遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『千里眼 ファントム・クォーター』  松岡圭祐   角川文庫

2024-05-20 17:59:22 | 松岡圭祐
 千里眼・岬美由紀の新シリーズ。書き下ろし第2弾! とは言えど、平成19年(2007)1月刊行である。私がこのシリーズを知ったのは、シリーズが脱稿されたよりも遅かったと思うので、著者の近年の作品群とパラレルに、このシリーズを読み継いできている。

 この第2弾、新シリーズの第1作に敷かれていた伏線が浮上してくる。第1作の読後印象記の中で、次の点に触れている。
<< 美由紀がトレーニングを受けている時期に、全く離れたミラノでの場面がパラレルに挿入される。それは東大の理工学部を卒業してイタリアに渡った小峰忠志に関わる話である。彼は、遊園地用のアトラクションを製造する大手企業の子会社において、”存在するものを無いように見せる”技術として、フレキシブル・ペリスコープとなづける円筒を開発した。だが、その製造費用の巨額さでは採算に合わないと判断され、小峰を含む開発チームは解雇される。解雇された小峰に、マインドシーク・コーポレーション特殊事業課、特別顧問と称するジェニファー・レインが接触してくる。そして、2年後に南イタリアのアマルフィ海岸の崖からの自動車転落事故で小峰が事故死したことがさりげない挿話となる。これで小峰のことはストーリーからは潜行してしまう。新シリーズの次の展開への大きな伏線がここで敷かれた。>>
 <フレキシブル・ペリスコープとなづける円筒> これが、この第2作の核心になっている。

 このストーリー、実に巧みな構成になっている。映画の予告編風に、本作の小見出しに絡めて、コマ撮り風の紹介を加えてみよう。

[千里眼の女]
 冒頭、場所はシベリアの港町ナホトカ。ロシアン・マフィアのペルデンニコフに、情報屋家業のベテラン、アサエフが現代の日本で”千里眼の女”と称されるのが岬美由紀であるという情報を伝える。アサエフが得た報酬はペルデンニコフの拳銃から放たれた銃弾だった。

[ストップ安]
 美由紀は高遠由愛香(タカトオユメカ)と一緒にメルセデス・ベンツCLS550で、プレイガイドをめざす。その時、美由紀は証券会社の電光掲示板に目を止める。国内製造関連主要企業の株価が軒並み大暴落、日本以外の国では重工業を中心にあらゆる業種の株価が軒並み高騰という表示。市場が開いて間なしにストップ安がかけられていた。美由紀はその異常さに懸念を感じる。

[マトリョーシカ]
 在日ロシア大使館の館員二人がチェチェン難民の男の子が作ったという木彫りのマトリョーシカを手土産に、臨床心理士会のビルを訪れ、美由紀と面談する。チェチェン難民に対して現地に赴き、ボランティアで救助活動に加わって欲しいという依頼だった。美由紀は受諾する。明後日成田発という慌ただしいスケジュールを知らされる。

[ステルス・カバー]
 由愛香との待合場所にメルセデスで向かおうとした美由紀に、リムジンが接近してきた。運転手に後部座席へ誘われる。航空自衛隊の広門空将が居て、防衛政策局の佐々木洋輔を紹介される。車内で佐々木が美由紀に円筒形のフレキシブル・ペリスコープに関する資料を見せる。それをトマホークに被せれば、見えない巡航ミサイルが出現すると語る。対策チームに美由紀が参画するようにとの要請だった。対策チームは3日後から稼働すると言う。

 ここで第1作の伏線が恐怖の武器に関連付けられて、浮上してくる。だが、美由紀は臨床心理士として、ボランティア活動に出向くことを選択する。
 この第2作のおもしろいところは、最初から最後まで、底流として、セブン・エレメンツ来日公演のチケット獲得のための行動譚が織り込まれていくところにある。美由紀の日常生活の一面がこのストーリーでいわばオアシスになっている。
 美由紀のマンションに、萩庭夕子と名乗る研修予定の大学生が訪れる。だが、それは偽名でクライアントの水落香苗だった。彼女の挙動から美由紀は直ちに見抜いた。一泊させて、翌朝同僚に香苗を引き渡すことを美由紀は予定に組み入れた。翌朝9時過ぎ、メルセデスで同僚の所を経由し、香苗を託した後に羽田に向かうつもりだったが、美由紀はメルセデスでの移動中に想定外の事態に遭遇する。香苗は美由紀の状況に巻き込まれていくことに・・・・・。マトリョーシカが禍となる。

[ゲーム]~[ガス室]
 場面は一転する。美由紀が意識を取り戻す。美由紀は全く覚えのない場所に居た。そこはアンデルセンの童話の挿絵に似た景色なのだ。二世紀ほど前のデンマーク風の二階建ての屋敷と森が見える広場。美由紀は調べてみると何も身に所持していない。近くのベンチには、奇妙なプラスチックの物体を見つける。板チョコほどの大きさで、二つ折り、液晶画面が付いたロールプレイングゲーム機だった。そのゲーム機の液晶画面に出ている景色は、美由紀が今居る空間と同一だ!!!
 美由紀はゲーム機の液晶画面にシンクロナイズするゲームの世界に投げ込まれて居るのだ。なぜ、そんな事態になったのか?
 ゲーム機を手にしながら、美由紀はこの非現実的なゲームの世界のルールを体験学習により解析し、ルールを発見・理解しつつ、この世界でまずはサバイバルしなければならない。そんな窮地に美由紀は立たされた。

 このストーリー展開の飛躍が、まずおもしろいではないか!
 ロールプレイング・ゲームを日頃楽しむ世代には、実に楽しいストーリー展開として読めることだろう。それを楽しむことのない世代にとっても、この設定は異相空間の話として楽しめる。
 
 美由紀にとって、このゲームが進行するリアルな空間は、最終目的をつかめぬまま、今、ここで直面しサバイバルを迫られた喫緊の課題になっていく。ここが、ファントム・クォーター(幻想の地区)なのだ!

 美由紀とユベールがサバイバルした。セスナ172Nで、美由紀は島から脱出する。

[教官]
 美由紀が脱出して4日が過ぎた。美由紀は市谷にある防衛省A棟内のある会議室で、広門空将と佐々木と面談せざるを得ない状況に居る。ここから現実の世界が始まっていく。
 あのファントム・クォーターで美由紀が直面した世界と日本の現実の世界が繋がっていく。美由紀がファントム・クォーターで掴んだ恐るべき事実と、広間と佐々木が懸念する事態が直結する。
 さて、ここからこのストーリーは、第二の山場へと昇り詰めていくことになる。
 ひとこと触れておこう。課せられたことは見えざる武器を操る組織の行動を如何に阻止するかである。
 岬美由紀が活躍する場面が進展する。そのプロセスを本書でお楽しみいただきたい。

 2点付け加える。一つは遂に由愛香等は、代々木体育館でのセブン・エレメンツのステージを観客として体験できることになる。
 もう一つは、クライエントの水落香苗の抱えた悩みに美由紀が対応し、紆余曲折を経て、香苗は認知療法で快癒に向かう。そのミニ・ストーリーがきっちりと織り込まれていく。中途半端な登場のさせ方にしないところが実におさまりとしてよい。

 第二の山場においても、トリッキーな落とし所がちゃんと組み込まれている。著者はやはり実に巧みなストーリーテラーだと思う。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『千里眼 The Start』 角川文庫
『千里眼 背徳のシンデレラ 完全版』 上・下  角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅸ 人の死なないミステリ』 角川文庫
『千里眼 ブラッドタイプ 完全版』   角川文庫
『千里眼とニアージュ 完全版』 上・下  角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』  角川文庫
『探偵の探偵 桐嶋颯太の鍵』    角川文庫
『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
                    2022年末現在 53冊
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『千里眼 The Start』 松岡圭祐  角川文庫

2024-04-13 21:05:19 | 松岡圭祐
 千里眼クラシック・シリーズを読み終え、今、新シリーズの第1弾を読み終えた。
 とは言え、本書は平成19年(2007)1月刊行の文庫書き下ろし作品で、はや17年前の作品ということになる。新シリーズになり、カバー表紙のモデルも代わっている。

 この新シリーズ、岬美由紀がなぜ防衛大学に進学し二等空尉になり、その後自衛隊を除隊し、臨床心理士という新たな人生を踏み出したのかという経緯が導入部となる。これは巧みな導入部になっている。なぜか?
 クラシック・シリーズを読み継いでいる読者にとっては、岬美由紀が楚樫呂島の大地震と津波の被害の際に無断で救難ヘリを操縦し救助活動に参加した事件についての事実上の査問会議の内容が明らかになるからである。リエゾン精神科医、笹島雄介の所見発言により美由紀の上司である坂村三佐は、その時の判断と行為を糾弾され、その結果解任となる。その解任理由には承服できないと、美由紀は己の意志で除隊した。美由紀は笹島の所見の誤謬を証明したいがために、心理学を学び臨床心理士になる決意をした。それが新たな人生の始まりだった。この側面はクラシック・シリーズには触れていず、楚樫呂島での臨床心理士友里佐知子との出会いの側面が色濃かったように思う。記憶違いがあるかもしれないが・・・・。いずれにしろ、部入部で美由紀の過去の側面が再認識できる。
 一方、クラシック・シリーズを読まずに、この新シリーズから読む読者には、二等空尉で除隊し、カウンセラーに転身した美由紀の過去のキャリアと経緯の大枠を理解でき、この第一作のストーリーに、すんなりと入っていける仕組みになっている。

 臨床心理士になるトレーニングとして、美由紀が品川にある赤十字福祉センターの臨床精神医学棟で、臨床心理士の舎利弗から指導を受けるという状況は、クラシック・シリーズを読んできた読者にも、初めての内容になっている。美由紀が舎利弗の指導を受けて自己トレーニングを積むことで、千里眼と人から称される能力が開発される経緯は、精神医学、心理学に関心を抱く人には特に興味深いところになると思う。科学的知識と訓練により、己の身体能力と統合されて形成された美由紀の能力ということを納得できる流れになっている。

 美由紀がトレーニングを受けている時期に、全く離れたミラノでの場面がパラレルに挿入される。それは東大の理工学部を卒業してイタリアに渡った小峰忠志に関わる話である。彼は、遊園地用のアトラクションを製造する大手企業の子会社において、”存在するものを無いように見せる”技術として、フレキシブル・ペリスコープとなづける円筒を開発した。だが、その製造費用の巨額さでは採算に合わないと判断され、小峰を含む開発チームは解雇される。解雇された小峰に、マインドシーク・コーポレーション特殊事業課、特別顧問と称するジェニファー・レインが接触してくる。そして、2年後に南イタリアのアマルフィ海岸の崖からの自動車転落事故で小峰が事故死したことがさりげない挿話となる。これで小峰のことはストーリーから潜行してしまう。新シリーズの次の展開への大きな伏線がここで敷かれた。

 さて、この The Start は、狭義の導入部の後、臨床心理士資格を取得できる前の段階で、いくつかのエピソードを織り込みながら進行する。その挿話を簡略に並べておこう。
 *宮崎にある航空大学校に出向いて笹島雄介に会い、笹島の誤謬を指摘する。
  この時、笹島は両親を飛行機事故で亡くしていたことを聞かされる。
 *マンションの隣人の湯河屋鏡子の部屋が荒らされた事件に頼まれて関わっていく。
 *臨床心理士資格の面接試験の状況
 *大崎民間飛行場内の6階建てビルからの飛び降り自殺懸念のニュースに反応する
おもしろいのは、飛び降り自殺懸念の事件を解決できた直後に、美由紀は現場でトレーニングの指導者だった舎利弗から資格に合格したと臨床心理士のIDカードを受け取るのである。
 ここまでが、広義の導入部、つまり美由紀の過去のストーリー。著者はあの手この手で読者を楽しませてくれる。あちらこちらに、美由紀の知性と鋭さを散りばめていく。
 そして「現在」につながる。現在とは、クラシック・シリーズの最終巻「背徳のシンデレラ」の事件から1年以上過ぎた時点である。

 この新シリーズ第1作のメインストーリーは、美由紀が高遠由愛香(タカトオユメカ)と待ち合わせて会話をしている時に、ふと目をひいた写真週刊誌の表紙の見出し”旅客機墜落、全員死亡の日”がきっかけとなる。フリーライター好摩牛耳(43)、またまたお騒がせ情報。今度は旅客機墜落。その記事に好摩の顔写真も掲載されていた。「好摩が本当に旅客機墜落の事実を知っていて、その秘密を暴露したのだとしたら、この表情は理にかなったものといえる」(p129)、この男が真実を語っている可能性があると美由紀は感じた。その墜落予告は3日後だった。
 ひと晩かかりで、美由紀は好摩についてのインターネット情報を収集する。そして、写真週刊誌の版元を訪ねることから始めて行く。版元の編集長を助手席に乗せ、美由紀は好摩の事務所兼仕事場を訪れる。書庫で発見したのは、吊されたロープに首を巻きつけたスーツ姿の好摩のだらりと垂れ下がった姿だった。
 デスクの上には、JAIのロゴが刻印されたジャンボ旅客機の整備用の図面類が散らばっていた。
 好摩のスーツのポケットには、遺書らしきものが入っていた。本庁捜査一課の七瀬卓郎警部補は、その現場に自殺の疑いもあるので、好摩の生前の精神状態を推量するための専門家として、笹島雄介を呼び寄せた。美由紀は再び笹島と対面することになる。
 七瀬警部補はあくまで好摩を他殺/自殺両面で捜査するという認識であり、旅客機墜落予告の線は眼中にない。美由紀との認識ギャップは埋められない。
 美由紀は旅客機墜落予告をした好摩について、独自に関連情報を収集する行動に歩み出す。笹島はそれに協力すると言う。美由紀は好摩が直近に取り組んでいた事案について、調べ始める。このストーリーの進展でおもしろいのは、様々な意外な豆知識が美由紀の説明の中に織り込まれていくことである。これは他のシリーズにも共通する一面であり、おもしろい。好摩が取り組んでいた事案から、中華料理店でアルバイトをしている20歳の吉野律子が糸口となる。いわばそこから芋蔓式に事象がつながっていくことに・・・・・。
 それが意外な展開を経て行く結果になる。
 なんと、美由紀は飛行機墜落予告の対象となった飛行便を突き止めるに至るのだが、美由紀自身がその飛行機に笹島とともに搭乗する。
 その時点で既に美由紀は犯人を推定していた。美由紀はどうするつもりなのか!?

 搭乗するまでの経緯そのものが実に波瀾万丈となる。その先がさらに意外な展開へ。ここが読ませどころなので、これ以上は語れない。

 このストーリーの掉尾に、上記のジェニファー・レインが登場する。ここに小峰の一周忌という表現が浮上する。さらに、「またしても出しゃばってきたか、岬美由紀。だが、今度こそ邪魔させない」(p266)という彼女の執念が吐露される。
 今後おもしろくなりそう・・・・。

 新シリーズの始まりとなるこの第1作に記された美由紀の思いを引用しておこう。
*人の感情が見えるようになって、わたしにはわかる。人の本質はそんなに闇にばかり閉ざされてはいない。誰もが信頼を求めてる。信じられる前に、まず信じようと努力する。疑心暗鬼は信頼に至るまでの道のりの途中でしかない。  p262
*わたしは一方的に、人の感情を読んでしまう。相手がわたしの心をたしかめることさえないうちに。  p262
*この能力とともに歩んでいく。わたしが心を読むことによって、救える人がいるかぎり。 p272

 最後に、本書には「著者あとがき」が付されている。その中の次の文をご紹介しておきたい。新シリーズでは、科学的視点が求められる設定については極力リアルに描くと著者は言う。
*かつて「すべては心の問題」と見なされていた精神面の疾患は、脳内のニューロンに情報伝達を促進する神経伝達物質の段階で起きる障害に原因を求めるなど、より物理的で現実的な解釈が主流となってきました。ひところ流行った「抑圧された幼少のトラウマ」を呼び覚まして自己を回復する「自分探し」療法は、いまや前時代的な迷信とされつつあるのです。  p276

 精神医学、心理学の領域も大きく変容しつつあるようだ。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
アメリカ精神医学会    :ウィキペディア
精神障害の診断と統計マニュアル(DSM) :ウィキペディア
境界性パーソナリティー障害(BPD)について・基礎情報・支援情報:「NHKハートネット」
ヘンリク・ヴィニャフスキ :ウィキペディア

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『千里眼 背徳のシンデレラ 完全版』 上・下  角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅸ 人の死なないミステリ』 角川文庫
『千里眼 ブラッドタイプ 完全版』   角川文庫
『千里眼とニアージュ 完全版』 上・下  角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』  角川文庫
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『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下   角川文庫
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「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
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『千里眼 背徳のシンデレラ 完全版』 上・下 松岡圭祐  角川文庫

2024-04-08 16:24:21 | 松岡圭祐
 クラシックシリーズの第12弾。このシリーズの最終巻となる。2006年5月に文庫本で刊行されたものに加筆・修正が加えられ、2009(平成21)年に完全版と題して改めて文庫が刊行された。この刊行から早くも15年が経っている。上下巻でなんと実質1,201ページという超長編小説。シリーズの最後を飾るに相応しいロング・ストーリーといえる。

 上巻の目次の次のページに、
 阿諛子、あなたはわたしの子ではない。これを読んだのなら、あなたは変われる。
                    ---友里佐知子の日記より抜粋
という引用が記されている。この一行がこのストーリーを暗示していて、またこのストーリーのテーマにもなっている。

 ストーリーの冒頭は、メフィスト・コンサルティング・グループが一級建築士音無耕市に自白させるために仕組んだ大がかりな心理戦に岬美由紀が介入していくところから始まる。それは100人近くの不安神経症の人々を救出する為でもあった。救助した人々の一人、衣川智子から音無耕市がタイタニック計画ということを口にしていたと聞く。美由紀はこのタイタニック計画の意味を解明し、それを阻止する行動にで出る。これが一つの短編小説風にまとまった導入部になっている。いわば007の最初の導入部のような手法である。
 場面は一転し、能登半島の先端近く、石川県輪島にほど近い山中に建つ白紅神社に。ここは大晦日のNHK紅白歌合戦の勝利組を予言することで有名になり膨大な信者を集めてきていた。この予言を今回限りで打ち切ると宣言した年の大晦日に、鬼芭阿諛子が宮司風知卓彌の前に現れる。阿諛子の再来!! これがこのストーリーの重要な伏線になる。

 場面は二転する。岬美由紀が臨床心理士として日常活動に従事する場面となる。そこにいくつかのエピソード、問題解決が織り込まれて行く。そのプロセスで、ヘジテーションマーク(逡巡創、ためらい傷)、小学生の間で流行の裏技である位置情報を操作する神隠しなどの謎解きが描かれる。これまた、自然な展開の中で伏線が敷かれていく。

 場面は三転する。警視庁捜査一課の蒲生誠警部補と公安部の桜並克彦警部補が美由紀のマンションを訪れる。蒲生の要件はJAI845便の機長の死を殺人と判断し、鬼芭阿諛子への殺人容疑を固めるため。一方、桜並は恒星天球教という危険分子の捜査の一環で鬼芭阿諛子を捜査するためだった。
 白紅神社に鬼芭阿諛子がいる。今29才の阿諛子は宮司になっているという。阿諛子は美容整形している可能性があるので、本人の鑑定のために美由紀に協力してほしいという。美由紀は彼らに同行し、白紅神社に赴く。中核となるストーリーがここから始まる。

 神社社務所内の床の間に紅白の玉と箱が置かれ、その下に敷かれた布の一部がまくれあがっていて、そこからSDメモリーカードがのぞいていることに美由紀は気付いた。美由紀は、持参していた小型のモバイルパソコンにそのSDカードを差し込み、密かにコピーを試みた。
 蒲生・桜並・美由紀は阿諛子と神社で対面する。そのとき、阿諛子は同性同名であるだけで、恒星天球教や友里佐知子とは無関係と反論する。立証という点で反論しづらいところをつかれ、蒲生と桜並は立ち往生する羽目になる。
 巧妙な反論を準備する一方で、阿諛子はこの白紅神社が蓄えた金とこの神社を密かに占拠し、己の願望を成就するための拠点としていた。

 この後、ストーリーは、一旦SDカードに記録された内容に転じて行く。それは縦横にびっしりと並んだ1万ページ以上とおぼしき友里佐知子の日記だった。昭和40年8月7日、佐知子が17歳だった夏の日から唐突に始まる日記である。
 ここから友里佐知子のバックグラウンドが明らかになっていく。美由紀が膨大な日記の内容を読み継いで行く形で、このクラシックシリーズの全体が、友里佐知子の視点、彼女の人生の文脈としてつながっていく。その過程で上掲引用文の意味もまた明らかになる。
 さらに、佐知子の日記を介して、メフィスト・コンサルティング・グループの実態も明らかになる。特に、佐知子を見出したゴリアテ、後にグレート・ゴリアテと称される特別顧問のプロフィールも明らかに。さらに、メフィスト・コンサルティングで佐知子と共に同世代として教育訓練を受けたマリオン・ベロガニアとフランシスコ・フリューエンスのプロフィールも明かになる。フランシスコ・フリューエンスは後にダビデと称する特別顧問に昇進する。
 ストーリーの中核はあくまで鬼芭阿諛子の行動なのだが、少し視点をずらせると、この日記の内容をこのクラシックシリーズでのメイン・ストーリーと受け取ることもできる。過去のこのシリーズのストーリーの場面とリンクしていくからだ。そういう面白さがある。この点はこのシリーズを読み継いできた方にはよく理解できるだろう。
 
 そこで、再び鬼芭阿諛子の視点に戻る。彼女が画策している事は何か。それは、常に母と呼んできた友里佐知子の意志を継ぐこと、国家転覆である。そのためには、まず国会議事堂の破壊と国会議員の殲滅を同時に実行する襲撃作戦を準備し、完遂することだった。この白紅神社はそのための拠点に相応しい立地でもあったのだ。
 恒星天球教・友里佐知子の意志を継いだ鬼芭阿諛子と岬美由紀との最後の闘いが始まっていく。
 「阿諛子、あなたはわたしの子ではない。これを読んだのなら、あなたは変われる。」という一文がどのような意味を持ち、どのように位置づけられていくのか。そこが読ませどころの一つにもなっていく。
 この引用文は本文では、上巻の330ページに日記の文脈の一部として登場している。
 
 このストーリー、心理学的な視点からは、「選択的注意集中」という技法が一貫して利用されていく。この描写が興味深い。
 上巻で敷かれた伏線が、こんなところで結びついてくるのかという箇所がいくつもある。上巻を読んでいるときはわからなかった部分が、ナルホド・・・と感じるおもしろさに転換していく。
 現在実現しつつある科学技術の成果物が、2009年のこの完全版では更に技術革新した形で、先取りされ組み込まれている。そこがおもしろいと思う。ネタバレになるのでこれ以上は触れない。

 最後に、このストーリーから印象深い箇所をいくつかご紹介しておきたい。⇒印以下は付記である。

*運命は五分五分。わたしはそう思っていた。だが、現実は違っていた。予想とは異なる結果があった。運命は変えられる。彼はそれを告げにやってきた。可変の運命、それが未来に違いないと美香子は思った。  上巻p362
   ⇒ 彼、美香子が誰を意味するか。これがターニング・ポイントになっている。

*ひとりの個が自然に持ちうる意識は決して他者の思いどおりにはならない。・・・・・・
 人間とは単純かつ弱い生き物だ、数になびく。反体制という不利な立場を悪とみなし、体制側を善と考えることで、弱者から強者の側へと乗り換えてしまう。・・・・・・悪とみなされる者への弾圧を、正義を守る勇気として正当化する人々が少なくない。それはとんでもない自惚れだ。真の勇気は反体制にある。   下巻p229-230
   ⇒ 友里佐知子が阿諛子を育てる基盤にした思考。
     このシリーズで、岬美由紀の思考とは対極にあると思う。

*あの女医はすごい、もしかしたら超能力者ではないか。そういう好奇心に満ちた興味本位の目が自分に注がれるように仕向けた。マスコミのインタビューでは、非科学的な能力と混同されたくはないと抗議するふりをしつつ、裏側では大衆の好む超能力への興味を掻き立てた。
 庶民は愚かだと友里は思った。科学的な権威であることをしめすリベラルな学者よりも、どこかいかがわしさを伴う特殊な人間にこそ、いままでになかった価値観が存在するかおしれないと感じて、会いたいと欲するようになる。  下巻p254
   ⇒ 大衆の心理をうまくつかんでいると思う。

*以心伝心(テレパシー)はない。真の意味での千里眼は存在しない。だから人は、心を通わそうと努力する。理解しあおうと人を思いやる。そこに人の温かさがある。人の心が見えないからこそ、人に優しくなれるのだろう。そのことに、ようやく気づいた。
 なにもかも見通せなくてもいい。それがわたしんおだから。   下巻p630
   ⇒ 周囲の人は感じていても、成瀬史郎の思いを見抜けない美由紀の内省。
     千里眼シリーズの掉尾に記されたこのギャップの描写がユーモラス!

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅸ 人の死なないミステリ』 角川文庫
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『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
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『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅸ 人の死なないミステリ』 松岡圭祐 角川文庫

2024-01-31 16:37:31 | 松岡圭祐
 新人作家・杉浦李奈の推論シリーズの第9弾。2023年8月に書き下ろし文庫として刊行されている。
 このシリーズ、出版業界の舞台裏に光をあて、そこにテーマと題材を見出して、ミステリ・フィクションに仕立てあげる。出版業界の舞台裏が表にでてくること自体が、読書人にとっては興味をかき立てるフェーズといえる。
 この第9弾は、タイトルにある通り、結果としては「人のしなない」ミステリ仕立てになっている。それはあくまで結果としてはということであり、巧みな落とし所となっている。ストーリーの変転で読者の思考を匠に困惑させる。李奈がこのミステリの意外な結末を導き出す役回りになる。さらに李奈にとってハッピーな結果が生まれるという次第。

 本作では、新人作家が発掘され、その作家と編集者がどのような人間関係を形成するのか、編集者が作品の完成までに、作品自体にどのように関与していくのか、あるいは関与する可能性があるのか。新人作家の頭脳から創作された最初の原稿がどのように変容する、あるいは変容させられる可能性があるのか。また、本という商品が完成するまでに、どのようなステップがあるのか。例えば、本の紙質の選定や装丁という側面がその一例である。本が出版される以前の舞台裏がリアルに書き込まれているところが、私には興味深い。こういう視点と出版業界知識が本作の副産物と言えるかもしれない。

 さて、杉浦李奈が鳳雛社の編集者・岡田眞博から出版の誘いを受ける。「数枚のプロットだけでも書いてくれたら」と。これに対して、李奈は長編『十六夜月』の原稿を仕上げて岡田に送信した。岡田は原稿を読み、主人公史緒里が悲劇的運命を回避していく終盤に圧倒されたと賞賛する返事を送ってきた。だが、その後、ベストセラー作りの巧みなやり手の名物副編集長宗武義男から横やりが入る。結末を読者皆が号泣を誘う方向に変える提案だった。李奈は宗武がベストセラー作家ともてはやされた岩崎翔吾の担当編集者だった理由がわかる気がした。李奈はそれを受け入れられないと拒絶した。こんなストーリーの出だしがどう展開するのか。まず、読者を戸惑わせる。

 宗武が別件として李奈に本を書いて欲しいと持ちかけてくるのだからおもしろい。宗武は、まず最初に、小説の原稿を読んで、プロの目からアドバイスを欲しいと李奈に持ちかける。未知の原稿を読める誘惑に負けて、李奈はその原稿を読むことになる。ここで李奈がその原稿について語るコメント自体が、読書好きには参考になる副産物。
 原稿の表紙の題名は『インタラプト』。一行目から「31歳の編集部員、岡田眞博は中途採用で鳳雛社に入った」という一文が出てくる小説。
 宗武は、ある新人作家につい最近までの事実をノンフィクション風ノベルに下書きとして書かせ、その原稿に宗武自身が朱を入れたという。その第八章まで書かれた原稿をベースにして、李奈に小説として仕上げて欲しい。それを李奈の作として出版するという仕事のオファーだった。これがこのストーリーの第一ステージである。
 ここまでで、既に出版業界の裏舞台の一局面が『インタラプト』の原稿文として織り込まれ、原稿への作家と編集者の視点がストーリーとして語られていく。この点もおもしろく参考になる。

 著者は宗武に次のとおり李奈に出版社の副編集長として、己の立場表明をさせている。
「創作に固定されたやり方などないはずだ。うちは今回このやり方をとる。あらかじめ打ち合わせをして、プロットを作り、そのあらすじに沿って書いてもらうというのも、ある意味で事前に方向性を定めておく方法だ。これはもっと効率的に、版元の要望と著者の創造性が一致をみる、画期的な手段だよ」(p89)と。
 「わたしの小説じゃない」と李奈は反発する。
 宗武は言う。岡田の周辺からの事実聴取をした上で原稿が書かれている。岡田には取材はしていない。だから、岡田に李奈が取材し、その結果を自由に加えて手直しして小説を書いてくれ。小説化にあたり、登場人物名等は一括変換で変えられる。現実を彷彿とさせる小説にしてほしいと。
 宗武と李奈が、駅のロータリーに駐めた大型ワンボックスカーの中で話し合いをしている時に、車の後尾のタイヤを故意にパンクさせる事件が起こった。その実行犯の顔を李奈は視認した。岡田だった。
 李奈は、宗武の小説化の依頼を受ける気はなかったが、鳳雛社の編集者として小説にオファーをしてくれた岡田についての事実を確かめたいという意志が李奈を動かす。小説『インタラプト』を引き受けるかは保留という条件付きでまず取材活動を引き受けることに同意した。ここからストーリーの第二ステージが動き出す。

 岡田の行動の裏付け取材が、鳳雛社に関わるさまざまな状況を明らかにしていく。
 この内容が一つの側面描写として、出版業界の舞台裏話につながっている。
 編集者岡田の様々な側面と行動が明らかになっていく。たとえば、鳳雛社は新人作家飯星祐一の『涙よ海になれ』という大ベストセラーを生み出した。それを推進したのが副編の宗武であり、ストーリーの結末は、宗武の意見が取り入れられ悲劇的な結末で創作された。それがヒットの一因になったという裏の経緯がわかる。この飯星祐一こと橋山将太を新人作家候補として見出したのが岡田だった。岡田は編集者として橋山とコンビを組んで、橋山の経歴を生かし、純文学の家具小説シリーズを出版していた。だが、売れなかった。橋山を宗武に引き合わせたことで、宗武の考えに沿った路線の小説を橋山が創作し、ベストセラー作家飯星祐一が誕生した。
 ベストセラー誕生の暴露話が具体的な経緯とともに明らかになっていくプロセスが興味深い。売れるように書くという商業主義の側面が描写されていておもしろい。

 今、飯星はあきる野市にある宗武の自宅近くに引っ越しし、執筆活動を続けているという。李奈は飯星に取材するため、宗武の車に同乗し、宗武の自宅に向かう。宗武の自宅に飯星が来て、取材に応じるために待機しているからだ。
 飯星に面談した李奈は、二階建てアパートの飯星が借りている住居に行くことになる。ここから、大きく状況が変転していくことに・・・・・。いわば、ストーリーは第三ステージに入っていく。
 『インタラプト』の下書原稿と李奈自身の取材活動というストーリーの進展は、いわば編集者岡田をはじめ主な登場人物をクリアーにしていくための準備段階だったと言える。ミステリの真骨頂が始まっていく。
 本作でも、進展してきたストーリーのどんでん返しが李奈の推理によって行われ、結末を迎えることになる。やはり、著者は巧妙なオチをつけた。

 さて、「人の死なないミステリ」というタイトルがどのように着地するのかは、本書で確かめていただきたい。このフレーズは、宗武のつぶやきとして記述されている。

 もう一点、本作全体を眺めてみて改めて気がついたことがある。
 本作の第1~2節と最後の第24節が作るストーリーの間に、第3~23節のストーリーが入るという入れ子構造になっている。そして、第1~2節と第24節には、出版に絡む発想の逆転が見られる。それが第3~23節の結果から生み出されている。
 そこに大きな問いかけが底流にあると思う。作家の創作に対して、本を編集するとはどういうことか。編集者とは何か。という問いかけである。そのこと自体、出版業界の舞台裏である。読者にとっては、作家の名と顔は見えるが編集者等出版側は出版社名しか見えない。

 最後に、本作で印象深い文をいくつか引用しておこう。
*小説家として成功したいと願う気持ちと、魂を売り渡してもかまわないという決心とのあいだには、大きな隔たりがある。どんな恩恵にあずかろうとも、『十六夜月』の史緒里を殺せるはずがない。  p55
  ⇒宗武の小説の結論部分を悲劇の方向に書き換えてほしいという提案に対して
*歩きながら李奈は思った。・・・瑠璃は以前の李奈と多くの共通項がある。大衆から認められたい理由が、孤独にともなう寂しさにあることに気づいている。それならあとは書くだけだろう。文芸こそ誇れる自己表現だと悟ったとき、瑠璃はきっと本物の作家になるにちがいない。  p237
  ⇒瑠璃は『インタラプト』の下書原稿を書いた新人作家
*わたしは現実に生きる人間ですから・・・・。多くの別れを経験して、より重く感じるようになったんです。小説とは登場人物に命を吹きこみ、読者と共有するものだと。 p271
  ⇒李奈が宗武に語る考え
*小説家が乗り越えていく創作の苦悩の日々に、信頼できるパートナー以上の存在はありえません。   p277
  ⇒パートナーとは編集者のこと。
*吉川英治のいったとおりだと李奈は思った。晴れた日は晴れを愛し、雨の日には雨を愛す。楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ。  p287

 ご一読ありがとうございます。
 

こちらもお読みいただけるとうれしいです。

『千里眼 ブラッドタイプ 完全版』   角川文庫
『千里眼とニアージュ 完全版』 上・下  角川文庫
『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』  角川文庫
『探偵の探偵 桐嶋颯太の鍵』    角川文庫
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「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
                    2022年末現在 53冊

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『千里眼 ブラッドタイプ 完全版』  松岡圭祐   角川文庫

2023-12-31 23:07:18 | 松岡圭祐
 このクラシックシリーズを読み継いでいる。本書が第11弾となる。
 本書は、2006年6月に刊行された『ブラッドタイプ』に修正が加えられて、平成21年(20095月に完全版と銘打って文庫化された。

 今までの作品群とは趣がガラリと変わった作品となっている。闘争・対決シーンが数多く登場するプロセスを介在させてストーリーが展開する次元から、人間心理の絡む社会現象と医療分野の難病に苦しむ人々を扱うという次元にシフトした作品である。岬美由紀は証明することが難しいテーマに取り組まざるを得ない状況に置かれていく。証明することが困難な課題にどのようにチャレンジしていくか。その解決策はあるのか・・・・。読者にとっては、逆に身近な問題につながっているテーマが扱われていることになる。

 ストーリーは、陸上自衛隊と米海兵隊の合同訓練をおこなっている米西海岸の施設を日本の防衛大臣が訪れ、海兵隊員がブーツに血液型を書き込んでいるのを目にして、「B型は撃たれやすいから前か」という迷言を発したという珍場面の報道記事から始まる。日高防衛大臣は、己が信じる血液型性格分類の知識を踏まえて勘違いな発言をしたのだ。この血液型性格分類というのがこのストーリーの核になっていく。特にB型の性格が問題視されるという現象がひろがっていくという社会現象が起こる。
 そういえば、結構血液型性格分類に関連した書籍が市販されていることにも気づく。
 日本でブームにもなった血液型性格分類というものの現象をベースに置きながら、それがどんな社会問題現象を生んでいるかの一面にも光を当てている。
 
 本作の状況設定が興味深いのは、その巧みな構成にある。
 日高防衛大臣の迷言は、事の発端にすぎない。だがそれを契機に、血液型性格分類が脚光を浴び、逆にそこから問題となる社会現象が頻出していることが明らかになる。それを解決するには、血液型性格分類に科学的根拠がないということを誰かが証明しなければ、世間の人々は納得しない。それを誰がやるか。
 岬美由紀は臨床心理士である。臨床心理士は民間資格であるが、文部科学省の後押しを得て、日本臨床心理士会が国家資格を目指すという動きをしていた。一方、厚生労働省が後押しをする医療心理士という民間資格の方もまた、国家資格化の動きをとっていた。国家資格の心理カウンセラー職を目指すこの二つの団体が、国家資格化に鎬を削っている状況だった。そのため、この二団体が、血液型性格分類に科学的根拠がないことを証明するという課題に取り組まざるを得なくなる。岬美由紀はその渦中に巻き込まれて行く。
 今回のストーリー展開での新機軸は、一ノ瀬恵梨香が臨床心理士の資格を再取得した。尊敬する美由紀の協力者として活動を共にするという要素が加わっていく。恵梨香の活躍がたくましさと面白味を加えることになる。また、彼女のキャラクターが楽しさを加える。

 もう一つは、本作に美由紀にとり臨床心理士の先輩である嵯峨が再び登場する。だがその嵯峨は急性骨髄性白血病の再発で入院生活となる。嵯峨は入院した病院で、己自身が病人である一方、白血病で入院している患者さんたちに、心理カウンセラーとしての己の役割を果たして行こうと決意する。そのプロセスが、本作ではパラレルに進行していく。
 丁度その時期に、「夢があるなら」という白血病患者を主人公にした泣ける恋愛ストーリーのドラマが爆発的にヒットしていた。だが、そのドラマが流布する白血病についての医療知識には誤解を生み出す間違いがあった。美由紀はこの点についても、その誤解を解き、世間の認識を変えさせていきたいと行動し始める。
 このストーりーでは、嵯峨自身の容態という点での展開に加えて、2人の白血病患者が登場してくる。一人は、北見駿一で10代半ばから後半という年齢。彼は治療費をガスガンの改造で稼ぐということを密かにしていた。嵯峨はこの少年のカウンセラーとして自主的に関わっていく。北見駿一が関わるサブストーリーが、彼の恋愛問題とともに、危なっかしい側面も含めて、織り込まれて行く。
 もう一人、厄介な女性の白血病患者霧島亜希子が登場する。彼女は骨髄移植を受けて己の血液型がB型に変化することを恐れ、適合する骨髄提供者がいたとしても、その提供を受けて、血液型がB型に変化するなら骨髄移植を拒否するという行動を取り続ける患者である。嵯峨はカウンセラーとしての意識から、骨髄移植を受けて健康を回復できるチャンスを実行するように彼女を導こうと努力し続ける。それが実行されるまでは、嵯峨自身が骨髄移植手術を受けるのを引き延ばそうと決意する。
 ここで、患者である嵯峨が別の患者にカウンセリングしつづけるというサブストーリーが進展していくことになる。

 ブラッドタイプの問題事象については、その実状の一例として、血液型性格判断研究所の所長で、血液型カウンセラーを自称する城ノ内光輝が登場してくる。世間でもてはやされているその道のプロとしてである。結局、美由紀はこの城ノ内との知的対決にも向かっていくことになる。

 このストーリー、ブラッドタイプという身近な問題を扱っている故に、日常の感覚を重ね合わせて読み進められる側面があり、興味深い。いわば、人間は自分の知りたい部分だけを事実として受け止めて、納得していくという側面を暴き出しているとも言えよう。
 白血病について、少しはイメージがわくようにもなった。治療の困難性も少しわかり、一方不治の病気ではないということも理解が深まったと思う。医療情報としては有益な側面を内包していると思う。
 
 このシリーズの中では、異色のストーリー展開であるところが、違った意味で一気読みさせる動因になった。ブラッドタイプそのものについての落とし所がおもしろい。

 ご一読ありがとうございます。


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『千里眼とニアージュ 完全版』 上・下  角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』  角川文庫
『探偵の探偵 桐嶋颯太の鍵』    角川文庫
『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
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