じないでしょう。しかし私はその方を知っています。私はその方から派遣されてここに来たからです。
群衆C:やっぱりこの男はおかしいよ。この男が話していることは、ちんぷんかんぷんで、俺たちは彼が何を言っているのかさっぱり分からん。

語り手:というような訳で、人々はイエスが逮捕されても仕方がないなぁ、と思っていましたが、実際にイエスに手をかける者は誰もいませんでした。 彼らがイエスを捕らえることが出来ない理由の一つ、それはイエスの時がまだ来ていないからで、理由もう一つ、群衆の中にはイエスを信じる者も大勢いたからだろうと思われます。イエスを支持していた人たちは「本当のキリストが来られても、この方よりも多くの奇跡を行うことは出来ないであろう」と考えていたようです。
他方、ファリサイ派の人々は群衆がイエスについて、いろいろささやき合っている言葉を聞いて、もうグズグズしておれないと思いました。祭司長たちとファリサイ派の上層部の人々もお互いに相談してイエスを捕らえるために下役たちを派遣しました。イエスは自分を逮捕しに来た下役たちに言いました。

イエス:私はまだ、しばらく捕まるわけにはいきません。まだ、し残していることがあります。それを済ませたら、私をお遣わしになった方のもとへ帰ります。そうしたら、あなた方は私を捜しても見つけることは出来ないでしょう。あなた方は私のいる所に来ることができないのです。

語り手:と、いう言葉を残して、イエスは姿を消してしまいました。イエスを取り逃がしてしまったユダヤ人たちは、イエスを何とか探し出そうとしましたが。どうしても見つかりません。

ユダヤ人たち:ちくしょう。イエスはいったいどこに行きやがったんだ。奴が隠れそうな場所はどこだ。
ユダヤ人たち: 国外に逃亡してギリシャ人の間の離散しているユダヤ人たちの所へでも行って、いい加減な説教でもしているのか。

語り手:ユダヤ人たちの間でイエスの隠れ場所についていろいろと議論が繰り返されましたが、見当もつきません。それにイエスが「あなたたちは、私を捜しても見つけることがない。私のいる所にあなたたちは来ることができない」 と言っていたことを思い出し、その言葉はどういう意味なのかなどと議論を繰り返していました。

7:15~24は巻3に移動

<以上>

ここではイエスを迎える仮庵祭の風景が描かれている。前回訪れた過越祭から仮庵祭までは約6ヶ月で、イエスの噂もかなり広まっているようである。人々はイエスを探すが見つからない。エルサレムにおいてはイエスの噂ばかりが先行し、イエスの顔は知られていなかったのかもしれない。評価は完全に2分している。

(a) イエスのうわさ話はあくまでも秘密のうちに広がっていく。今でいうとマスコミを通してではなく口から口へ、周囲を気遣ってのひそひそ話であったようだ。噂の内容は3つ。イエスは祭に来ているのかいないのか。イエスはいい人だ。イエスは危険人物だ。噂を流す人は確信的に語るが、その根拠は薄弱である。誰もその情報に責任を持っていない。
祭のなかば頃、身を潜めていたイエスが突然人々の前に姿を現し説教を始めた。まさにカミングアウトだ。この人があの噂の人物イエスか、と人々は思ったに違いない。ところが不思議なことにイエスを逮捕する者がいない。あれだけ官憲が要注意人物としてマークしていたのだから、すぐにでも逮捕されるかと思ったら、何も起こらない。しかしイエスは何者かということで議論が沸騰した。こうなるもますますイエスの神秘性は深まる。彼は一体何者なのだ。

(b) ここで7:15~24を飛ばして、14節から25節に直接繋ぐと文章の流れはスムーズになる。

(c) そこで疑いの目は官憲に向かう。彼らはイエスという人物の素性について何か知っているんじゃないだろうか。それを民衆には隠している。おそらく、その時代、いやその時代だけではないが、隠蔽していることが多い。ここで一部の民衆の間で、本物のキリストが現れたら、彼の生まれとか、家族とかというようなことは謎に包まれているはずだが、イエスについては私たちはかなりのことを知っている。だからイエスはメシアではない。
民衆の間での議論がピークに達したとき、イエスは立ち上がり、自分が何者であるかと語り始める。要点は「私は遣わされてここに来たのです。私をお遣わしになった方は真実な方ですが、皆さん方その方のことをご存じないでしょう。しかし私はその方を知っています。私はその方から派遣されてここに来たからです」(Jh.7:28~29)。どうやらイエスのこの演説もほとんどの人々には理解出来なかったようであるが、一部の人々は「私を遣わしになった方」が神を意味することを感じてイエスを不敬罪で告発しようとする。しかし具体的に行動に移す勇気のある者はいなかった。かなりの人々がイエスを支持していると思われたからである。著者はそれを「イエスの時がまだ来ていないから」と説明している。ここで面白い点はイエスの話を理解出来なかった人々がイエスを守るという働きをしているという点である。
こういう状況を見ていたファリサイ派の人々は危機感を感じ、イエス逮捕に向けて策動を始めた。イエスは自分を逮捕にしに来た役人たちに、今はまだ捕まるわけには行かないという言葉を残して行方をくらました。役人たちはイエスの隠れそうなところを探し回るが、見つからない。この場面(Jh.7:32~36)は、なかなか面白いが、この後しばらくして、問題になるのでそのことだけを記憶して置く。

第5章 祭の最終日に

仮庵祭の期間については7日間、8日間、9日間といろいろな説があるが、ここではよく分からない。いずれにせよ祭の最終日が最も盛大に祝われたのは7日目らしい。祭のなかば頃、一旦姿を現したイエスも、再び隠れ、最終日に再登場したのであろう。

<テキスト7:37~52>
語り手: 祭が最も盛大に祝われる最終日になってイエスは再び人々の前に姿を現し、大声で説教を始めました。

イエス:もし誰かが渇いているなら、私を信じる者は私のところに来て飲みなさい。
群衆A:この人は、本当にあの預言者だ。
群衆B:この人はキリストだ。
群衆C:キリストはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫だからダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてある、というではないか。

語り手:こうして、イエスのことで群衆の間に対立がますます激しくなりました。中にはイエスを捕らえようと思う者もいましたが、実際に手をかける者はいませんでした。
さて、そうこうしていると、祭司長たちが派遣した下役たちが戻って来ました。

祭司長:どうして、あの男を連れて来なかったのか。
下役たち:今まで、あの人のように堂々と力強く話をしている人を見たことがありません。私たちは彼の話に引き込まれて、手出しすることが出来ませんでした。
ユダヤ人たち:お前たちもあの男に騙されてしまったのか。まさか、議員やファリサイ派の中にも、あの男を信じている者がいないだろうな。律法を知らない連中には困ったものだ。この群衆は呪われている。
ニコデモ: 私たちの律法によれば、まず本人から事情を聞き、事実関係を明確にした上でなければ人を裁いてはならない、といわれているではないか。
ユダヤ人たち: あなたもガリラヤ出身なんですか。よく調べて見て下さい。今までにガリラヤからまともな人間が出たことがありますか。

語り手:このニコデモは以前ひそかにイエスを訪ねたことのあるあの人物です。彼のイエスを弁護するような言葉を聞き、ユダヤ人たちは自分たちの中からイエスを弁護する人間が現れたことに驚きました。しかしニコデモはこの激しい反撥の言葉を聞き、黙ってしまいました。

教会的編集者の挿入:7:38~39

<以上>

(a) 祭の最も盛大な最終日にイエスは人々の前に立って説教を始めた。説教の主旨は、「もし誰か渇いているなら、私を信じる者は私のところに来て飲みなさい」(Jh.7:37)ということであったらしい。しかしこれだけではイエスがどういう内容の説教をしたのかわからない。「渇いている」とか「飲む」という単語から推測すると「水」に関する説教であったと思われる。
仮庵祭というのはユダヤ人の先祖が出エジプトしたときの荒野での生活を追体験する祭である。荒野での生活においては、いかにして「水」を確保するのかということが重要な課題であった(Ex.17:1~6)。それでこの祭の期間中は毎日、エルサレム市内のシロアムの池から黄金の器で水を汲んで神殿に運び、朝夕2回行われる犠牲の際、供え物とともに祭壇に水を注ぐ行事が行われた。水は生命の象徴である。
ところが、原文では「生きた水」どころか「水」という言葉がない。この部分を直訳すると、「もし渇いているなら、私のところに来てそして飲め」である。ここには主語がない。この文章の主語は38節の冒頭にある「私を信じる者は」であると解釈できる。松村克己はこの「私を信じる者」を後ろの文章に繋ぐと、私を信じる者の腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」となってしまう。だから「私を信じる者」は前の文章に繋いで「誰でも渇わく者は、私のところにきて飲むがよい、わたしを信じる者は」としたらすっりするという。田川建三も「もし誰かが渇くなら、私のもとに来るがよい。そして私を信じる者は飲むがよい」と訳している。

(b) ともあれ、この日のイエスの説教についてはこれだけしかわらない。むしろイエスの説教を聞いた人々の反応が重要である。3分の2程度の人々はイエスをキリストもしくは「あの預言者」だと思ったらしい。しかし3分の1程度の人々はキリストはガリラヤから出るはずがなく、出身は「ダビデの村」と言われているベツレヘムであるという。ともかく議論好きのユダヤ人のこといろいろな意見が出てくる。ある者はそのような空疎な議論を無視してイエスを捕らえようとしたが、結局、それを実行するに至らなかった。祭司長たちがイエス逮捕のために派遣した下役たちも結局イエスに手を出すことが出来なかった。面白いことに、祭司長やファリサイ派の人々は手ぶらで帰ってきた下役たちに詰問した。これに対して下役たちは「イエスほどしっかりしたことを言う人物は他にはないであろう」と答える。イエスの説教はそれ程多くの人々に感銘を与えたようである。
イエスを支持する人々はだんだん増えてくる。このことにユダヤ人の指導者たちは非常に警戒している。ともかく権力者たちにとっては民衆が意識的になることを非常に恐れている。民衆がいつまでも無知で考えることしないことを願っている。その意味ではイエスのわかりやすい説教を恐れている。
ここの部分はかなり重要なので厳密に分析しておく。例によって原文に最も近い翻訳として田川訳のこの部分を取り出す。

37祭の最後の日に、大きな日であるが、イエスは立ち、叫んで言った、「もしも誰かが渇くなら、私のもとに来るがよい。そして私を信じる者は飲むがよい。
38聖書が言っているように。その腹から生きている水の川が流れ出るであろう」。
39これは、彼を信じる者が受けるであろう霊のことを言ったのである。というのも、イエスはまだ栄光化されていなかったから、霊もまだ存在しなかったのだ。

問題は38節と39節が原著者の言葉か教会的編集者の言葉か。田川建三は疑問の余地を残している。38節の冒頭の「聖書が言っているように」という言葉は先ず教会的編集者の言葉だと疑ってよい。「その腹から生きている水の川が流れ出る」という言葉は旧約聖書のどこを探しても見つからない。ともかくイエスの生涯の細々したことまで全てを「聖書が言っているように」(Jh.7:38)、「聖書の言葉は実現しなければならない」(Jh.13:12)とか「聖書が実現するため」(Jh.17:12,19:24,28,36,37)等は教会的編集者の言葉である。従って38節も教会的編集者の言葉であろう。
39節については「霊」についてのこのような理解は後の教会の教義学的発想である。つまり、38節と39節は基本的には教会的編集者による。そうすると、37節の「イエスは立ち、叫んで言った、「もしも誰かが渇くなら、私のもとに来るがよい。そして私を信じる者は飲むがよい」という言葉は40節の「それで群衆の中でこれらの言葉を聞いた者たちが言った、「この者は本当に預言者である」以下との間に何か「間が抜けて」いる感じがする。おそらくこの部分にこの時のイエスの説教に相当する言葉があったはずであるが、それが削除されてしまったと思われる。一旦削除された文章を回復することはほとんど不可能に近い。しかし、幸いに私たちはイエスによる「渇き」と水に関する別の伝承を持っている。それがサマリアの婦人との会話である。そこでイエスは、「この水は確かに由緒ある水だろうし、身体の乾きを癒してくれるだろう。でもね、この水が癒しくれる乾きっていうのは、飲んでもまた直ぐに乾くんですよ。でもね、私が飲ませてあげようっていう水は、泉から汲み上げるような水じゃなくて、その水を飲んだ人間の中からこんこんと湧き出てくる水で、一度飲めば、もう二度と乾くということがないんだよ」(Jh.4:13~14)と語られた。これをここに当てはめると、「私のところに来なさい。そして私を信じて、私が与える生命の水を飲みなさい。その水を飲んだ人は救われる」という説教をしたのではなかろうか。その説教を聞いて、この人はキリストかも知れないと思った者もいるし、それを否定する者も現れたであろう。

(c) キリストはダビデの村ベツレヘムから出るという伝説。ベツレヘムは、エルサレムの南側に隣接する町である。ダビデが王に即位して、それまで荒れ地同然であったエルサレムに城を築いたのは軍事上の拠点であると同時に自分の村に近かったという理由であろう。ガリラヤとは反対の方向であり、全く無関係であったことから、こういうことが議論されたのであろう。ガリラヤに住んでいたと思われるヨセフとマリアがわざわざベツレヘムまで旅をしてベツレヘムがイエス誕生の地となったのはそういう理由があった。
イエスの立場を守ろうとしてニコデモに対して人々が「お前もガリラヤ出身か」という言葉は、一種の差別用語のような者である。

注:7:53~8:11「ある朝の出来事」は後代の挿入なので別に扱う。

原本ヨハネ福音書 巻4(下)に続く

最新の画像もっと見る