遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』  今野敏   幻冬舎

2024-07-04 11:07:27 | 今野敏
 警視庁強行犯係・樋口顕シリーズの第8弾。これも愛読シリーズの1つ。「小説幻冬」(VOL.68~79)に連載された後、加筆、修正され、2023年8月に単行本が刊行された。
 
 このストーリー、氏家譲警部が現在関わっている事件のことについて、樋口が氏家と話をする場面から始まる。氏家は捜査第二課選挙係から、少年事件課・少年事件第九係の係長に異動したばかりである。氏家は少年係の経験が長かったので適任ともいえる。話題になったのは、未成年者略取誘拐の事案だった。この導入部を読み、未成年者略取誘拐事件とはどういうものか、初めて知った次第。これは親告罪とのことで、当事者双方が事件性を否定していても、未成年者の両親が訴えると言えば、法に則った処理をすることになるそうだ。
 さて、この氏家と樋口の会話が、後の殺人事件への伏線になる。樋口の発案で氏家は殺人事件の捜査に加わることになる。

 樋口が氏家の話を聞いてから3日後に事件が発生。天童管理官から樋口班に指示が出る。殺人事件現場は西多摩郡奥多摩町丹三郎。近所の住人で犬と散歩中の高齢者が発見し110番通報。現場は、ホテルなどで使われる業務用シーツに素裸の未成年の少女をくるんで、ここまで来て、車を停めて、放り出していくような感じで遺体を遺棄して行った様子だった。
 初動捜査で車の目撃者が現れ、黒っぽいハッチバッグの車が使われていたことがわかる。だがそこからの追跡調査が難航する。
 遺体の写真を見た渋谷署・少年係の梶田邦雄巡査部長から連絡があった。被害者は梅沢加奈、17歳、高校2年生と思われると。ネット通販などをてがけているファッション系のIT企業「ペイポリ」と連携し、女子高校生だけで運営される「ポム」と称する企画集団があり、梅沢加奈はその企画集団の一員だった。梶田はその企画集団が売春グループの隠れ蓑に使われているという疑いを抱き、ペアの中井塁巡査長と二人だけで内偵を進めていたのだ。現状では伝聞程度の証拠しかなく、西城係長は確証がなければ乗り気ではない状況という。
 樋口と氏家は、梶田の話を聞き、株式会社ペイポリの担当者を訪ねて、梅沢加奈と推定される被害者について、聞き込み捜査をする糸口を見出した。梶田を加えて身元捜査を実行する。ここから身元捜査の輪が少しずつ広がっていく。

 *西田加奈の身元捜査と事件当時の行動確認の追跡捜査
 *ペイポリとポムの関係はファッション関連での企画というビジネス上の連携だけなのか。ブラックな側面が潜むのか。
 *ポムという企画集団は売春グループの隠れ簔なのか。
 *ポムのリーダーが売春グループのリーダーなのか。
 *ポムのメンバーの一部が売春に関わり、梅沢加奈はその一人ということか。
 *黒っぽいハッチバックについての追跡捜査:聞き込み捜査と道路走行記録画像の捜査
 *業務用シーツの取扱会社の究明とそこから使用が推定されるホテルの究明捜査
など、様々な観点からの捜査が遂行されていく。青梅署に捜査本部が立ち、樋口は天童管理官を介して、渋谷署に待機できる場所を拠点として確保した。梶田と彼のペアの中井を樋口の捜査に専従として参加させる根回しも行った。

 殺人事件の捜査本部が立った中で、殺人犯人をストレートに追跡捜査する本流の動き。そこに売春グループの存在という観点から犯人を追跡する樋口班と協力者たち。天童管理官や捜査本部トップの了解のもとでの捜査活動とはいえ、捜査本部内のダイナミズムが軋轢を生み出す。樋口らの行動を白眼視する輩が出てくるのだ。そういう側面もまたリアルに織り込まれて行くところが興味深い。捜査とは何か。
 捜査方針とは何か。命令を受けた事項に取り組み刑事たちの思いはさまざま。そんなことを考えさせられることになる。
 捜査のプロセスで、何事にも慎重な樋口がある意味でトラップに陥りかける局面も織り込まれていて、おもしろい。

 この樋口顕シリーズでいつもおもしろいと思う所は、樋口が内心で思っている自己像と上司を含む周囲の刑事達が捕らえている樋口像との間にギャップがある点だ。この認識ギャップが事件の推進力になっていく側面もあっておもしろい。
 また、樋口には照美という一人娘が居る。娘が中学・高校の頃にはほとんど話をした事が無いという樋口自身の過去の思いが常に、未成年の少女たちの行動を考える上で、樋口の原点となる。娘と己の人間関係や心理を事件捜査の局面で幾度も内省的に振り返り、取り組んでいる事件について考えるという行為を繰り返す。その思考が捜査視点を顧みる推進力となっていく点がおもしろい。

 このストーリーの根っ子にあるのは、実に地道な捜査の積み上げである。奇をてらうことなく、着実に事実を積み上げて、樋口は思考と推理を重ねて行く。今回も。樋口のキャラクターを十分に楽しめる。読ませどころは、捜査方法の王道を踏むところにある。

 サイド・ストーリーとして、娘のリクエストに応えて、捜査の合間に時間を取る局面を織り込んでいく。秋葉議員と会って、女性の貧困というテーマで刑事の体験と意見を語ることを承諾する。これがちょっとおもしろいインターバルとなり、また取り扱っている事件を別の視点から眺める側面を樋口自身に生み出していく。
 樋口と娘の照美との数少ない会話は、樋口の家庭人としての側面を、読者が垣間見る機会となり1つの楽しみともなる。

 このストーリーの最後のシーンに樋口の真骨頂が現れている。梶田と樋口の会話である。一部抜き出しておこう。
 「どうしたら、樋口さんのようになれるでしょう」
 「俺のようになど、なっちゃだめだ」
 「いえ、自分は目指したいです」
 「ならば」「普通にしていることだ」
 「普通・・・・・?」
 「そう。普通の人が迷い、悩み、悲しみ、そして、感動し、笑うように・・・・。そんな
  警察官でいるのは、意外と難しい」
梶田はこのやり取りで、釈然としない顔をしているところで終わるのだ。おもしろい!

 樋口警部の立ち位置を楽しめるのがこのシリーズの醍醐味とも言える。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『天を測る』       講談社
『署長シンドローム』   講談社
『白夜街道』       文春文庫
『トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』   徳間書店
『審議官 隠蔽捜査9.5』   新潮社
『マル暴 ディーヴァ』   実業之日本社
『秋麗 東京湾臨海署安積班』   角川春樹事務所
『探花 隠蔽捜査9』  新潮社
「遊心逍遙記」に掲載した<今野敏>作品の読後印象記一覧 最終版
                      2022年12月現在 97冊
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『童の神』  今村翔吾  ハルキ文庫

2024-06-26 23:21:25 | 今村翔吾
 本書は第10回角川春樹小説賞受賞作品で、第160回直木賞候補作にもなった。2018年10月に単行本が刊行された後、2020年6月に文庫化され、時代小説文庫の一冊となっている。余談だが、著者は2022年、『塞王の楯』で第166回直木賞を受賞した。

 本作の核心になるのは「童」という一字である。大和葛城山は土蜘蛛の棲む地とされた。土蜘蛛の長である毬人(マリト)が桜暁丸(オウギマル)にこの一字の意味を次のように語る場面がある。
 京人は「童」を「わらは」と読むが、我らは「わらべ」と読むと。それは奴を意味する言葉なのだと語る。”童という字は「辛」「目」「重」に分けることが出来る。「辛」は入れ墨を施す針、「重」は重い袋を象った字で、つまり童は目の上に墨を入れられ、重荷を担ぐ奴婢という意味らしい。「元からその地に住まう者、あるいは貧しい者。それらも一纏めにして京人はそう呼ぶ。京人の驕り、蔑みの証とも言える字よ。小さいかも知れぬが、その一字さえ屠ってやりたくなる」”と。(p204)
 「童」という文字は、当初奴・奴婢、つまり奴隷という意味で使われていて、それが後に平安・鎌倉の頃から「子供」を意味する言葉に転じて行った。この「童」の使われ方の原義を知ったことと、酒呑童子の名を目にした瞬間に、この作品が脳裡に一気に流れ込んで来たと、著者は「受賞の言葉」の中で述べている。

 古代より中央の政権に纏ろはない、反抗的な人々・集団は蔑称で呼ばれてきた。『日本書紀』に出てくる九州の熊襲、隼人はその例であろう。本作に登場する土蜘蛛も同様である。『古事記』にも登場している。
 本作には、京人が付けた蔑称として、夷、滝夜叉、土蜘蛛、鬼、百足、犬神、赤足、鵺などが出てくる。彼らが童である。本書のタイトル「童の神」とは、「童」の諸集団を結束する総大将的な立場に押し上げられて行った桜暁丸をさす。桜暁丸は、己たちの生き方を中央の政権に認知させようと試みた。だがその思いは潰える。  本作は、藤原道長の治政下において、京周辺に棲み朝廷側に服従しない集団が、朝廷側の軍団に殲滅されていくプロセスを、桜暁丸の半生と絡めて描いていく。
 朝廷側の軍団とは、道長の側近である洛中随一の武官源満仲とその配下である。満仲の嫡男は源頼光。部下には渡辺綱、卜部季武、碓井貞光が居る。相模足柄山の「やまお」と呼ばれる民であり、京人に「山姥」と蔑称されてきたが、朝廷側に下って配下となる道を選択した坂田金時が加わっている。同様に、犬神と夜雀も朝廷側の配下になっていた。

 桜暁丸は、最後には京の帝から、大江山の酒呑童子と称されるようになる。

 「大江山絵巻(酒呑童子絵巻)」が史料として残されている。これは大江山の酒呑童子を頼光、渡辺綱らが退治する物語として描かれている。大江山の鬼退治という伝承は世に知られた話である。
 平安時代の朝廷側と政権に従わない人々との間の戦い、当時の社会構造などの史実を背景に踏まえながら、本作は、ダイナミックなフィクションの世界に読者を誘っていく。被抑圧者側のやるせない思いがひしひしと伝わる作品になっている。

 序章は皆既日食が始まった状況の描写である。当時の人々はこのとてつもない現象に驚愕したことだろう。
 安部清明はこの自然現象の到来を予期し、それを利用する。どのように利用したかが重要な要になる。その一方で、己は京の中枢に秘やかに沈潜し、己の拠点を維持していく。この設定がまずおもしろい。

 第1章にまず安部清明が登場する。「天の下では人に違いはない」という境地に達したと記されている。この一文が本作のテーマになっていると思う。
 清明は天暦2年(948)に皐月と出逢った。それが契機で、二人の間には子が生まれた。如月と名付けられる。皐月は、愛宕山に居を構え、配下は100人を越える群盗「滝夜叉」の女頭目である。皐月は自ら平将門の子だと清明に告げる。京人は平将門を東夷と罵った。
 歴史年表を読むと、「安和2年(969)3月、安和の変(藤原千晴ら流罪、源高明左遷)という一項が記されている。著者はこれは、左大臣源高明が緊急朝議を開き、天下和同という自説を展開しようとした。その源高明に、国栖率いる葛城山の土蜘蛛、虎節率いる大江山の鬼、皐月率いる愛宕山の滝夜叉らが加担したと描く。源満仲の裏切りにより、高明の企ては頓挫した。安和の変である。
 土蜘蛛、鬼、滝夜叉たちの苦難が再び始まっていく。滝夜叉は落ちのび、摂津竜王山に拠点を移すことに・・・・・。

 第2章に桜暁丸が登場する。越後国蒲原郡の豪族で、先祖が朝廷に服属した故に、郡司を任命されている山家重房を父にして、天延3年(975)、皆既日食の日に生まれた。母は山口という浜に漂着した異人だった。その母は出産後、流行り病で死んだ。父は桜暁丸の姿形は母に似ているという。周辺の人々は、桜暁丸を禍の子と見なし、鬼若と密かに呼んでいた。
 桜暁丸は師となった老僧の蓮茂から学問と教練を学ぶ。1年後の寛和2年(986)に、暗雲が立ちこめる。この時国主は源満仲であり、重房が蒲原郡にある夷の村にも善政を行うやり方に対し、反対の立場を取り、重房を攻めてきた。攻めてきたのは、満仲の嫡男頼光、卜部季武、碓井貞光らである。このとき、蓮茂の素性が百足だと明らかになる。
 桜暁丸はこの時、父重房の説得と蓮茂の助力により、落ちて生き延びることになる。
 これが桜暁丸の波瀾万丈の人生の幕開けとなっていく。

 桜暁丸は京に上る。そして、花天狗と称される凶賊となる。夜回りする検非違使や武官しか狙わない。「金を返せ。返さぬとあらば抜け」金を差し出した者には危害を加えない。刀を抜いた者は斬り殺す。錯乱して素手で挑んだ者は殴り倒すという行動に出る。それが評判となる一方、追われる立場になる。
 花天狗の所業において、彼は渡辺綱、坂田金時らとの対決の出会いが生じてくるのは当然である。
 一方で、袴垂保輔との出会いが生まれ、保輔に助けられることから、その後の状況が大きく動いていく。まずは保輔の活動を手伝う事から始まって行く。義賊と称される保輔を身近で見聞し協力する。それが「童」と称される人々、集団との出会いへと広がって行く。
 民を騙すことに長けた中流貴族の藤原景斉の屋敷に盗賊に入ることを契機に、滝夜叉との連携が始まる。
 かつて保輔が助けた娘、穂鳥を再び保輔から託されて、大和葛城山の裾野を歩く途中で土蜘蛛との出会いが生まれる。土蜘蛛について、桜暁丸は蓮茂から教えられていた。
 土蜘蛛の頭領毬人との絆が、彼らの里である畝傍山での砦再構築を生むことになる。桜暁丸は、毬人の子である欽賀と星哉を同行し、この計画を為し遂げる。葛城山と畝傍山の二山の連携が始まる。
 この後、竜王山、大江山との連携を推進していくという展開になる。
 そして、桜暁丸がある経緯を経て大江山の鬼の頭領に推されることになるという次第。 ここに到る紆余曲折が、まず読ませどころになる。
 その先に、大江山、葛城山、竜王山を拠点にする童が京の朝廷側の軍と対峙していかざるを得ない推移がクライマックスへと読者を導いていく。

 「天の下では人に違いはない」という原理がなぜ実現しないのか。この不条理を鮮やかに描いている。

 酒呑童子と恐れられた桜暁丸が最後に麻佐利に告げる言葉、そこに彼の万感の思いが込められていると言えよう。
 「鬼に横道なきものを!!」
 
 ご一読ありがとうございます。

補遺
袴垂保輔  :「コトバンク」
藤原保輔  :ウィキペディア
源頼光の大江山酒呑童子退治  1089ブログ :「東京国立博物館」
作品解説 酒呑童子/大江山  :「兵庫県立歴史博物館」
大江山絵巻(酒呑童子絵巻)   :「徳川美術館」

土蜘蛛  :ウィキペディア
滝夜叉姫 :ウィキペディア
鬼とは何者? :「日本の鬼の交流博物館」
勇将・藤原秀郷(俵藤太)の伝承から見えてくる古代の製鉄民族と製銅民族との対立
                             :「歴史人」
 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『恋大蛇 羽州ぼろ鳶組 幕間』  祥伝社文庫
『襲大鳳 羽州ぼろ鳶組』 上・下   祥伝社文庫
『黄金雛 羽州ぼろ鳶組零』 祥伝社文庫
『双風神 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『玉麒麟 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『狐花火 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『夢胡蝶 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『菩薩花 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
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『塞王の楯』   集英社
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『千里眼 ミッドタウンタワーの迷宮』  松岡圭祐  角川文庫

2024-06-22 12:12:50 | 松岡圭祐
 遅ればせながら千里眼新シリーズを読み継いでいる。本作は新シリーズの第4弾書き下ろし。平成19年(2007)3月に文庫版が刊行された。
 2007年1月にこの新シリーズの最初の3作が同時刊行されて、その後奇数月にこのシリーズが順次作品化されると公表されていたようだ。

 岬美由紀の友達である高遠由愛香が、東京ミッドタウンタワーの地上150mにあるオフィスフロアから巨大望遠鏡で2人の中国人に監視されている場面から始まる。この監視活動が、このストーリーに敷かれた伏線となる。
 場面は一転する。美由紀は雪村藍を伴って、百里基地で行われる航空祭に出かける。藍のリクエストでもあったが、美由紀は航空祭での講演依頼を受けていた。基地内で美由紀は偶然にも元上官の坂村久蔵元三等空佐を見かけて話しかけた。美由紀は坂村との会話中に、彼の表情に嫌悪や警戒心を働いた兆候を読み取った。会話はわずかの間だったが、坂村は知られたくない隠し事を抱いているように美由紀は感じた。坂村との出会い、ここにも伏線が敷かれていく。

 青空ではブルーインパルスのアクロバット飛行が行われ、航空祭の会場となった基地内には、無数の自衛隊機の展示とともに、ミグ25フォックスパットがデモンストレーション飛行のために待機していた。そこに、突然に警報ととも緊急事態発生の報せが伝わる。勿論、美由紀は条件反射的に指定場所に駆けつける。そこで見たのは段ボールの小箱に横たわる物体。外観は「パキスタン製小型戦略核爆弾、ヒジュラX5」。液晶タイマーが作動していて、7分後に爆発と分かる。容器は溶接されていて壊せない。本物かどうか、悠長な論議をしている暇はない。即決行動が要求されるのだ。この小型戦略核爆弾にどう対応するか? 集まった幹部自衛官らが戸惑う中で、美由紀が決然と行動に出る。その後を伊吹が追いかける。これがこのストーリーの最初の山場となる。のっけから読者をぎゅっと惹きつける展開。007シリーズで、最初に1つの見せ場が急速に進展して観客を惹きつけるアプローチに似ている。まずは読者があっけに取られる対処を美由紀が決断し実行するというダイナミックなプロセスが描き出されていく。
 その間に、地上では思わぬことが発生していた。フランス空軍がつい最近開発した通称カウアディス攻撃ヘリのプロトタイプが一機、航空祭で展示されていたのだが、それが核爆弾騒ぎの中で消えていた。坂村元三等空佐がその攻撃ヘリに乗り込み、発進させたという複数の証言があると菅谷三佐が語った。なぜ、彼が? これもまた布石となる。

 さて、メイン・ストーリーは? 東京ミッドタウンのガーデンテラス内に、由愛香が都内15番目の店、フランス料理の専門店「マルジョレーヌ」を開店する直前からストーリーが始まる。この店の開店準備と並行して、由愛香は賭博行為に手を染めていた。由愛香は元麻布に所在する中国大使館内で開かれるカジノに招待され、そこで賭博をしていた。その結果、破滅の瀬戸際まで来ていたのだ。
 ある日、美由紀は白金にある由愛香の店を訪れて、その店が閉店となっていることを知る。心配し、由愛香に会って事情を尋ねた美由紀は、由愛香が賭博行為に嵌まり、破産の瀬戸際に居ることを知る。
 美由紀は由愛香に同行し、このカジノでの賭博のカラクリを暴き、由愛香を破産から救出しようと決断する。そのために美由紀はそのカジノでの賭博資金として、己の預金を全額資金として持参する挙に出る。
 メイン・ストーリーのテーマは、友人由愛香を賭博癖と破産の苦境から立ち直らせることである。そこに構想の一ひねりが加わって行くところが楽しみどころなのだ。

 美由紀が由愛香に同行し、大使館内のカジノに行くには、前段のサブ・ストーリーがあった。
 東京ミッドタウン・メディカルセンターで、同僚の臨床心理士徳永良彦が担当しているクライアント又吉光春のカウンセリングに美由紀が関わることになる。それに起因する。徳永に又吉のカウンセリングを依頼しているのは、国税局査察部の小平隆だった。又吉の携わる仕事と彼の金の使い方、日常行動との間に大きなギャップがあり、その収入源について、マルサが疑問を抱いていたのだ。美由紀は又吉と対話し、彼の話を聞く中で又吉が嘘を語っていないと判断する。しかし、その話の内容自体は実に奇妙なのだ。そこで美由紀は独自の調査行動をとる。又吉に案内されて東京ミッドタウンタワーの31階オフィスフロアーを見てみる。そこであることに気づく。美由紀は警視庁捜査一課の岩国警部補とコンタクトをとる。その結果、1つの解釈に確信を持つ。それが由愛香の陥っている問題事象にリンクしていく。この謎解きが読者にとっては楽しみとなる。

 このストーリーのおもしろいところは、由愛香を賭博依存と破産の泥沼から救い出すつもりが、思わぬ裏切りから、状況が悪化し、美由紀が、大切な人の命と国家機密を賭けたカードゲームを行わねばならない苦境に突き進んでいくという進展にある。そこにはある罠が仕掛けられていた・・・・・。
 
 中国大使館内で、美由紀がリベンジのカードゲームを行うことと、美由紀の最後の闘いの場が、東京ミッドタウンタワーになることだけに触れておこう。

 最後に、本作の舞台になる東京ミッドタウンについて付記しておきたい。
 六本木交差点に程近く、かつては防衛庁の庁舎が存在していた場所。そこに緑豊かな複合施設が建設された。ミッドタウンタワーは高さ248m、地上54階、地下5階で、直線が主体の直方体の建物。東京ミッドタウンは、タワーを中心として複数のビルで構成されているという設定となっている。高級志向のエリアである。 p68~69
 
 さあ、この新シリーズ第4作をお楽しみいただきたい。
 
 ご一読ありがとうございます。


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『千里眼の水晶体』   角川文庫
『千里眼 ファントム・クォーター』  角川文庫
『千里眼 The Start』 角川文庫
『千里眼 背徳のシンデレラ 完全版』 上・下  角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅸ 人の死なないミステリ』 角川文庫
『千里眼 ブラッドタイプ 完全版』   角川文庫
『千里眼とニアージュ 完全版』 上・下  角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』  角川文庫
『探偵の探偵 桐嶋颯太の鍵』    角川文庫
『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
                    2022年末現在 53冊

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『天空の魔手 警視庁公安部・片野坂彰』  濱嘉之  文春文庫

2024-06-20 21:12:22 | 濱嘉之
 警視庁公安部・片野坂彰シリーズの第5弾! 2023年5月に書き下ろしの文庫が刊行された。ネット検索してみると、現時点(6/20)では、後続第6弾は刊行されていない。

 このシリーズの魅力は、実にリアルタイムなテーマ設定でインテリジェンス要素に満ちるコンテンツを扱ったフィクションだという点にある。
 最初にこのストーリーのキーワードを列挙してみよう。ドローン、eスポーツ、ミニ富岳、中国による台湾侵攻の想定、テルミット弾、対日有害活動の抑止、費用対効果、シュミレーションゲーム、ロボットの応用、衛星画像技術、SAR衛星、現地実験というところか。
 これらのキーワードが公安部の片野坂彰の頭脳の中でどのようにリンクしているのかが、このストーリーであり、それが実にリアルに結びついていくところを楽しめる。けれども、それがリアルに感じられるだけ余計に、この現実世界をリアルタイムで考える上でのインテリジェンスとなる。
 
 科学技術はコインのようなもの。平和利用と軍事利用の両面をもつ。どちらの側面で使うか。それは人間に課せられた選択である。このストーリーでは、ある目的のもとで、あるターゲットに対しドローンを飛ばすという行為が中心にストーリーが進展していく。
 プロローグは、群馬県の山間にある牧場に30人程度の選抜された青少年が、ドローンを操作し、最終的には高度50mから目標の直径2mの円内に3kgの重りを落とし、ドローンを出発地点に帰還させるという競技である。いわゆるeスポーツの一種といえる。
 この競技現場に片野坂は、警視庁警備局担当審議官五十嵐雄一警視監を伴って来ていた。ミニ富岳を1台レンタルして、この競技大会をオブザーブした。片野坂の脳裡には、公安の観点から、ドローンを実戦的に使うという発想があった。この競技大会はその発想を実現化する一歩だったのだ。それは五十嵐審議官への己の発想と実現化へのプレゼンでもあった。
 この競技大会での優勝者と準優勝者は、新規ソフト開発への参加権を獲得できるのだった。
 
 外見上はゲームソフト開発の会社を立ち上げ、eスポーツとしてドローンを使ったゲームソフトを開発する。eスポーツとしては、ドローン操縦は人間である。操縦には人間のスキル、ノウハウが累積され磨かれていく。しかし、それをコンピュータによる操縦という形に技術転換させたソフト開発を実現することが片野坂のねらいだった。つまり、ドローンを公安的観点から、対日有害活動の抑止に使う技術開発と技術確立である。
 その為には、ソフト開発をする特定の会社や資材調達をする会社などの基盤環境整備が勿論、マル秘レベルで必要となる。
 一方でそのソフト開発は、操縦者の操作という次元に落とし込み、形を変えることで、eスポーツのゲームソフトとしての販売ができる。採算性という側面が存在する。おもしろい領域に片野坂は着目したのだ。

 片野坂の脳裡には、直近の有事として、中国による台湾侵攻が想定され、かつその延長線上に、中国の日本国領海侵犯がリンクしており、そこに公安部としての立場での関与の限界と関与方法への独自の思考が渦巻いているのだ。

 このストーリーは、勿論、第一段階は実戦的ドローン作戦の実機とソフトの開発というプロセスがある。そして、実機とソフトの性能テストが成されねばならない。第二段階は、片野坂が想定して開発したドローン作戦のシミュレーション技術が、本当に実戦的なものといえるか。その調査と検証は不可欠である。公安部長の許可を取り、片野坂はアメリカに飛ぶ。
 片野坂の元同僚であり、NSBの上席調査官であるレイノルド・フレッチャーにまず相談を投げかけることから始まって行く。NSBはFBIの内局の1つ。連邦捜査局国家保安部である。
 片野坂が持参したのは、ドローンを使ったウクライナでの戦い方のゲーム感覚でのシミュレーションだった。この相談が、さらに実戦的なブラッシュアップへとつながっていく。
 第三段階は、現地実験へとステップアップすることに・・・・・。

 これをメインの大筋とすれば、ここに幾つもの筋が織り込まれていく。
1. リアルタイムで発生してきた様々な公安領域絡みの事象に関連した情報話
2. この第5作から、新人が加わる。片野坂の部下・望月の外務省時代の同僚で32歳の一等書記官、東大卒。中国の北京大使館と上海・瀋陽の領事館勤務経験あり。語学では「チャイナ・スクール」のエースとみなされていた男。現在は外務省アジア大洋州局北東アジア第二課勤務である。名前は壱岐雄志(イキユウジ)。本シリーズの愛読者にとっては、楽しい側面となる。片野坂のチームが教化されるのだから。
3. 片野坂はチームメンバーに、ロシア軍と中国人民解放軍の詳細な動向調査が喫緊の問題と判断し、その調査を指示する。メンバーが協力してこの課題に取り組んでいく。
 壱岐にとっては、トレーニングの要素を含めた実戦の調査活動となる。
4. 時事、世界情勢に関連した会話が、様々な関連情報を含んでいて、リアルタイムな豆知識情報を副産物として提供してくれる。

 このストーリー、フィクションではあるが、重要な点に気づかせてくれる。
 ドローンの利用が戦争そのものを変える段階に入っていること。
 衛星画像技術の進化によって、かつての軍事的極秘情報が手に取るように即座にわかる時代になってきたこと。
 他にもあるだろうが、この2点が印象的である。

 ストーリーを楽しみながら、思考材料となる情報を副産物として提供してくれる小説だと思う。
 ご一読ありがとうございます。

補遺
ドローンとは? 国土交通省の定義や語源、ヘリ・ラジコンとの違いも解説
                      :「ドローンナビゲーター」
ドローンとは?意外と知らないドローンの定義を簡単に解説  :「mazex」
無人航空機  :ウィキペディア
日本水中ドローン協会 ホームページ
ウクライナ「ドローン戦」で変貌する戦争 :「REUTERS」
[密着]ウクライナ軍”ドローン部隊”徹夜の任務で目標『バンキシャ!』 YouTube
  2024年5月19日放送「真相報道バンキシャ!」より との付記あり
仏大統領"支援"のホンネは?/ウクライナ「新ドローン部隊」発足・・・G7サミットの舞台裏【6月14日(金)#報道1930】|TBS NEWS DIG
衛星データ入門  SAR(合成開口レーダ)のキホン 
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『散華 紫式部の生涯』 上・下巻  杉本苑子  中公文庫

2024-06-19 22:06:58 | 諸作家作品
 千年余を越え現在も読み継がれ、諸外国語で翻訳版も出版され続ける『源氏物語』という畢生の大作を生み出し、『紫式部日記』『紫式部集』を残した通称紫式部。その紫式部はどのような人生を過ごしたのか。生年も没年も不詳。わずかの著書と断片的な史資料を踏まえて、なぜ、『源氏物語』が執筆されたのか、その経緯を中核に紫式部の生涯を描ききった小説である。
 本作は、『婦人公論』(昭和61年3月号~平成2年1月号)に連載として発表された。その後、1991(平成3)年2月に単行本が刊行され、1994年1月に文庫化された。冒頭のカバー表紙はこの文庫版のもの。そのカバー画は加山又造作で、上巻「夜桜」(部分)、下巻「朧」(部分)が使われている。かなり以前に入手していた文庫版を読み終えた。
 調べてみると、2023年9月に、カバーをイラストに変更した新装版文庫が刊行されている。

 本作で紫式部は小市という名で描かれていく。姉は大市。播磨国飾磨の市の日に生まれたので大市と名付けられた。紫式部は二女として生まれたことから小市の名が付いたとする。父の藤原為時の赴任先、播磨の国府で、三人目の子、薬師麿を生んだ後、産をこじらせて母が播磨で亡くなる。父為時は任務を終え、子供らと共に帰京。為時には周防と称する妹が居て、この周防が兄の子供らの世話を引き受ける。
 周防が小市と薬師麿を伴い、粟田口から日岡の街道経由で来栖野にある宮道列子の墳墓や勧修寺を訪ねる場面からストーリーが始まる。往路、日岡の街道で、裸で虚死(ソラジニ)していた男が強盗を働く様子を偶然に目撃した。周防等はこの強盗と勧修寺の回廊で出くわすことになる。同行していた薬師麿の乳母が、この男を今評判の袴垂かと推察した。男は藤原保輔と名乗り、その場を去る。この出会いが後々への一筋の伏線となっていくところがおもしろい。
 余談だが、最近平安時代を背景としたいくつかの著者を異にする小説を読み継いできて、袴垂れの保輔がいずれにも出てくる状況に出くわした。当時名を馳せた実在のいわゆる義賊だったようである。
 
 ここから始まる上巻は、当時の社会的状況と貴族社会の勢力関係などの背景を巧みに織り込んでいく。『蜻蛉日記』を介して藤原一門の状況が語られ、強盗の横行と魔火(放火)が頻繁に発生していた状況が明らかになる。円融帝が退位、花山天皇が新帝となるが、麗ノ女御と呼ばれた忯子の死が契機となり、藤原道兼の唆しに乗り花山天皇が出家する。花山天皇が東宮だった時に小市の父・為時は学問の相手として関わりを得、花山帝の政庁発足で式部丞に補されたのだが、この事態はたちまち為時に失職という影響を及ぼす。一方、姉の大市は、花山帝側近の一人となった権中納言義懐の想われ人として見出されていた。それが姉の人生を変える結果となる。
 花山帝出家、一条帝が7歳で践祚し、一条天皇の時代となる。それは息子たちを使い、政略謀略により一条帝の外祖父となった藤原兼家一族の時代、藤原摂関家の時代の始まりである。まずは兼家謳歌の時代。だが、そこから一族内部の兄弟間の熾烈な権力闘争に進展していく。まず長男道隆が摂関家を継承。道隆の娘・定子が一条帝に入内する。しかし、道隆は疫病で没し、二男道兼は「七日関白」で終わる。道隆同様に赤班瘡(アカモガサ)で没した。道長の時代へと移る。道隆の子息の伊周(コレチカ)と隆家(タカイエ)は、史上でいわれる「中ノ関白家事件」で転落していくことに・・・・。
 上巻では、左大臣になった道長の時代のもとで、小市の父・為時が当初淡路の国司への除目が、越前の国司に変替えを通達されるところまでが描かれる。

 ここまでの時間軸で興味深いと思った点がある。
1. この段階では、小市は己の生きている時代を、己の目と耳で見聞する観察者の立場にいる。父を含め、周囲の人々から社会の情勢、貴族社会内部の人間関係や権力闘争、政治の状況について情報を吸収する立場である。貴族社会内の格差を実感する。過去のことは、身近にある書物から知識を蓄える。小市が情報を己にインプットしていく状況を描いていると言える。そのプロセスで小市は己の見方を徐々に培い始める。
 たとえば、小市の意識を著者は次のように記している。姉の大市の生き方に絡んで、
「美しいものはこころよい。花でも鳥でも虹でも星でも、美しいものが世の中を潤す力ははかりしれないが、人間--ことに女が生きる上で、外貌の美醜が幸・不幸を分ける重大な決めてとなっている点が、小市には釈然としないのだ。(女の仕合わせとは何か、不仕合わせとはどういうことか)」   p340
そして、姉の生き方を(わたしには耐えられないわ)と己の立ち位置を自覚する。

2. 現在進行中のNHKの大河ドラマのフィクションとは大きな構想上での差異点があっておもしろい。
 1) 小市の母の死についての設定が全く違う。
 2) 父為時の越前国司受任時点までに、小市と藤原道長との人間関係は発生しない。
 3) 同様にこの時点までで小市が清少納言との間で親交を深める機会は描かれない。
  ただし、伯父・為頼の息子伊祐が清原元輔の家を訪ねる際に、小市が同行する。
  そこで、御簾を介して、小市が清少納言に古今集に載る清原深養父の歌17首を誦
  しきる場面が描いている。 上巻・p174-176
 4) 逆に、小市は姉大市が女房務めをしていた昌子皇后の御所に同様に幼女の頃から
  仕えている御許丸との関係が生まれ、織り込まれて行く。御許丸とは後の和泉式部
  である。著者は、御許丸の歌に、小市が「わが家は詩歌の家すじ・・・・・・せめて生き
  た証を、その伝統の中で輝かしたい」と触発される場面を描く。 p446
 5) 藤原宣孝が為時の家に頻繁に訪れ、小市と対話するのは双方で同様。
同じ史実をベースに踏まえても、状況設定が大きく異なり、それが成り立っているのが、フィクションのおもしろさといえるだろう。

 下巻は、小市が同行し、為時が越前国司として赴任地に出立する場面から始まる。往路の状況。越前国府での小市の心境。為頼伯父の病臥という通知を潮に小市は帰京。宣孝との結婚に至る紆余曲折。賢子誕生と宣孝の死。中宮定子に対抗する形での道長の娘彰子の入内。『枕草子』の評判。「光る源氏 輝く日ノ宮」の書き始め。小市の出仕とその直後の顛末。道長呪詛事件と道長の宮廷への布石。小市が中宮彰子出産の記録を担当。和泉式部の出仕と「宇治十帖」執筆。彰子の人格的成長(人形から賢后へ)。小市の晩年。という進展により、紫式部の後半の生涯が描き出されていく。
 大河ドラマがこの後どのように進展するのかは知らないが・・・・・。
 このストーリーでは、小市が宣孝と結婚して、女として体験する様々な側面、その感情と思いを著者は書き込んで行く。この期間は短いけれどもこの小市の結婚生活での心理的体験、女心の変転する機微が多分『源氏物語』の人物描写の中に反映していく、いわば創作の肥やしとなっていくのだろう。
 小市が土御門第に居た彰子のもとに年末に出仕したが、その直後に自宅に戻ってしまった。その時の原因を著者は道長の関わりとして描く。それを、恵み、通過儀礼の側面としている。当時の時代背景を踏まえると、立場によりその行為がいかように解釈できるかという描写となり、実に興味深い。この体験が、小市にとり『源氏物語』創作の肥やしになるのだろう。道長の立場での解釈を、小市が推察する記述が下巻のp318に明確に記述されている。その前に、小市の立場からの反射的判断が描き込まれているのはもちろんである。さらに視点を変えた解釈も小市が考えていく。多面的思考が盛り込まれていて興味深い。なるほど・・・である。

 四十余年の歳月を経た時点で「近ごろ小市を苦しめつつある索莫とした心情」として、著者は小市が自己省察する内容を明確に記している。これは著者が捕らえた紫式部像とも言えるだろう。長くなるが引用する。 
”もともと小市は、内省的な性格に生まれついていた。頭がよく、洞察力もあるため他人への批判はきびしい。口に出しては言わないけれど、見る目はなかなか辛辣だし、相手の欠点や短所を抉るのに手加減しなかった。
 しかもその目が、他人ばかりでなく、自分自身にも同じ鋭さ、容赦のなさで注がれているところに、小市の気質の不幸な特色があった。おのれに甘く人に辛いなら、まだしも救われる。相手を悪者にしてのければ気分は安まり、解き放たれもするのに、「まちがっているには相手、自分は正当」と思いこめる自己本位な楽天性が、小市にはない。
 人から蒙る不快、苦痛、恨みや憤りも、煎じつめてゆくと結局、自身に回帰してくる。原因をおのれに求めるという出口のない、息ぐるしい形に至り着いてしまう。それでなくても、よろこびの実感は常に淡く、あべこべに、悲しいこと口惜しいこと情けないことつらいことは記憶の襞に深く刻みつけて、容易に忘れないたちだった。
 誇りを傷つけられる無念には敏感に反応したし、何びとにも犯させない矜持と自我を、頑なまでに守り通しながら、まったくうらはらな弱さ脆さ、おのれへの嫌悪感、愧じの意識に苛まれるという二律背反の矛盾の中で、重荷さながらな生を、曳きずり曳きずり生きてきた四十余年の歳月なのである”  p398
 
 小市が『宇治十帖』を書き継いだ理由、心情の底にあるものも著者は記している。これは本書を読んでいただきたい。

 さらに、「それはすでに、小市の--紫式部の『源氏物語』ではなく、その読み手自身の『源氏物語』なのである」と記す。p416
 その後に、こう述べている。「作者は自分のために書き、自分の好みにのみ、合わせるほかないのだ」(p416)と。これは著者自身の自作に対する思いでもあると感じる。

 著者は「あとがき」に、「本質的には現代人と変わらぬ生き身の人間として、登場人物を描くことにつとめた」と記している。
 大長編小説だが、読みごたえがある。紫式部という存在が、ちょっと身近に感じられる小説だ。

 ご一読ありがとうございます。
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