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遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『千里眼とニアージュ 完全版』 上・下  松岡圭祐  角川文庫

2023-10-31 12:30:16 | 松岡圭祐
 千里眼クラシックシリーズの第10弾である。このストーリーはスケールが大きさが生み出す荒唐無稽さの要素、そこに幕末期以来現在まで連綿として話題に上る一伝説の要素、そこに臨床心理士の活躍する世界という要素が加わり、それらが巧みに組み合わされていく。エンターテインメント性に溢れた面白さが強みといえる。本書(完全版)は平成21年(2009)2月に文庫が刊行されている。

 前作の舞台となったイラクから戻ってきた岬美由紀は、またもや手許に届いた不可解な葉書がトリガーとなって、大事件に捲き込まれて行く。このストーリーでは、美由紀の意識の底に沈んでいた過去の悩ましい事実が重要な要素として絡んでくる。美由紀が事件に関わるプロセスで一之瀬恵梨香との運命の出会いが起きる。
 一之瀬恵梨香。美由紀が自衛隊に入隊した後に、美由紀の両親が交通事故死した。対向車に接触されたことが原因で、両親の車は道路脇に飛び出し、二階建てアパートを直撃。破損したガソリンタンクに引火して爆発事故が起き、アパートは焼失した。唯一、部屋にいたのが一之瀬恵梨香で、彼女は軽傷で助け出された。恵梨香は父親が自宅に火を付け無理心中をはかったことのショックでPTSDに陥り、ようやく立ち直り独り暮らしを始めたところだった。しかし、この事故が恵梨香のPTSDを再発させた。美由紀は死亡した両親の家を恵梨香に無償で譲渡した。そんな苦い過去の記憶を美由紀は背負っていた。

 このストーリーの読ませどころの一つは、運命的な出会いの後に美由紀の心の中に生まれる悔い、関係づくりの試みから生じる対立・葛藤、理解し合うことの困難性など、悩ましい思いに囚われ続けていく経緯の描写である。
 二人の再会は、恵梨香の反発から全てが始まっていく。ストーリーの進展において、美由紀と恵梨香の心理描写が底流をなしていく。勿論、恵梨香自身も事件のただ中に捲き込まれていくのだ。というよりも、恵梨香が戸内利佳子が訪ねてきたことにより、利佳子の発言を受け、恵梨香が衝動的に利佳子を臨床心理士である岬美由紀が勤務する病院前まで自分の車で送るという行動を取ってしまった。それが美由紀を事件に引き込み、恵梨香もまた渦中の人となる一因といえる。

 荒唐無稽さのベースになるのは、萩原である。埼玉、千葉、茨城の県境にあった広大な国有地の森林が伐採され、28の市と町が形成されて、萩原ジンバテック特別行政地帯が誕生した。ここには正式な地方行政は確立していない。埼玉県知事が便宜上の行政責任を持つ形が取られている。しかし、ジンバテックというIT企業が土地を所有し実質的な権限をもつ地域である。俗称、萩原県と皆が呼んでいる。
 ここが特殊なのは、同じサイズの住居が並び、人々はそこに住む。月10万円の生活費が支給され、就労の義務がないこと。病院、スポーツセンター、美容室、理髪店などは無料で利用できる。萩原線という八路線、270キロメートルの路線がある。
 家に引き籠もり何不自由なく生活したい人々が応募して全国から住人が集まった。800万戸もあった住居は移住者で埋まってしまった。そんな特異な地域である。
 その萩原県を一IT企業が資金面で支えているというのだから、ちょっと想像を絶する。それを実行させているのは、社長の陣馬輝義というIT富豪だった。一般企業にとって、これは何のメリットがあるのか。ここに荒唐無稽さのベースがある。
 逆にこの萩原県を実質運営するジンバテックと陣馬輝義が何をしようとしているのか。読者はこれから何が起こるのかということに興味を引きつけられずにはいられない。
 さらに、一之瀬恵梨香は、この萩原県に移住し、心理相談員と名乗っていたのだ。

 このストーリー、住民の一人である戸内利佳子が死後の世界・地獄の様を夢でみるようになり、それが夢とは思えないリアルさを感じるという苦しみを繰り返すようになる。テレビで、臨床心理士の岬美由紀がイラクから帰国の途についたという報道を見る。そして、臨床心理士に相談しようと思う。萩原線の駅に設置された案内ロボットに尋ねると、心理相談員・一之瀬恵梨香を、該当カテゴリで合致する3件の内の一つとして回答した。利佳子は萩原県に住む恵梨香を訪れる。それが結果的に利佳子が岬美由紀に会える契機となる。利佳子の夢の話を聞き、要因分析するためにも、利佳子の家を訪ねると約束する。逆に言えば、美由紀が萩原県の問題事象に一歩足を踏み入れることになる。
 
 一方、美由紀は鍋島院長から不在中にたまった美由紀宛のはがきの束を受け取る。その中に意味不明の文字を羅列した葉書にまず目を止めた。その謎解きを即座にしたのだが、それがきっかけで、帰国後早速、美由紀は東京タワーで発生した事件に自ら関わりを持っていく羽目になる。これまた想像外の事件なのだ。それは美由紀を誘い出す一つのステップにしか過ぎなかった。
 メフィスト・コンサルティングの最高顧問ダビデが絡んでくる。

 一之瀬恵梨香は、岬美由紀と間違われてメフィスト・コンサルティングのノンキャリアのスタッフに拉致され、ダビデと出会うことになる。その場所は、慶応4年の安房国をリアルに再現した宿場町だった。ダビデはあるところで、実際に壮大なシミュレーション実験をしていた。それは、ダビデが日本政府と密約を推し進め、ある利権を確保するための手段だった。
 読者をどこに導こうとするのか・・・・。そんな思いを抱かせる転調となっている。
 
 アプローチのやり方は異なるが、陣馬輝義とダビデの狙いは、德川埋蔵金の発見・発掘だった。その追求がどのように進行していくのか。それがメインストーリーとしての読ませどころとなっていく。德川埋蔵金、ロマンを感じさせるテーマである。
 
 上記以外の主な登場人物を簡略にご紹介しておこう。ストーリーの広がりにもつながるので。
 夏池省吾:財務大臣。ダビデの接触を受ける。総理への密約の連絡窓口になる人物。
      ダビデは夏池に100兆円の事業を示唆する。
 播山貞夫:現在は萩原県の一住民。元民間の考古学研究団体の副理事長。
      旧石器の発掘に絡む捏造事件を起こした人物。
      伊勢崎巡査の要望を受け、恵梨香は播山の自宅で彼と面談する。
 大貫士郎:ジンバテックの顧問会計士。岬美由紀に一方的に面談を申し出てくる。
      社長の陣馬輝義に妄想性人格障害の疑いがあるので相談に乗ってほしい
      というのが彼の第一声だった。結果的に美由紀はジンバテックの問題事象
      に、一歩踏み込んでいくことになる。
 塚田市朗:臨床心理士資格認定協会の専務理事。美由紀を要注意人物とみなす存在。
      美由紀を敵視する立ち位置から徐々に美由紀の協力者へと変容する。

 このストーリーでもう一つ興味深いことは、萩原県の住民から悪夢の訴えが頻出してくることから、臨床心理士たちが総動員され、緊急に現地派遣される事態に展開することである。現地でのヒアリング調査の情報が集約されてくることで、一つの仮説が導き出されていく。美由紀が仮説について重要な発言をするに至る。
 美由紀には、事態の核心に迫る一つの結論が浮かびあがってくる。

 最後に、本書のタイトルに絡む一点に触れておこう。
 上巻には、「蒼い瞳とニュアージュ」という章がでてくる。これは美由紀が幼い頃に母から読み聞かせられた絵本のタイトルであるという。この絵本が恵梨香とのリンキング・ポイントになっていく。そして「荻原県」という章には、「あの童話に登場する雲(ニュアージュ)とは、親をはじめとするおとなの存在を示唆している」(上、p373)と記される。つまり、ニュアージュは雲を意味する。
 さて、その雲の存在は何を意味するか。上記引用文の続きにその心理的意味合いが具体的に説明されていく。さらに、それは美由紀の確信する自覚につながっていた。

 さあ、本書を開いてお楽しみいただきたい。

 なお、私は未読なのだが、『蒼い瞳とニュアージュ 完全版』、『蒼い瞳とニュアージュ Ⅱ 千里眼の記憶』と題する二書が出版されているようだ。こちらも、いずれ読み継ぎたいと思っている。

 ご一読ありがとうございます。
 

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』  角川文庫
『探偵の探偵 桐嶋颯太の鍵』    角川文庫
『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
                    2022年末現在 53冊
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『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』 松岡圭祐 角川文庫

2023-10-05 14:51:32 | 松岡圭祐
 「作家太宰治、五通目の遺書発見か」という新聞報道記事から始まる。この五通目の遺書の鑑定を有名な筆跡鑑定家、南雲亮介氏が進める。この五通目の遺書は、南雲氏の筆跡鑑定の報告書が仕上がるまでは誰にも開示されないことに。その南雲氏は、筆跡鑑定を進めている途中で、重要な関係者の一部には本物に間違いないと洩らしていた。水曜日に報告書を仕上げるという直前に、有数の週刊誌の記者たちが渋谷区松濤にある南雲邸に駆けつけ、第一報を確保しようと1階の遊戯室で待機する事態になる。
 南雲亮介氏の仕事部屋は2階にあり、そこはピアノ室と同じ仕様の防音室で、ドアには鍵穴がなく、内側から施錠すると外からは開けられない。ドアの上には換気用の小さな孔が横一列にならんでいるだけ。南雲の仕事場でボヤが発生した。記者たちは、ドアのわきの壁面を一部壊して、ドアを開き、総動員で消火を行う騒ぎになった。
 南雲亮介氏は一酸化炭素中毒で死亡。五通目の遺書は焼かれてしまった。仕事場の机の上には、日本近代文学館から借りた資料は焼失せずに残っていた。仕事場のパソコンのHDDのデータは隅々まで無関係のデータでストレージが上書きされて、データは何も残っていない状態の復旧不可にされていた。密室での不審死事件が発生したのである。
 鑑定結果の報告書を仕上げ、脚光を浴びようとしていた南雲亮介が五通目の遺書を自ら焼き、自殺するとは考えられない。ならば、密室殺害事件なのか?

 少し以前に杉浦李奈のサイン会を扇田陽輔が訪れていた。彼は渋谷署の刑事で、この事件を担当した。李奈はKADOKAWAの担当編集者菊池に緊急だと急かされて、渋谷区松濤にある南雲邸に連れて行かれる。扇田刑事の要請でもあった。李奈はその事件の解明に捲き込まれて行く。扇田刑事に案内されて李奈は事件現場を観察する。当日南雲邸にいた南雲の妻の聡美、週刊誌の記者たちとも面談する。李奈は太宰治の遺書が絡んだ事件として、事件と太宰治にのめりこんでいくことに・・・・・。

 発見された五通目の遺書は焼失してしまった。太宰治作品の愛読家である李奈は、ここで改めて太宰治が愛人山崎豊栄と一緒に玉川上水で入水自殺するまでに至る一連の太宰治の過去の経緯を考え直し始める。五通目の遺書とみなされているものが焼失した以上、南雲亮介が本物だと口頭で告げていた記載内容は一切わからないのだから。

 この時点で、李奈はもう一つ気がかりなことを抱えていた。小説家柊日和麗(ヒイラギヒカリ)のことである。顔を出すと約束してくれていた李奈のサイン会に来てくれなかったし、何度かラインのメッセージを送っているのに既読がつかず、連絡がとれないのだった。彼は李奈と同時に本屋大賞にノミネートされた作家で共に大賞からは外れた。柊日和麗は、太宰とはまるで異なるが、繊細な純文学系の私小説を書く作家なのだ。
 
 「太宰はなくなるまでに、何度となく自殺未遂を繰り返している。心中相手のみ死亡という事態もあった。それらの苦い経験にも触れた『人間失格』は、捨て鉢な告白文学という印象に満ち、まさに遺書代わりとみなせるほどだった。
 ところがそのあとに連載した『グッド・バイ』は、いきなり軽快で笑える感じの落語調に転じている。いったいどういう心境の変化なのだろう」(p66)
 
 『グッド・バイ』は太宰治の遺作であり、連載の13回分を書いたところで絶筆となった。尻切れトンボで、突然ぶつっと切れている。短編程度の約30ページに留まる未完作品となった。
 本書の実質的なタイトル「太宰治にグッド・バイ」は、一つはこの『グッド・バイ』に由来するのだろう。もう一つは、この事件の解明に関わって行く李奈が、そのプロセスで太宰治の死への動機について考え抜いた結果として、太宰治論に区切りをつけるという意味でのグッド・バイでもあるのだと思う。
 
 扇田刑事は、南雲亮介の一酸化炭素中毒死と五通目の遺書の焼失について、物的遺品・証拠の分析を基礎にして、捜査を推進する。一方、この事件の相談に乗ることになった李奈は、五通目の遺書の内容を推論するために、太宰治の死への経緯について、彼の生み出した作品を改めて論理的に読み進めて、太宰の死に迫ろうとする。李奈は太宰治についての疑問に関して、縁を頼って識者に会い、己の考えをぶつけていくアプローチを取り始める。
 李奈が手始めに推論材料にするのが『グッド・バイ』という太宰の遺作なのだ。インターネット情報で確認してみると、「行動」と「コールド・ウォー」との間に入る「怪力(一)~(四)」が省略されているが、それを除き、全文が本書に引用されていて、李奈の思考材料となっている。
 ここから、李奈の太宰治論がストーリーの重要な一つの流れとして動き出す。太宰治の作品と太宰の自殺の経緯については、一つの仮説として、太宰ファンには興味深いことと思う。一方、私のように、太宰治の作品にそれほど親しんできていない者には、作家太宰治を知る参考になるところが多い。それが本書を読んだ副産物となった。
 太宰治その人とその作品を論じる上で、作家論とテキスト論という2つのアプローチがあることを知った。本書では太宰治の精神病理学的分析論にまで触れていく。興味深い。

 もちろん、李奈は扇田刑事から捜査の進展結果をその都度入手し、一方、再度、南雲聡美への事情聴取に立ち会い、週刊誌記者たちに再度面談することを断続的に重ねていく。おもしろい点は、殺害事件の捜査という本筋が、副次的な流れの印象になっていることである。いわば、事件解明への伏線を敷く形として、脇役的にストーリーに織り込まれていく印象が強いと私は感じた。

 もう一つのストーリーの流れは、李奈が自宅のマンションに戻って来たとき、エントランス前で、李奈の兄・航輝と30代半ばぐらいの女性が押し問答をしているのを目にするところから始まる。その女性は、鷹揚社の社員で柊日和麗の担当編集をしている小松由起だった。由紀は柊日和麗が失踪したと李奈に告げた。李奈は柊の行方を探すために由紀に協力する。一旦、マンションの李奈の部屋で、由紀から状況を聞く。その後、李奈は鷹揚社内の由紀の席まで行き、話し合いを重ねる。李奈は、鷹揚社の編集部の雰囲気を感じとるとともに、文芸編集長田野瀬抄造のスタンスを具体的に知り感じ取るようになる。田野瀬は、プロモーションではなくて、パブリシティの機会を最大限利用して書籍販売に役立てるという方針を徹底する人物だった。パワハラ、セクハラを意に介しないふるまいをする編集長である。
 由紀の連絡を受けて、李奈は開示された柊日和麗のスマホに記録されたロケーション履歴を知る。その履歴は李奈を三浦半島、城ヶ島へと赴かせることに。その後、三崎港交番から連絡を受け、李奈は柊日和麗が海中に漂う形で発見され死んでいたことを知る。もちろん、李奈と由紀は現地に行き、柊の死を確認する。さらに、ショックで入院した由紀を見舞いに行った李奈は、柊の部屋の本棚の裏に隠してあったという原稿を渡された。一枚目に『珊瑚樹』柊日和麗と記されていた。長編の分量の原稿。原稿を読んだ李奈はあることに気づく・・・・・。

 このストーリー、殆ど関連性が深まらずに進行するストーリーの流れが一つに合流していく。
 「まさかと思うが、関係者が一堂に会して、いまからポアロの謎解きか?」
 「あいにくポアロは来ません。わたしです」「いまから真相をお伝えします」
と、醒めた心の李奈が南雲邸の遊戯室で謎解きを始める。それが最後の大団円となる。

 なかなかおもしろい構想と展開による李奈の推論である。
 いささか、太宰治論の色彩が濃厚。だが、そこがおもしろいところといえる。
 このシリーズ、私にとっては、副産物のゲットが楽しい。

 ご一読ありがとうございます。
 

補遺
太宰治   :ウィキペディア
太宰治  近代日本人の肖像  :「国立国会図書館」
あの人の人生を知ろう~太宰治編  :「ジャンキーパラダイス」
太宰治について :「五所川原市」
太宰治 作家別作品リスト:Mo.35  :「青空文庫」
   人間失格   
   グッド・バイ 
   「グッド・バイ」作者の言葉 
   HUMAN LOST 
   苦悩の年鑑 
        
   道化の華  
   虚構の春  
   狂言の神  
   東京八景  
   姥捨    
   女神    
   親友交歓  
   薄明    
   家庭の幸福 
        
   春の盗賊  
   美男子と煙草 
   十二月八日 
   斜陽    
不良少年とキリスト  坂口安吾  :「青空文庫」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)



こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『探偵の探偵 桐嶋颯太の鍵』    角川文庫
『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下   角川文庫
『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』   角川文庫
『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
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『探偵の探偵 桐嶋颯太の鍵』   松岡圭祐   角川文庫

2023-05-31 17:58:12 | 松岡圭祐
 『探偵の探偵』は紗崎玲奈を主人公にした四部作として完結した。と、思っていたのだが、その『探偵の探偵』が復活した。スマ・リサーチで紗崎玲奈の先輩になる桐嶋颯太が主人公となって! 『探偵の探偵』では桐嶋は脇役として登場していた。今回はその桐嶋颯太が難題に取り組んでいくことになる。ハードボイルド+バイオレンスという要素を盛り込んだ探偵物になっている。本書は2022年11月に文庫書き下ろしとして刊行された。
 『探偵の探偵』シリーズの新たな始まりとなるのだろうか。

 文京区の坂宮女子大に通う19歳の曽篠璃香は、奨学金だけでは厳しいので生活資金を稼ぐために、大学の友達から紹介された「マリー・アンジュ」というガールズバーでアルバイトを始める。璃香のアルバイトは、己の生活資金だけでなく養護施設に居てそこから高校に通う妹への仕送り資金を稼ぐためでもあった。
 ガールズバーで働く璃香は徐々に店一番の売れっ子になっていく。ところがそこに、60歳過ぎと思われ、肥満体で白髪頭、ちぢれ毛、頬肉が垂れ、瞼も腫れぼったくてブルドックを連想させる顔の男が現れる。彼は漆久保宗治と名乗る。名刺には、スギナミベアリング株式会社代表取締役という肩書が記されていた。漆久保は璃香に目をつけたのだ。それから漆久保によるストーカーまがいの行動に出る。漆久保は執拗に璃香を独占しようと行動をエスカレートさせていく。漆久保にはクロという名で同様の肥満体、スキンヘッドの男が常に護衛としてつき従っていた。
 
 漆久保は璃香が店にも知らせていないことまで知っていた。璃香は不審感と恐怖をつのらせ、弁護士に相談すると、探偵を傭うことを勧められた。ところが依頼した探偵は逆にクロに暴行されて負傷する羽目に。その探偵が「探偵の探偵」を璃香に紹介した。桐嶋颯太である。
 桐嶋は璃香と日比谷公園の一隅で会う約束をする。その場所は、璃香を監視する探偵がどこかにいることを前提として桐嶋が設定した。その探偵が静音ドローンを使っていることを桐嶋は想定していた。この桐嶋と璃香の話し合いの場面描写がまず興味深い。だが、桐嶋は作戦として、璃香のスマ・リサーチ社対探偵課への依頼は不成立の終わるように仕向けた。桐嶋は璃香を監視する探偵が誰かを割り出した。だが、桐嶋が打った一手は徒となる。その後、桐嶋は漆久保に対する攻めの一手をさらに講じる。これがおもしろい。
 だが、事態は最悪となる。曽篠璃香がマンションの自宅で殺害されたのだ。さらに、桐嶋自身が反撃を受ける羽目に・・・・

 スマ・リサーチの事務所に戻った桐嶋は、須磨からいくつかの事実を知らされる。ストレッチャーで璃香が搬出されるのを桐嶋が目撃していた頃、別の場所で、男が陸橋から線路に飛び降り、直後に電車に轢かれるという事故が起こっていた。死んだのは窪蜂東生という璃香を監視していた探偵だった。また、それより少し前に、警視庁の組織犯罪対策部から、調査業者への情報収集・訪問が行われていたという事実。それは、近々5万丁の銃器の大量密輸が予測されることに絡んでいた。この件に関しては、スギナミベアリングは、警察や自衛隊向けに拳銃や機関銃を製造している業者であり、絶対的にシロであり、アドバイザーとして警察に協力する立場とみなされているという。
 このストーリー、実はここから本格的にスタートすると言える。

 依頼人の曽篠璃香は殺された。桐嶋は須磨の許可を得た上で、漆久保が璃香殺害に関わっていると確信し、漆久保が色情魔である側面を徹底的に調査する行動に出る。その手始めが、千葉県市原市にある国本射撃場、クレー射撃場の賭け競技場面である。読者にはクレー射撃のしくみが副産物として理解できるのもおもしろい。漆久保のプロフイールが少しずつ明らかになっていくところがおもしろい。
 この射撃場での行動が桐嶋の調査の手がかりづくりになる。一方で、桐嶋を窮地に追い込でいくきっかけにもなる。

 桐嶋は調査活動の途中で、曽篠璃香の妹・晶穂が単独で姉璃香の死因の究明の行動を撮り始めていることを知る。桐嶋は晶穂にコンタクトし彼女の身の危険を説くが、晶穂は聞き入れない。桐嶋と晶穂の二人は、漆久保側に辛めとられ窮地に陥っていくことに。
 さて、桐嶋どうするか? 囚われの身となった二人は、電気椅子でサディスティックな拷問を受けることに。彼らは桐嶋の狙いを吐かそうとする。この電気椅子の場面はかなり具体的な数値入りで描写されていくが、その具体性はどこまで現実的な裏付けがあるのだとうか、その点は少し気になる。
 桐嶋はこれまでに得た情報と状況分析から、心理作戦で漆久保に対抗していくしか手がない。

 漆久保の色情魔の側面以外に、べつの顔が見え始めてくる。そこからバイオレンスの要素が色濃くなっていく。
 興味深い部分は、漆久保が武田探偵社の藤敦甲磁を傭っていたことがあきらかになるところ。彼は対探偵課の手の内を熟知していて、桐嶋と藤敦は互いを良く知っている関係でもあった。桐嶋がピンチに至る一因にもなる。さて、桐嶋どう切り抜ける・・・というところ。

 いささか荒唐無稽感のあふれる展開となっていくが、ストーリーが面白くなるのは間違いがない。そこがフィクションの世界でのお楽しみといえようか。

 このストーリー、最終コーナーを回る辺りから、紗崎玲奈が独自の判断で桐嶋のピンチを助ける脇役として登場してくることに・・・・。読んでいて、残念ながら、玲奈が登場して来る伏線部分を見破れなかった。この伏線を見破れるかどうか、本書を読んでみてほしい。

 ストーリー展開のおもしろさとエンターテインメント性を楽しめる小説である。

 ご一読ありがとうございます。

 
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫

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『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下  松岡圭祐  角川文庫

2023-05-05 18:12:12 | 松岡圭祐
 ”<イラクで新たに四邦人拉致 解放条件は自衛隊撤退> 共同通信 十月七日 十六時十八分”という報道見出し文から始まって行くストーリー。
 2005年8月に小学館文庫として発刊後、加筆・修正されて、この完全版が2009年1月に角川文庫で刊行された。

 現地で働くボランティア4人が拉致された。武装グループは一転して人質解放を示唆する。人質にPTSD発症の懸念もあるという。その交渉に外務省職員の成瀬史郎が現地入りする。その際、臨床心理士が同行することになった。アラビア語が流暢に話せる岬美由紀がその任を担う。美由紀が派遣される理由は彼女の過去が大きく考慮されていることに、美由紀自身鬱屈感を抱いていた。
 成瀬はシーア派部族の一つアル=ベベイルと名乗る武装グループのナジム・フッタールと人質解放の交渉に入る。交渉が進展する途中で、クルド人集団の襲撃をうける。美由紀は機敏に行動し、拉致者達と成瀬を自衛隊派遣のヘリに搭乗させた。ヘリを脱出させるために、美由紀は即座に状況判断し襲撃してきた戦車の動きを阻止する行動に出る。ヘリは脱出できた、しかし美由紀は現地に残留する羽目になる。それがこのストーリーの始まりである。
 アル=ベベイルの成瀬との交渉の場をクルド人集団が襲撃し、戦闘状態になり、自衛隊ヘリが危地を脱出するという場面が、言わばストーリーへの導入の最初の山場。読者を惹きつける活劇場面となる。
 それは、美由紀をイラクの戦場に投げ込むための巧みな導入になっている。
 アル=ベベイルと名乗る覆面のアラブ人達とクルド人達の小規模な突発的戦闘。覆面のアラブ人達は容赦なく、投降したクルド人3人を射殺した。やむなく戦車を阻止する行動を起こした美由紀はこの戦闘状況をつぶさに目撃する。
 「トランス・オブ・ウォー。間違いない、彼らはその特殊な心理状態にある。美由紀は思った」(p62)本書のタイトルはここに由来するようだ。

 辞書を引くと、トランス(trance)は「催眠状態」を意味する。この小説では「トランス・オブ・ウォー」の理論を美由紀が語ることになる。マスウード・アブドゥルハミード教授の説をベースに発展させた理論として描かれて行く。
 現実に心理学分野ではこの領域の理論や研究があるのだろうか。少し調べた範囲では、この語句自体を用語としては見つけられなかった。しかし、「軍事心理学」「軍事入門/戦いの精神」などの見出し語、あるいは『戦争における「人殺し」の心理学』と言う邦訳本があるくらいだから、戦争に絡む人間心理は研究されていることだろう。

 ストーリーは、一転して岬美由紀が三等空尉だった5年前を回想する場面に戻って行く。読者はイラクの戦闘から美由紀の過去に引き戻される。それも文庫本上巻がほぼこの回想ストーリーに終始する。読み進めると最初に、イラク戦争とどう関係する?とちょっと戸惑うことになる。だが、美由紀の5年前の状況というサイド・ストーリーに引きこまれて行くことに。いわば美由紀に関する温故知新という側面に通じる。
 この上巻の構成における分量的な事実分析をすると、報道見出しから最初の戦闘終了までが56ページ、美由紀の過去の回想ストーリーが269ページ、イラクでの美由紀の現在描写が69ページ、日本の閣僚の思惑に21ページである。著者が美由紀の過去に比重を置いていることがわかる。美由紀の過去の描写が、この後のイラクにおける美由紀の行動の伏線になっていく。

 最初の戦闘場面の終結後に、ナジム・フッタールと美由紀の会話が記される。
「おまえはいったい何者だ。臨床心理士ではあるまい」(p62)
「わたしは臨床心理士よ。いまわね」(p62)

 アル・ベベイルに捕らわれ、美由紀はナジムから敵愾心を顕わに不信感を持たれた。美由紀の経歴はすぐにナジムに知られてしまう。ナジムから美由紀は処刑は中止とし、ハッサン・アル=ウルームに引き合わせると告げられる。陸路の長距離移動となる。

 閣僚達の会話の中に、次の発言が現れる。
 「外務省の分析では、元自衛官であるという素性が発覚したら、ゲリラに潜入工作員とみなされる危険があるとのことです」(p405-406)
 「もし自衛隊として行動できないということであれば、外務省から現地の大使館を通じ、サマワに情報をつたえます」(p410)

 文庫本の上巻は、イラクにおいて美由紀がサバイバルして帰国を果たすためにどのような行動と経緯を辿るのか、読者の期待感を高める導入部になっている。

 文庫本の下巻は、イラク戦争の状況を背景に、トランス・オブ・ウォーという心理状態が発生している戦争状況で、美由紀がどのように行動するかを描いて行く。

 下巻でストーリーが進展する中での特徴を取り上げておこう。
1.イラク戦争に介入したアメリカ。アメリカ大統領の視点からみた戦争の構図が描かれる。ジョーイ・E・ブッシュ大統領というフィクションで描かれていくところに、皮肉さを織り込んでいる。大統領が心理分析顧問の出向者を側近にしている点が興味深い。アメリカ大統領の狙いは何か。そこにリアル感が出ている。
2.フセイン政権崩壊後のイラク国内での民族間の対立。闘争の複雑さが描かれる。
 ナジムをリーダーとするアル・ベイルは一部族にすぎない。シーア派とスンニー派の対立。シーア派武装勢力、アル=カイーダ、ターリバーン、クルド人の戦闘集団などさまざまな組織集団の存在と割拠。それぞれの立場が入り交じる渾沌の中での主導権争い。そんな側面が描かれる。
3.ナジムから美由紀の監視を任されたライード・ドレイミと美由紀の人間関係が変化していく。美由紀を観察するライードの意識が変化していく。対立的存在から、協調的存在へと転換していくプロセス。美由紀の協力者に転じて行く。
4.美由紀は、アル=べべイルの幹部たちにトランス・オブ・ウォーの可能性を訴えて行く。戦いを止めさせるためである。美由紀の主張は、今は第一線を退いたマスウード・アブドゥルハミード教授が主唱した理屈と同じと受けとめられる。まずは拒否反応から始まって行く。美由紀はそれにどう対処し、行動していくのか。このストーリーは、トランス・オブ・ウォーをリーダーたちに語り、美由紀が行動を通じてそれを実証するプロセスでもある。
5.美由紀は過酷なオムカッスル刑務所に送られる。美由紀がどのようしてサバイバルできるか。地獄からのサバイバル。そこに協力者が現れる。
6.鐘ヶ江琴江と門倉里佳子は自衛官としてサマワに派遣されていた。この二人の登場は、上巻における美由紀の5年前の回想にリンクしていく。サマワで二人は道重一尉から美由紀が行方不明になった事実を知らされることに・・・・。
 彼女たちの立場から何ができるか。どのような関わりが生まれるか。
 この側面では、現地において日本がなしうる限界を暗示しているとも言える。
7.最終ステージは、ナジャフ市街上空においてアメリカ空軍の攻撃との戦闘になる。
 そこで意外な事態が起こることに・・・・。奇想天外さ加わりおもしろい。
 このストーリー展開ならではというところ。小説というフィクションの醍醐味を遺憾なく発揮している。そこが特徴といえようか。
8.史実としてのイラク戦争は、ジョージ・W・ブッシュ大統領の「大規模戦争終結宣言」で一旦終了した形をとっている。このストーリーも大統領による武装解除のセレモニーで終わる。形として整合性はとられている。
 それだけで終わらせないところにこの小説の意図があるようだ。セレモニーの最後に、美由紀を登場させ、美由紀に横笛を吹かせる。「戦乱に明け暮れた砂漠の大地への鎮魂歌」(p415)が響きわたる。そこに未来に向かっての真の平和の希求が読み取れる。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
イラク戦争  :ウィキペディア
イラク共和国 :「外務省」
グラフィック :スンニ派とシーア派ってどういうこと? :「NHK」
シーア派   :ウィキペディア
スンナ派   :ウィキペディア
クルド人   :ウィキペディア
アルカイダ  :「コトバンク」
ターリバーン :ウィキペディア
軍事心理学  :ウィキペディア
軍事入門/戦いの精神  :「WIKIBOOKS」
「戦争」の心理学―人間における戦闘のメカニズム  :「紀伊國屋書店」
戦争の心理学  弁護士会の読書   :「福岡県弁護士会」
『戦争における「人殺し」の心理学』 :「日本赤十字九州国際看護大学」

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こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫
「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
                  2022年末現在 53冊
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『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』 松岡圭祐 角川文庫

2023-04-27 23:44:50 | 松岡圭祐
 新人作家・杉浦李奈の推論シリーズの巻Ⅶを先に読んでしまった。そこで巻Ⅵに戻って先日読み終えた本書は書き下ろしとして令和4年(2022)8月に文庫が刊行されている。

 巻Ⅵのタイトルは「見立て殺人は芥川」。このタイトルから、2つのことが推測できる。今回も李奈が殺人事件に絡んで警察署の協力を求められて捜査に協力する立場になること。その殺人事件は、芥川龍之介のいずれかの作品に見立てた側面を表していることである。それは、犯人が何等かのメッセージを発信しているのか、捜査に攪乱要素を加えただけなのか。李奈がその謎解きを迫られるということである。

 さて、本書の構成のおもしろさをまずご紹介する。
 ストーリーのメインは、李奈が見立て殺人事件に関わり、その謎解きをするという話である。ここに、サブ・ストーリーが絡んでいく。李奈の故郷三重県から母親の愛美(あいみ)が上京してきた。しばらく李奈の兄・航輝の許に滞在し、二人が李奈のアパートに頻繁に訪ねてくる。三人で夕食を一緒にとるということになる。母の狙いは李奈を実家に帰郷させることにある。李奈は作家として本当にひとり立ちできるまで東京を離れないと主張する。読者にとっては、李奈が母親に屈伏するか、母親が李奈の主張を受け入れるか、その成り行きに関心が向かうことに・・・・。

 メイン・ストーリーの発端は、品川署刑事組織犯罪対策課の瀬尾刑事が、中目黒の蔦屋書店内のスターバックスコーヒーに李奈が居ることを確認し、そこに現れて捜査協力を依頼するところから始まる。李奈と一緒に居た優佳も同行し、二人は品川署に出向く。李奈は捜査に協力することを承知する。李奈には母と顔を合わせる煩わしさをできるだけ回避したいという気持ちもあった。

 品川署内で瀬尾刑事は李奈と優佳に協力を依頼したい殺人事件の概要をまず伝えた。
・事件の発生場所 南品川七丁目の住宅街。
・被害者1:舘野良純、53歳。野菜卸売の関連会社勤務。経理担当。
      戸建て住宅の自宅で殺害された。当日は有給休暇で自宅に居た。
 被害者2:宇戸部幸之助、76歳。一人暮らし。舘野宅の三軒隣り。第一印象は猿顔。
 その他 :舘野宅の隣家の犬とスズメが殺されていた。
・現場状況:被害者舘野良純と宇戸部幸之助、動物は改造スタンガンで殺されていた。
      舘野の死因は首を撃たれたことによる出血多量
      被害者舘野の胸の上に文庫本から切り出した芥川龍之介の短編「桃太郎」
      が置かれていた。
      宇戸部は自宅の和室で死亡。遺留品なし。
・関連状況:舘野の妻と女子大生の娘は沖縄旅行中だった。
      凶器はアメリカ製の輸入品でデトニクス45を模した拳銃と判明(全長178mm)
 舘野の胸上に置かれた「桃太郎」との関連で、舘野が桃太郎、そして犬と猿(宇戸部)、キジの変わりのスズメという見立てがまず連想された。だが、それが何を意味するかは不明。
 短編「桃太郎」以外に手がかりが無く、マスコミの取材要請を抑え切れなくなっているところから、「桃太郎」の持つ意味を考えてほしいということが李奈への要請だった。

 李奈は、刑事たちの聞き込み捜査に同行して状況を直に知り、情報を収集する行動をとる一方で、改めて芥川の「桃太郎」を読み込み始める。仮に見立て殺人であるにしてもこれが何を意味するのか・・・・・。暗中模索のスタートとなる。

 巻Ⅵにはいくつかの特徴がある。
1.本当に見立て殺人なのかどうか。芥川の「桃太郎」が使われた意味は何なのか。
 刑事から求められた推論(所見)を築こうと、李奈は聞き込み捜査に同行し、一歩踏み込んで捜査に関わらざるを得なくなっていく。そのプロセスにさまざまな伏線が敷かれている。後で見直すとナルホドと思う。
2.李奈が芥川の短編「桃太郎」を読み込んでいくプロセスが進展するにつれて、この短編自体がストーリーの中に、全文引用として提示されていく。私は、芥川龍之介が短編「桃太郎」を書いていることを遅ればせながら初めて知った。そして、副次的にその全文を読むことができた。
 文学作品そのものがズバリとストーリーに組み込まれている。まさに、エクリチュール/ビブリオミステリーである。
3.李奈と友人かつ小説家である那覇優佳との間で文学作品に関わる会話しばしばなされる。彼女たちには日常の一部なのだが、それは李奈が推論を築いて行く上での重要なヒントにも転じて行くというおもしろさがある。いわば、伏線が会話の中にも織り込まれている。
4.ストーリーの最終ステージでは、李奈の兄・航輝も事件解決に一働きすることになり、併せて李奈の母愛美もまた事件解決への一助を果たすという展開がおもしろい。
5.今回も、万能鑑定士Qこと小笠原莉子がちょこっと登場する。ちょっと楽しい。
6.昔話の「桃太郎」と芥川龍之介著「桃太郎」との差異は何か。なぜ、芥川が「桃太郎」を書いたのか。芥川はこの短編で何を言いたかったのか。見立て殺人を分析的に考えて行く推論過程の副産物として、仮説が語られていく。このこと自体がエクリチュールであると思う。
 併せて、猿かに合戦も出てくる。芥川は短編「猿蟹合戦」も書いていることを知った。こちらは本文引用はないけれど。さらに「蜘蛛の糸」も出てくる。これは知っていた。他にも芥川の作品名が織り込まれている。
7.本書には、芥川龍之介以外に、文学作品名を初め数多くの書籍名が頻出する。そして、そこにはなにがしかのコメントが併記されていて興味深い。初めて知る書名も結構ある。まさにエクリチュールである。

 p242に次の文が記されている。李奈の思いとして記される地の文である。
「万能鑑定士Qこと小笠原莉子の教えを思い出した。物理的証拠ばかりにとらわれ、心理面を疎かにしてはならない。すべての発端は人だ。人の行動は内面がきめる」
 このストーリー、この箇所が重要な意味を持つ。お楽しみいただくとよい。

 文庫本の帯のメッセージを紹介しておこう。東京大学クイズ研究会(TQC)が推薦!という形で、「読み進めるうちピースが繋がっていく--パズルのような面白さ!」
 確かにそう思う。このメッセージ、このシリーズ全体にもあてはまるという気がする。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
桃太郎 芥川龍之介  :「青空文庫」
猿蟹合戦 芥川龍之介  :「青空文庫」
猿蟹合戦 (芥川龍之介)  :ウィキペディア
桃太郎         :ウィキペディア
桃太郎 楠山正雄    :「青空文庫」
桃太郎 -ももたろう(日本語版)アニメ日本の昔ばなし/日本語学習/PEACH BOY - MOMOTARO (JAPANESE)  YouTube
猿かに合戦 楠山正雄 :「青空文庫」
さるかに合戦(日本の昔話/動く絵本)  YouTube
バルサスの要塞  :ウィキペディア
デトニクス コンバットマスター / Detonics CombatMaster 【自動拳銃】:「MEDIAGUN DATABESE」
デトニクス.45 コンバットマスター  :「TOKYO MARUI」
アンソニー・ギデンズ  :ウィキペディア
スーザン・フォワード 著者プロフィール  :「新潮社」
エクリチュール :「コトバンク」

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『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫
「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
                    2022年末現在 53冊


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