日常的な例では、自分自身には厳寒の厳しさをもって律しても、他人には温かい寛容と忍耐心をもって臨む。
その選択の瞬間に神の啓示のチャンスがある。
因果律は絶対に変えられない。
歪げることも出来ない。
無視することも出来ない。
このことをしっかりと認識し、自分の道義心に照らして精いっぱい努力し、困難を神の試練と受け止め、ここぞという神の啓示の瞬間には、たとえ金銭上には得策でなくても、道義的に正しい道を選ぶことである。
生まれた土地、時代、遺伝的特質、人種―こうしたワク組の中で、あなたにも自由意思が与えられているのである。
この観点から言うと、リンカーンの例の有名なゲティスバーグ演説は間違っている。
全部は無用だから問題の箇所だけを引用しよう。
「八十七年前われらが建国の父たちは、自由の理念の中に育まれ人間はみな生まれながらにして平等であることを旗印とした新しき国家を、この大陸に建設したのである。」
政治理念としては極めて健全である。が前提が間違っている。
人間は生まれながらにしてみな平等ではないからだ。
霊的進化の程度において、われわれは一人一人みな違う。
見た目には似通っていても、一人は霊的意識も発達し思想的にも大人であるが、もう一人は動物的で未熟で霊的に子供であるという場合もある。
二人はそれぞれの程度に応じた勉強のためにこの世に来た。
一人はもうすぐ宇宙学校の大学課程へ進めるところまで来ているが、もう一人は地上という幼稚園でさえまだ手におえないだだっ子かも知れない。
二人は断じて生まれつき平等ではないのである。
また一人は五体満足で、もう一人は何らかの障害を生まれつき背負っていることだってある。
一方は音楽の天才で、他方は音痴ということもあり得る。
絵を画かせると一方は素晴らしいものを描くが、他方はまっすぐな線すら描けないかもしれない。
一方はオーケストラの一員になり、他方はオモチャのドラムもまともに叩けないかも知れない。
一人は霊的な仕事に携わり、他方は徹底した俗人として生きるかも知れない。
英国の歴史家フルードは「人間は生れつき不平等である。
従って、あたかも平等であるが如く扱おうとしても無駄である」とはっきり断言している。
その通りなのだ。
完全な平等など絶対あり得ない。
生まれついた環境が違い、遺伝因子が異なり、霊的進化の到達度に差がある。
多分リンカーンが平等だと言ったのは、権利の行使において平等の機会を持っているという意味で言ったのだろう。
だが、これとて現実とは違う。
生まれつき原始人的性格と才能しか恵まれていない人間と、知的にも霊的にも発達した人間とでは、おのずから携わる仕事は違ってくる。
一方は場で働くことになり、本人も別にイヤとも思わないかも知れない。
他方は地上体験の最後の仕上げのための奉仕の生涯を送り、一国の命運を左右するほどの神の啓示に浴するかもしれない。
二人のどこに平等があろうか。
人間は決して生まれつき平等ではない。
かつてもそうだったし、今でもそうである。
それを、無理してあくまで平等であるとの前提のもとに事を進めると、いわゆる悪平等となり、人類全体の程度を最低線まで下げることにもなりかねない。
人間は生まれつき平等ではない。
また機会も均等ではない。
となると、一体あとに残るものは何か。
すでに述べたように、われわれはこの地上に自分の意志による選択のもとにやって来た。
このことをしかと認識していただきたい。
一度だけではない。
すでに何度もこの世を経験している。
その目的は、その時その時の進化の程度に応じて最も適切と判断した環境に生を享けている。
そこで必要な体験を得るためである。
地上の人間には二つの大きなハンディキャップがある。
一つは無明または無知、要するに真理を悟れずにいることである。
この世に来るのはその悟りに向けて必要な体験を積むためである。
無明から解説するまではそのハンディキャップによる障害は避けられない。
もう一つは肉体的制約である。
頑健で元気いっぱいの身体を持って生まれる人もおれば、生まれつき虚弱児だったり、奇形児だったり、障害児だったりする。
肌色も違えば背丈も違う。
その身体をコンピューターのような素晴らしい頭脳が操る場合もあれば、精神薄弱児だったりする。
が、そうした様々な条件下において、自分は自分なりに最善を尽くすこと―霊的に、知的に、そして身体的に自分に具わったものを最大限に活用すること。
それが地上に生を享けたそもそもの目的であり、そこに地上生活の意義がある。
全ての人間は、その点においてのみ平等と言える。
なぜなら、それ以外に地上生活の目的も意義もないからだ。
その選択の瞬間に神の啓示のチャンスがある。
因果律は絶対に変えられない。
歪げることも出来ない。
無視することも出来ない。
このことをしっかりと認識し、自分の道義心に照らして精いっぱい努力し、困難を神の試練と受け止め、ここぞという神の啓示の瞬間には、たとえ金銭上には得策でなくても、道義的に正しい道を選ぶことである。
生まれた土地、時代、遺伝的特質、人種―こうしたワク組の中で、あなたにも自由意思が与えられているのである。
この観点から言うと、リンカーンの例の有名なゲティスバーグ演説は間違っている。
全部は無用だから問題の箇所だけを引用しよう。
「八十七年前われらが建国の父たちは、自由の理念の中に育まれ人間はみな生まれながらにして平等であることを旗印とした新しき国家を、この大陸に建設したのである。」
政治理念としては極めて健全である。が前提が間違っている。
人間は生まれながらにしてみな平等ではないからだ。
霊的進化の程度において、われわれは一人一人みな違う。
見た目には似通っていても、一人は霊的意識も発達し思想的にも大人であるが、もう一人は動物的で未熟で霊的に子供であるという場合もある。
二人はそれぞれの程度に応じた勉強のためにこの世に来た。
一人はもうすぐ宇宙学校の大学課程へ進めるところまで来ているが、もう一人は地上という幼稚園でさえまだ手におえないだだっ子かも知れない。
二人は断じて生まれつき平等ではないのである。
また一人は五体満足で、もう一人は何らかの障害を生まれつき背負っていることだってある。
一方は音楽の天才で、他方は音痴ということもあり得る。
絵を画かせると一方は素晴らしいものを描くが、他方はまっすぐな線すら描けないかもしれない。
一方はオーケストラの一員になり、他方はオモチャのドラムもまともに叩けないかも知れない。
一人は霊的な仕事に携わり、他方は徹底した俗人として生きるかも知れない。
英国の歴史家フルードは「人間は生れつき不平等である。
従って、あたかも平等であるが如く扱おうとしても無駄である」とはっきり断言している。
その通りなのだ。
完全な平等など絶対あり得ない。
生まれついた環境が違い、遺伝因子が異なり、霊的進化の到達度に差がある。
多分リンカーンが平等だと言ったのは、権利の行使において平等の機会を持っているという意味で言ったのだろう。
だが、これとて現実とは違う。
生まれつき原始人的性格と才能しか恵まれていない人間と、知的にも霊的にも発達した人間とでは、おのずから携わる仕事は違ってくる。
一方は場で働くことになり、本人も別にイヤとも思わないかも知れない。
他方は地上体験の最後の仕上げのための奉仕の生涯を送り、一国の命運を左右するほどの神の啓示に浴するかもしれない。
二人のどこに平等があろうか。
人間は決して生まれつき平等ではない。
かつてもそうだったし、今でもそうである。
それを、無理してあくまで平等であるとの前提のもとに事を進めると、いわゆる悪平等となり、人類全体の程度を最低線まで下げることにもなりかねない。
人間は生まれつき平等ではない。
また機会も均等ではない。
となると、一体あとに残るものは何か。
すでに述べたように、われわれはこの地上に自分の意志による選択のもとにやって来た。
このことをしかと認識していただきたい。
一度だけではない。
すでに何度もこの世を経験している。
その目的は、その時その時の進化の程度に応じて最も適切と判断した環境に生を享けている。
そこで必要な体験を得るためである。
地上の人間には二つの大きなハンディキャップがある。
一つは無明または無知、要するに真理を悟れずにいることである。
この世に来るのはその悟りに向けて必要な体験を積むためである。
無明から解説するまではそのハンディキャップによる障害は避けられない。
もう一つは肉体的制約である。
頑健で元気いっぱいの身体を持って生まれる人もおれば、生まれつき虚弱児だったり、奇形児だったり、障害児だったりする。
肌色も違えば背丈も違う。
その身体をコンピューターのような素晴らしい頭脳が操る場合もあれば、精神薄弱児だったりする。
が、そうした様々な条件下において、自分は自分なりに最善を尽くすこと―霊的に、知的に、そして身体的に自分に具わったものを最大限に活用すること。
それが地上に生を享けたそもそもの目的であり、そこに地上生活の意義がある。
全ての人間は、その点においてのみ平等と言える。
なぜなら、それ以外に地上生活の目的も意義もないからだ。