遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『散華 紫式部の生涯』 上・下巻  杉本苑子  中公文庫

2024-06-19 22:06:58 | 諸作家作品
 千年余を越え現在も読み継がれ、諸外国語で翻訳版も出版され続ける『源氏物語』という畢生の大作を生み出し、『紫式部日記』『紫式部集』を残した通称紫式部。その紫式部はどのような人生を過ごしたのか。生年も没年も不詳。わずかの著書と断片的な史資料を踏まえて、なぜ、『源氏物語』が執筆されたのか、その経緯を中核に紫式部の生涯を描ききった小説である。
 本作は、『婦人公論』(昭和61年3月号~平成2年1月号)に連載として発表された。その後、1991(平成3)年2月に単行本が刊行され、1994年1月に文庫化された。冒頭のカバー表紙はこの文庫版のもの。そのカバー画は加山又造作で、上巻「夜桜」(部分)、下巻「朧」(部分)が使われている。かなり以前に入手していた文庫版を読み終えた。
 調べてみると、2023年9月に、カバーをイラストに変更した新装版文庫が刊行されている。

 本作で紫式部は小市という名で描かれていく。姉は大市。播磨国飾磨の市の日に生まれたので大市と名付けられた。紫式部は二女として生まれたことから小市の名が付いたとする。父の藤原為時の赴任先、播磨の国府で、三人目の子、薬師麿を生んだ後、産をこじらせて母が播磨で亡くなる。父為時は任務を終え、子供らと共に帰京。為時には周防と称する妹が居て、この周防が兄の子供らの世話を引き受ける。
 周防が小市と薬師麿を伴い、粟田口から日岡の街道経由で来栖野にある宮道列子の墳墓や勧修寺を訪ねる場面からストーリーが始まる。往路、日岡の街道で、裸で虚死(ソラジニ)していた男が強盗を働く様子を偶然に目撃した。周防等はこの強盗と勧修寺の回廊で出くわすことになる。同行していた薬師麿の乳母が、この男を今評判の袴垂かと推察した。男は藤原保輔と名乗り、その場を去る。この出会いが後々への一筋の伏線となっていくところがおもしろい。
 余談だが、最近平安時代を背景としたいくつかの著者を異にする小説を読み継いできて、袴垂れの保輔がいずれにも出てくる状況に出くわした。当時名を馳せた実在のいわゆる義賊だったようである。
 
 ここから始まる上巻は、当時の社会的状況と貴族社会の勢力関係などの背景を巧みに織り込んでいく。『蜻蛉日記』を介して藤原一門の状況が語られ、強盗の横行と魔火(放火)が頻繁に発生していた状況が明らかになる。円融帝が退位、花山天皇が新帝となるが、麗ノ女御と呼ばれた忯子の死が契機となり、藤原道兼の唆しに乗り花山天皇が出家する。花山天皇が東宮だった時に小市の父・為時は学問の相手として関わりを得、花山帝の政庁発足で式部丞に補されたのだが、この事態はたちまち為時に失職という影響を及ぼす。一方、姉の大市は、花山帝側近の一人となった権中納言義懐の想われ人として見出されていた。それが姉の人生を変える結果となる。
 花山帝出家、一条帝が7歳で践祚し、一条天皇の時代となる。それは息子たちを使い、政略謀略により一条帝の外祖父となった藤原兼家一族の時代、藤原摂関家の時代の始まりである。まずは兼家謳歌の時代。だが、そこから一族内部の兄弟間の熾烈な権力闘争に進展していく。まず長男道隆が摂関家を継承。道隆の娘・定子が一条帝に入内する。しかし、道隆は疫病で没し、二男道兼は「七日関白」で終わる。道隆同様に赤班瘡(アカモガサ)で没した。道長の時代へと移る。道隆の子息の伊周(コレチカ)と隆家(タカイエ)は、史上でいわれる「中ノ関白家事件」で転落していくことに・・・・。
 上巻では、左大臣になった道長の時代のもとで、小市の父・為時が当初淡路の国司への除目が、越前の国司に変替えを通達されるところまでが描かれる。

 ここまでの時間軸で興味深いと思った点がある。
1. この段階では、小市は己の生きている時代を、己の目と耳で見聞する観察者の立場にいる。父を含め、周囲の人々から社会の情勢、貴族社会内部の人間関係や権力闘争、政治の状況について情報を吸収する立場である。貴族社会内の格差を実感する。過去のことは、身近にある書物から知識を蓄える。小市が情報を己にインプットしていく状況を描いていると言える。そのプロセスで小市は己の見方を徐々に培い始める。
 たとえば、小市の意識を著者は次のように記している。姉の大市の生き方に絡んで、
「美しいものはこころよい。花でも鳥でも虹でも星でも、美しいものが世の中を潤す力ははかりしれないが、人間--ことに女が生きる上で、外貌の美醜が幸・不幸を分ける重大な決めてとなっている点が、小市には釈然としないのだ。(女の仕合わせとは何か、不仕合わせとはどういうことか)」   p340
そして、姉の生き方を(わたしには耐えられないわ)と己の立ち位置を自覚する。

2. 現在進行中のNHKの大河ドラマのフィクションとは大きな構想上での差異点があっておもしろい。
 1) 小市の母の死についての設定が全く違う。
 2) 父為時の越前国司受任時点までに、小市と藤原道長との人間関係は発生しない。
 3) 同様にこの時点までで小市が清少納言との間で親交を深める機会は描かれない。
  ただし、伯父・為頼の息子伊祐が清原元輔の家を訪ねる際に、小市が同行する。
  そこで、御簾を介して、小市が清少納言に古今集に載る清原深養父の歌17首を誦
  しきる場面が描いている。 上巻・p174-176
 4) 逆に、小市は姉大市が女房務めをしていた昌子皇后の御所に同様に幼女の頃から
  仕えている御許丸との関係が生まれ、織り込まれて行く。御許丸とは後の和泉式部
  である。著者は、御許丸の歌に、小市が「わが家は詩歌の家すじ・・・・・・せめて生き
  た証を、その伝統の中で輝かしたい」と触発される場面を描く。 p446
 5) 藤原宣孝が為時の家に頻繁に訪れ、小市と対話するのは双方で同様。
同じ史実をベースに踏まえても、状況設定が大きく異なり、それが成り立っているのが、フィクションのおもしろさといえるだろう。

 下巻は、小市が同行し、為時が越前国司として赴任地に出立する場面から始まる。往路の状況。越前国府での小市の心境。為頼伯父の病臥という通知を潮に小市は帰京。宣孝との結婚に至る紆余曲折。賢子誕生と宣孝の死。中宮定子に対抗する形での道長の娘彰子の入内。『枕草子』の評判。「光る源氏 輝く日ノ宮」の書き始め。小市の出仕とその直後の顛末。道長呪詛事件と道長の宮廷への布石。小市が中宮彰子出産の記録を担当。和泉式部の出仕と「宇治十帖」執筆。彰子の人格的成長(人形から賢后へ)。小市の晩年。という進展により、紫式部の後半の生涯が描き出されていく。
 大河ドラマがこの後どのように進展するのかは知らないが・・・・・。
 このストーリーでは、小市が宣孝と結婚して、女として体験する様々な側面、その感情と思いを著者は書き込んで行く。この期間は短いけれどもこの小市の結婚生活での心理的体験、女心の変転する機微が多分『源氏物語』の人物描写の中に反映していく、いわば創作の肥やしとなっていくのだろう。
 小市が土御門第に居た彰子のもとに年末に出仕したが、その直後に自宅に戻ってしまった。その時の原因を著者は道長の関わりとして描く。それを、恵み、通過儀礼の側面としている。当時の時代背景を踏まえると、立場によりその行為がいかように解釈できるかという描写となり、実に興味深い。この体験が、小市にとり『源氏物語』創作の肥やしになるのだろう。道長の立場での解釈を、小市が推察する記述が下巻のp318に明確に記述されている。その前に、小市の立場からの反射的判断が描き込まれているのはもちろんである。さらに視点を変えた解釈も小市が考えていく。多面的思考が盛り込まれていて興味深い。なるほど・・・である。

 四十余年の歳月を経た時点で「近ごろ小市を苦しめつつある索莫とした心情」として、著者は小市が自己省察する内容を明確に記している。これは著者が捕らえた紫式部像とも言えるだろう。長くなるが引用する。 
”もともと小市は、内省的な性格に生まれついていた。頭がよく、洞察力もあるため他人への批判はきびしい。口に出しては言わないけれど、見る目はなかなか辛辣だし、相手の欠点や短所を抉るのに手加減しなかった。
 しかもその目が、他人ばかりでなく、自分自身にも同じ鋭さ、容赦のなさで注がれているところに、小市の気質の不幸な特色があった。おのれに甘く人に辛いなら、まだしも救われる。相手を悪者にしてのければ気分は安まり、解き放たれもするのに、「まちがっているには相手、自分は正当」と思いこめる自己本位な楽天性が、小市にはない。
 人から蒙る不快、苦痛、恨みや憤りも、煎じつめてゆくと結局、自身に回帰してくる。原因をおのれに求めるという出口のない、息ぐるしい形に至り着いてしまう。それでなくても、よろこびの実感は常に淡く、あべこべに、悲しいこと口惜しいこと情けないことつらいことは記憶の襞に深く刻みつけて、容易に忘れないたちだった。
 誇りを傷つけられる無念には敏感に反応したし、何びとにも犯させない矜持と自我を、頑なまでに守り通しながら、まったくうらはらな弱さ脆さ、おのれへの嫌悪感、愧じの意識に苛まれるという二律背反の矛盾の中で、重荷さながらな生を、曳きずり曳きずり生きてきた四十余年の歳月なのである”  p398
 
 小市が『宇治十帖』を書き継いだ理由、心情の底にあるものも著者は記している。これは本書を読んでいただきたい。

 さらに、「それはすでに、小市の--紫式部の『源氏物語』ではなく、その読み手自身の『源氏物語』なのである」と記す。p416
 その後に、こう述べている。「作者は自分のために書き、自分の好みにのみ、合わせるほかないのだ」(p416)と。これは著者自身の自作に対する思いでもあると感じる。

 著者は「あとがき」に、「本質的には現代人と変わらぬ生き身の人間として、登場人物を描くことにつとめた」と記している。
 大長編小説だが、読みごたえがある。紫式部という存在が、ちょっと身近に感じられる小説だ。

 ご一読ありがとうございます。
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『天を測る』  今野敏   講談社

2024-06-18 16:52:04 | 今野敏
 著者の作品群を長年愛読してきている。本書の出版広告を見た記憶がなく、たまたま地元の図書館で目にとまった。史実が残る人物を主人公にし、本格的な歴史時代小説の領域で著者が小説を書いていたとは知らなかった。
 著者の作品を読みついできた範囲では、時代小説的なのは、サーベル警視庁シリーズくらいの気がする。

 奥書を見ると、初出は「小説現代」2020年11月号で、同年12月に単行本が刊行されている。

 史実の人物と上記したが、私は本作を読むまで主人公の小野友五郎という逸材が存在したことを知らなかった。幕末・明治の時代の転換期について、また1つ新たな視点を知った。そこには「テクノクラート」が存在したということ。歴史年表に名を連ねる一群の人々の背景に、彼らと時代を支える立場のテクノクラートたちが活躍していたという視点である。
 著者は、末尾の「参考文献」で、藤井哲博著『咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯 -- 幕末明治のテクノクラート』を参考にしたと述べ、この文献を参考にして初めてこの小説が完成したと記している。

 小野友五郎は、笠間牧野家家臣であり、江戸幕府が創設した長崎海軍伝習所の一期生として学んだ。伝習所以来、艦船での経験を積んでいる。友五郎の得意とした領域は算術であり、観測と計算だった。
 安政7年(1860)1月、江戸幕府外国奉行新見豊前守正興が、日米修好通商条約の批准書交換を目的に、米国艦のポーハタン号に乗船して、アメリカに出向く。小栗豊後守忠順が遣米使節目付として乗船し同行する。
 この時、咸臨丸が随伴艦となり、アメリカに赴いた。小野友五郎は咸臨丸の測量方兼運用方となる。上記の参考文献で言えば、航海長。測量方として、長崎海軍伝習所での後輩である松岡磐吉、赤松大三郎、伴鉄太郎がクルーとなる。また蒸気方(今で言う機関長)として肥田浜五郎が加わる。中浜万次郎(通称、ジョン・万次郎)が遣米使節通弁として乗船。友五郎と万次郎の親交はこの航海時に深まったようだ。
 
 本作は、まず咸臨丸の米国往還と米国滞在中の状況描写から始まっていく。咸臨丸の名前と太平洋航海達成は史実として学んではいた、しかし、その状況は本作を読み、初めてイメージできるようになった。アメリカの海軍士官や航海士等が太平洋横断の往路に乗船していたことを初めて知った。事実をベースにフィクションが組み込まれているとはいえ、咸臨丸の状況がリアルに感じられておもしろい。往路、アメリカ側と日本側がそれぞれの天体測量の結果をオープンに開示する測量合戦をしたそうだ。
 この時の咸臨丸の船長は勝海舟。勝は船に弱いというのを以前にどこかで読んだことがある。本作には、咸臨丸渡航以外にも各所で勝海舟が登場する。多少カリカチュアな描写が含まれているかもしれないが、勝海舟の自己顕示欲的な側面が描かれていて興味をそそる。
 咸臨丸の友五郎らクルーは、サンフランシスコ滞在中、港北端のメーア島海軍造船所に用意された宿舎に滞在したという。そこを拠点に何をしたのか。
 友五郎らは、長崎伝習所でオランダの造船技術を学んでいた。友五郎は、日本が自力で蒸気軍艦を造る同等の力はあると確信していて、その上でアメリカの造船技術情報を収集するということに専念したようだ。勿論、造船所の公式の見学許可を取ったうえである。当時は技術情報の開示は大らかだったことが感じられる。産業スパイ的な発想と警戒心はなかったのだろう。彼我の歴然とした技術力格差という見方、偏見、蔑みが根っ子にあったのだと感じる。そういう時代だったのだろう。友五郎らの行動の描写が彼らの問題意識を鮮やかにしている。

 軍艦奉行木村摂津守喜毅と共に彼の従者という名目で福沢諭吉が咸臨丸に乗船して渡米した。このストーリーではこれを機会に、友五郎と福沢との関わりもできていく。西欧信奉派の立場の福沢と日本の技術力を確信する友五郎とのメーア島での会話が、日本VS西欧の代理対話のように描き込まれるところもおもしろい。

 咸臨丸は帰路にもう1つの任務を持っていたことを本作で初めて知った。無人島の調査。現在の小笠原諸島と称する島々の位置確定と測量である。日本の領土と宣言するための基礎固めという任務。これは咸臨丸の汽罐の蒸気漏れによる出力低下と悪化の懸念から断念され、帰国が優先されたようだ。後に咸臨丸が行う次の仕事になる。
 小笠原諸島の島を拠点に、万次郎が捕鯨をするという夢を抱いていたことも知った。

 咸臨丸での航海を契機に、木村摂津守は友五郎の能力と人柄を大いに評価する。木村摂津守が、幕末の幕府老中の中核で、開国を前提にして欧米の武力干渉に対抗するための政治的な舵取りをする人々と、友五郎とのリンキング・ポイントになっていく。咸臨丸での航海の後、友五郎は幕末の動乱の渦中でテクノクラートとして己の能力を発揮していく。そういう場を与え続けられる。咸臨丸渡航譚は、いわば本作の第一部のようなものである。

 江戸幕府の政事を司るトップの意思を受けて、友五郎がどのような事項に関与して行くことになるのか。それがこのストーリーであり、小野友五郎という逸材の半生を描いていく伝記風小説の側面を持っている。その反面で、テクノクラートの視点から眺めると、幕末期における幕府開国派と尊皇攘夷派との併存と時代の流れが見えてくる。何のための国内戦だったのか。あらためて幕末の動乱期は不可思議な時代だと感じる。

 友五郎がどのような人生を送るかは、本作をお楽しみ頂くとして、友五郎がテクノクラートとして、何に関わり主導的な役割を担う立場に投げこまれたかだけ、時系列的に列挙しておこう。咸臨丸での渡航の後のことである。
 もう一点、先に触れておく必要がある。それは友五郎が抜擢されて、笠間牧野家家臣から、幕臣・旗本に身分が転身するということである。旗本の立場で仕事が始まっていく。勿論、友五郎はもとから日本という視点を思考の中核にしているのだが・・・・。

 *蒸気軍艦建造の建言書の作成と提出 ⇒ 正確な縮尺模型の製作、軍艦建造へ
 *江戸湾の総合的な海防計画 ⇒ 江戸湾測量、砲台位置決定への準備、復命書提出
               ⇒ 『江都海防真論』七巻の完成と建言 ⇒ 実務へ
 *製鉄所付き造船所建設地の選定
 *咸臨丸による小笠原諸島の測量、硫黄島周辺の地形観察
 *公儀の会計事務全般の改革
 *貨幣改革
 *毛利家討伐のための動員計画策定の責任者 第一次、第二次ともに
 *軍艦とその他軍備調達のための渡米
 *兵庫開港の準備

幕臣として上記の様々な課題に携わった友五郎は、明治維新後、民部省への出仕を要請される。54歳のときだそうである。鉄道の測量。たちまち、技師長となり、測量に関わるすべての事柄を掌握していく。
 小野友五郎。テクノクラートとしての役割を担ったすごい逸材が居たのだ!
 違った目で、幕末・明治初期と人物群像をみつめることができる小説である。

 「軍艦とその他軍備調達のための渡米」の課題の遂行プロセスで福沢諭吉が渡米の一員になっていたそうだ。この時の福沢のエピソードが描き込まれている。福沢のいわば身勝手な行動の一側面である。幕末のどさくさでどうも結末はあやふやになったような読後印象をうける。これはネガティブ・エピソードなので、事実を踏まえているのだろうと思う。こんな側面もあったのか・・・と感じる。勝海舟も含め、やはり人は多面的なものの総体なのだと思う。

 最後に、友五郎の発言として記され、印象に残る一文を引用しご紹介しておこう。
*己にないものを自覚し、他者のよさを認めて足し算をしていく。品格というのは、そうして育っていくものでしょう。引き算ばかり考えている連中には、品格が備わることはありません。   p276

*どんなことになろうと、我々は公儀のため、日本のために働かなくてはなりません。
 私はそれに全力を尽くします。     p277

*その理屈は通りません。ご公儀の金で買ったものはご公儀のものです。  p301

*我々は、諸外国に負けない海軍力を培うために、苦労に苦労を重ねて横須賀造船所を造りました。ご公儀とか、薩摩とか、長州とかいう問題ではありません。日本の未来のために、日本人が使うのです。破壊してはいけません。  p313

 それと、元軍艦奉行で、後に勘定奉行として江戸城明け渡しの事務処理を行った木村喜毅が明治維新後に、友五郎を訪れて対話する場面での発言も、印象深い。
*政府は底が浅いので・・・・。公儀で実務を担当していた私から見ると、今の政府は張りぼてです。
 政府の要職に就いた薩摩・長州の連中は。残念ながら、まるで力がない。結局、かつての旗本や大名が実務を担うしかないのです。  p330-331

 ご一読ありがとうございます。


補遺
笠間が生んだ科学技術者 小野友五郎  :「笠間市」 
小野友五郎  :「千葉県富津市」
常陸の国が生んだ幕末明治のテクノクラート 小野友五郎を伝えてゆく会ホームページ
小野友五郎物語  YouTube
福沢諭吉は公金一万五千ドルを横領したか? :「blechmusik.xii.jp」
咸臨丸      :ウィキペディア
咸臨丸の歴史   :「木古内町観光協会」

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)



こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『署長シンドローム』   講談社
『白夜街道』  文春文庫
『トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』   徳間書店
『審議官 隠蔽捜査9.5』   新潮社
『マル暴 ディーヴァ』   実業之日本社
『秋麗 東京湾臨海署安積班』   角川春樹事務所
『探花 隠蔽捜査9』  新潮社
「遊心逍遙記」に掲載した<今野敏>作品の読後印象記一覧 最終版
                      2022年12月現在 97冊

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『まいまいつぶろ』   村木嵐    幻冬舎

2024-06-13 23:09:22 | 諸作家作品
 本書を読んで、「まいまいつぶろ」がカタツムリの異称だと知った。本書を読む動機は新聞広告で目にしたこのタイトル。意味不明でおもしろい語感に興味をいだいた。著者の名もこの新聞広告で初めて意識した。
 本書は書き下ろしの歴史時代小説で、2023年5月に単行本が刊行された。2023年下半期・第170回直木賞の候補作となった。

 改めて手元の辞書を引くと、「まいまいつぶろ」は「まいまいつぶり」の項に付記されていて、「まいまい」の子見出しとして載っている(大辞林)。共にカタツムリの異称と記す。また、まいまい(まいまいつぶろ)は、神奈川・静岡・岐阜、岡山・広島・福岡方言だと言う(新明解国語辞典)

 本作は德川家重と彼に仕えた大岡兵庫(後に忠光に改称)、二人の生涯の関わりを描き出していく。本作を読むまで、德川家重(1711~1761)は全く意識外の存在だった。彼は德川吉宗の長男として生まれ、最終的には9代将軍(在位:1745~1760)となった。
 手元の国語辞典では、生没年と在位期間の他に、「虚弱体質で言語障害があり、側用人大岡忠光が権勢を掌握」(日本語大辞典)、「幼名長福。身体虚弱で酒食に溺れたという」(大辞林)と記す。また、「德川九代将軍。吉宗の長子。延享二年将軍。性惰弱、酒食に耽り政治を顧みなかった。宝暦十年、将軍職を家治に譲り、翌十一年没。諡は惇信院(1711~1761)」(広辞苑初版)とも記されている。

 読後に確認したこれら国語辞典のごく簡略な説明は、德川家重と大岡忠光について、1つのイメージを喚起する。だが、私にとって本作の読後印象は、そのイメージとは対極にありそうな二人の人物像のイメージが余韻として残っている。このストーリーの世界に感情移入していくと、最後の主従の別れの場面は涙せずにはいられない。家重と忠光の主従を越えた人間的な強い絆の形成・確立がこのストーリーのテーマになっている。
 最後に家重が忠光に言う。「さらばだ、忠光。まいまいつぶろじゃと指をさされ、口がきけずに幸いであった。そのかげで、私はそなたと会うことができた。もう一度生まれても、私はこの身体でよい。忠光に会えるのならば」(p320-321)

 本作は、江戸奉行、大岡越前守忠相が、大奥の上臈御年寄の滝乃井に呼び出される場面から始まる。滝乃井はかつて吉宗の嫡男・長福丸(家重)の乳母を務めた。滝乃井は忠相に家重の言葉を聞き取る者が現れたと告げ、兵庫と称する少年が忠相の遠縁に当たると言う。滝乃井は、忠相に兵庫に対して御城へ上がる心得を説いてほしいと依頼する。忠相自身が縁戚として知らなかった者だった。調べてみると、兵庫の父・大岡忠利は、忠相と「はとこ」の関係にあたるのだ。
 同日の夜、若年寄の要職にある松平能登守乗賢が忠相の役宅を訪れる。乗賢は長福丸様が小禄の旗本の子弟とお目見得を行う儀式で奏者番を務めた折の経緯について、困惑をしつつ忠相に語った。忠相は兵庫が見出された顛末を乗賢から聞かされる。忠相はもはや後へは退けぬことを知る。
 
 長福丸は吉宗が8代将軍になる前に、赤坂の紀州藩邸で生まれた。あわや死産という寸前で命をとりとめた。しかし、長福丸の発する声を誰も聞き取れない。普通に口がきけるようにはならなかった。麻痺で片頬が引き攣れている。手に麻痺があり、仮名ですら書けない。尿を始終漏らすので、座った跡がまいまいのように濡れて臭うとまで言われていた。ひどい癇癪持ちで、怒り出すと手が付けられない。
 そこに、長福丸の言葉を聞き取れる少年が現れたというのだ。長福丸のことを案じてきた人々にとり、これほどうれしいことはない。

 だが、ここで一筋縄ではいかない問題が生まれてくる。将軍職の継承と幕府の政事という次元が長福丸の人生に絡むのだ。将軍職は原則長子継承である。長福丸を心身虚弱として廃嫡することは、まずこの原則から外れる。

 さらに厄介な問題が生まれる。兵庫を長福丸の小姓に取り立てると、「長福丸の言葉には幕閣の誰一人、老中でさえ逆らうことはできないのだ。それがある日を境に、兵庫の言葉に取って代わらぬと言い切れるだろうか。兵庫が長福丸の言葉だと偽って、己を利する言葉を吐くようにならないだろうか。 それなら兵庫がわずかばかり利口だということは、むしろ悪を企む危うさのほうが大きい」(p22)という懸念である。

 5代将軍綱吉が御側用人制を創った。これを吉宗は廃止し、幕政改革を推進してきた。長福丸に一人だけ言葉が分かる小姓が侍ることは、側用人制の復活につながらないかという懸念である。吉宗が長子継承の原則を捨て、長福丸を速やかに廃嫡すれば問題にはならない。だが、吉宗は廃嫡論を自らは語らない。棚上げ状態が続く。

 兵庫と対面した忠相は1つだけ兵庫に忠告する。「兵庫には心しておかねばならぬことがある。そなたは決して、長福丸様の目と耳になってはならぬ」(p37)
 「長福丸様は、目も耳もお持ちである。そなたはただ、長福丸様の御口代わりだけを務めねばならぬ」(p38)と。
 この忠相の忠告が、兵庫にとりその後の生涯にわたる原則となる一方、兵庫(忠光)が家重の側で己を律する上で苦悩の因にもなっていく。長福丸(家重)の口となり、鏡になったつもりで言葉を映すことは、相対的にたやすい。しかし、お側に仕える小姓として血の通った心で役立つには何ができるのか。その判断が難しくなる。

 家重と家重の口となる忠光との、いわば二人三脚が始まって行く。このストーリーは、常に、廃嫡問題が底流にありながら、長福丸が、若君と呼ばれる立場になる。さらに、京の都より、比宮(ナミノミヤ、増子)を正室として迎える段階に進展する。
 比宮は江戸城にて家重を見るなりショックを受ける。それを起点に、比宮の心理の変転が描き込まれていく。家重の外観への嫌悪から、家重の真心、真の姿を感得し、比宮が家重に寄り添って行こうとするプロセスが1つの読ませどころとなっていく。ここはこのストーリーの楽しいフェーズでもある。
 比宮は妊娠するが男子を死産する。その後、比宮は京から同行し侍女として仕えてきた幸に家重の御子を挙げよと遺言を残して没する。この幸が後に、家重の子、家治を産むことに進展する。だが、この二人の女性の差異が、直接的な描写のない部分に間接的に語られているように感じる。心の通いあい方の差異なのかもしれないとふと思った。
 やがて、幸の侍女として大奥に務めた千瀬が家重の側室になっていく。

 さて、吉宗は将軍に就いてからおよそ30年間の在位の時点で、遂に家重に将軍職を引き継ぐ旨を、まず近親者と老中を集めて宣言する。この場が次の大きな山場となっていく。ここで、老中の松平乗邑が懸念を露わに表明する。この場面をどのように決着させるか。実に微妙で興味深い場面が生み出されていく。家治が投じた一石が見事というほかはない。ここは読ませどころである。

 将軍に就いた家重は、父吉宗が築いた改革路線を推進していく立場である。老中の構成も大きく変化する。吉宗が始めた目安箱に投げ込まれた1つの訴状を契機に、美濃国郡上での積年の藩政の歪みが浮上する。それは一藩の問題事象ではなく、幕政に携わる人々を多く巻き込んだ事象だという事実が次々に判明していく。ここでは、家重の口となる忠光ではなく、家重の小姓になり栄進してきた田沼意次が重要な役割を担っていく。家重の裁断として実のある決着が導き出されていく。
 家重が将軍になった以降においても。家重の御口となる忠光が徐々に認められて岩槻二万石に栄進したことを例にし、忠光の働きと存在を貶めようとする老中がやはり存在する。忠光の生涯につきまとう批判中傷である。だがこれは、家重と忠光の二人三脚が、将軍家重の治世を推し進める原動力として機能していることを、理解しがたい人々がいることの例示になる。
 忠光よ、よくぞ家重の御口になるという立場と意味を貫いたなとエールを送りたくなる。

 この家重の治世を描くことは、これまでの江戸幕府の根底にある重農主義的政策による全国統治がもはや限界に来ていてる事実と、転換点としての兆しについても触れていることになる。それを家重の小姓として仕えることから始めた田沼意次に語らせているところがおもしろい。

 最後の「第八章 岩槻」で、岩槻藩主である忠光の息子・忠喜と十代将軍德川家治が岩槻城で語り合う場面を加えられている。二人の会話は、家重の言葉を忠光は真に聞き取って伝えていたのかというところに集約されていく。この二人の会話の終わり方が良い。その余韻を感じていただきたい。

 德川家重の生涯について、事実は何か? 全てがわかることはない。
 ここに描き出された1つのストーリー(-家重と忠光の絆-)は、史実の断片をロマンを秘めた想像でつなぎ、創作されているのだろう。そのロマンが生み出した世界が読者を感情移入させていく。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
德川家重   :ウィキペディア
第9代将軍/德川家重の生涯  :「名古屋刀剣博物館 名古屋刀剣ワールド」
八代吉宗、九代家重とその時代 :「德川記念財団」

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『花競べ 向嶋なずな屋繁盛記』  朝井まかて  講談社文庫

2024-06-05 22:40:26 | 朝井まかて
 著者のデビュー作がこれだと知り、遅ればせながら読んだ。
 文庫本の解説の冒頭を読むと、本書が著者のデビュー作、しかも初めて書いた小説だったという。小説現代長編新人賞奨励賞を受賞した作品である。
 当初、2008年10月に『実さえ花さえ』の題で単行本が刊行された。それに加筆、改題して、2011年12月に文庫化されている。

 かなり前に、何の本だったか忘れたが、江戸時代に朝顔が園芸品種として盛んに栽培されその交配により様々な新種が生み出されたこと。園芸が一種の流行となっていて、下級武士層の内職仕事になっていた側面もあったこと。今では見られない品種も存在したことを読んだ記憶がある。また、染井吉野という桜は、江戸時代末期に、オオシマザクラとエドヒガンの交雑種として作り出されたこと。それらが記憶の底にあった。

 そんなことから、本作が江戸時代、文化・文政期に、新次とおりんの夫婦が向嶋で営む「なずな屋」という植木屋が舞台になっていて、植木職人、花師である新次が主人公でおりんが甲斐甲斐しく新次を助けていくという設定が親しみやすかった。さらに花師という職人の世界を扱っていることに興味を抱いた。この分野の職人を扱う小説を読むのは初めてである。初物の楽しみ。

 駒込染井にある霧島屋という江戸城にお出入りする植木商に植木職人として奉公し、六代当主、伊藤伊兵衛政澄みの一人娘、理世とも花師となるべく共に修業を積んでいた新次がこの小説の主人公である。新次は霧島屋を去り、文人墨客が好み大店の寮(別荘)や隠居所が点在する風雅で鄙びた向嶋になずな屋という植木屋をおりんとともに営んでいる。敷地の中心になずな屋の母屋がある。それは元豪農の隠居所だった家屋で三間きり。そこを新次とおりんは住居兼店としている。敷地の周囲を藪椿と櫟の混ぜ垣を低く結い回し、そぞろ歩きの人々も庭の風景が垣間見えるようにしてある。敷地の庭には新次が丹精込めて植木や花々を育成している。苗選びに訪れる客は敷地を巡り、縁側でおりんから番茶の接待を受けるという小体な店である。
 新次は「売り物といえども、むざむざ枯らされちゃ花が可哀想だ。それで花いじりが厭になっちまうお客にも気の毒だ。だから売り放しにはしねぇ、どんな相談にも乗るのが尋常だ」(P12)とおりんに言い暮らす職人肌の花師。一方、おりんは生家が浅草の小間物屋であるが、事情があり生家を出た後は深川の伯母の家で裁縫やお菜ごしらえを教わりながら過ごした後、手習いを教えるようになった。新次が名付けた新種の花の名の清書を頼まれたことがきっかけとなり、気がつけば、おりんは新次の女房になっていた。おりんは売り物の苗に「お手入れ指南」といういわばマニュアル文を添えることを考案し、墨書したものを添付するようになった。それが客から評判がいい。おりんのからりとした明るい性格と工夫心が実に良い。
 こんな夫婦の「なずな屋」物語。出だしからなかなか好い雰囲気・・・・・。引きこみかたが巧い。

 さて、ストーリーの第一幕は、向嶋の隠居所に住む日本橋駿河町の太物問屋、上総屋の隠居の六兵衛がなずな屋を訪れてきたことから始まる。お手入れ指南の片隅に三月に売り出す花の広目(宣伝)の書き入れをどこかで目にした六兵衛が頼み事にきたのである。
 新次の生み出した発売予定の新種の桜草を小鉢に仕立てたものを、快気祝いの引き出物にしたいという。配る相手は見舞いに訪れて励ましてくれた俳諧仲間なのだ。
 小鉢の選択は新次に任され、桜草30鉢の納入。鉢の代金を含め総額30両までは掛けようと言う。勿論、新次は有難く引き受ける。六兵衛が気に入った桜草は問題ない。それにマッチする小鉢をどうするか。そこからこの納品までの紆余曲折が始まっていく。

 このストーリーに、しばしば新次の幼馴染みである大工職人留吉一家が絡んでくる。女房のお袖との間に男の子二人がいるが、留吉とお袖の間ではいざこざが絶えない。その仲裁役を新次に振ってくるのだ。おりんがお袖のために去状を代筆することに発展する位である。勿論、お袖がそう簡単に離縁する訳ではないのだが・・・・・。この一家の関わりがいわば1つのサイド・ストーリーになっていき、楽しませてくれる。そこには江戸市井の庶民の感覚が溢れている。
 新次の悩みを手助けしておりんが桜草の納品に絡んで出したアイデアが、留吉を巻き込むことにもなる。この後も、留吉・お袖夫婦が幾度も登場してきて面白味を加える。

 もう1つ、サイド・ストーリーが織り込まれていく。それは六兵衛の孫でいずれ上総屋の跡取りとなる辰之助に関わる話である。最初、なずな屋まで六兵衛に奇妙な形で同行してきたときから始まる。凡人からみれば、辰之助の波乱含みの生き方が節々で描かれつつ、新次との関わりが深まっていく。その関わりが1つの読ませどころになっていく。

 さて、メイン・ストーリーの第二幕がタイトルの「花競べ」になる。
 桜草の小鉢もので縁ができた六兵衛が、その話を新次に持ち込んで来る。
 花の好事家の集まりである「是色連(コレシキレン)」により、3年に一度、重陽の節句の翌日の9月10日に「花競べ」が行われる。勝ち抜き式の評定(審査)は浅草寺の本堂で行われる。この花競べに新次に出品して欲しいと六兵衛が頼みに来るのだ。出品のお勧めではなく依頼という所に、この第二幕の眼目があった。六兵衛は是色連にも関係していた。
 六兵衛は新次に言う。「有り体に申しましょう。このままでは、霧島屋さんは大変なことになる」(P99)と。さらに、その内情については探りをいれている段階だともらす。
 霧島屋は新次が花師の修業をした花の世界では特別な家。霧島屋の一人娘の理世と切磋琢磨した場所でもあった。現在の当主は七代目伊藤伊兵衛治親。5年前に理世の婿養子となった。元500石取りの旗本の三男坊である。彼の野心と行動が問題となっていた。
 新次は六兵衛の依頼を受け、何を出品するかについて工夫を重ねていく。
 この頃、新次は日頃雀と呼んでいる子供を預かっていた。草花の棒手振(行商人)を生業とする栄助の子である。栄助は売り物にする苗の仕入れでなずな屋に出入りするようになり、栄助は育種について新次に教えを受けてもいた。栄助は商いで上州に旅をするのでしばらく預かって欲しいと、子を託して行ったのだ。そして、音沙汰を絶つ。
 子がいない新次・おりん夫婦にとって、雀は家族の一員のようにもなり、新次の弟子の立場にもなっていく。
 この雀は、新次が花競べに出品する作品の名付け親となるとともに、第二幕から始まるサイド・ストーリーの1つになっていくとだけ述べておこう。お楽しみに。
 9月10日、花競べの場で、新次は理世と再会する。新次と理世の微妙な関係性、この点もまたこのストーリーの読ませどころとなる側面である。この小説に織り込まれた秘やかな花物語と呼べるサイド・ストーリーかもしれない。

 メイン・ストーリーには、第三幕がある。
 その翌年の半ばに、新次は駒込染井にある藤堂家の下屋敷から用命を受ける。
 用人の稲垣頼母からの要件は、毎年2月15日に大勢の客を招いて、殿が仲春の宴を催される。下屋敷の東庭が宴に使われる。野遊びの趣向で100坪の庭を仕立てよというのが新次に名指しで依頼されたのである。
 頼母は言う。「霧島屋になら遠慮は不要ぞ。主庭と北庭は霧島屋にすべて任せているが、東庭は宴にしか使わないものでな。腕利きの庭師や花師にも広く機会を与えてやるよう、殿の仁恵である。むろん、霧島屋には某から筋を通してあるゆえ、安心いたせ」(p166)
 新次はこの仕事に花師としての思いと手持ちの植物類を注ぎ込む。だが、この仕事の依頼には、用人の知らぬ次元で裏のカラクリが潜められていた。

 このストーリー、最後はそれぞれのサブ・ストーリーのエンディングが重ねられていく。メインである花師新次のストーリーは、吉野桜で締めくくられる。このエンディングへのプロセスが読ませどころといえる。
 この最終段階全体を第四幕というべきかも知れない。
 松平定信まで登場して来る。その定信が良い役割を担っているのだ。そこがおもしろい。 

 ご一読ありがとうございます。


補遺
第二章 独自の園芸の展開 :「NDLギャラリー」(国立国会図書館サーチ)
  描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-
草木に1億円!江戸の園芸ブームは数々の品種を生み出していた :「はな物語」
江戸のガーデニングブームはなぜ起きた?一番人気だった花とは :「AERAdot.」
展覧会 花開く 江戸の園芸 :「江戸東京博物館」
染井吉野   :「桜図鑑」
ソメイヨシノ :「庭木図鑑 植木ペディア」
ソメイヨシノと‘染井吉野’はちがう?!意外と知らない桜の真実  :「HONDA」

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 こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『悪玉伝』    角川文庫
『ボタニカ』   祥伝社
『朝星夜星』   PHP
「遊心逍遙記」に掲載した<朝日まかて>作品の読後印象記一覧 最終版
                 2022年12月現在  8冊


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『同志少女よ、敵を撃て』  逢坂冬馬  早川書房

2024-06-03 15:21:37 | 諸作家作品
 独ソ戦争は、1941年6月22日、ドイツ側の奇襲攻撃に始まり、1945年5月9日、ベルリン近郊カールスホルストにおいてドイツが無条件降伏文書に調印したことにより終わった。ソ連邦側は、この戦争を大祖国戦争と呼称し、ドイツ側は東部戦線と呼称した。

 本書は2021年8月に第11回アガサ・クリスティー賞を受賞。その後加筆修正されて、同年11月に単行本が刊行された。

 プロローグは、1940年5月に、16歳のセラフィマ・マルコヴナ・アルスカヤが、母親のエカチェリーナと鹿猟に出かける場面から始まる。一方、エピローグは、1976年のイワノフスカヤ村で生活するセラフィマの姿を描くところで終わる。本作は、独ソ戦争の全期間を題材に取り上げる。この戦争の戦史的側面が背景に織り込まれつつ、大祖国戦争の渦中で狙撃兵となり、戦場を駆け抜け、生き抜いたセラフィマの喜怒哀楽と信念、一人の同志少女の成長が描き込まれていく。

 第1章は、1942年2月7日、セラフィマが母親エカチェリーナと一緒に鹿の猟を行っているところから始まる。その途中で次の会話が親子の間で交わされる
「それなのに私は、大学へ行くなんて、本当にそれでいいのかな。私は銃を撃てるし、同い年のミーシカだって戦争へ行ったのに、戦わなくていいのかな」
「あなたは女の子でしょ」
「でも、リュドミラ・パヴィリチェンコだって女性なのにクリミア半島で戦っているのよ」
「ああいう人は特別でしょう、もうドイツ兵を200人も殺してるのよ、フィーマ、戦うといっても、あなたに人が殺せるの?」
「無理」
「それじゃだめよ、フィーマ。戦争は人殺しなのだから」(p22)

 鹿を仕留めて、二人がイワノフスカヤ村を見渡せる山道のカーブまで戻ると、村にはドイツ兵が出現していた。アントーノフおじさんの頭を指揮官らしき軍人が撃ち抜いた。「もう一度聞く、パルチザンの居場所を言え、言わなければ全員を処刑する!」それはドイツ兵側の建前だった。母は銃を構えたが、ドイツ兵側から狙撃を受けて屍と化した。
 フィーマはドイツ兵に捕らえられる。額に銃口を突きつけられ、危機一髪というところに、赤軍兵士たちが出現し、戦闘となる。フィーマは救助された。
 だが、村は壊滅。母の遺体も含め、殺された村人たちと村そのものが、赤軍の女性兵士の命令で焼却される事になる。
 女性兵士のイリーナ・エメリヤノヴナ・ストローガヤがセラフィマに問いかける。「戦いたいか、死にたいか」と。母と村人たちが虐殺されたことに茫然となっていたセラフィマは「死にたいです」と本音を返した。だが、イリーナの挑発的な言動に接し、最後は叫ぶ。「ドイツ軍も、あんたも殺す! 敵を皆殺しにして、敵を討つ!」と。
 この瞬間が、このストーリーの実質的な始まりとなる。

 セラフィマは捕らえられた時の記憶を辿る。顔に傷があり、髭面でスコープ付きの銃を持ち、イェーガーと呼ばれていた男を。戦闘結果の死体の中に、その男に該当する死体はないと一人の兵士が答えた。いち早く逃亡したようである。
 イリーナはセラフイマに言う。「それがお前の母を撃った狙撃兵だ。お前が殺す相手さ」と。
 この日から、セラフィマはイリーナの教え子になる。イリーナは元狙撃兵だった。

 セラフィマはイリーナにより、中央女性狙撃兵訓練学校の分校に連れて行かれる。
 そこは、大祖国戦争が進行する最中、ポドリスクに女性狙撃兵の専門的な訓練学校を来年から本格的に開始するための先行実験を目的とする分校だった。元狙撃兵のイリーナが教官として、この分校で訓練指導をする。イリーナ自身が選んだ訓練生が集められたということになる。
 このストーリーは、セラフィマという狙撃兵の誕生と成長、狙撃兵としての活動の全プロセスを大祖国戦争の史実と経緯に織り込んで、戦争の実態を描き上げていく。そのプロセスで、セラフィマの戦争に対する心理が変化・変容していく。セラフィマの思い・信念が狙撃兵としての行動に直結して行く。
 戦いの渦中にあって、セラフィマの心は揺れる。例えば、次の一節が心中の思いとして誘発する。「女性を助ける。そのためにフリッツ(=ドイツ兵の意味)を殺す。自分の中で確定した原理が、どことなく胡乱に感じられた。今までは迷うことがんかったのだ。・・・・ 被害者と加害者。味方と敵。自分とフリッツ。ソ連とドイツ。それらは全て同じだと、セラフィマは疑うこともなく信じていた。
 だが、もしもこれらが揺らぎうるならば。
 もしもソ連兵士として戦うことと、女性を救うことが一致しないときが来たなら。
 ソ連軍兵士として戦い、女性を救うことを目標としている自分は、そのときどう行動すればよいのだろう」(p319)
 このストーリーの眼目は、大祖国戦争の渦中に投げ込まれたセラフィマの心の内部を描くことにあると感じる。そして、セラフィマ並びに彼女が所属した第39独立小隊(後に第39独立親衛小隊と改称)の各隊員達の心の内部を媒介にして、戦争とは何かを著者は読者に問いかけているように思う。

 ストーリーの大きな流れとしては、3つのステージがある。それぞれに山場が生まれていく。そして、問題意識も・・・・。
1. 中央女性狙撃兵訓練学校分校での訓練課程の描写。その結果、狙撃兵の精鋭が誕生。  
  イリーナが選抜した訓練生のバックボーンが徐々に明らかになっていく。それは、大祖国戦争という事態で結束しているソ連に内在する民族間問題、そこに含まれる蔑視、差別、支配・被支配、独立心などの諸要素を露わしていくことにもなる。ソ連自体が大きな問題を内包しているという事実。
2. スターリングラードでの独ソ攻防戦。セラフィマたちはウラヌス(天王星)作戦の
もとでの実戦に投入される。彼女らは「最高司令部予備軍所属、狙撃兵旅団、第39独立小隊」と位置づけられる。5人の小隊にNKVD2人が付く狙撃兵小集団としての行動することに。
  激戦地となった工場「赤い十月」の西側、ヴォルガ川岸に面したアパートの一室を拠点とするマキシム隊長以下のたった4人の第12大隊に合流し、ここを拠点に市街戦での行動に加わる。

3. 1945年4月、要塞都市ケーニヒスベルクでの戦いが大詰めとなっていく。そこはナチス・ドイツに併合されたポーランドの北端に位置し、ドイツ語で「王の山」を意味する古都である。バルト諸国と西欧をつなぐ玄関口として重要な港を有する要塞都市。
  塹壕を拠点にして、要塞都市に立て籠もるドイツ側との戦いとなる。地上では戦車と火炎放射器が投入され、空には戦闘機、攻撃機が飛来する。最後の戦闘となっていく。
  この都市で、セラフィマは、狙撃兵イェーガと対峙することになる。

 このストーリー、ミステリという視点から捕らえると、セラフィマが破壊されるイワノフスカヤ村でのイリーナとの出会いを起点として、セラフィマがイリーナの心中の基底に厳然とある思いは何なのかを推理し探求し続けるという文脈が内在すると思う。
 元狙撃兵のイリーナが、最終的に少人数の狙撃兵の精鋭を育成し、戦闘の場で行動を共にしていく。イリーナの思いは何なのか。その心を見極めるために、セラフィマはイリーナとの関係を通して、イリーナの心を推理し探求しつづける。この点も、読ませどころの1つになっている。

 印象的な文章をいくつか引用しておこう。⇒以下は私的な補注である。
*新聞に載る言葉は自分のものではなく、常に、自分の言葉を聞いた新聞記者のものだ。
 ⇒狙撃兵として有名になったセラフィマがインタビューを受ける場面での思い p330
*エレンブルグが重宝されたのは、結局兵士の戦意を煽るのに有効な言葉を使ったからだよ。彼が去ってもその言葉は生きている。  p354
 ⇒ドイツ人をぶっ殺せというエレンブルグの論法 ソ連での防衛戦では重宝された
  「ドイツ人」と「敵兵士」を同列視して成り立つ論法は、戦争終結後には禍根を
  残すことになる危険なもの
*いずれにせよ、確かめようがなかった。死者の考えを推し量り、言葉の意味を考えることは生者の特権であり、何を選ぼうと、死者がその正否を答えることはない。
 オリガは死に、自分は彼女を偽装に用いて、生きている。それが全てだった。p437
*「ターニャ、あなたは敵味方の区別なく治療するの」
 「ああ。というよりも、治療するための技術と治療をするという意志があたしにはあり、その前には人類がいる。敵も味方もありはしない。たとえヒトラーであっても治療するさ」 p452
 ⇒ターニャは第39独立親衛小隊の一員で看護師。セラフィマが問う。
*殺される心配をせず、殺す計画を立てず、命令一下無心に殺戮に明け暮れることもない、困難な「日常」という生き方へ戻る過程で、多くの者が心に失調をきたした。 p467
*ソ連でもドイツでも、戦時性犯罪の被害者たちは、口をつぐんだ。
 それは女性たちの被った多大な精神的苦痛と、性犯罪の被害者が被害のありようを語ることに嫌悪を覚える、それぞれ社会の要請が合成された結果であった。 p475
*失った命は元に戻ることはなく、代わりになる命もまた存在しない。  p477

 本作には、次の記述がある。
”「国家」という指標で語られる勝利と敗北。
 4年に満たないその戦いにより、ドイツは900万人、ソ連は2000万人以上の人命をを失った。
 ソ連の戦いはここで終わらず、余勢を駆るようにして残る枢軸、日本へ8月に戦線布告した。”
ここに記された犠牲者数、調べてみると、犠牲者数に諸説があるようである。しかし、その犠牲者数の多さに驚く。一方、この犠牲者数について、本作を読み初めて認識した次第。歴史の一事実としては学んだ記憶がある。だが、ほんの表層だけを知っていたたにすぎない己の不敏さに気づかされた。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
独ソ戦争  :「ジャパンナレッジ」
数字で見る「独ソ戦」 映像の世紀バタフリエフェクト :「NHK」
独ソ戦の開始と太平洋戦争の勃発  :「学校間総合ネット」
独ソ戦  :ウィキペディア
人類史上最悪・・・犠牲者3000万人「独ソ戦」で出現した、この世の地獄:「現代ビジネス」
リュドミラ・パヴリチェンコ  :ウィキペディア
ケーニヒスベルグ(プロイセン) :ウィキペディア

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