あなたがこの世で送る人生は、あなた自身が自分の教育にとって必要とみて選んだのである。
仲間のアドバイスや援助はあっても、最終的には自分で選んだのである。
従って責任はすべて自分にある。
苦難に直面したり病気になったり大損害を被ったりした人は私にこんなことを言う。
「私はなぜこんな目に遭うのでしょうか。
私はまじめに生きて来たつもりです。
人を傷つけるようなことは何一つした覚えはありません。
なのに、なぜこんな苦しい目に遭わねばならないのでしょう」と。
実はその苦しみがあなたにとっての教育なのである。
溶鉱炉で焼かれる刀はそれを好まないかもしれない。
が、そうやって鍛えられてはじめて立派な刀となるのである。
苦しみ悩んではじめて霊的に成長し、苦難を乗り越えるだけの力が身につくのである。
不平を言う人とは対照的に、苦しみを神の試練と受けとめて感謝する人もいる。
苦難こそ自分を鍛えるのだと心得て、そうした試練を受けられるようになった自分をむしろ誇りに思うのである。
要するに地上生活は勉強なのだ。
人生が提供するさまざまな難問を処理していくその道程においてどれだけのものを身につけるか。
それがあなたの霊的成長の程度を決定づけるのであり、さらにどれだけ高度なものに適応できるかの尺度ともなるのである。
人間にはある限られた範囲内での自由意思が許されている。
が、この自由意思と宿命については、とんでもない説が行われている。
まず一方には東洋の神秘主義者が主張する徹底した宿命論がある。
人生はすでに〝書かれてしまっている〟―つまり人の一生はその一挙手一投足に至るまで宿命的に決まっており、どうあがこうと、なるようにしかならないのだと観念して、乞食同然の生活に甘んじる。
もう一方の極端な説は何ものをも信じない不可知論者の説で、何でも〝自分〟というものを優先させ、他人を顧みず、人を押しのけていく連中である。
物事の価値をすべて物質的にとらえ「これでいいんだよ、きみ」とうそぶく。
両者とも真理をとらえそこねている。
まず宿命について考えてみよう。
あなたは白人か黒人か、それともアジアの黄色人種であるかは知らないが、いずれにせよ、その現実は変えようにも変えられない。
両親の系統の遺伝的特質も少しずつ受けついでいる。
これもどうしようもない。
また、あなたはこの二十世紀に生を享けた。
できることなら十六世紀に、西洋のどこかの王室の子として生まれたかったと思うかも知れない。
が、それもどうしようもない。
そうした条件のもとであなたは今という一つの時期にこの世に生を享けている。
寿命の長さも定まっている。
どんな人生を送るか、その大よその型も定まっている。
また苦難の中身―病気をするとか、とんでもない女(男)と結婚するとか、金銭上のトラブル、孤独、薬物中毒、アルコール中毒、浮気―こうしたこともみな、あらかじめわかっている。
あなたがいよいよ母体に入って子宮内の受精卵に宿った時、それまでのスピリットとしての記憶がほぼ完全に拭い去られる。
ただし地上生活中のある時期にかならず霊的自我に目覚める瞬間というのがある。
これもわかっている。
そうした総合的な鋳型の中にあっても、なおあなたには自由意思がある。
宇宙は因果律という絶対的な自然法則によって支配されている。
従って自由意思はあっても、その因果律の支配からは逃れることはできない。
水仙の球根を植えれば春には水仙の花が咲く。
決してひまわりやチューリップは咲かない。
自分の指を刃物で切れば血が出る。
それもどうしようもない自然法則である。
科学も哲学も生命そのものも、この因果律という基本原理の上に成り立っている。
それが地上生活を支配するのである。
大切な行為にはかならず反応がある。
あなたの行為、態度、言葉、こうしたものはいわば池に投げ入れた石のようなもので、それ相当の波紋を生じる。
さきに私は地上に生まれるに際して霊的記憶が拭い消されると言ったが、実際はわずかながら潜在意識の中に残っているものである。
それが地上生活中のどこかで、ふと顔をのぞかせることがある。
その程度は人によって異るし、霊的進化の程度にもよる。
たとえばひどい痛みに苦しんでいるとする。
かりに骨関節炎だとしよう。
これが医学では不治とされている。
さんざん苦しんだ挙句に、ある心霊治療を知って奇蹟的に治った。
嬉しい。
涙が出る。
感謝の念が湧く。
実はその時こそあなたが真の自我に目覚めた時である。
この機に、その感謝とよろこびの気持でもって自分に奇蹟をもたらしてくれた力は一体何なのか、人間はどのように出来あがっているのか、信仰とは、幸福とは、といったことを一心に学べば、その時こそあなたにとって神の啓示の時なのである。
こうした体験はそうやたらにあるものではないが、もっとよくある例としては、仕事の上で右と左のどっちを取るかに迷っている時が考えられる。
道義的には右をとるべきだが、そうすると金銭上は大損をする。
左を取れば確実に儲かるが、それは人間として二度と立ち戻れない道義的大罪を犯すことになる。
といった場合もあろう。
神の啓示に耳を傾けるか否かの決定的瞬間がそこにある。
仲間のアドバイスや援助はあっても、最終的には自分で選んだのである。
従って責任はすべて自分にある。
苦難に直面したり病気になったり大損害を被ったりした人は私にこんなことを言う。
「私はなぜこんな目に遭うのでしょうか。
私はまじめに生きて来たつもりです。
人を傷つけるようなことは何一つした覚えはありません。
なのに、なぜこんな苦しい目に遭わねばならないのでしょう」と。
実はその苦しみがあなたにとっての教育なのである。
溶鉱炉で焼かれる刀はそれを好まないかもしれない。
が、そうやって鍛えられてはじめて立派な刀となるのである。
苦しみ悩んではじめて霊的に成長し、苦難を乗り越えるだけの力が身につくのである。
不平を言う人とは対照的に、苦しみを神の試練と受けとめて感謝する人もいる。
苦難こそ自分を鍛えるのだと心得て、そうした試練を受けられるようになった自分をむしろ誇りに思うのである。
要するに地上生活は勉強なのだ。
人生が提供するさまざまな難問を処理していくその道程においてどれだけのものを身につけるか。
それがあなたの霊的成長の程度を決定づけるのであり、さらにどれだけ高度なものに適応できるかの尺度ともなるのである。
人間にはある限られた範囲内での自由意思が許されている。
が、この自由意思と宿命については、とんでもない説が行われている。
まず一方には東洋の神秘主義者が主張する徹底した宿命論がある。
人生はすでに〝書かれてしまっている〟―つまり人の一生はその一挙手一投足に至るまで宿命的に決まっており、どうあがこうと、なるようにしかならないのだと観念して、乞食同然の生活に甘んじる。
もう一方の極端な説は何ものをも信じない不可知論者の説で、何でも〝自分〟というものを優先させ、他人を顧みず、人を押しのけていく連中である。
物事の価値をすべて物質的にとらえ「これでいいんだよ、きみ」とうそぶく。
両者とも真理をとらえそこねている。
まず宿命について考えてみよう。
あなたは白人か黒人か、それともアジアの黄色人種であるかは知らないが、いずれにせよ、その現実は変えようにも変えられない。
両親の系統の遺伝的特質も少しずつ受けついでいる。
これもどうしようもない。
また、あなたはこの二十世紀に生を享けた。
できることなら十六世紀に、西洋のどこかの王室の子として生まれたかったと思うかも知れない。
が、それもどうしようもない。
そうした条件のもとであなたは今という一つの時期にこの世に生を享けている。
寿命の長さも定まっている。
どんな人生を送るか、その大よその型も定まっている。
また苦難の中身―病気をするとか、とんでもない女(男)と結婚するとか、金銭上のトラブル、孤独、薬物中毒、アルコール中毒、浮気―こうしたこともみな、あらかじめわかっている。
あなたがいよいよ母体に入って子宮内の受精卵に宿った時、それまでのスピリットとしての記憶がほぼ完全に拭い去られる。
ただし地上生活中のある時期にかならず霊的自我に目覚める瞬間というのがある。
これもわかっている。
そうした総合的な鋳型の中にあっても、なおあなたには自由意思がある。
宇宙は因果律という絶対的な自然法則によって支配されている。
従って自由意思はあっても、その因果律の支配からは逃れることはできない。
水仙の球根を植えれば春には水仙の花が咲く。
決してひまわりやチューリップは咲かない。
自分の指を刃物で切れば血が出る。
それもどうしようもない自然法則である。
科学も哲学も生命そのものも、この因果律という基本原理の上に成り立っている。
それが地上生活を支配するのである。
大切な行為にはかならず反応がある。
あなたの行為、態度、言葉、こうしたものはいわば池に投げ入れた石のようなもので、それ相当の波紋を生じる。
さきに私は地上に生まれるに際して霊的記憶が拭い消されると言ったが、実際はわずかながら潜在意識の中に残っているものである。
それが地上生活中のどこかで、ふと顔をのぞかせることがある。
その程度は人によって異るし、霊的進化の程度にもよる。
たとえばひどい痛みに苦しんでいるとする。
かりに骨関節炎だとしよう。
これが医学では不治とされている。
さんざん苦しんだ挙句に、ある心霊治療を知って奇蹟的に治った。
嬉しい。
涙が出る。
感謝の念が湧く。
実はその時こそあなたが真の自我に目覚めた時である。
この機に、その感謝とよろこびの気持でもって自分に奇蹟をもたらしてくれた力は一体何なのか、人間はどのように出来あがっているのか、信仰とは、幸福とは、といったことを一心に学べば、その時こそあなたにとって神の啓示の時なのである。
こうした体験はそうやたらにあるものではないが、もっとよくある例としては、仕事の上で右と左のどっちを取るかに迷っている時が考えられる。
道義的には右をとるべきだが、そうすると金銭上は大損をする。
左を取れば確実に儲かるが、それは人間として二度と立ち戻れない道義的大罪を犯すことになる。
といった場合もあろう。
神の啓示に耳を傾けるか否かの決定的瞬間がそこにある。