散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

「いだてん」「西郷どん」の陰謀説・本能寺の陰謀説

2019年06月19日 | 織田信長
陰謀論が嫌いです。世の中に陰謀はあると思いますが、簡単にバレるようなものは陰謀とも言えないでしょう。

坂本龍馬暗殺、大久保示唆説、、、大久保が幕府見廻組に龍馬の居所を教えた?龍馬の居所なんて見廻組の探索力でも十分に見つけられるというのが定説です。大久保なら悪者にしても構わないというドラマ製作者の甘い考えが露呈しています。

本能寺陰謀説、、、あの光秀に起こせるかという論です。織田家に四人しかいない地域方面司令官なのに、失礼です。

呉座勇一氏は言います。
☆本能寺の変の黒幕説や共犯者説は、学界では全然信じられていません。ところが、世間では「黒幕がいたんでしょ」という話がまことしやかに囁かれ、実際にその説を唱えた本がベストセラーにもなっている。そうしたギャップが、近年は放置できないほどに深刻化しているように見えます。テレビや出版社が無責任に珍説を紹介するのが最大の要因だと思いますが、学界の人間がこれまで陰謀論、特に前近代のそれを黙殺し、問題点を指摘してこなかったことにも原因があるのではないでしょうか。


でも陰謀論が「大嫌いなわたしが」ふと考えるのは、大河「いだてん」と「西郷どん」は陰謀なんじゃないかということです。

むろん真剣には言ってません。

「西郷どん」はなんであんなにつまらなかったのだろう。

籾井会長時代に決まったかと思います。現総理のゴリ押しで「薩長もの」になったのかも知れません。なら「つまらなく作ってやる」という製作サイドの陰謀かも知れません。もはや「薩長同盟」とか「維新の元勲」とかでは人は飛びつきませんよということです。

「いだてん」、、、クドカンの脚本は時代考証によってかなり変更されたようです。見てないので分かりませんが面白いという人もいます。ただ「落語のくだり」がダメダメみたいです。

明治末期、大正、昭和初期、昭和40年までを「美しく描く」、、、現総理と手下の籾井が好きそうなやり口です。さらに国威発揚的でもある。

「そんなの誰も見ないよ」、、、とNHK制作班は証明したかったのかも知れません。これもまた陰謀です。

むろん全て冗談です。「いだてん」はともかく「西郷どん」は「陰謀としか思えないほど、下らない作品」でした。

本能寺四国説は主因とは言えない。本能寺はあくまで突発的な出来事。

2019年06月19日 | 織田信長
藤田達生「資料でよむ戦国史・明智光秀」は「論理が飛躍しすぎてついていけない本」だとわたしは思います。

1、光秀と家臣である斎藤利三は四国の長曾我部と関係が深かった。
2、光秀たち(これを光秀派閥というそうです)は、長曾我部氏を介して(介してって何?)、西国支配への影響力を行使しようとしていた。(どうやら長曾我部・毛利→毛利にいた義昭ラインというのがあるという前提みたいです)
3、とにかく光秀派閥は四国の長曾我部と関係が深かった。しかも長宗我部元親の正室は斎藤利三の妹(異母?)なので特に関係が深かった。
4、最初信長は長曾我部は殲滅しないつもりだった。光秀派閥は長曾我部とともに四国に勢力を伸ばし、西国へ影響力を行使しようとした。
5、ところが「子供たちへの土地分配=相続問題」に悩んでいた信長?は、四国を殲滅しようとした。
6、そこで光秀派閥は本能寺の変を起こした。「四国討伐」が決まったとしても、光秀が担当するなら「まだ良かった」が?、四国征伐は織田信孝・丹羽長秀の担当となった。全国平定が終わったら光秀派閥は遠国にとばされる。(四国も遠国では?)これではもう織田信長を討つより光秀派閥には進む道がなかった。(なぜ?)それを主導したのは石谷家文章を読む限り、光秀というよりむしろ斎藤利三だ。つまり「光秀派閥だ」。だから「単独犯行説」も「直前に光秀が謀反を利三に打ち明けた」という説も、まったく成り立たなくなったのだ。(そんなことはない、利三にさえ言わなかったほうが自然)
7、今までもこのことを筆者は指摘してきた。しかし江戸時代に書かれた資料(2次資料)を基にしたので検討されることが少なかった。ところが新しく石谷家文章という「1次資料」が2014年に公開された。これを読めば、「四国説」が「検討に値するものである」ことは明らか。光秀派閥が本能寺の変を起こしたのだ。織田家は血みどろの「派閥抗争の場」だったのだ。だから偶然ではなく、本能寺の変は派閥抗争の必然の結果なのだ。(どうして必然という言葉がでてくる?)

たぶん、7割程度は藤田さんの書いていることを「それなりに藤田さんの言う通りにまとめている」と思うのですが、このようにまとめても、何言いたいのかあまり正しくは理解できません。

取次としての面目を潰されたということと、「だから本能寺の変を起こすしかなかった」ということが、すんなりツナガルとは到底思えないからです。

☆四国政策の変換を一因として認めるとしても、あくまで突発的な出来事だったというのが真相だと思います。

石谷家文書とやらも、私の知る限り、本能寺に直接関わるような記述はありません。

さらに長宗我部元親の妻は、家来である斎藤利三の「親戚」に過ぎません。遠いのです。利三の兄貴の義理の弟の娘が元親婦人。家臣の遠い親戚の為に家の存亡を賭けるとも思えません。
ちなみに長宗我部元親の嫡男は信親、その信親の妻は斎藤利三の「めい」です。こっちはやや近い。

そもそも「四国征伐回避」という事態になったのは「たまたま」です。

織田信忠が京都にいて、しかも「たまたま逃げないで」戦ってくれて、死んでくれた。織田有楽も一緒にいましたが逃げています。信忠にも逃げるチャンスはありました。信忠は既に織田家家督でしたから、彼が生き延びていれば長宗我部なんか守っている場合ではありません。ただしなるほど四国派遣は信忠が生きていても一旦中止はされたでしょう。私が言いたいのは信忠が生きていたら「織田家の方針は変わらない」可能性が高いということです。信忠は武田攻めでわかるように、血気盛んな武者です。親父が「ゆっくりでいい」と言っているのに、無視して速攻をかけ、武田を滅ぼしました。戦闘的。いずれは四国征伐です。

さらに大事なのは、四国派遣軍である織田信孝の兵が逃げたことです。「逃げると予想できるわけない」のです。

光秀にとっては「渡海して長宗我部と戦っていてくれたほうが都合がいい」わけです。織田信孝と丹羽長秀が摂津の大名を集め光秀に向かってきたら、秀吉の大返しを待たずして光秀軍は弱体化します。そこに越前から柴田勝家が帰ってきたら、戦いようもありません。

四国派遣軍が消えたことで、光秀はやや延命をしました。

摂津に織田信孝と丹羽長秀が大兵力を抱えていたことは、いつも何故か「無視」されます。前述のように「むしろ四国派遣が始まっていたほうが」光秀にとっては幸いだったはずです。四国征伐を止めても、その四国派遣軍が光秀に向かってきたらどうするのでしょう。

光秀は兵が逃げること読んでいた?本能寺後の大名の動きをことごとくはずした光秀が、この事態だけを読んでいたというのは都合の良すぎる解釈です。

光秀が「明智家は滅んでもいい。とにかく面目を潰されたことが我慢ならない。四国征伐さえ止めれば、自分は死んでもいい。四国派遣軍は自分が迎え撃つ」と考えていたなら成り立ちますが、それはつまり「暴発説」ということで、特に新説というほどのこともありません。あくまで本能寺は偶発的というか突発的な出来事でした。光秀にはいくつかの動機、機会があれば討ってやろうという動機はあったと思いますが、四国もいくつか考えられる動機のたった一つに過ぎない。動機なんかないという見方もできます。状況をみて突然その気になった。つまりたまたまあの機会にチャンスが巡ってきたので突発的に行動したとも言える。それぐらいずさんです。だから織田信孝の四国派遣軍も頭に入っていないし、信忠の存在すら当初は重視していなかったのです。信忠のいる妙覚寺はきちんと包囲されておらず、だからそこ二条新御所に移動できました。きちんと計算された計画ではなく、暴発・偶発・突発。だから数日の天下で終わりました。

大河ドラマにおける織田信長・麒麟がくる・国盗り物語

2019年06月19日 | 麒麟がくる
織田信長という武将に興味を持ったのは大昔、小学生のころのことです。「国盗り物語」を読み込みました。たぶん大河「国盗り物語」の放送と同時に読んでいたんだと思います。叡山焼き討ちの場面で「光秀、仏像とは、木とかねで作ったものぞ」という場面などをよく覚えています。

むろん大河も見ましたが、なにせ大昔なのでよく覚えていません。DVDの時代になって、総集編がでて、それでしっかり見直しました。しかし当時はビデオテープを使いまわしていたため、総集編しか残っていません。各話の断片でも覚えているかと言われれば、全く覚えていません。

しかしとりあえずはあの信長。高橋英樹さんの信長と、松坂慶子さんの帰蝶がわたしの中での「基準」となりました。カッコ良かったですね。信長も光秀も。

その後信長は「黄金の日々」に登場します。ただし主役でもなく、比較的早く本能寺となります。信長を狙撃した杉谷善住坊が鋸引きで死んでいくシーンが衝撃的でした。「おんな太閤記」の信長は全く覚えていません。その後1983年に「徳川家康」、役所広司さんです。これも覚えていない。DVDになってからは通しで見ました。

役所さんの信長はほぼ「ご存知の」といった感じです。役所さんも若いから「勢い」がありました。やたらと元気です。徳川家康が聖人君子なので余計に「元気な少年」のように見えました。ちなみに信康自害を強く命令したのは信長ということになっています。家康は「信長に命じられたからではない。わたしの判断で処分する」とか言って信康に切腹を命じます。あまりに聖人君子なので、辻褄が合わない部分も多くあります。

次は「武田信玄」でしょうか。脇役でした。桶狭間の奇襲が成功したのは「武田信玄の陰謀」ってことになってました。

次が「信長」。なんか変な作品で、人物の口調が全部同じでした。ここから「信長の自己神格化」が描かれるようになります。新しい信長像なのかも知れませんが、あれなんか変だなという印象の方が強くしました。加納随天だけが、少し違う口調で、あれは面白い設定でした。

その後が「秀吉」なんでしょうが、渡さんの信長はなんというか「普通」でした。次が「利家とまつ」の反町さん。「であるか」ばかり連発してました。

で「功名が辻」、七割は司馬さんの信長ですが、自己神格化はさらにデフォルメされていました、「もはや朝廷もいらぬ」とまで言っていました。

で「天地人」「軍師官兵衛」

そして「真田丸」と「直虎」、、、直虎の信長は「漫画みたいな魔王」でした。真田丸は五分も登場しただろうか。それでも魔王そのものでした。

麒麟がくるでは久々の「主役並み」でしょう。そうなると比叡山や一向一揆の殲滅で「虐殺ばかりしている」とまずいわけです。それで「保守的な信長」ということになっています。

朝廷も幕府も大事にするそうです。歴史学会の「流行」、あえて流行と書きますが、保守的な面だけ「切り取れば」、そりゃ保守的な像を作ることは簡単です。反論しているのは今の所本郷さんぐらいですが、この後「揺り返し」がくるでしょう。金子さんや藤田さんの説はご都合主義で「最初に結論ありき」です。

「太平記」では「尊王の足利尊氏」が描かれました。脚本は池端俊策さんで「麒麟がくる」も同じです。後醍醐との関係で「迷ってばかりの尊氏」でした。

足利尊氏は戦前は最大の逆臣でしたから、意図は分かります。信長は別に最大の逆臣ではないですが、尊王にされちゃうみたいです。

時代に媚びるという感じですが、学会の「流行」という後ろ盾があるので、納得する人も多いのでしょう。

それでも古い信長ファンは「あんなの信長じゃない」と思うでしょう。すると史実だという反論が起きますが、史実じゃないし、別に大河は史実を描いてはきませんでした。

保守性と革新性は「どの人間も持っていること」で、しかし信長公記などを読むと「やっぱり信長は革新寄り」です。保守的な側面だけを取りあげ、また「手紙」(手紙はタテマエが多い)などを証拠として「本当の信長は保守的だったのだ」と言われても、あれだけ人を虐殺した人間を「普通の人だ」と言われても、納得できません。

大蛇がいないことを確認するために、池の水をほぼ全てくみあげさせたり、親父の位牌に抹香を投げつける(両方とも信長公記に記載あり)人間が、オトナになったからと言って急に守旧派になるとは、到底思えません。