遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『乱心 鬼役参』  坂岡 真   光文社文庫

2024-12-03 12:33:13 | 諸作家作品
 鬼役シリーズの第3弾! 他社文庫刊から改題の上、2012年6月に文庫本刊行。(奥書は前作同様の経緯を経たシリーズなので、以降煩雑さを避けて略記する)

 新装版文庫の表紙

 今回は短編連作風時代小説と言うべきか。本書には「鬼役受難」「蘭陵乱舞」「不空羂索」「乾闥婆城」の4編が収録されている。

 このシリーズの主人公は矢背蔵人介であり、表の顔は毒味役。裏の顔はグレーゾーン状態にある。蔵人介には用人として串部六郎太が付き従い、強力な協力者となる。
 今回は、主な登場人物として、しばしば登場する矢背蔵人介の家族・親族について、ここに記しておこう。
 矢背志乃 蔵人介の義母。蔵人介は矢背家の養子となった。志乃は長刀の達人。
      前作で当事者として関りを深めたが、茶道においても師匠格の技量を持つ。
 矢背幸恵 蔵人介の妻。徒歩目付の綾辻家から嫁いできて、鐵太郎という一子を産む。
      弓の達人でもある。

 綾辻市之進 幸恵の弟。不正を嫌悪するごく真面目な徒歩目付として任務に精励する。
      三十路になっているが独り者。蔵人介の所によく出向いてきて情報提供者
      の役割を果たすとともに、蔵人介の活動に協力することしばしばである。
      剣の腕はそこそこレベルにとどまるが、柔術と捕縛術には長けている。

 もう一人、第2作から表に登場してきた人物に触れておこう。
 橘 右近 御小姓組盤頭。蔵人介の裏の役目が暗殺役であると知っている人物。
      若年寄の長久保加賀守、蔵人介の裏の役目だった指令役の立場になる意図
      を見せ始めている。
 つまり、第2作以降、橘右近と蔵人介との関係がどうなるかは、読者にとっても重要な関心事とならざるを得ない。それだけ、ストーリー展開がおもしろくなると言える。

 各編ごとに、読後印象を含めて、少しご紹介していこう。
 第2作で天保2年の蔵人介の活躍が描かれた。本書は、天保3年の事件譚である。

< 鬼役受難 >
 このタイトルにまず惹きつけられる。これは天保3年卯月のストーリー。
 田宮流抜刀術の達人ということはわかっているから、第3作に入って受難って何? 
 ストーリーの冒頭で、公人朝夕人(クニンチョウジャクニン)の土田伝右衛門から、明後日の灌仏会の夕餉において二の膳の鱚(キス)の塩焼きには毒が盛られるという噂があると密かに伝えられる場面から始まる。本来の役目で危地に立つ?! のっけから興味津々に・・・。
 蔵人介が警告を承知の上で毒味をする。毒と知りつつ毒を喰らい、己の体で実証し、役目を全うする。このストーリーはそこからが本当の始まりなのだ。
 だれが毒をもった犯人なのか? 
 九死に一生を得た蔵人介は串部に言う。「毒を盛られて平気でいられるはずがあるまい。相手がどのような難敵でも、かならずや仕留めてみせる」(p41)と。
 勿論、橘右近は蔵人介を呼びつけ面談する。読ませどころとなる山場をいくつも盛り込んでいて、読者を惹きつけること間違いなし。毒味に到る過程。家斉謁見の場面。犯人追求プロセスでは大奥の政争に止まらず禁裏にまで裏事情の蠢きが及んでいく。
 スケールの広がりと一種のどんでん返しを楽しめる。一方、私は完結する短編という印象を持てなかった。この編で蔵人介が黒幕を仕留めるまでに至らないから。

< 蘭陵乱舞 >
 冒頭文は「茫種(ボウシュ)」という語句から始まる。稲を植える時分のころをいう。
 茶壷道中の前を横切った過度で妊婦が斬殺されることから始まる。江戸城内で茶を点てる役目の数寄屋衆の横柄な振る舞いで、常陸下妻藩主の井上正健が困惑している場に出くわした蔵人介が手助けをした。それが因となり、蔵人介は碩翁に譴責部屋に呼び出される。腹を切りたくなければ、採茶師の横内恵俊を斬れと言われる。この悪辣坊主を斬ろうとしたことが因となり、禁裏と南都奈良のたくらみの渦中に、蔵人介は投げ込まれて行く。土田伝右衛門は、奈良の当尾にある岩船寺の笑い仏が絡んでいると、蔵人介に教えた。彼らの狙いは、将軍家斉の御首級を取ることだという。
 小大名を助けたことが思わぬ方向へ蔵人介を引き込んでいく。一方、宇治の茶師、神林香四郎が義母の志乃のところに来訪してきていた。
 なかなか巧妙なストーリー構成になっている。そこがおもしろい。
 この一編、最後は江戸城内、大広間前の表舞台が山場となる。舞楽の演目は蘭陵王と納曽利である。タイトルはここに由来する。
 この短編は、ひとまず一件落着する。蔵人介が一局面において、いわば生きがいを感じる機会となっただろうと、読者は共感でき楽しめると思う。

< 不空羂索 >
 時季は暦が夏至に変わった頃に移る。吉原の廓で、夕霧のもとに入り浸っている宗次郎を連れ戻すために、蔵人介は串部を伴い、吉原に乗り込む。夕霧、宗次郎に会い、話し合っている時に、厠で首を縊ったと思われる遊客が発見される。夕霧も馴染みにしていた伊勢屋徳兵衛という札差だった。
 宗次郎が花魁の佐保川と会っているのを目撃された夜、佐保川が足抜きしたという。
 蔵人介は吉原での佐保川事件に関わらざるを得なくなる。宗次郎の行方がわからなくなったのだ。佐保川のことを探るために、蔵人介は、橘右近を介して大奥表使の村瀬に会う。だがそこで、村瀬の抱える問題にも巻き込まれていく。伊勢屋の死と、村瀬の抱える問題とに接点が出て来る。加えて、佐保川の素性の一端がわかる。大奥の政争に宗次郎がからみとられているようなのだ。
 「そは観音菩薩の羂索(ケンジャク)、人界の鋼にて断つことあたはず。無駄なことはおやめなされ」(p210)と蔵人介が告げられる場面が出て来る。不空羂索観音菩薩という名称。短編のタイトルはここに由来するようだ。

< 乾闥婆城 >
 冒頭は「鬱陶しい梅雨は明けた」という一文。蔵人介と家族は、夜店を楽しんだ後、涼み舟に乗り大川の花火見物を楽しむが、その時、祇園祭の鉾の形をした屋形船がすれ違っていく。その舳先に「金青色の能面に唐人装束、異様な風体の二人が置物のごとく舳先に立っている」(p251)のを蔵人介らは目撃する。志乃は南都興福寺の天龍八部衆に乾闥婆なる神がいることを思い出す。乾闥婆城とは蜃気楼のことなのという。
 南都最強の敵が、蔵人介の前に遂に姿を見せ始めたのだ。
 義弟の綾辻市之進が、蔵人介を訪ねてきて、漆奉行の不正について探索している内容を語る。そんな矢先に、蔵人介は御前試合に出るようにとの命を受ける。蔵人介は橘右近から呼び出されて、背景事情推測の一端を聞かされる。蔵人介は真の問題事象の渦中に投げ込まれていく。
 このストーリー、御前試合が大きな山場になって行く。
 別次元と思われる事象が互いに錯綜し、陰の部分で繋がっており、その一方で、異なる企みが併存することを蔵人介は己の身を挺して認識していく。
 そして、遂に乾闥婆が姿を現す・・・・・。
 この短編、フィクションの面白さを遺憾なく発揮している。

 この第3作、蔵人介は橘右近との間に未だ距離を保つことができたと言える。

 最後に本書のタイトルは「乱心」。乱心とは、「正常な精神状態ではなくなること」(『新明解国語辞典』三省堂)という意味だから、このストーリーの大半の登城人物はこの語彙に該当する。なぜ、この語彙をタイトルに。
 この第3作の4編の繋がりを踏まえ直して、ふと視点を変えて思ったこと。この「乱心」は将軍家斉を表象しているのではないか。それがオチにもなっていると。そこがフィクションのおもしろさかもしれない。なぜ、そう思ったのかは、本書をお読みいただき、ご判断いただきたい。

 さて、次作ではどう進展していくのか。楽しみである。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
灌仏会   :ウィキペディア
蘭陵王 (雅楽)  :ウィキペディア
納曾利 雅楽 作品と鑑賞 :「文化デジタルライブラリー」
蘭奢待   :「コトバンク」
例幣使街道 :「栃木市観光協会」
亀戸天神社 ホームページ
川崎大師  ホームページ
御茶壷道中の栄誉、そして挑戦の時代へ  :「綾鷹」
東大寺不空羂索観音立像    :ウィキペディア
乾漆八部衆立像    :「法相宗大本山 興福寺」
乾闥婆【八部衆】   :「法相宗大本山 興福寺」
祇園祭  ホームページ (祇園祭山鉾連合会)
天下祭   :ウィキペディア
山王祭山王山車のゆくえ   :「皇城の鎮 日枝神社」

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『刺客 鬼役弐』 坂岡 真   光文社文庫
『鬼役 壱』    坂岡真    光文社文庫
『太閤暗殺 秀吉と本因坊』  坂岡真  幻冬舎
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『刺客 鬼役弐』 坂岡 真   光文社文庫

2024-12-01 21:57:33 | 諸作家作品
 鬼役シリーズ第2弾! 奥書を読むと、2005年8月に『鬼役 矢背蔵人介 炎天の刺客』(学研M文庫)として刊行された作品に大幅加筆修正、改題して、2012年5月に刊行されている。このシリーズ、最新刊に到るまで長丁場で楽しめそうである。

  新装版の文庫表紙

 この第2弾も短編連作集といえる。本書には「対決鉢屋衆」「黄白の鯖」「三念坂閻魔斬り」「流転茄子」の4編が収録されている。

 主人公の矢背蔵人介は将軍家斉の毒味役で御膳奉行の役目を担う。魚の小骨が公方(将軍家斉)の咽喉に刺さっただけでも断罪となる役目。それにもかかわらず役料はたかだか二百俵。家禄と合わせても五百俵に足りぬ貧乏旗本である。その蔵人介は、毒味役を表の顔とすると、裏の顔を持つ。それは田宮流抜刀術の達人という技量を活かし、指令役から指令を受けて、幕臣の不正を断つという暗殺役である。暗殺役という裏の顔を蔵人介の家族や親族は誰も知らない。指令役は若年寄長久保加賀守であり、蔵人介はこの人物を信頼してきたのだが、第1作において、長久保加賀守に裏切られるという展開になった。つまり、蔵人介の裏の役目は断絶した。毒味役に専心する立場になったという段階から、この第2弾が始まる。読者にとっては、表の顔の毒味役だけで、ストーリーが続くのか、という興味津々としたセカンド・ステージがここから始まる。

 蔵人介には、用人として串部六郎太が仕えている。彼は悪党どもの臑を刈るという得意技を持つ柳剛流の達人である。元は長久保加賀守の家来で、蔵人介の裏の仕事を見届けるような立場を担い、蔵人介の用人になった。だが、主人長久保加賀守のやり口に嫌気がさし、蔵人介に忠誠を誓い、行動を共にする立場に変容していく。蔵人介の強力な協力者に徹する。このストーリーは、いわばこの二人が何をするかである。
 
 セカンド・ステージではもう一つ大きな変化要因が加わる。望月宗次郎の面倒を蔵人介が見なければならない羽目になったのだ。その顛末は第1作で語られている。宗次郎は矢背家の隣人・望月家の次男坊であるが、望月左門が政争に巻き込まれ殺される前に、その面倒を託されたのだ。なぜか。宗次郎は西ノ丸に依拠する徳川家慶のご落胤であると左門から伝えられた。宗次郎は己の出生を知らずに育ち、甲源一刀流の遣い手になっているが、吉原の廓に入り浸り、放蕩が続いている。蔵人介はそれを承知で見守る立場となってしまった。蔵人介は誰にも相談できない極秘の火種を抱える立場になる。ストーリーの底流となる宗次郎の存在と行動は、読者にとっては、見守り続ける興味深い要素となる。

 さて、暗殺指令を発する者がいなくなり、毒味役に専心する蔵人介が、何に巻き込まれていくのか。そして、蔵人介はどういう行動に出るのか。それがこのストーリー。

 短編連作集の基本構造は、主に2つの流れが織り交ぜられながら進展する。
 一つは、蔵人介の本来の役目・毒味役の仕事に関わって起こってくる様々な状況の変化とハプニングに蔵人介がどう対処していくかのストーリーの流れである。
 大奥を含み、幕府内の上層部には世継ぎ問題を含め常に政争状況が密かに蠢いている。そこに蔵人介も人間関係のしがらみにより投げ込まれていく立場になる。
 もう一つは、毒味役の役割を離れた場において、蔵人介が好むと好まざるとに関わらず、関係していく羽目になる状況への対応である。この第二の側面において、公的な暗殺指令を受けるという裏の役目は今時点では消滅している。ならば、何が起こるか。それこそが、読書にとっての楽しみどころになる。
 

 収録短編ごとに、読後印象を交え、簡略なご紹介をしてみたい。

< 対決鉢屋衆 >
 天保2年水無月(6月)から文月(7月)にかけての出来事。不作続きの年のこと。
 蔵人介が毒味の役目を終えて下城の途次、登城する長州藩の行列に出会う。その場に襤褸を着た百姓が駕籠訴の行動に出る場面を目撃する。駕籠訴に成功する前に斬られそうになり蔵人介の傍に百姓が逃げて来る。長州藩という大大名に対し、貧乏旗本の蔵人介が、堂々と正論を吐き、その場から一旦百姓を庇い助けた。百姓を追ってきたのは、長州藩馬廻り役支配、鉢屋又五郎と名乗る。勿論「本丸御膳奉行、矢背蔵人介」と返答する。これが発端となるストーリー。
 この事件、江戸城内で噂になる。長州藩の内情と一方で面目が関わってくる。鉢屋衆が動きだす。鉢屋衆とは長州の忍である。蔵人介は鉢屋衆と対峙する羽目になる。
 文月26日、長州藩では、江戸開闢以降で最大の一揆が勃発した。
 飢饉下での政治政策の失敗を糊塗し、武士の面子にすり替える意識と行動が描かれている。駕籠訴の実態もわかる短編である。

< 黄白の鯖 > 
 蔵人介は文月に柳橋から屋形船を仕立てて、家族や居候の宗次郎ほかとともに宵涼みと洒落込んだ。ところが、天保鶺鴒組と名乗る旗本の次男・三男坊たちが乗る船が、川を行く施餓鬼船にちょっかいを出す。その船は江戸随一の「吉野丸」である。蔵人介の乗る船がその場に居合わせた。
 翌日、夕餉の毒味を済ませた蔵人介は、中野碩翁に呼び出される。天保鶺鴒組の連中が狼藉を働いた相手が智泉院の旦那衆であったので、この出来事を忘れよと、同席していた本丸留守居役の稲垣に告げられる。三日後、黄白の鯖と目録に記される鯖代が尾張藩で盗まれ、家老が切腹する事件が発生する。この件で天保鶺鴒組に疑いが向けられる。これが発端となる。尾張柳生が動き出したという。
 蔵人介もまた、動き出さざるを得なくなる。宗次郎が関係しているかもしれないという話が持ちあがったのだ。
 このストーリー、公人朝夕人(クニンチョウジャクニン)黒田伝右衛門が登場するところがおもしろい。
 この短編は、今後の展望に繋がっていく布石でもある。蔵人介の裏の役目が、将来への岐路に入るからだ。読者には、興味と期待を抱かせる要因になる。

< 三念坂閻魔斬り >
 牛込の筑土八幡宮門前から南にきつい登り坂が続く三念坂で、閻魔の顔を象った武悪面をつけた男が、坂道を下りてきた二人の侍を待ちうける。一人は勘定奉行有田主馬、従者は野太刀自顕流を修めた高見沢源八。武悪面の男は「わしは公儀鬼役よ」と有田に告げた。武士二人はあっけなく惨殺された。文月十六日、閻魔の斎日である。大工見習いの亀吉がこの闇討ちを目撃していた。
 蔵人介に疑惑が向けられることになる。これがストーリーの始まりとなる。
 蔵人介は、裏の役目を果たすことが契機で、狂言面を打つことを心の浄化を兼ねた趣味にしていた。蔵人介は武悪面を打っていた。それがない。持ち出すとすれば、居候の宗次郎と推測される。
 虎穴に入らずんば虎児を得ずという格言があるが、そんな進展になるところが、興味深い。自ら疑惑の解明に立ち向かうという筋立て。どのように・・・が読ませどころ。
 もう一点、おもしろいのは、勘定奉行有田主馬の後釜に昇進するのが、遠山景元である。俗にいえば遠山の金さん。ストーリーの落としどころがおもしろい。

< 流転茄子 >
 神無月の朔日、『遊楽亭』の庭にある草庵で口切の茶会が催される場面から始まる。遊楽亭の亭主は万蔵。この茶会で茶を点てるのは蔵人介の義母・志乃である。蔵人介はその茶会に加わるように義母から指示されていた。万蔵は口切の一番茶を賞味する立場になれることに幸福感を味わっている。そんな茶席の場面から始まり、茶道具をネタにストーリーが進展していく。茶会では松永久秀所蔵「平蜘蛛」の釜が話題となる。
 5日には、志乃に呼ばれた蔵人介は、志乃から「つくも茄子」を話題にされる。志乃が宗次郎から預かっていた茶入が関係していた。
 茶道具の茄子の転売に対して、それを取り戻そうとする志乃・蔵人介の行動顛末譚。
 そこに、矢背家の過去と、志乃の若き時代の逸話が絡んでいる。そこに大奥の政争が絡んでいるのだからおもしろい。楽しめるフィクションである。

 蔵人介が天保2年に関わった事件を扱った短編連作集である。

 ご一読ありがとうございます。

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『鬼役 壱』    坂岡真    光文社文庫
『太閤暗殺 秀吉と本因坊』  坂岡真  幻冬舎
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『海風』   今野 敏   集英社

2024-11-28 16:44:01 | 今野敏
 6月に小説『天を測る』の読後印象を書いた。この歴史時代小説は、小野友五郎を主人公として、日米通商条約批准の遣米使節団の正使がポーハタン号に乗船して渡米する際に、咸臨丸が同航した。日本人の航海員だけで操船する咸臨丸に、天体観測により航路を定める航海士が小野友五郎だった。
 本作は、井伊大老より永蟄居を言い渡されて自宅の居室で永井尚志が、太平洋を横断しアメリカに向かって出航した咸臨丸の姿を思い浮かべる場面で終わる。海防のためには艦船が必要であり、操船するには航海士を育成することが必須である。永井は長崎に伝習所を創設する準備をし、初代の伝習所総督となる。航海士育成に尽力した。その長崎伝習所第一期生の一人が小野友五郎である。

 本作は、この永井尚志を登場人物の中核とし、単純化していえば、通商条約締結の結果、咸臨丸をアメリカに運航させる段階にまで至った時代を描き出した歴史時代小説である。攘夷思想が時とともに高揚していく時代の渦中で、日本国の将来を考えると、開国し通商により国を繁栄させていく選択肢しかないという結論に至り、そのために奮励し行動した一群の人々の物語である。
 勿論、徳川幕府内には開国派と攘夷派が居て、老中が一枚岩であった訳ではない。黒船来航という外圧の下で、清国の状況を鑑み、海軍創設、開国と通商の必要性への思いを抱き、老中に働きかけ、苦心惨憺しつつ、各拠点地で通商条約締結への交渉担当者となって活躍したいわば中堅官僚の生きざまを描く。大変なプレッシャーだっただあろうと感じる一方で、時代と国を背負うというやりがいもあったのではないかと思う。

 本書は、「小説すばる」(2023年5月号~2024年4月号)に連載された後、2024年8月に単行本が刊行された。

 ストーリーは、主な登場人物の3人が、黒船来航の時勢話を交わしている場面から始まる。その3人の共通点は昌平黌(ショウヘイコウ)と呼ばれる昌平坂学問所の大試に合格した仲間という点にある。簡単なプロフィールを紹介しておこう。
 永井尚志(岩之丞) 昌平黌甲科合格。大名の側室腹の生まれで、旗本永井家の養子。   38歳の折、目付に取り立てられ、海防掛(海岸防御御用掛)に指名される。
   職務には外国との交渉が含まれていた。永井は長崎表取締御用として長崎へ。
   出島のオランダ商館長クルチウスとの交渉担当に振られることが皮切りに。

 岩瀬忠震(タダナリ) 昌平黌乙科合格。旗本設楽家の第三子。母方の岩瀬家の養子に。
   永井は岩瀬には甲科合格の実力あり、その気がなかっただけとみる。頭が良い。
   ペリーが浦賀に再来した1854年1月、海防掛目付を命じられる。ペリーとの交渉
   に加わることを皮切りに。何を言っても人に嫌われない性格の人物。
   御台場の建設、大砲の鋳造、大型船の製造にも関わっていく。

 掘省之介 昌平黌乙科合格。堀の父は大目付。母は林述斎の娘。堀と岩瀬は従兄弟同士
   二人より一足先に海防掛目付になっていた。蝦夷地の探索に赴く。帰路の矢先に、
   函館奉行に任じられる。北の防御対策を推進することを皮切りに。
   
という形で、それぞれが外国との交渉の最前線に関わっていく。
 
 本作は、徳川幕府が対応を迫られた諸外国との通商条約を成立させていく紆余曲折のプロセスを、実務に携わった彼ら3人の視点から織り上げていく。その中で、永井の活動を中軸に描きつつ、岩瀬・堀とのコミュニケーション、連携プレイが進展していく。当時の諸外国との条約交渉の状況がどういうものであったかということがイメージしやすくなった。コミュニケーションをするだけでも如何に大変かがよくわかる。
 読ませどころは、やはり外国との交渉の実態描写にあると思う。
 だが、諸外国との交渉に奔走した人々は、井伊大老の下で、左遷され罷免されていく。
 最後に、日本史の年表からこの小説に関わる史実を抽出しておこう。
   1853(嘉永6)年 6月 米使ペリー、艦隊を率いて浦賀に来航                    7月 ロシア使節プチャーチン、長崎に来航
   1854(嘉永7)年 1月 ペリー、再び来航  
            3月 日米和親条約(神奈川条約)
            8月 日英和親条約
           12月 日露和親条約
1857(安政4)年 5月 下田条約
   1858(安政5)年 6月 日米修好通商条約調印 
            7月 オランダ・ロシア・イギリスと調印
            9月 フランスと調印
 尚、これらの通商条約の調印に、京の朝廷は許可を出していない。
 この小説には触れらず、その一歩手前の時期で終わるのだが、安政5年9月には、井伊大老の下で、「安政の大獄」が実行される。本作はそういう時代状況を描き出している。

 黒船来航から、諸外国と通商条約締結というステージに立ち至る我が国の状況を感じ取るには大いに役立つ歴史時代小説である。史実の読み解き方のおもしろさがここにはあると思う。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
永井尚志    :ウィキペディア
永井尚志    :「コトバンク」
長崎海軍伝習所初代総監理・永井尚志と岩之丞の追弔碑  :「墓守りたちが夢のあと」https://ameblo.jp/
岩瀬忠震    :ウィキペディア
岩瀬忠震    :「コトバンク」
岩瀬忠震宿所跡 :「フィールド・ミュージアム京都」
堀利煕     :ウィキペディア
堀利煕     :「コトバンク」
日米修好通商条約  :ウィキペディア
安政五カ国条約   :ウィキペディア
出島   ホームページ
出島   :ウィキペディア
浦賀   :ウィキペディア
函館奉行所 公式ウェブサイト

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『ロータスコンフィデンシャル』    文藝春秋
『台北アセット 公安外事・倉島警部補』   文藝春秋
『一夜 隠蔽捜査10』   新潮社
『遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』    幻冬舎
『天を測る』       講談社
『署長シンドローム』   講談社
『白夜街道』       文春文庫
『トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』   徳間書店
『審議官 隠蔽捜査9.5』   新潮社
『マル暴 ディーヴァ』   実業之日本社
『秋麗 東京湾臨海署安積班』   角川春樹事務所
『探花 隠蔽捜査9』  新潮社
「遊心逍遙記」に掲載した<今野敏>作品の読後印象記一覧 最終版
                      2022年12月現在 97冊
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『伏蛇の闇網 警視庁公安部・片野坂彰』   濱 嘉之   文春文庫

2024-11-25 22:56:44 | 濱嘉之
 警視庁公安部・片野坂彰シリーズの第6弾! 文庫のための書下ろしとして、2024年10月に刊行された。
 本作はまさに直近の世界情勢を片野坂彰をリーダーとする警視庁公安部長付特別捜査班が情報収集し、片野坂を中核に分析し論じあうというインテリジェンス・ストーリー、情報小説である。現下の世界情勢をこういう視点から見つめることができるものか、というところが、フィクションという形式を介して、大いに参考になる。

 本作はこれまでのシリーズとはちょっと全体構成の趣が違うという印象をまず抱いた。一つの特別捜査事案がメイン・ストーリーになって、いくつかのサブ・ストーリーが織り込まれていき、結果として集約統合されていくという展開とはかなり異なる。いわば、短編連作の底流に一つのテーマが横たわっていて、それぞれの短編のある局面が、その一つのテーマと接合していくというイメージである。
 
 片野坂は特別捜査班のリーダーであり、4人の部下がいる。しかし、片野坂は上司・部下という上下関係を主体とする一班ではなく、それぞれが専門領域での優秀な捜査員であり、お互いが同僚だという意識でのチーム作りを実践している。それぞれのメンバーは、己の担当する領域でテーマを主体的に追及しいく。特別捜査班全体での情報の共有化を図りつつ、海外各地域に分散し単独で諜報活動に従事していくとともに、片野坂の提起する特定事案の解決にチームプレイを発揮する。今回は、このそれぞれの活動を描くという側面の比重がこれまでの作品より大きくなり、ストーリーに色濃く反映されていると思った。

 これは、本作の目次をご紹介すれば、そこにその一端が現れていると思う。
 短編連作風の作品と感じる一つの要因は、各章での主体となり諜報活動をする人物が明確な点である。個々の主人公が片野坂と連絡を取り、一方で同僚間の相互協力とコミュニケーションを密にしている。目次と併せて主体となる人物を明記しておこう。

  目次              主体として活動する特別捜査員
    プロローグ         片野坂彰警視正  本筋の事案の始まり
  第1章 ロシア情勢       香川潔警部補
  第2章 中国情勢        壱岐雄志警部
  第3章 中東情勢        望月健介警視
  第4章 福岡          片野坂彰警視正
  第5章 経過報告        片野坂がメンバーと活動状況を共有化
  第6章 新たな問題       緊急事案への対処:片野坂・香川・壱岐
  第7章 事件捜査        緊急事案が事件捜査に転じる
  第8章 海外警察の拠点摘発   片野坂の扱う本筋の事案の解決へ
    エピローグ

 プロローグで、片野坂が京都の八坂の塔の近くに現れる。土地鑑のある地域から始まると情景のイメージが湧きやすく一層ストーリーに入り込みやすくなる感じがした。
 片野坂はそこから京都の中心地区に移動し、とあるビルにある監視カメラに情報収集のための小細工を加える。それは片野坂が友人から入手した情報を契機に、ある事象の殲滅をテーマとして着手する始まりとなる。ここからまず面白いのは、ウィーンを拠点とする白澤香葉子警部のもとに、監視カメラに加えた細工を通して得られる情報を送信し、白澤がリモートでアクセスして、そこを起点に情報源を遡っていき、さらに関連情報をハッキングするというルートを構築していくところにある。片野坂が国土防衛のために取り組む事案は、その進め方が頭からグローバルな展開となる点である。このシリーズに引き込まれるのは、グローバルな情勢分析感覚がベースにあることだ。
 では、片野坂が友人から協力依頼を受ける形で得た情報を契機に取り組み始めたのは何か? 中国公安が、日本に秘密警察の「海外派出所」を設営して、留学生などの在日同朋を脅迫する一方で、チャイニーズマフィアと連携して大規模詐欺に関与しているという事象だった。京都に海外派出所の一つがあることと場所を片野坂が特定した。片野坂はこの京都から得られる情報を起点に、日本に設営された中国の秘密警察派出所の殲滅を一挙に行うことを決意する。これがこの第6弾のメイン・ストーリーに相当する。

 しかし、この事案だけを主体に捜査を展開していくストーリーの構成になっていないところが面白いところである。片野坂は、ロシア、中国、中東の各エリアで活動している同僚たちと、コミュニケーションを取り、情報を共有しながら、片野坂の視点で諜報活動の目標について助言・指示したり、危険性の評価などをしたりする。また、各捜査員の入手情報は、ウィーンの白澤のもとに中継拠点として集約される。一方、白澤は情報源へのハッキング活動により、片野坂以下4名に収集・分析した情報をフィードバックする。このスケールの広がりが、このシリーズの魅力的なのだ。

 第1章~第3章のロシア・中国・中東各地域の情勢分析とグローバルな相互関係についての描写は、ほぼリアルタイムな世界の情勢・情報が扱われている。その情報分析を一つの視点として受け止めると有益である。見方が広がることは間違いない。リアルな情報が巧みに織り込まれ、その動向がこの5人のメンバーの分析の俎上に上ってくるのだから、おもしろい。
 
 3人の特別捜査員がこのストーリーではどこに出かけているかだけはご紹介しておこう。特別捜査班の全員が片野坂の指示で警視庁本部庁舎で一堂に会するのは、クリスマスイヴの前日になる。それまで、片野坂は日本で単独捜査。白澤はウィーンで主にハッカーとしての業務に従事し、ストレートに帰国。あとの3人は以下の通り。
 香川:ウラジオストク→(シベリア鉄道・北ルート)→モスクワ→サンクトペテルブルク
 壱岐:上海・長江河口地域→香港→江西省の南昌市
 望月:フォレストシティ(マレーシア・ジョホール州)→モルディブ

 全員が集合して会合した後、片野坂は皆に1月15日の集合を告げ、それまでは有給休暇を取るように指示する。だが、年が明けてから、思わぬ新たな問題が発生する。それは公安部のサイバー犯罪特別捜査官の出奔事件である。その重要性に鑑みて、片野坂は即刻捜査に取り組む。そこに香川と壱岐が加わっていく。サブ・ストーリーの進展なのだが、それがまた、片野坂の事案に繋がっていく。外国と国内が絡むと、広いようで狭い裏社会の繋がりが露呈する。まあ、そんなものかも・・・・と思ってしまう。
 このサブ・ストーリー、リアルにあるかもと思うような話であり、興味深い。

 本作は、メイン・ストーリーと思う片野坂の取り組む事案を描くボリュームが相対的に少ない。それ以外の世界情勢の話題と分析に結構拡散している。なので、世界情勢の論議をフィクションを介して読むことに関心がない人にはお勧めとはいいがたい。
 フィクションを介しながらも、ここまで一つの視点で、世界情勢と過去の歴史の一端を取り上げ、読み解き、書き込んでいるところが興味深くおもしろいと思う。

 香川潔警部補の発言は、いつも過激で極端な側面があるのだが、それ故に思考の刺激になる。香川と片野坂の会話をいつも楽しみながら読める。
 最後に、香川が毒舌・揶揄でネーミングし、会話に頻出させるあだ名を挙げておこう。
    プー太郎、チン平、黒電話頭。
 小説ならではのあだ名ではないか。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
CISSPとは  :「ISC2」
OSCPとは? :「CONPUTERFUTURES」
ガスプロム  :ウィキペディア
鬼城(地理学):ウィキペディア
恐れていた事態が起こった「中国の不動産業界」…中国で「完成はしたけれど住む人がいない」マンションが急増   :「現代ビジネス」
南昌市   :ウィキペディア
江西省・南昌市 概況説明資料  :「JETRO」
ヒズボラ  :ウィキペディア
バース党  :「日本国際問題研究所」
ハマース  :ウィキペディア
フーシ   :ウィキペディア
イスラエル国   :「外務省」
イスラエル    :ウィキペディア
モルディブ共和国 :「外務省」
モルディブ    :ウィキペディア
AIアシスタントとは?   :「RAKUTEN」
生成AIのパワーを活用する :「intel」
生成AI    :「NRI](野村総合研究所)

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こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『天空の魔手 警視庁公安部・片野坂彰』  文春文庫
『プライド2 捜査手法』   講談社文庫
『孤高の血脈』   文藝春秋
『プライド 警官の宿命』   講談社文庫
『列島融解』   講談社文庫
『群狼の海域 警視庁公安部・片野坂彰』  文春文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<濱 嘉之>作品の読後印象記一覧 最終版
 2022年12月現在 35冊
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『赫夜』   澤田瞳子    光文社

2024-11-20 21:49:34 | 澤田瞳子
 タイトルの「赫夜」には「かぐよ」というルビが振られている。
 赤を二つ並べたこの最初の漢字は、辞典を引くと「火がまっかにかがやく意を表す。①あかい。(ア)まっか。火のあかいさま。②さかん(盛)。勢いのさかんなさま。③かがやく。ひかる(光)」(『角川新字源』)と説明されている(説明一部省略)。

 延暦13年(794)の平安京遷都から6年後、富士ノ御山が山焼けする。富士山の噴火が20年ぶりに勃発したのだ。赫夜は噴火した富士山の夜の情景を表象している。
 富士山の噴火とその脅威がもたらす自然環境の激変、その富士山の東側から南東側の地域を活圏とする人々は噴火の結果、生活と心情を翻弄されていく。
 本書は、富士山の噴火活動の描写と様々な人々が翻弄される姿と彼らの思い、政治を執行する人々の関わり方-官の自己中心性-を描写することをテーマにとりあげた作品だと思う。

 本書は、「小説宝石」(2021年6月号~2023年1・2月合併号)に連載されたのち、加筆修正され、2024年7月に単行本が刊行された。

 本作が描く地域は駿河国の東部。富士ノ御山そもものと、富士山の南に位置する愛鷹(アシタカ)山の東側にある岡野牧(官馬を飼育する駿河国牧)、その南東に位置する長倉駅、長倉から北に向かう街道沿いに設けられた横走(ヨコバシリ)駅、国境を越えた先・甲斐国の水市(ミズイチ)駅。この三駅の周辺の人々の生活圏が舞台となる。

 主な登場人物を簡略に紹介しておこう。
鷹取  :大中臣家の家人(賎民)。大中臣伯麻呂が駿河国司として赴任する際に従属。
     主の黒馬が逃げた責めを負い岡野牧に出向く羽目に。岡野牧での生活を開始
宿奈麻呂:以前の駿河国司の従僕だが反抗し白丁に格下げとなり、駿河国庁に留まる。
     馬に無知な鷹取に同行する事を志願。富士山の火山活動を記録する執念を抱く
     富士山の活動情報に詳しい。合理的思考と文筆力に秀でている。
志太朝臣綱虫:駿河国の大掾の地位にあり、私腹を肥やし自己本位主義の地方役人。
五百枝 :岡野牧の牧帳。父の継足を補佐する官牧のナンバー2。
安久利(アグリ):岡野牧の牧子。馬の子と称され、周囲の人々に経緯を抱かれ、馬を熟知
     捨て子で、馬たちがその命を守ったという。継足に育てられ、岡野牧で生育
駒人(コマンド) :岡野牧の牧子。青年一歩手前、未だ少年。安久利を尊敬し、つき従う。
     鷹取に牧での生活の手ほどきをする。一方、助け助けられる関係となる。
小黒(オグロ) :元大中臣家の家人。鷹取より年下。多治比浜成に仕えることになり、放
     賎されて多治比家の従僕になる。大中臣諸魚から放賎の口約束を得ていた鷹
     取はそれが実行されなかったことで、友の小黒の言動に心穏やかになれない
     心理を抱く。小黒には旅をしたい願望がある。
 その他に登場する人々は、岡野牧、長倉・横走・水市の人々が加わる。さらに、足柄山を拠点とする遊女たちと山賊の頭・夏樫など。

 鷹取は大中臣伯麻呂の家人となったが故に、駿河国に随行する羽目になる。国衙で伯麻呂の乗馬を逃してしまい、伯麻呂の従僕たちから鷹取の失態と決めつけられる。大掾綱虫の助言を受け、新たな馬を入手するために、岡野牧に宿奈麻呂とともに赴く。馬を得るための代償としてしばらく官牧で手助けの労務をする立場になる。岡野牧での生活に少し慣れてきた頃、ちょっとした鬱憤晴らしの息抜きに横走に出かけていく。その折に、富士山の噴火に遭遇する。ここで、足柄山を拠点とする賎機と名乗る遊女の長と足柄山の山賊と自称する夏樫と出会い助けられて、縁ができる。だが、その後人助けの心を起こしたことで、逆に己が再び危地に陥るが、今度は安久利と駒人に助けられて、岡野牧に帰還できる。
 この後、富士山の火山活動が進展する。岡野牧の人々は、馬を生かし、己たちが生き残るための対策を立て、一方近隣の人々を援助する活動を始めていく。

 「富士ノ御山の山焼け」と表現される火山活動の活発化に伴い、様々な自然現象が発生していく経過が克明に描写されていく。その描写を通して読者は徐々に噴火活動の状況が脳裏にイメージとして形成されるととともに、ストーリーの新tンに惹きつけられていく。
 一方、頭上に降り注いでくる焼けた石や砂により、人々は騒然となり逃げまどう。焼け灰が大地に積もりはじめ、火災も発生し始める。その災禍に右往左往する人々の行動が活写されていく。地表一面に堆積した石や灰が地上の景観を一転させてしまう。己のよりどころである故郷の景観と生活の拠点を喪失した人々の生きざまが始まっていく。人々はどう対応していくのか。 もちろんここには、一旦小康状態になった後に発生する二次災害が描きこまれていく。小康状態が続いた後、噴火が再発することに・・・・。

 9世紀初頭の富士山の火山活動と災禍の事象を描き出すその経緯は、まさに現代社会で発生している火山の噴火、大震災や河川の大氾濫に遭遇した罹災者と共通する。状況が重なって見えてくる。私は著者の筆力に引き込まれていった。

 宿奈麻呂は言う。「大げさではない。何かを見ること、知ること。それは万金に値するのだ」(p111)と。それを記録に残し伝えることの重要性を彼は語る。なぜなら、伝えらえなかったものは、無かったこととして扱われ、消されていくと彼は言う。
 このことをなるほどと思う。記録に残されないことは、風化して消え去る。記録があっても、アクセスできなければ、無いに等しい。

 鷹取の思いに共感するところが生まれてくる。ここはと思う箇所を抽出・引用しご紹介する。
*兄弟同然に過ごしてきた小黒と自分が良戸と家人に分かれたように、どれだけ親しくとも人同士は結局、赤の他人である。お互いを完全に理解することは、決してできない。 p271
*鷹取は所詮、余所者だ。この地に生まれ育ち、父祖代々の生活をあの山焼けによって奪われた者の苦しみを、完全には理解できない。
 だが一方で、生まれながらに諦念を強いられてきた鷹取には、これだけは分かる。血を吐くほどに何かを希おうとも、どうしたって叶わぬものは叶わない。生きることはつまり、そういうことなのだ。
 失われた平穏な暮らしを、猪列が嘆くのは理解できる。だがそれでもなお、日々は続く。人はどんな目に遭おうとも、ただ生き続けるしかない。  p239
*都においても、地震や疫病がいつかの地を襲い、誰がその犠牲になるかは誰も分かりはしない。そう気づいた瞬間、鷹取はつくづく、自らがいかにちっぽけな存在であるかを考えぅにはいられなかった。  p334
*人の世は哀れなほど脆く、儚い。だがそれでも一旦この世に生まれた以上、人はただその脆い世で足掻き続けるしかない。そして少なくとも突如、平穏な暮らしが破られるやもしれぬという苦しみが、貴賤を問わず、あまねく人々の上に降りかかるものであると知れば、生きる苦難はほんの少しだけ軽くなるのではあるまいか。  p335
*人知を超えたこの世の理から計れば、自分は誰に諂う必要もない。人はどんな時も、ただその人でしかあり得ぬのだから。  p336
*人の生とは、考えもつかぬことばかり繰り返される。しかしだからこそ人は懸命に生きようと足掻き、幾度となく訪れる夜を切り開いていくのではあるまいか。  p416

 さらに、次の思いに凝縮していく局面があることに鷹取の思いを介して気づく。
*何があろうとも日は昇り、新たなる朝はすべての者の前に等しく訪れる。ならば命ある者は、どれほど無力であろうともーーーいや、無力であればこそなお、ただ前に進み続けるしかない。  p391
*どれほど赫奕(カクヤク)たる夜も、いずれは必ず明ける。そう、世の中には変わらぬものは何一つないのだから。  p415
*国も、住まう者も異なる。しかもそれぞれの地を大切に思う一点において、人の心は変わらぬのだ。  p447

 この最後に引用だけは、少し異質な側面を含んでいる。それはなぜか。
 このストーリーには、蝦夷征討に向かう征夷大将軍坂上田村麻呂の軍隊のサブ・ストーリーが織り込まれていく。旅に出たい望みの小黒が自ら志願してこの征討軍の兵士に志願する。そして、偶然にもその旅程の途中で、行軍を見物する鷹取と再会する。
 この蝦夷征討軍のストーリーが、この富士山噴火のおどろおどろしい経過の最終ステージで、このメイン・ストーリーに織り込まれていく。ストーリー中の様々な要素と因果関係を持つようになる。実に巧みなエンディングといえる。
 だが、この関りかたの部分は、史実を踏まえているのだろうと思う。が、それを確認できる資料は手許にない。あくまで個人的な想像である。
 これ以上は、本書を読まれる妨げになるだろうから、触れない。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
富士山の噴火史について    :「富士市」
富士山 有史以降の火山活動  :「気象庁」
富士山の活動状況   :「気象庁」 
富士山が噴火したらどうなる  :「NHK」
6.宝永の大噴火(字幕付)    YouTube
[明日をまもるナビ] 富士山噴火で火山灰・首都圏で起こること | NHK    YouTube
活火山富士 噴火は迫っているのか? | ガリレオX 第23回 YouTube
【火山情報】 鹿児島県・桜島で噴火が発生 噴煙は4000mに YouTube
硫黄島沖で噴火“新たな島”出現 海上には「軽石いかだ」漂着の恐れは?専門家が解説(2023年11月5日) YouTube
ハワイ・キラウエア火山が噴火 最高警戒レベルに引き上げ(2023年6月8日)   YouTube
ロイヒ海底火山  :「NHK」
ハワイ・キラウエア火山の溶岩流 - Kilauea        YouTube
カメラが捉えた凄まじい火山の噴火トップ7     YouTube
日本の古代道路   :ウィキペディア
東海道について  :「東海道への誘い」(横浜国道事務所)
坂上田村麻呂   :ウィキペディア

ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)



こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『月ぞ流るる』    文藝春秋
『のち更に咲く』   新潮社
『天神さんが晴れなら』   徳間書店
『漆花ひとつ』  講談社
「遊心逍遙記」に掲載した<澤田瞳子>作品の読後印象記一覧 最終版
                    2022年12月現在 22冊

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