遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『陰陽師』  夢枕 獏   文春文庫

2025-02-05 21:17:08 | 夢枕獏
 昨年、紫式部に光をあてたNHKの大河ドラマ「光る君へ」を『源氏物語』との関わりから視聴し続けた。その中で、藤原道長にしばしば呼び出されて意見を述べる安倍清明に興味を抱いた。大河ドラマを見た副産物である。
 そこでふと、かつて夢枕獏の陰陽師シリーズがベストセラーになったことを思い出した。当時は安倍清明に関心がなかった。今になって、このシリーズで、安倍清明がどのように取り上げられどのように描かれているのだろうか、に関心が湧いてきた。

 陰陽師シリーズ、今ではロングセラーになっているようである。
 奥書を見ると、昭和63年(1988)8月に単行本が刊行され、1991年2月に文庫化されている。入手した文庫は、2011年3月第51刷と記されている。その後さらに増刷されていることだろう。
 
 京都は地元でもあり、京都の晴明神社や一条通り堀川にある戻橋、晴明神社飛地は、かなり以前に探訪している。趣味の寺社探訪で古都京都の土地鑑もかなりできているので、平安京を舞台とするこの小説は、ストーリーの背景をイメージしやすくて楽しめることに気づいた。
 晴明神社や戻橋は、テレビ報道で繰り返し取り上げられている。陰陽師安倍清明はやはり人気があるのだろう。

 この第1弾を読み始めてまず知ったことは、本書が短編連作集であるということ。手にするまでは、何となく長編小説というイメージを抱いていた。
 つまり、短編一編なら比較的短時間で読了可能、読者として気軽に読み進めやすい。
 
 本書は次の6編が収録されている。
   玄象という琵琶鬼のために盗らるること
   梔子の女
   黒川主
   蟇
   鬼のみちゆき
   白比丘尼
 一応、初作から順番に通読した。だが、それぞれ独立した小品なので、読後印象としてはどれから読んでもそれほど影響はないように思う。
 
 この陰陽師シリーズ、最初の短編 <玄象という琵琶鬼のために盗らるること> の冒頭の導入が実に巧みである。書き出しは「奇妙な男の話をする」という一文。これは読者の心をぐっと惹きよせる。名前・職業を安倍晴明・陰陽師とまず述べる。その続きに、「生まれたのは延喜二十一年の頃、醍醐天皇の世らしいが、この人物の生年没年は、この物語とは直接関係がない。物語のおもしろみとしては、そんな数字などはっきりさせぬ方がかえっていいのかもしれない。
 それはいずれとも決めまい。
 ほどよく、成行に応じて、自由に筆を進めてゆこうと思う。そういうやり方こそが、この人物の話をするにはふさわしかろう」(p9-10)と記す。
 平安時代に実在した陰陽師・安倍清明を、これから自由に描き出すというフリーハンドの宣言に等しい。フィクションなのだと先手を打っている。

 そして、巧みなのは、この短編の設定にある。他の5編のタイトルと比べて、初作のタイトルが長ったらしい。<玄象という琵琶鬼のために盗らるること> 。だが、ここに重要な要素が盛り込まれている。
 琵琶という楽器に「玄象」という銘がついている。これは唐から伝来した醍醐天皇の秘蔵品。今上天皇(村上天皇)の御代に「鬼」が盗んだとする。となれば、なぜ盗まれたのか。その行方を追い、琵琶を奪還するという展開が想像できる。
 この短編、『今昔物語』という語あるいは文を時折援用しつつ、ストーリーが進展する。

 この短編の骨格は、安倍晴明の屋敷に、源博雅朝臣という武士が訪れて、琵琶「玄象」が盗まれたことと、博雅がその琵琶の鳴る音を羅生門で聞いたことを告げる。そして、その事実を確かめた上で、その琵琶を取り戻そうという展開になる。その確認には、琵琶の名手、蝉丸法師が加わる。翌日、鬼から琵琶を奪還する折には、鹿島貴次という武士と後で名が玉草とわかる女が加わる。鬼の正体が明らかになる。琵琶「玄象」は無事に晴明と博雅の手許に戻る。清明は「玄象」に鬼のために呪をかけるというオチがついている。その経緯が読ませどころとなる。

 この短編、末尾に『今昔物語』巻第二十四から、四行の引用文が付記されている。
 手元に、佐藤謙三校註『今昔物語集 本朝世俗部 上巻』(角川日本古典文庫)があるので、それで確認すると、巻第二十四の中ほどに、第24番目の話として文庫本で約2ページの本文が載っている。その見出しが「玄象の琵琶、鬼の為に取られし語(玄象琵琶為鬼被取語)」なのだ。
 つまり、長い見出しの意図がわかる。この短編、単なるおもしろいフィクションだけではなく、当時の現実味を帯びた情報の出を巧みに織り込むことで、リアル感が高まることになる。
 『今昔物語』に載る原文を読んでみると、この話は源博雅だけが当事者として関わている。安倍清明は一切登場しない。「玄象琵琶為鬼被取語」を発想のヒントにして、著者の想像力が羽ばたき、安倍晴明・源博雅等の鎮魂武勇譚というフィクションを巧妙に構築していることが歴然となる、実におもしろい!

 安倍清明は大河ドラマとは大きく異なる設定がこの初作で明記されている。(p21-22)
要約すると、
*長身で、色白く、眼元の涼しい秀麗な美男子
*かなりみだりに方術を使っては、人を驚かせることを楽しんでいる。子供心がある。
*宮中の女共の噂にのぼる人物
*上の者に如才なく、一方でぶっきらぼうな側面も満ち合わせる
*上品な微笑と下品な笑みを併せ持つ。程よい教養とともに、人の道の裏側、闇も知る。というところ。これもまた面白さを加味する要素になりそうである。

 私の読了記憶では、それに続く5編にはストーリーの発想の原点になる典拠あるいはヒントがあるのかどうか、引用形式で触れられた文言はない。著者の完全な創作なのだろうか・・・・。

 以下、各編についてごく簡単にご紹介したい。

< 梔子(クチナシ)の女(ヒト) >
 源博雅が安倍清明を訪れ、宮中での歌合せでの壬生忠見の件を話題にした後、博雅が声明に、油瓶の怪奇現象が発生した件を話題にする。そこに梔子の女が関わっていた。清明がこの件に関わっていく。


< 黒川主 >
 ここでも源博雅が人の気配がしない安倍清明の屋敷での会話から始まる。式神と呪が話題になった後、鵜匠の賀茂忠輔の困りごと、妖異の事象を博雅が話題にする。孫の綾子のもとに、夜な夜な黒川主と名乗る男が現れるという。清明はその解明に乗り出していく。 勿論、この怪異現象の正体を清明が解明することに・・・・・。そして、呪の話に回帰していく。
 この短編連作では、呪というものが一つのテーマになっているようである。
 少しずつ、呪の関わり、領域が広がっていくようだ。
 

< 蟇 >
 これも、源博雅が安倍清明の屋敷を訪れての語らいから始まる。清涼殿で博雅が耳にした蝉丸法師の話から始まり、晴明が蟇(ヒキ)の所にでかけるというので、博雅が同行するという体験談。尾張義孝の子供のあやかしに関係する怪異現象譚。
 清明と博雅は危地に陥るが、それを掬うのが綾女。その綾女がどこからきたのかにも最後におもしろいオチがついている。蟇についてもちゃんと落としどころがあっておもしろい。


< 鬼のみちゆき >
 亥の刻を半ば過ぎた頃に、赤髪の犬麻呂と呼ばれる盗人が、ぼうっと燃える鬼火と共に、牽くもののない牛車と男女二人の人影が自分の方にむかってくるのを目撃する。犬麻呂が問うと、内裏まで行くと車の中の女が応えた。犬麻呂は捕らえられた後、この目撃内容をうわごとで言ったという。この博雅の話を聞き晴明がこの妖異の解明に乗り出していく。博雅が清涼殿を辞して用事で東寺に向おうとしていた時、女童を介して女から文と歌をもらったという。この歌も、この妖異に絡んでいたのだった。
 帝が絡んでくる妖異現象のなぞ解きが興味深い。


< 白比丘尼 >
 猫の発した晴明のような声での伝言を聞き、博雅は夕刻、晴明の屋敷を晴明の要望通り刀持参で訪れる。清明一人が住む屋敷の庭に、夜、30年ぶりだと言って、黒い僧衣を身にまとい、頭に黒い布を冠った女があらわれた。
 清明は、この女に対して禍蛇追いの法を修するというのだ。それに博雅は一役担うことになる。
 この話は、映像化できるとすれば、怪異と妖艶をミックスしたものにならざるを得ない。映像化はむずかしい短編の気がする。
 この短編、死とは何かが根底にあると思う。

 さて、陰陽師シリーズを読み継ぐ一歩を踏み出そう。

 お読みいただきありがとうございます。


補遺
晴明神社  ホームページ
  安倍清明公逸話集
晴明神社  :ウィキペディア
戻橋 - 京都市  :「京都観光Navi」
羅城門  都市史  :「フィールド・ミュージアム京都」
安倍清明   :ウィキペディア
安倍清明   :「ジャパンナレッジ」
陰陽師 安倍清明  :「阿部文殊院」

15.安倍晴明生誕伝承地   :「大阪市」

拙ブログ記事 ~楽天ブログに「遊心六中記」として掲載~
探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -4 龍門橋(歌詰橋)・長慶天皇陵・晴明神社飛地・角倉稲荷神社・鹿王院 

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『仰天・俳句噺』   文藝春秋

[遊心逍遙記]に掲載
『大江戸釣客伝』上・下  講談社文庫
『大江戸火龍改』  講談社
『聖玻璃の山 「般若心経」を旅する』   小学館文庫

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『惜別 鬼役五』   坂岡 真   光文社文庫

2025-01-30 23:58:57 | 諸作家作品
 一つのブログ記事での小説の長さ分類を参考にすると、本書は中編1、短編2から成る連作集で、「鬼役」シリーズ第5弾である。
 出版社が代わり、シリーズとして大幅加筆修正、改題して、2012年8月に文庫本が刊行された。

 新装版表紙

 最初の「婀娜金三千両」が中編、「加州力士組」と「天保米騒動」が短編である。
 文庫のタイトルが「惜別」となっているのは、読了してみて、この一語が収録3作品のテーマになっているという印象を持った。

 < 婀娜金三千両 >
 婀娜金に「あだがね」とルビが振られている。このタイトルがまず興味を惹く。「あだっぽい」という語なら知っていた。婀娜という語はそれをさすようだ。「あだ」の見出しで、この漢字を載せ、形容動詞として、「女性がなまめかしいさま。いろっぽいさま。あだっぽい」(日本語大辞典、講談社)と説明されている。
 ならば、婀娜金三千両とは何か。遊郭吉原が幕府に納める半季分の冥加金のことである。この冥加金を載せた荷車が水無月(陰暦6月)晦日の晩に浅草の菊屋橋付近で襲われて強奪されたいう事件が起こる。
 時は天保4年葉月(陰暦8月)、鬼役矢背蔵人介は、近習を束ねる御小姓組番頭橘右近から呼び出されて、この事件の事を聞かされる。そして、強奪された婀娜金三千両の行方を追えと命じられる羽目になる。鬼役とは関わりのない仕事だが、蔵人介は関わらざるを得なかった。橘右近は、元甲州勤番、神尾徹之進がその婀娜金の移送に関わっていたというのだ。神尾徹之進は、蔵人介と同じ道場で鎬を削った仲、無二の親友だったのだ。
 少し前に、蔵人介は夕餉の毒味で鯖にあたるという事態が起きていた。橘右近は、蔵人介に自宅での静養という名目で、この事件を追わせることに・・・・・。
 蔵人介は、尾州浪人、菊岡作兵衛という偽名で、吉原の用心棒に雇われる形で事件の解明に関わっていく。
 このストーリーの副産物は、遊郭吉原の仕組みと内情の一端が見えることである。
 そして、なぜ神尾徹之進が婀娜金三千両強奪事件との関わりとして、その名が出たかの解明が、事件の謎解きに繋がっていく。神尾に邂逅した蔵人介は神尾の復讐心を知る。
 事件の発端が、幕府内の闇に繋がっていく側面が読ませどころになる。
 蔵人介にとっての悲哀は、無二の親友、神尾との惜別と言える。


< 加州力士組 >
 長月(旧暦9月)28日、神楽坂、前國寺の毘沙門天の縁日、境内の水茶屋『百足屋』に巨漢力士5人が立ち寄り、加賀前田家の手木足軽に飲ませる酒はないというのかと、無理な注文をして、ひと騒動を起こした。その一人は己を紫電為五郎と名乗った。紫電の暴力で水茶屋のおしのがその夜亡くなる。おしのは元幕臣の娘でもあった。
 その場にたまたまいた蔵人介は、南町奉行所の同心に紫電の行状を言上した。勿論、己の役職、氏名を伝えている。これが発端となる。
 加賀藩留守居役の萩尾調所は、碩翁に働きかけ、仲介してもらい、この事件を握りつぶそうと、証言した蔵人介に圧力をかけてきた。
 神無月(旧暦10月)に御公儀が催す御前相撲に加賀藩から紫電が出場するという話がそこに絡んでいた。この御前相撲には、蔵人介は毒味役の職務のために土俵下、砂かぶりの位置に控えることになる。そこで、紫電を懲らしめる秘策を練っていた。
 つまり、力士の乱暴狼藉により元幕臣の娘おしんが死んだ事件が、雪だるま式にどんどん大事になっていく。その経緯が読者を惹きつけ、最後の鉄槌を蔵人介が振るう。読者は喝采で、楽しめる。
 このストーリー、その後にキッチリと最後のオチがつけられる。自業自得と言うべき結末。勿論、その引導を渡すのは、蔵人介である。「暗殺御用」ではないところがいい。
 
 余談だが、調べてみると、加賀藩に手木足軽という職制があったのは事実のようだ。勿論、紫電為五郎というのはフィクションだろう。一方、江戸時代後期に雷電爲右エ門(1767~1825)という大相撲力士がいた。さらに、雷電爲五郎(生年不詳~1785)という力士がいたことも事実のようだ。


< 天保米騒動 >
 品川の海晏寺に矢背一家が紅葉狩に出かけた折、門前の楊弓場で鐵太郎が初老の町人に人質に取られるという事件から始まる。その男の首は5日後に鈴ヶ森の獄門台に晒されたのだが、その素性を調べると、「丹波屋」という米問屋を営む商人だった。そこで、蔵人介はさらに調べてみると、天保の不作による飢饉のせいで発生している米騒動に絡む不正とのつながりが見え始める。というのは、丹波屋の跡地で、義弟の市乃進に声をかけられたのだ。市乃進は闕所物奉行の鳥飼新兵衛の不正を探索していた。
 市乃進の話を聞き、蔵人介は米騒動に絡む不正の真相を自ら確かめるべく、一歩踏み込んでいく。
 米騒動で米問屋の打ちこわしを扇動する者、その騒動を操る悪徳米問屋、幕府内部に巣くい彼らと結託する輩という構図が見えて来る。一方、そこには扇動され米騒動に加担し使い捨てにされる哀れな人々が居た。
 蔵人介の心中で悪を一掃するべしとの信念、怒りが爆発する。
 ここには米騒動に踊らされて死んでいった哀れな人々への惜別の情が根底にある。
 このストーリーの底流に、蔵人介の義弟、綾辻市之進の結婚問題が密かに進行していく。己の信念を貫いた結果である。その行為は上役や同僚には奇異に思えることだった。このシリーズの読者に取っては、明るく楽しいと受け止められる事象である。それはなぜか。本書で確かめていただきたい。
 
 この第5弾もまた、「暗殺御用」とは別次元での蔵人介の必殺行動に帰着する。

 ご一読ありがとうございます。
 
 

補遺
小説のジャンルー長編小説・中編小説・短編小説を作品の長さで分類 :「Hatena Blog」
加賀藩手木足軽と氷室に関する覚え書き  竹井 巌 :「北陸大学」
雷電爲右エ門  :ウィキペディア
無双力士 雷電為右衛門  江戸時代のおすもうさん :「雷電くるみの里」
雷電爲五郎    :ウィキペディア
天保騒動     :ウィキペディア
飢饉  天下大変 :「国立公文書館」
天保飢饉と米騒動 『福井県史』通史編4 :「福井県立図書館・文書館」

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『遺恨 鬼役四』    光文社文庫
『乱心 鬼役参』    光文社文庫
『刺客 鬼役弐』     光文社文庫
『鬼役 壱』      光文社文庫
『太閤暗殺 秀吉と本因坊』   幻冬舎
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『お地蔵さまのことば』 文・写真 吉田さらさ ディスカヴァー・トウゥエンティワン

2025-01-29 22:48:30 | 宗教・仏像
 「明日がちょっと幸せになる」という冠言葉が付いている。奥書のプロフィールを見ると、著者は「寺と神社の旅行研究家」と称されているようだ。
 本書は、著者が日本各地の石像を訪ねて、その多くはクローズアップ写真なのだが、自ら石像を撮り、その石像との対話から湧き出た「ことば」を写真に添えた本である。
 石像との語らい、その石像の代表が「お地蔵さま」なのだ。

 石像写真と短いメッセージが生み出すコラボレーション。どこから読むかも読者の自由。見開きの2ページで写真と文が一つにまとまっている。135ページという手軽なボリュームの本である。
 本書は2014年11月にた単行本が刊行された。

 本書はU1さんのブログ記事で知った。仏像の中でも、地蔵菩薩には特に関心を抱いている仏像の一つ。本のタイトルを読んでまず興味を抱いた。次に、取りあげられているのはお地蔵さまだけではないということと、未知の著者だったことがさらに興味を惹きつけた。
 地元の図書館には蔵書がなかったので、購入して読んだという次第。

 「はじめに」から著者の言葉を引用しよう。
 「耳を澄ましてみると、お言葉も聞こえてきます。もちろん本当にお地蔵さんがしゃべるわけじゃないけれど、お顔が親しみやすくて生きているかのように表情豊かなので、もしかすると、この石仏はこんなことを言いたいんじゃないかと、どんどん想像が湧いてくるのです」

 冒頭に、お地蔵さまは石像の代表と書いた。そこで本書の構成をまず分析的にご紹介する。
 本書は、お言葉を58項目取り上げている。目次として一行のメッセージが連なっている。見開きページを見ると、そのメッセージに、マンガで使われる吹き出しの形で、サブ・メッセージが語られる。いわば、一行メッセージをかみ砕いた解釈あるいは補足の語りが付いている。一行メッセージが一層具体的にわかりやすくなっている。吹き出しなしのメッセージもある。

 一行メッセージと吹き出しのメッセージ。その先の対話をどのように続けるか?
 それは読者のあなた次第ということに・・・・。

 お地蔵さまを石像の代表と記した。石仏とは意識的に書かなかった。
 そこで、58の石像の構成を、本書での見出し語句に準じて数量的にまとめてご紹介すると、次のとおり:
 地蔵菩薩 18
 観音菩薩 14  如意輪観音(7)、十一面観音(2)、聖観音(1)、二十五菩薩(1)
          三十三観音(2)、岩屋観音(1)
 阿弥陀仏  4  そのうちの一つは、二尊逆修塔(阿弥陀如来/薬師如来)
 羅漢像   7
 不動明王  2  そのうちの一つは、不動三尊像
 他の石仏  6  布袋像(1)、弁財天(1)、十王(1)、角大師(1)、金剛力士(1)
       奪衣婆(1)
 田の神   2
 女神    1
 巨石群   1
 動物等   3  狐(1)、狛犬(1)、ムジナ(1)

 本書で取り上げられた石像で一番数の多いのが地蔵菩薩であり、石仏のポピュラーさから考えても、お地蔵さまがやはり代表となることだろう。
 勿論、一枚の写真には数多くの石仏・石像が写っているので、本書で眺める石仏・石像数はかなりの数になる。地蔵石仏以外に関心が向く読者もおられるのではないかと思うので、全体構成もまた、参考にしていただけるのではと思う。

 地元としては、この本に取り上げられている京都市の愛宕念仏寺の羅漢像群や金戒光明寺の五劫思惟阿弥陀仏は訪ねたことがある。一方、赤山禅院の三十三観音・羅漢像や古知谷阿弥陀寺の如意輪観音は未訪。暖かくなったら・・・・探訪目標がまた一つできた。

 本書には、コラムが4つ載っている。お猫さま/ 赤の着こなし(付記:お地蔵さま関連)/ 狛犬コレクション/ 美貌の観音さま である。これらも勿論石像・石仏の写真のページ。
 美貌の観音さまの一番最後に取り上げられている写真が、赤山禅院の千手観音像。真っ先にこの石仏を真近くで拝見したくなった。

 最後に、一つだけ、お地蔵さまのことばをご紹介しておこう。
 お言葉32として掲載されている。見開きの左ページに載るのは、神奈川県川崎市の浄慶寺にある「足の裏地蔵」である。こんな石仏、初めて目にした!
 一瞬、エッ!と思い、ちょっとユーモラスでもある。
 お地蔵さまのことばは、
    守りに入るのはまだ早い
 これについている吹き出しの語りは:
    僕はあなたの足の裏にいる地蔵です。
    昔は、好きなものに向かって突進するあなたに
    難儀しましたが、最近は家と会社の往復だけ。
    でも、楽だからって楽しいわけじゃない。
    これからもどんどん突飛なことを思いついて
    右へ左へと、走り回ってほしいな。
    転んだりしないように、しっかり支えていますから。

 家と会社の往復すら、はるか過去のことになった現在、改めて「守りに入るのはまだ早い」という言葉をとらえ直してみたいと感じる。

 やさしい表現だけれど、その言葉とじっくり対話するとしたら、本書を通読する時間の何倍も、何十倍も時間を要するだあろうなぁ・・・というのも感想である。ときどき開けて、写真を見ながら、メッセージの意味の対話をつづけるのにもってこいの一冊である。

 ご一読ありがとうございます。

コメント (2)
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『夏の戻り船 くらまし屋稼業』  今村翔吾   ハルキ文庫

2025-01-23 23:22:25 | 今村翔吾
 くらまし屋稼業第3弾!! 表稼業は飴細工屋の堤平九郎、居酒屋の「波積屋」で働く七瀬、そして「波積屋」の常連客の赤也。この3人がチームとなり、当人から依頼を受け、誰にも知られずに江戸からくらましてしまうという裏稼業を実行する。痛快なエンターテインメント時代小説である。

だれをくらますのか? 阿部将翁。元幕府の採薬使[31年前の享保6年(1721)から10年前
           まで]。 将軍吉宗の直々の要請。本草家としては異端的存在。
どこへくらますのか? 盛岡藩閉伊通豊間根(ヘイイドオリトヨマネ)村に。阿部本人の依頼。

 今回のくらましには、いくつかの条件がさらに本人から付いた。平九郎にとってはくらますという仕事を成し遂げる上で大きな制約要素となる。阿部は、目的地まで船を使い、皐月(5月)15日に到着してほしいと言う。さらに、己がくらましを受ける当日まで今の自宅に留まっていられるかどうかはわからないとつけ加える。その事情と軟禁される可能性のある場所を2カ所、平九郎に告げた。

 本書は2018年12月、文庫の書下ろし作品として刊行された。

 読了後に改めてなるほどと思ったのが第1章の見出し「一生の忘れ物」である。これが阿部将翁にとって、くらまし屋の平九郎に難題を持ち掛ける根源となるキーワードだったのだ。

 さて、依頼人の将翁は年老いて躰が弱ってきていることを熟知していた。
 この半年の間に、市井の本草家が次々に神隠しのように姿を晦ましていて、消える者の年齢が徐々に高くなってきている事態が発生していた。その対象には幕府の役付本草家は避けられていた。役目を離れてしまった将翁は、最後に姿を消した者が五十過ぎの者だったので、次は己が狙われている番かと感じている。幕府は本草家の行方不明は何者かに連れ去られているからと考えているようなのだ。それ故か、将翁の所に小石川薬園奉行配下の与力・住岡仙太郎が度々将翁を訪れるようになっていた。また、同心が将翁の近辺に張り付いてもいた

 将翁は、古巣の小石川薬園に駕籠で向かう途中、養生所の近くで、町医者の小川笙船に出会う。将翁の弟子だ。将翁はこの笙船からくらまし屋の情報を伝え聞く。将翁は、帰路、監視の同心をうまくごまかして、浅草寺の雷門のほど近くに出店をしている平九郎に接触した。それがこのストーリーの始まりとなる。

 将翁の危惧どおり、下男の弁助と共に間もなく軟禁されることになる。そこは小川笙船が将翁に伝えたとおり、ここ3年ほど前に幕府が高尾山に設営した隠し薬園だった。平九郎らにとって、俄然、くらまし実行のハードルが高くなる。

 このストーリーの全体の構造が読者にとってはおもしろい。

 将翁は、既に己の余命が残り少ないことを自覚し始めている。そこで、最後にやりとげたいことが一つあった。「一生の忘れ物」にしないための最後の行動である。それが最初の「どこに」という場所に絡む。勿論、平九郎は目的地に、期日までに到着させることをくらまし屋として、契約するだけである。なぜか?は、現地に着くまで平九郎にも謎のままとなる。読者にも最期まで気を持たせつづけることに・・・・・。ストーリーの最終ステージへの進展につれて、感情移入してしまう。その理由があきらかになると、読者にとって涙は自然の帰結と言える。たぶん・・・・・。私にはそうだった。

 将翁をターゲットに、彼をかどわかそうとねらう謎の輩が現れる。彼らもまた、高尾山の隠し薬園を目指す。
 平九郎たちのくらまし計画と行動。かどわかしを狙う輩の行動。この二つは互いにその存在を知らぬままで、パラレルに独自行動を進行させていく。両者の動きを知るのは、読者だけである。そこがおもしろさを加えていく。

 隠し薬園は薬園奉行の管轄。だが、そこに将翁を軟禁することで、別の問題が発生する。本草家が次々に消えていて、将翁がそのターゲットになっている前提で、正体不明の謎の者たちに将翁を奪われないという防御が必要になるということ。一方、幕府上層部からの指令により、将翁からすみやかに秘事を聞き出さねばならないのだ。
 将翁が軟禁された時点で、道中奉行や御庭番が防御態勢の中に組み込まれていく。にわか仕立ての防御体制は、駆り出された当事者たちの上層部の命令発信者の思惑の違いにより、必ずしもうまく機能するかどうかが不確定要素となる。ここに、もうひとつの面白味の源が潜む。著者はなかなか巧妙に幕府側の組織構造を組み込んでいく。
 高尾山に軟禁して、将翁から聞き出す役目は、先に記した住岡が担う。彼には立身出世願望があり、ここで手柄を立てたいと思っている。高尾山を管轄する薬園奉行配下の担当者たちとは別に、将翁を防御するために腕のたつ配下の者を連れてきている。
 さらに指示を受けて道中奉行が警戒に加わる。そのリーダーが篠崎瀬兵衛なのだ。この任務の意味がすっきりと呑み込めない故に、瀬兵衛はこの任務に就かされた配下の者たちのことを第一に考える。お庭番は瀬兵衛にとっても正体がつかめない不気味な存在に見える。
 篠崎瀬兵衛は、平九郎にとって既に関りを持つ場面があった道中奉行である。第2作でその関りが生まれている。瀬兵衛は勘働きに優れ、記憶力や分析力に秀でた存在なのだ。敵に回せば手強い相手と言える。勿論、高尾山に瀬兵衛が敵側に居ることを、平九郎は知る由もない。

 つまり、高尾山の隠し薬園を舞台に、三つ巴の争いになる状況が徐々に生み出されていく。その渦中で、平九郎たちは、体力の弱っている将翁をいかに高尾山から救出し、くらましを成功させる段取りにつなげていけるのか。
 平九郎たちが、高尾山からまず将翁を救出するために仕掛けた作戦のトリックがやはり読ませどころとなっていく。
 さらに、平九郎と謎の輩とが接触し、刃を交えねばならなくなる場面がやはり盛り上がる。見せ場と言えよう。併せて、瀬兵衛の行動も興味深い。
 
 くらまし屋稼業シリーズ、第5章で、平九郎の過去の一端が回想として挿入される。平九郎の妻となった初音との出会いの回想である。読者にとっては、平九郎の過去が少し明らかになる点がうれしい。そこに、くらまし屋稼業をしている平九郎が時折思い出す言葉が記されている。
   人に良くしていれば、必ず巡ってくるものです。 p239

 この第3作、平九郎がぽつりと言う「出逢いと別れか」が末尾近くに出て来る。 p271
 この言葉がこのストーリーのテーマになっている。
 その後に「まだ終わっちゃいねえよ」 p271
 これも平九郎の言である。そう、平九郎にはやるべきことがあるからだ。
 
 このシリーズの次作はどういう進展をするのか。楽しめることだろう。

 ご一読ありがとうございます。


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『じんかん』     講談社
『戦国武将を推理する』      NHK出版新書
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『恋大蛇 羽州ぼろ鳶組 幕間』  祥伝社文庫
『襲大鳳 羽州ぼろ鳶組』 上・下   祥伝社文庫
『黄金雛 羽州ぼろ鳶組零』 祥伝社文庫
『双風神 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『玉麒麟 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『狐花火 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『夢胡蝶 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『菩薩花 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『鬼煙管 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『九紋龍 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『夜哭烏 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『火喰鳥 羽州ぼろ鳶組』   祥伝社文庫
『塞王の楯』   集英社

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『禁断の国史』  宮崎正弘   ハート出版

2025-01-17 20:39:45 | 歴史関連
 新聞広告で本書を知った。書名の「禁断」という冠言葉に興味を抱いたためである。
 「禁断」という語句は「絶対にしてはならぬと堅く禁じられていること(行為)」(『新明解国語辞典 第五版』三省堂)という意味だから、日本史を語るのに、敢えてこの語句を付けるのはなぜか? 何か思い切った見解でも述べるのだろうか・・・・。まあ、そういう好奇心から。地元の図書館の蔵書本を借りて読んだ。
 本書は、2024年8月に単行本が刊行された。

 サブタイトルがおもしろい。「英雄100人で綴る教科書が隠した日本通史」。
 「序章 日本の英雄たちの光と影」で著者は記す。「歴史とは物語である。英雄の活躍が基軸なのである」と。そこで、著者は一人の英雄(時折、複数)を取り上げて、その人物が日本の歴史にどのように関わったのか。人物のプロフィールと行動を描く形で、歴史年表の項目になっている史実に触れていく。英雄たちをつないでいく形で、日本通史の語りを試みる。私にとっては、今まで読んだことのないスタイルの通史本の面白さとともに、視点の異なる史実解釈に接する機会となった。

 序章の3ページを読むだけで、著者が現在の歴史学者の見解を批判する歴史観のもとに本書を記していることの一端がわかる。
 要約すると、著者はまずこの序章で次の観点を指摘する。
*歴史の始まりにある神話を現在の歴史教育は無視する。日本人は自らの先祖の物語を忘れ、神々を信じなくなった。神話の実在性を裏付ける地名、遺跡の存在に歴史学者は知らん顔である。
*今の歴史書には自虐史観の拡大と外国文献の記録を事実視し正史とする誤断がある。
*史実については、後世の史家の主観の産物(見解)が押し付けられているところがある。

 そして、序章の次のパラグラフで、本書の意図を述べている。
”この小冊が試みるのは、「歴史をホントに動かした」英傑たち、「旧制度を変革し、国益を重んじた」愛国的な政治家、「日本史に大きな影響をもった」人たちと「独自の日本文化を高めた」アーティストらの再評価である。時系列的に歴史的事件を基軸にするのではなく、何を考えて何を為したかを人物を中軸に通史を眺め直した。従来の通説・俗説を排しつつ神話の時代からの日本通史を試みた。”と。(p3)

 本書の構成とその章で取り上げられた英雄たちの人数を丸括弧で付記しておこう。
   第1章 神話時代の神々           ( 8)
   第2章 神武肇国からヤマト王権統一まで   (13)
   第3章 飛鳥時代から壬申の乱         (12)
   第4章 奈良・平安の崇仏鎮護国家      (24)
   第5章 武家社会の勃興から戦国時代     (20)
   第6章 徳川三百年の平和          (21)
   第7章 幕末動乱から維新へ         (19)

 例えば、第2章と第5章で、著者が誰を英雄たちとして取り上げているか。その人名だけ列挙してみる。この時代の通史として、あなたのイメージにこれらの人々が想起されるだろうか。
【第2章】 神武天皇/ 崇神天皇/ 日本武尊/ 神功皇后/ 応神天皇/ 雄略天皇/
      顕宗天皇/仁賢天皇/ 継体天皇/ 筑紫君磐井/ 稗田阿礼・太安万呂

【第5章】 平清盛/ 木曽義仲/ 源頼朝/ 後鳥羽上皇/ 亀山天皇/ 親鸞/ 後醍醐天皇
  足利尊氏/ 光厳天皇/ 楠木正成/ 北畠親房・北畠顕家/ 日野富子
ザビエル/ 織田信長/ 明智光秀/ 正親町天皇/ 豊臣秀吉/ 石川数正
黒田官兵衛
 私の場合、第2章では、想起できる人名が数名、第5章では想起できない人名が数名いた。
 
 本書に登場する英雄たちの中に、今までまったく意識していなかった人物が居る。また、過去の読書や見聞から、多少は知識として知っていても、本書で知らなかった側面を知らされる機会になった。ほとんどが2ページという枠に納めて日本通史に絡める論述なので、かなり断定的な記述にもなっている。そのため、そういう側面や事実があるのか・・・・という受け止め方になりがちだった。本書により問題意識を喚起されたというのが、本書のメリットと感じる。
 例えば、豊臣秀吉が行った朝鮮への二度にわたる出兵は、ポルトガル、スペインによる日本侵略に対する先制予防戦争の原型(p159)。秀吉によるキリシタン追放の意図は背景に宣教の陰に隠れた闇商売の問題事象がからむ(p177)。勝海舟が蘭学修行中に、辞書を1年かけて2冊筆写した(p235)。など、他にもいろいろと知的刺激を受けた。つまり、「そういう側面や説明」の指摘については、一歩踏み込んで史資料で確認するというステップを踏んで、理解を深めるステップがいるなという思いである。歴史認識への刺激剤。

 一方で、筆者の筆の滑りなのか、編集・校正ミスなのかと思う箇所もある。例えば、紫式部の項の「夫の越前赴任により現在の越前市に住んだことがある」(p118)は明らかに父の越前赴任のはず。「光る君へ」でもそうだった。親鸞の項目の「『歎異抄』『教行信証』などは親鸞の弟子たちがまとめた」(p136)。この箇所、『歎異抄』は弟子の唯円がまとめたと言われているが、『教行信証』は親鸞自身が晩年まで本文の推敲を重ね続けたと見聞する。引用文の形では意味が変化するように思うのだが・・・・。

 いずれにしても、ここで取り上げられた英雄たちについて、まったく名前すら知らなかった人びととが取り上げられている。名前は見聞したことがあっても、日本通史の中で重要な位置づけとしてとらえていなかった人々がいる。知らなかった側面に光が当てられた人々もいる。
 そういう意味で、知的刺激を結構受けた日本通史本である。

 著者の視点・見解も含めて、我が国の過去の歴史に一歩踏み込んでみたいと思う。

 ご一読ありがとうございます。
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