散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

織田信長・天下静謐論・わかりにくさ・徒然感想

2019年06月27日 | 織田信長
「織田信長天下静謐論」というのは金子拓氏が主張しているもので、同系列には神田千里氏や松下浩氏がいます。

「天皇から足利将軍に委任された京都を中心とする五畿内の天下を静謐に保つことを理想とし、天下の外にいる大名とはゆるやかな連合を目指していた、将軍追放後は天皇から信長本人が委任されたという形をとった」とされます。

本郷和人氏は神田氏の名を挙げて「資料の裏を読む作業がない」と批判しています。ちなみに本郷氏は金子氏とは同じ東京大学史料編纂所の同僚です。本郷さんが教授、金子さんが准教授。

なんで金子氏の意見は読みにくいのだろうと考えてみると「ちょっと常識で考えればおかしい」ことが多いわけです。信長の「高邁な理想」と書かれている「天下静謐」ですが、信長が生まれた時、将軍はすでに京都を離れて朽木谷あたりに逃げている事が多く、「畿内を将軍がおさめ、大名とゆるやかな連合を組む」なんて「理想とも言えない非現実的なあり方」だったわけです。

非現実だから「高邁な理想」なんでしょうが、信長がよほど観念的な非現実的夢想家じゃない限り成立しません。

ところが信長公記の記述をみると「大蛇がいないことを確認するため池の水を抜いた」とか「実証的な人物」であることを証明することが色々記載されているわけです。

革命家とか天才という評価を否定しようとすることはいいのです。でも小和田氏がやっているように「ここは革新的」「ここは前例主義」「ここは独創」「ここはオリジナルじゃない」とバランスよくやってほしいと思います。

で、なんで読みにくいかというと「形を変えた皇国史観」だからかなと思います。読みやすいという人がいる理由もそれで分かります。

金子氏のいう「天下」とはかなり抽象的な概念です。天皇・朝廷・将軍の上に「天下概念」があるわけです。天皇・将軍も天下の一部だから「信長は時には将軍や天皇を叱責した」とされます。

天皇すら越えているのですが、それはあくまで京都五畿内ともされます。「国体の護持」の国体みたいです。天皇といえど「天下静謐に背いたらいけない」らしいのです。

非常に観念的な概念で、わかりにくいのです。読めば読むほど矛盾が多く、わからなくなります。

金ヶ崎の戦い・本郷和人氏の素朴な疑問・信長が特別じゃなければ「天下統一」はないでしょ?

2019年06月27日 | 織田信長
本郷和人氏は書いています。産経の歴史ナナメ読みです。

いま学界の主流は「織田信長は、特別な戦国大名では『ない』」という評価です。それはおかしい、信長が特別じゃなければ「天下統一」はないでしょ? と反論すると、いや、彼にとっての「天下」とは近畿地方を意味するんだ、とくる。いやいや、天下が日本全体を指している用例は鎌倉時代から普通にあるじゃないか、と反論しても、戦国時代に限れば、天下=畿内ですよ、と返される。まあ、信長株はどう見ても下落しているわけですね。学界のつまはじきであるぼくは、それはおかしいでしょう、と言い続けています。分裂していた日本が一つにまとまる、という大きな変化に、ともかくも注目しようよ。その動きの中心にいた信長が、「特別でない」はずはないでしょ? と。

引用終わり。

学問的反論じゃなくて「素朴な疑問」です。信長は特別な大名ではないという人は、実に細かく資料や先行研究(同じ意見の)を引用して論を構成しますが、どうにも「最初に結論ありき」なわけです。

天正11年1568年に義昭を戴いて上洛した信長は、その一年半後には朝倉攻めをして失敗します。金ヶ崎の戦いで有名ないくさです。浅井長政が裏切った戦いです。

天下静謐論というものがあります。金子拓氏などが主張して賛同者もいます。それによると信長は「中世的要素を濃厚に残した人物」で、「天皇から足利将軍に委任された京都を中心とする五畿内の天下を静謐に保つことを理想とし、天下の外にいる大名とはゆるやかな連合を目指していた」とされます。

すると、この朝倉攻めは色々おかしいわけです。中世的要素を残していたことは否定しませんが、ひたすら天下静謐というのはおかしい。

・朝倉攻めに対する足利義昭の命令はあったのか。勅許はどうなのかが気になるところです。

これについては「若狭の武藤を討てという義昭の命令があった」とされますが、それは毛利元就あての信長の書状や朱印状で「信長が言っているだけ」の話です。

仮に若桜攻めの命令があったとしても、若狭の武藤はあっという間に降伏したのに、どうして「五畿内」にはおらず、「上洛しなかっただけで特に畿内の静謐を犯そうとしていない朝倉」に攻め入ったのでしょう。

さらに何故足利義昭が先頭にいないのでしょう。先頭じゃなくても出陣していてもいいはずですが、そのような証拠はありません。姉川の合戦でも義昭は出陣していません。

むろん金子氏や神田千里氏は「その理由」を一応は書いています。

「武藤攻めが労せず終わったため、(武藤の背後にいる朝倉を攻めるため・わたしの注)余力を持って越前に攻め入った。そう考えたほうがいいだろう」「不器用すぎる天下人」

なるほど、余力ね。

足利義昭の命令があったというのは信長が自ら出した手紙や朱印状でしか確認できないことですが、もし義昭の命令書があったなら、それを堂々と「浅井長政に」示すのが普通でしょう。
そうすれば浅井は従うか、積極的に従わないまでも邪魔はしない可能性がある。

信長が将軍の命令と書くのは当然で、命令はなかったが勝手にやったと書くわけがありません。実際若狭攻めの許可ぐらいは受けていたでしょう。しかし朝倉は話が違います。「余力で」なんて簡単に書かれても困ります。

まあ色々おかしいのですが、一種の流行があって、こういう無理な論理も受容されているようです。

今の所、公然と反論しているのは金子氏の同僚というか上司の本郷和人氏、反論というか「おかしいよ」ぐらい。それと白峰旬氏。論文をPDFで公表しているので分かります。イエズス会の報告書を用いて異議を唱えています。