信長はなぜ本能寺に泊まったのか
・本能寺には四回程度しか泊まっていない。定宿は妙覚寺であった。
・しかし当日妙覚寺には織田信忠が泊まっていたので、本能寺を選んだ。
というだけのお話でした。
信忠に注目したのが「新視点」らしいのですが、わたしをも含めて、歴史ブログを書く人間なら「なんで信忠まで京都にいたのか」を考えたことはない人間は少ないと思います。
その答えが微秒です。
・信長は自分の官位を信忠に譲ろうとしていたんじゃないか。
というもの、官位は右大将です。「なんじゃないか」という感じです。磯田道史さんの言い方も「そうかも知れない」という感じでした。
この「右大将を譲る」というのは「兼見卿記」にあるわけです。しかしこれは本能寺の変があった天正10年の6月までの記述を、正月から遡って「まるまる書き直した」代物ですから、これを資料として断定するのは無理があると思ったのかも知れません。「そういう資料もある」という感じでした。
ちなみになんで書き直したかというと、吉田兼見は光秀に協力したので、しかも交際も深かったので、害を恐れて書き直しているわけです。裏を読まないといけない資料です。
一方で「三河物語」の「信長が信忠の謀反かと言った」という記述も紹介しています。
これ、資料価値の薄い資料ですが、紹介するだけで否定しないと、「信忠を右大将にしようとした」が成立しなくなります。全てを譲ろうとしていたという前提だと、謀反を起こす理由がなくなるからです。
で、「どうして信忠まで京都にいたのか」に対する番組の結論はあいまいです。「右大将にしようとしたという人もいるよ」程度です。
そして後は「信忠は戦うべきだったか。逃げるべきだったか」の「選択話」をやっていました。
4人ぐらいの歴史学者を呼んで、違う意見を述べさせ、ガチで討論させて欲しいわけですが、それは難しいようです。
・本能寺には四回程度しか泊まっていない。定宿は妙覚寺であった。
・しかし当日妙覚寺には織田信忠が泊まっていたので、本能寺を選んだ。
というだけのお話でした。
信忠に注目したのが「新視点」らしいのですが、わたしをも含めて、歴史ブログを書く人間なら「なんで信忠まで京都にいたのか」を考えたことはない人間は少ないと思います。
その答えが微秒です。
・信長は自分の官位を信忠に譲ろうとしていたんじゃないか。
というもの、官位は右大将です。「なんじゃないか」という感じです。磯田道史さんの言い方も「そうかも知れない」という感じでした。
この「右大将を譲る」というのは「兼見卿記」にあるわけです。しかしこれは本能寺の変があった天正10年の6月までの記述を、正月から遡って「まるまる書き直した」代物ですから、これを資料として断定するのは無理があると思ったのかも知れません。「そういう資料もある」という感じでした。
ちなみになんで書き直したかというと、吉田兼見は光秀に協力したので、しかも交際も深かったので、害を恐れて書き直しているわけです。裏を読まないといけない資料です。
一方で「三河物語」の「信長が信忠の謀反かと言った」という記述も紹介しています。
これ、資料価値の薄い資料ですが、紹介するだけで否定しないと、「信忠を右大将にしようとした」が成立しなくなります。全てを譲ろうとしていたという前提だと、謀反を起こす理由がなくなるからです。
で、「どうして信忠まで京都にいたのか」に対する番組の結論はあいまいです。「右大将にしようとしたという人もいるよ」程度です。
そして後は「信忠は戦うべきだったか。逃げるべきだったか」の「選択話」をやっていました。
4人ぐらいの歴史学者を呼んで、違う意見を述べさせ、ガチで討論させて欲しいわけですが、それは難しいようです。