あなたの人生の長さ―寿命―は、あなたが地上へ再生する時点においてすでにわかっている。
教育と同じで、学校を選んだ時点で、その学校の入学と卒業の時期があらかじめ定まっている。
もしも寿命が来ないうちに切り上げたら、その分の埋めあわせにもう一度戻って来ないといけない。
教育のたとえで言えば、健康か何かの理由で長期欠席したとしよう。
学ばねばならないことがたくさん残っている。
そのままでは卒業させてもらえない。
そこで欠席した分だけ期間を改めて学校へ通わなければならない。
自殺するのに勇気はいらない。
自殺は実は臆病者の取る手段である。
挫けず生き通すことこそ勇気がいるのである。
しかも自殺は何の解決にもならない。
霊界へ戻ってみると、地上でやることにしていた仕事が残っていることを知る。
多分あなたが選んだコースは少しあなたには負担が大きすぎたのかも知れない。
が、それをあなたが自分で選んだのである。
選んだ以上、あくまでやり通すべきだった。
あなたはそれから逃避した。
そのままでは霊的進化は達成されない。
達成するには残してきた仕事をやり遂げねばならない。
といって肉体はすでに無い。
埋葬されて腐敗したかも知れないし焼却されたかも知れない。
あなたは指導霊と相談する。
その結果もうあと二、三年で必要な体験が得られると判断する。
そこでこんどは夭折(若くして亡くなる)する運命のコースを選ぶ。
これで死が罰でもなく、また全てを解決するものでもないことがおわかりであろう。
もう一つ次元の違う世界へ行くだけの話である。
学校を卒業して大人の世界へ入る。
その卒業式のようなもので、あなたもいずれは死という卒業式を迎えて、より大きな人生へと進まねばならない。
今の例でもわかるように、ほんの短い地上生活しか必要でないスピリットがいる。
それは、今の例のように完全に終了しなかった人生を完成するための場合もあれば、
すでにかなり霊的進化を達成し、地上での勉強をあまり必要としないケースもある。
特に高級霊が幼児のうちに他界するというケースが多い。
そういう運命を選んだ子供にあなたも会ったことがあるはずである。
幼いうちからしっかりしており、しかも美しさと上品さが輝いて見える。
だから、幼い子供を失った親は決して悲しむことはない。
そういう子は純粋さ故に、大人が大人であるが故に持つ数々の不純さを避けていると思われるふしもある。
事実、死後地上と交信する上で子供の方が大人より有利なのである。
その子の死を悲しみ嘆くことは、その子にとってもあなた自身にとっても、何の益にもならない。
涙を拭って自分にこう言って聞かせることだ―わが子はいつも身近にいてくれている、と。
きっとあなたの来るのを待っているはずである。
『ピーターパン』の著者ジェームズ・バリーが「死ぬということは素晴らしい冒険である」と述べているが、まさにその通りだ。
どんな楽しいことが待っているかわからないからである。
妊娠中の母親はいろいろと考える。
必ずしも食べ物のことばかりではない。
もっとも、食べることに関しては異常になるようだ。
私の妻などは真夜中に起きてフライを山ほど揚げる。
そしてイザ食べる段階になって気分が悪くなり、せっかく揚げたものを全部捨ててしまうといったことを何回かやった。
お腹に子供がいると母親はその子に夢を託し、いろいろと将来を思う。
が予定日が近づくと考えが変わってくる。
男の子でもいい。
女の子でもいい。
目は青でも茶色でもいい。
背は高くても低くてもいい。
色は白くても黒くてもいい。
どうか五体満足の子であってほしいと思うようになるものだ。
その願いが必ずしも叶えられるとは限らないようだ。
不具の子(障害をもった子)が生まれることが現実にあるからだ。
この事実をどう受け止めるべきか。
親はまず罪の意識にとらわれる。
何がいけなかっただろうか。
自分たち親に何か欠陥があるのだろうか。
こうした意識を生涯抱き続けている親がいる。
そしてその生涯は聞くも涙の物語となる。
悔恨と過剰な罪の意識がそうさせるのである。
生命の誕生は実に驚異と言うべき現象である。
私がそれを〝驚異〟という時、私の心にあるのは,よくも五体満足で次々と生まれてくるものだという感慨である。
が中に五体満足でない子供がいる。
次に紹介するのはその不幸な例である。
数年前、知人の家に女の子が生まれた。
二人目の子である。
最初は男の子で、頑健そのものだった。
女の子も五体は満足で、青い目のブロンドだったが、脳に欠陥があった。
出産の途中でほんのわずかな時間だったが酸素が不足し、それが原因で脳細胞の一部が死んだのである。
どうも反応の仕方がおかしいと気づいた親は小児科へ連れていった。
小児科医は徹底した診察と検査を行い、さらに脳の専門家の意見も聞いた上で次のような気の毒な診断を下した。
この子は身体的には正常に成育するが知能的にはこれ以上発達せず、恐らく植物人間としての生涯を余儀なくされるであろうと。
親にとってこれほど惨(むご)い話があるだろうか。
その夫婦はその子を連れて私のところへ来た。
さっそく霊的な診察に入ったが、とたんに私は「この子を大事にしなさい」と口走った。
無意識のうちに出た言葉だったが、私には指導霊が言わせたものであることは分っていた。
続けて私はこう言った。
「この子に愛情を注ぎなさい。
存分に注いでやりなさい。
心霊治療も定期的に受けさせてやって下さい。
どの程度よくなるかは今の段階では言えませんが、知能を持った子になります。
大切に、愛情をもって育てなさい」その子は名前をサラという。
今では六歳になった。
障害児施設に通っているが、愉快で愛らしい子である。
その後もう一人の健康な男児を出産した母親は、三人のうちでサラがいちばん愛情を覚えるようですと語った。
母と娘の間に普通以上の縁が出来あがっているのである。
おそらくサラはまともな成人にはなれないであろう。
が、サラはサラなりに一個の立派な人格の持主なのだ。
もっとも、ここまで来るまでには、その子が深刻な悩みのタネとなった時期があった。
サラが四歳を迎えるころには母親は心身ともに疲労の極にあった。
痛々しいほど痩せ細り、、食事がまともにノドを通らない。
確実に病身になりつつあった。
医者の診断ではどこにも異常はなかった。
ありとあらゆるテストと検査をしてもらったが、すべてマイナスの反応だった。
が、ついに入院のやむなきに至った。
その段階で初めて私はご主人から奥さんの窮状を知らされた。
依頼を受けて私はすぐさま病院へかけつけた。
見ると痛々しいほど痩せて、気味悪ささえ感じるほどほどだった。
まだ三十代であったが、見た目にはまさしく老婆だった。
が私の心霊治療を受けてから急速に快方に向かい一週間後には退院し、一か月後にはすっかり元気で明るくなり、食事も進み、体重も増えてきた。
ここにもう一つの人生がある。
まだその全ては分らない。
これからどうなるか分らない。
が、そういう子にも、その子なりの人生があるのだ。
意義ある人生が。
不具の子、障害を持った子にも例外なく完全なる霊が宿っている。
ただ、宿った身体が不完全だったにすぎない。
その子は、そういう不完全な身体に宿った人生を自ら選んだのである。
自らこしらえた牢獄といえるかも知れない。
そういう人生でないと得られない教訓があるのだ。
またその両親を始めとして兄弟、姉妹、その他その子と縁のある人々にとっては、そういう子との接触が必要だったのかもしれない。
あるいは、高級霊がさらにいっそうの進化のために敢えて障害者としての人生という過酷な試練の道を選んだのかもしれない。
いずれにせよ、すべてに目的がある。
時としてそれがわれわれ人間には分らないことがある。
が、それでも全ての人生にそれなりの意義があるのだ。
教育と同じで、学校を選んだ時点で、その学校の入学と卒業の時期があらかじめ定まっている。
もしも寿命が来ないうちに切り上げたら、その分の埋めあわせにもう一度戻って来ないといけない。
教育のたとえで言えば、健康か何かの理由で長期欠席したとしよう。
学ばねばならないことがたくさん残っている。
そのままでは卒業させてもらえない。
そこで欠席した分だけ期間を改めて学校へ通わなければならない。
自殺するのに勇気はいらない。
自殺は実は臆病者の取る手段である。
挫けず生き通すことこそ勇気がいるのである。
しかも自殺は何の解決にもならない。
霊界へ戻ってみると、地上でやることにしていた仕事が残っていることを知る。
多分あなたが選んだコースは少しあなたには負担が大きすぎたのかも知れない。
が、それをあなたが自分で選んだのである。
選んだ以上、あくまでやり通すべきだった。
あなたはそれから逃避した。
そのままでは霊的進化は達成されない。
達成するには残してきた仕事をやり遂げねばならない。
といって肉体はすでに無い。
埋葬されて腐敗したかも知れないし焼却されたかも知れない。
あなたは指導霊と相談する。
その結果もうあと二、三年で必要な体験が得られると判断する。
そこでこんどは夭折(若くして亡くなる)する運命のコースを選ぶ。
これで死が罰でもなく、また全てを解決するものでもないことがおわかりであろう。
もう一つ次元の違う世界へ行くだけの話である。
学校を卒業して大人の世界へ入る。
その卒業式のようなもので、あなたもいずれは死という卒業式を迎えて、より大きな人生へと進まねばならない。
今の例でもわかるように、ほんの短い地上生活しか必要でないスピリットがいる。
それは、今の例のように完全に終了しなかった人生を完成するための場合もあれば、
すでにかなり霊的進化を達成し、地上での勉強をあまり必要としないケースもある。
特に高級霊が幼児のうちに他界するというケースが多い。
そういう運命を選んだ子供にあなたも会ったことがあるはずである。
幼いうちからしっかりしており、しかも美しさと上品さが輝いて見える。
だから、幼い子供を失った親は決して悲しむことはない。
そういう子は純粋さ故に、大人が大人であるが故に持つ数々の不純さを避けていると思われるふしもある。
事実、死後地上と交信する上で子供の方が大人より有利なのである。
その子の死を悲しみ嘆くことは、その子にとってもあなた自身にとっても、何の益にもならない。
涙を拭って自分にこう言って聞かせることだ―わが子はいつも身近にいてくれている、と。
きっとあなたの来るのを待っているはずである。
『ピーターパン』の著者ジェームズ・バリーが「死ぬということは素晴らしい冒険である」と述べているが、まさにその通りだ。
どんな楽しいことが待っているかわからないからである。
妊娠中の母親はいろいろと考える。
必ずしも食べ物のことばかりではない。
もっとも、食べることに関しては異常になるようだ。
私の妻などは真夜中に起きてフライを山ほど揚げる。
そしてイザ食べる段階になって気分が悪くなり、せっかく揚げたものを全部捨ててしまうといったことを何回かやった。
お腹に子供がいると母親はその子に夢を託し、いろいろと将来を思う。
が予定日が近づくと考えが変わってくる。
男の子でもいい。
女の子でもいい。
目は青でも茶色でもいい。
背は高くても低くてもいい。
色は白くても黒くてもいい。
どうか五体満足の子であってほしいと思うようになるものだ。
その願いが必ずしも叶えられるとは限らないようだ。
不具の子(障害をもった子)が生まれることが現実にあるからだ。
この事実をどう受け止めるべきか。
親はまず罪の意識にとらわれる。
何がいけなかっただろうか。
自分たち親に何か欠陥があるのだろうか。
こうした意識を生涯抱き続けている親がいる。
そしてその生涯は聞くも涙の物語となる。
悔恨と過剰な罪の意識がそうさせるのである。
生命の誕生は実に驚異と言うべき現象である。
私がそれを〝驚異〟という時、私の心にあるのは,よくも五体満足で次々と生まれてくるものだという感慨である。
が中に五体満足でない子供がいる。
次に紹介するのはその不幸な例である。
数年前、知人の家に女の子が生まれた。
二人目の子である。
最初は男の子で、頑健そのものだった。
女の子も五体は満足で、青い目のブロンドだったが、脳に欠陥があった。
出産の途中でほんのわずかな時間だったが酸素が不足し、それが原因で脳細胞の一部が死んだのである。
どうも反応の仕方がおかしいと気づいた親は小児科へ連れていった。
小児科医は徹底した診察と検査を行い、さらに脳の専門家の意見も聞いた上で次のような気の毒な診断を下した。
この子は身体的には正常に成育するが知能的にはこれ以上発達せず、恐らく植物人間としての生涯を余儀なくされるであろうと。
親にとってこれほど惨(むご)い話があるだろうか。
その夫婦はその子を連れて私のところへ来た。
さっそく霊的な診察に入ったが、とたんに私は「この子を大事にしなさい」と口走った。
無意識のうちに出た言葉だったが、私には指導霊が言わせたものであることは分っていた。
続けて私はこう言った。
「この子に愛情を注ぎなさい。
存分に注いでやりなさい。
心霊治療も定期的に受けさせてやって下さい。
どの程度よくなるかは今の段階では言えませんが、知能を持った子になります。
大切に、愛情をもって育てなさい」その子は名前をサラという。
今では六歳になった。
障害児施設に通っているが、愉快で愛らしい子である。
その後もう一人の健康な男児を出産した母親は、三人のうちでサラがいちばん愛情を覚えるようですと語った。
母と娘の間に普通以上の縁が出来あがっているのである。
おそらくサラはまともな成人にはなれないであろう。
が、サラはサラなりに一個の立派な人格の持主なのだ。
もっとも、ここまで来るまでには、その子が深刻な悩みのタネとなった時期があった。
サラが四歳を迎えるころには母親は心身ともに疲労の極にあった。
痛々しいほど痩せ細り、、食事がまともにノドを通らない。
確実に病身になりつつあった。
医者の診断ではどこにも異常はなかった。
ありとあらゆるテストと検査をしてもらったが、すべてマイナスの反応だった。
が、ついに入院のやむなきに至った。
その段階で初めて私はご主人から奥さんの窮状を知らされた。
依頼を受けて私はすぐさま病院へかけつけた。
見ると痛々しいほど痩せて、気味悪ささえ感じるほどほどだった。
まだ三十代であったが、見た目にはまさしく老婆だった。
が私の心霊治療を受けてから急速に快方に向かい一週間後には退院し、一か月後にはすっかり元気で明るくなり、食事も進み、体重も増えてきた。
ここにもう一つの人生がある。
まだその全ては分らない。
これからどうなるか分らない。
が、そういう子にも、その子なりの人生があるのだ。
意義ある人生が。
不具の子、障害を持った子にも例外なく完全なる霊が宿っている。
ただ、宿った身体が不完全だったにすぎない。
その子は、そういう不完全な身体に宿った人生を自ら選んだのである。
自らこしらえた牢獄といえるかも知れない。
そういう人生でないと得られない教訓があるのだ。
またその両親を始めとして兄弟、姉妹、その他その子と縁のある人々にとっては、そういう子との接触が必要だったのかもしれない。
あるいは、高級霊がさらにいっそうの進化のために敢えて障害者としての人生という過酷な試練の道を選んだのかもしれない。
いずれにせよ、すべてに目的がある。
時としてそれがわれわれ人間には分らないことがある。
が、それでも全ての人生にそれなりの意義があるのだ。