鬼役シリーズの第3弾! 他社文庫刊から改題の上、2012年6月に文庫本刊行。(奥書は前作同様の経緯を経たシリーズなので、以降煩雑さを避けて略記する)
新装版文庫の表紙
今回は短編連作風時代小説と言うべきか。本書には「鬼役受難」「蘭陵乱舞」「不空羂索」「乾闥婆城」の4編が収録されている。
このシリーズの主人公は矢背蔵人介であり、表の顔は毒味役。裏の顔はグレーゾーン状態にある。蔵人介には用人として串部六郎太が付き従い、強力な協力者となる。
今回は、主な登場人物として、しばしば登場する矢背蔵人介の家族・親族について、ここに記しておこう。
矢背志乃 蔵人介の義母。蔵人介は矢背家の養子となった。志乃は長刀の達人。
前作で当事者として関りを深めたが、茶道においても師匠格の技量を持つ。
矢背幸恵 蔵人介の妻。徒歩目付の綾辻家から嫁いできて、鐵太郎という一子を産む。
弓の達人でもある。
綾辻市之進 幸恵の弟。不正を嫌悪するごく真面目な徒歩目付として任務に精励する。
三十路になっているが独り者。蔵人介の所によく出向いてきて情報提供者
の役割を果たすとともに、蔵人介の活動に協力することしばしばである。
剣の腕はそこそこレベルにとどまるが、柔術と捕縛術には長けている。
もう一人、第2作から表に登場してきた人物に触れておこう。
橘 右近 御小姓組盤頭。蔵人介の裏の役目が暗殺役であると知っている人物。
若年寄の長久保加賀守、蔵人介の裏の役目だった指令役の立場になる意図
を見せ始めている。
つまり、第2作以降、橘右近と蔵人介との関係がどうなるかは、読者にとっても重要な関心事とならざるを得ない。それだけ、ストーリー展開がおもしろくなると言える。
各編ごとに、読後印象を含めて、少しご紹介していこう。
第2作で天保2年の蔵人介の活躍が描かれた。本書は、天保3年の事件譚である。
< 鬼役受難 >
このタイトルにまず惹きつけられる。これは天保3年卯月のストーリー。
田宮流抜刀術の達人ということはわかっているから、第3作に入って受難って何?
ストーリーの冒頭で、公人朝夕人(クニンチョウジャクニン)の土田伝右衛門から、明後日の灌仏会の夕餉において二の膳の鱚(キス)の塩焼きには毒が盛られるという噂があると密かに伝えられる場面から始まる。本来の役目で危地に立つ?! のっけから興味津々に・・・。
蔵人介が警告を承知の上で毒味をする。毒と知りつつ毒を喰らい、己の体で実証し、役目を全うする。このストーリーはそこからが本当の始まりなのだ。
だれが毒をもった犯人なのか?
九死に一生を得た蔵人介は串部に言う。「毒を盛られて平気でいられるはずがあるまい。相手がどのような難敵でも、かならずや仕留めてみせる」(p41)と。
勿論、橘右近は蔵人介を呼びつけ面談する。読ませどころとなる山場をいくつも盛り込んでいて、読者を惹きつけること間違いなし。毒味に到る過程。家斉謁見の場面。犯人追求プロセスでは大奥の政争に止まらず禁裏にまで裏事情の蠢きが及んでいく。
スケールの広がりと一種のどんでん返しを楽しめる。一方、私は完結する短編という印象を持てなかった。この編で蔵人介が黒幕を仕留めるまでに至らないから。
< 蘭陵乱舞 >
冒頭文は「茫種(ボウシュ)」という語句から始まる。稲を植える時分のころをいう。
茶壷道中の前を横切った過度で妊婦が斬殺されることから始まる。江戸城内で茶を点てる役目の数寄屋衆の横柄な振る舞いで、常陸下妻藩主の井上正健が困惑している場に出くわした蔵人介が手助けをした。それが因となり、蔵人介は碩翁に譴責部屋に呼び出される。腹を切りたくなければ、採茶師の横内恵俊を斬れと言われる。この悪辣坊主を斬ろうとしたことが因となり、禁裏と南都奈良のたくらみの渦中に、蔵人介は投げ込まれて行く。土田伝右衛門は、奈良の当尾にある岩船寺の笑い仏が絡んでいると、蔵人介に教えた。彼らの狙いは、将軍家斉の御首級を取ることだという。
小大名を助けたことが思わぬ方向へ蔵人介を引き込んでいく。一方、宇治の茶師、神林香四郎が義母の志乃のところに来訪してきていた。
なかなか巧妙なストーリー構成になっている。そこがおもしろい。
この一編、最後は江戸城内、大広間前の表舞台が山場となる。舞楽の演目は蘭陵王と納曽利である。タイトルはここに由来する。
この短編は、ひとまず一件落着する。蔵人介が一局面において、いわば生きがいを感じる機会となっただろうと、読者は共感でき楽しめると思う。
< 不空羂索 >
時季は暦が夏至に変わった頃に移る。吉原の廓で、夕霧のもとに入り浸っている宗次郎を連れ戻すために、蔵人介は串部を伴い、吉原に乗り込む。夕霧、宗次郎に会い、話し合っている時に、厠で首を縊ったと思われる遊客が発見される。夕霧も馴染みにしていた伊勢屋徳兵衛という札差だった。
宗次郎が花魁の佐保川と会っているのを目撃された夜、佐保川が足抜きしたという。
蔵人介は吉原での佐保川事件に関わらざるを得なくなる。宗次郎の行方がわからなくなったのだ。佐保川のことを探るために、蔵人介は、橘右近を介して大奥表使の村瀬に会う。だがそこで、村瀬の抱える問題にも巻き込まれていく。伊勢屋の死と、村瀬の抱える問題とに接点が出て来る。加えて、佐保川の素性の一端がわかる。大奥の政争に宗次郎がからみとられているようなのだ。
「そは観音菩薩の羂索(ケンジャク)、人界の鋼にて断つことあたはず。無駄なことはおやめなされ」(p210)と蔵人介が告げられる場面が出て来る。不空羂索観音菩薩という名称。短編のタイトルはここに由来するようだ。
< 乾闥婆城 >
冒頭は「鬱陶しい梅雨は明けた」という一文。蔵人介と家族は、夜店を楽しんだ後、涼み舟に乗り大川の花火見物を楽しむが、その時、祇園祭の鉾の形をした屋形船がすれ違っていく。その舳先に「金青色の能面に唐人装束、異様な風体の二人が置物のごとく舳先に立っている」(p251)のを蔵人介らは目撃する。志乃は南都興福寺の天龍八部衆に乾闥婆なる神がいることを思い出す。乾闥婆城とは蜃気楼のことなのという。
南都最強の敵が、蔵人介の前に遂に姿を見せ始めたのだ。
義弟の綾辻市之進が、蔵人介を訪ねてきて、漆奉行の不正について探索している内容を語る。そんな矢先に、蔵人介は御前試合に出るようにとの命を受ける。蔵人介は橘右近から呼び出されて、背景事情推測の一端を聞かされる。蔵人介は真の問題事象の渦中に投げ込まれていく。
このストーリー、御前試合が大きな山場になって行く。
別次元と思われる事象が互いに錯綜し、陰の部分で繋がっており、その一方で、異なる企みが併存することを蔵人介は己の身を挺して認識していく。
そして、遂に乾闥婆が姿を現す・・・・・。
この短編、フィクションの面白さを遺憾なく発揮している。
この第3作、蔵人介は橘右近との間に未だ距離を保つことができたと言える。
最後に本書のタイトルは「乱心」。乱心とは、「正常な精神状態ではなくなること」(『新明解国語辞典』三省堂)という意味だから、このストーリーの大半の登城人物はこの語彙に該当する。なぜ、この語彙をタイトルに。
この第3作の4編の繋がりを踏まえ直して、ふと視点を変えて思ったこと。この「乱心」は将軍家斉を表象しているのではないか。それがオチにもなっていると。そこがフィクションのおもしろさかもしれない。なぜ、そう思ったのかは、本書をお読みいただき、ご判断いただきたい。
さて、次作ではどう進展していくのか。楽しみである。
ご一読ありがとうございます。
補遺
灌仏会 :ウィキペディア
蘭陵王 (雅楽) :ウィキペディア
納曾利 雅楽 作品と鑑賞 :「文化デジタルライブラリー」
蘭奢待 :「コトバンク」
例幣使街道 :「栃木市観光協会」
亀戸天神社 ホームページ
川崎大師 ホームページ
御茶壷道中の栄誉、そして挑戦の時代へ :「綾鷹」
東大寺不空羂索観音立像 :ウィキペディア
乾漆八部衆立像 :「法相宗大本山 興福寺」
乾闥婆【八部衆】 :「法相宗大本山 興福寺」
祇園祭 ホームページ (祇園祭山鉾連合会)
天下祭 :ウィキペディア
山王祭山王山車のゆくえ :「皇城の鎮 日枝神社」
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こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『刺客 鬼役弐』 坂岡 真 光文社文庫
『鬼役 壱』 坂岡真 光文社文庫
『太閤暗殺 秀吉と本因坊』 坂岡真 幻冬舎
新装版文庫の表紙
今回は短編連作風時代小説と言うべきか。本書には「鬼役受難」「蘭陵乱舞」「不空羂索」「乾闥婆城」の4編が収録されている。
このシリーズの主人公は矢背蔵人介であり、表の顔は毒味役。裏の顔はグレーゾーン状態にある。蔵人介には用人として串部六郎太が付き従い、強力な協力者となる。
今回は、主な登場人物として、しばしば登場する矢背蔵人介の家族・親族について、ここに記しておこう。
矢背志乃 蔵人介の義母。蔵人介は矢背家の養子となった。志乃は長刀の達人。
前作で当事者として関りを深めたが、茶道においても師匠格の技量を持つ。
矢背幸恵 蔵人介の妻。徒歩目付の綾辻家から嫁いできて、鐵太郎という一子を産む。
弓の達人でもある。
綾辻市之進 幸恵の弟。不正を嫌悪するごく真面目な徒歩目付として任務に精励する。
三十路になっているが独り者。蔵人介の所によく出向いてきて情報提供者
の役割を果たすとともに、蔵人介の活動に協力することしばしばである。
剣の腕はそこそこレベルにとどまるが、柔術と捕縛術には長けている。
もう一人、第2作から表に登場してきた人物に触れておこう。
橘 右近 御小姓組盤頭。蔵人介の裏の役目が暗殺役であると知っている人物。
若年寄の長久保加賀守、蔵人介の裏の役目だった指令役の立場になる意図
を見せ始めている。
つまり、第2作以降、橘右近と蔵人介との関係がどうなるかは、読者にとっても重要な関心事とならざるを得ない。それだけ、ストーリー展開がおもしろくなると言える。
各編ごとに、読後印象を含めて、少しご紹介していこう。
第2作で天保2年の蔵人介の活躍が描かれた。本書は、天保3年の事件譚である。
< 鬼役受難 >
このタイトルにまず惹きつけられる。これは天保3年卯月のストーリー。
田宮流抜刀術の達人ということはわかっているから、第3作に入って受難って何?
ストーリーの冒頭で、公人朝夕人(クニンチョウジャクニン)の土田伝右衛門から、明後日の灌仏会の夕餉において二の膳の鱚(キス)の塩焼きには毒が盛られるという噂があると密かに伝えられる場面から始まる。本来の役目で危地に立つ?! のっけから興味津々に・・・。
蔵人介が警告を承知の上で毒味をする。毒と知りつつ毒を喰らい、己の体で実証し、役目を全うする。このストーリーはそこからが本当の始まりなのだ。
だれが毒をもった犯人なのか?
九死に一生を得た蔵人介は串部に言う。「毒を盛られて平気でいられるはずがあるまい。相手がどのような難敵でも、かならずや仕留めてみせる」(p41)と。
勿論、橘右近は蔵人介を呼びつけ面談する。読ませどころとなる山場をいくつも盛り込んでいて、読者を惹きつけること間違いなし。毒味に到る過程。家斉謁見の場面。犯人追求プロセスでは大奥の政争に止まらず禁裏にまで裏事情の蠢きが及んでいく。
スケールの広がりと一種のどんでん返しを楽しめる。一方、私は完結する短編という印象を持てなかった。この編で蔵人介が黒幕を仕留めるまでに至らないから。
< 蘭陵乱舞 >
冒頭文は「茫種(ボウシュ)」という語句から始まる。稲を植える時分のころをいう。
茶壷道中の前を横切った過度で妊婦が斬殺されることから始まる。江戸城内で茶を点てる役目の数寄屋衆の横柄な振る舞いで、常陸下妻藩主の井上正健が困惑している場に出くわした蔵人介が手助けをした。それが因となり、蔵人介は碩翁に譴責部屋に呼び出される。腹を切りたくなければ、採茶師の横内恵俊を斬れと言われる。この悪辣坊主を斬ろうとしたことが因となり、禁裏と南都奈良のたくらみの渦中に、蔵人介は投げ込まれて行く。土田伝右衛門は、奈良の当尾にある岩船寺の笑い仏が絡んでいると、蔵人介に教えた。彼らの狙いは、将軍家斉の御首級を取ることだという。
小大名を助けたことが思わぬ方向へ蔵人介を引き込んでいく。一方、宇治の茶師、神林香四郎が義母の志乃のところに来訪してきていた。
なかなか巧妙なストーリー構成になっている。そこがおもしろい。
この一編、最後は江戸城内、大広間前の表舞台が山場となる。舞楽の演目は蘭陵王と納曽利である。タイトルはここに由来する。
この短編は、ひとまず一件落着する。蔵人介が一局面において、いわば生きがいを感じる機会となっただろうと、読者は共感でき楽しめると思う。
< 不空羂索 >
時季は暦が夏至に変わった頃に移る。吉原の廓で、夕霧のもとに入り浸っている宗次郎を連れ戻すために、蔵人介は串部を伴い、吉原に乗り込む。夕霧、宗次郎に会い、話し合っている時に、厠で首を縊ったと思われる遊客が発見される。夕霧も馴染みにしていた伊勢屋徳兵衛という札差だった。
宗次郎が花魁の佐保川と会っているのを目撃された夜、佐保川が足抜きしたという。
蔵人介は吉原での佐保川事件に関わらざるを得なくなる。宗次郎の行方がわからなくなったのだ。佐保川のことを探るために、蔵人介は、橘右近を介して大奥表使の村瀬に会う。だがそこで、村瀬の抱える問題にも巻き込まれていく。伊勢屋の死と、村瀬の抱える問題とに接点が出て来る。加えて、佐保川の素性の一端がわかる。大奥の政争に宗次郎がからみとられているようなのだ。
「そは観音菩薩の羂索(ケンジャク)、人界の鋼にて断つことあたはず。無駄なことはおやめなされ」(p210)と蔵人介が告げられる場面が出て来る。不空羂索観音菩薩という名称。短編のタイトルはここに由来するようだ。
< 乾闥婆城 >
冒頭は「鬱陶しい梅雨は明けた」という一文。蔵人介と家族は、夜店を楽しんだ後、涼み舟に乗り大川の花火見物を楽しむが、その時、祇園祭の鉾の形をした屋形船がすれ違っていく。その舳先に「金青色の能面に唐人装束、異様な風体の二人が置物のごとく舳先に立っている」(p251)のを蔵人介らは目撃する。志乃は南都興福寺の天龍八部衆に乾闥婆なる神がいることを思い出す。乾闥婆城とは蜃気楼のことなのという。
南都最強の敵が、蔵人介の前に遂に姿を見せ始めたのだ。
義弟の綾辻市之進が、蔵人介を訪ねてきて、漆奉行の不正について探索している内容を語る。そんな矢先に、蔵人介は御前試合に出るようにとの命を受ける。蔵人介は橘右近から呼び出されて、背景事情推測の一端を聞かされる。蔵人介は真の問題事象の渦中に投げ込まれていく。
このストーリー、御前試合が大きな山場になって行く。
別次元と思われる事象が互いに錯綜し、陰の部分で繋がっており、その一方で、異なる企みが併存することを蔵人介は己の身を挺して認識していく。
そして、遂に乾闥婆が姿を現す・・・・・。
この短編、フィクションの面白さを遺憾なく発揮している。
この第3作、蔵人介は橘右近との間に未だ距離を保つことができたと言える。
最後に本書のタイトルは「乱心」。乱心とは、「正常な精神状態ではなくなること」(『新明解国語辞典』三省堂)という意味だから、このストーリーの大半の登城人物はこの語彙に該当する。なぜ、この語彙をタイトルに。
この第3作の4編の繋がりを踏まえ直して、ふと視点を変えて思ったこと。この「乱心」は将軍家斉を表象しているのではないか。それがオチにもなっていると。そこがフィクションのおもしろさかもしれない。なぜ、そう思ったのかは、本書をお読みいただき、ご判断いただきたい。
さて、次作ではどう進展していくのか。楽しみである。
ご一読ありがとうございます。
補遺
灌仏会 :ウィキペディア
蘭陵王 (雅楽) :ウィキペディア
納曾利 雅楽 作品と鑑賞 :「文化デジタルライブラリー」
蘭奢待 :「コトバンク」
例幣使街道 :「栃木市観光協会」
亀戸天神社 ホームページ
川崎大師 ホームページ
御茶壷道中の栄誉、そして挑戦の時代へ :「綾鷹」
東大寺不空羂索観音立像 :ウィキペディア
乾漆八部衆立像 :「法相宗大本山 興福寺」
乾闥婆【八部衆】 :「法相宗大本山 興福寺」
祇園祭 ホームページ (祇園祭山鉾連合会)
天下祭 :ウィキペディア
山王祭山王山車のゆくえ :「皇城の鎮 日枝神社」
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こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『刺客 鬼役弐』 坂岡 真 光文社文庫
『鬼役 壱』 坂岡真 光文社文庫
『太閤暗殺 秀吉と本因坊』 坂岡真 幻冬舎