散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

松下浩「織田信長その虚像と実像」・信長の敵はみんな朝敵という暴論

2019年06月26日 | 織田信長
松下浩「織田信長その虚像と実像」

内容は「虚像と虚像」というべきものです。

151ページ

1、信長は将軍からの委任を受けて天皇の平和を実現するために、天皇の敵を敵を倒すために戦いを繰り広げているのである。
2、信長にとって天下統一とは天皇のもとに信長自身を執政者とする政権を確立することにあった。
3、天皇制を打倒して自らが名実ともに権力の頂点に上り詰めるような国家を構想することは論理的にありえない。

1、信長は楠木正成なんでしょうか。そうすると浅井・朝倉・本願寺・延暦寺・武田信玄などは全部「朝敵」ということになります。
延暦寺の当時の主は正親町天皇の弟で、延暦寺の寺領を返せという綸旨が信長にあったのですが「無視」しています。

2、天皇のもとにの具体的意味が分かりません。

3、天皇権威を利用しているのですから、打倒なんかしません。徳川幕府を見れば分かります。表向きは尊重、でも法度を出して朝廷権力を削いでいきます。

こういうこと、本気で書いているのでしょうか。怖いという感じすらします。

平山優氏のツイッターを見て、我が身を思う・批判は品よく

2019年06月26日 | 平山優
平山優氏は、TVで拝見する限り常識人という感じでした。

ところがツイッターを見ると、極めて戦闘的です。

最近、わたしは歴史小説を読まず、論文系ばかり読んでいます。でも変なのが多い。論理が通らなかったり、学会の動向への忖度が見え過ぎたり。逆に戦闘的意識が見え過ぎたり。

で、どうせわたしの意見なぞ少数の方しか読まないことをいいことに、筆者を批判ばかりしています。

口汚く罵ったのは、呉座さんに対して「面を洗って出直してください」と書いたブログぐらいでしょうか。

期待していたのに、論理展開がおかしく、また資料の名を間違えるという致命的なミスもしていて、腹が立ったのです。

批判は生産性がない行為か、あるいはきちんと読んだ証拠としての意味ぐらいあるのかと考えていました。

で、平山優氏のツイッターを見たら、とにかく戦闘的です。藤本正行氏とかそのファン、またいじわるな先輩学者に対して戦闘的。そして大河ドラマ「いだてん」を異常に賛美する。

今は定時制の高校教師みたいです。わかります。忙しいのです。採点とかあるし。

その上、本業というか著作があるわけです。あのぐらいのエネルギーがないとできないのかも。

みんなストレスフルだなと思いました。わたしなんぞ「まだまし」と思ったので、今後も論文系の学者さんたちへの批判は書くつもりです。なるべく品を守って。

本能寺の変・明智光秀の「新発見とされた」手紙・幕府再興と結びつかない

2019年06月26日 | 本能寺の変
2017年の9月にニュースが流れました。明智光秀の手紙が新発見され、幕府再興の狙いが見えてきたというものです。実は新発見ではありません。直筆だと藤田達夫さんが「鑑定した」というだけです。でこれを受けて

☆藤田達生氏が示した材料から幕府再興の狙いという結論に結びつかないのは、論理的にものを考える能力があればありえないことは分かるはずだ。

という意見が出ました。これで終わりでもいいのですが、本文と訳文を載せます。ちなみにわたしは藤田達夫さんの学説まで全面否定しているわけではありません。

なおもって、急度御入洛義御馳走肝要に候、委細上意として、仰せ出さるべく候条、巨細にあたわず候、
仰せのごとく未だ申し通ぜず候処に、上意馳走申し付けらるるにつきては、示し給い快然に候、然して御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、其の意を得られ、御馳走肝要に候事、
1、其の国の儀、御入魂あるべきの旨、珍重に候、いよいよ其の意を得られ、申し談ずべく候事、
1、高野・根来・そこもとの衆相談ぜられ、泉・河表に至って御出勢もっともに候、知行の等の儀、年寄国を以て申し談じ、後々まで互いに入魂遁れ難き様、相談ずべき事、
1、江州・濃州ことごとく平均に申し付け、覚悟に任せ候、お気遣いあるまじく候、なお使者申すべく候、恐々謹言

くれぐれも貴人のご入洛の為、お働きなさることが肝要です。こまかいことは上意としてご命令があるでしょうから、私のほうからは申し上げられません。
仰せのように今まで音信がありませんでしたが、上意命令を受けたこと、お知らせいただき、ありがとうございます。
京都にお入りになれること、すでに承知しております。
土橋様もその為、お働きくださいますようお願いいたします。
1) 雑賀衆がわが軍にお味方していただけることありがたく存じます。今後ともよろしくお願いいたします。もろもろご相談させてください。
1) 高野衆、根来衆、雑賀衆が揃って、大阪方面へ出兵することは大変ありがたく存じます。恩賞については、我がほうの重臣と話し合い、のちのちまで良好な関係が継続できるようご相談させてください。
1) 家臣らに、滋賀県と岐阜県南部までをことごとく平定するよう命じ、すでに完了しておりますので、ご心配には及びません。詳細は使者がお話いたします。

・光秀と相手土橋が音信を交わすのは初めて。少なくとも光秀からは初めて。
・将軍の帰京の願いは知っている。よく分かっている。
・よく分かっているから、お味方を願いたい。
・上洛のことについてはご上意があるだろうから、私からは申し上げない。

つまり「貴人(義昭か)に上洛の意思があって命令していることは知っている。具体的には自分からは何も言わない。とにかく自分は上意を知っているので、お味方願いたい」という内容です。
新発見でもなんでもなく、原本らしきものが新発見ということで既知の資料です。
どう読んでも、義昭?が上洛したくて上洛の命令をしていることは知っている。自分も努力する。とにかく安心してお味方願いたい。
これ以上の内容は読み取れないわけです。「自分も努力する」は拡大解釈でそんなことも言ってないようにも読めます。

「貴人のことは貴人から命令があるだろう」と言っているこの手紙から、「私は幕府を再興するために本能寺を起こしました」なんて内容を読み取ることは絶対にできないわけです。
貴人が誰かも明快ではありません。

「幕府再興と関係がある資料だ」「義昭と光秀に連絡関係があった」と読み取るのは無理があると思います。

例えば次の有名な手紙・細川幽斎宛

1 信長父子の死を痛んで髪を切られた由、 私も一時 は腹が立ちましたが、考えて見れば無理もない事と了解いたしました。この上は私にお味方され、大身の大名になられるようお願いいたします。
1 領地の事は、内々攝州(兵庫県)をと考えておのぼり をお待ちします。但馬・若狭の事はご相談致しましょう。
1 この度の思い立ちは、他念はありません。50日100日の内には近国も平定できると思いますので、 娘婿の忠興等を取りたてて自分は引退して、十五郎(光秀の長男)・与一郎(細川忠興)等に譲る予定です。詳しい事は両人に伝えます。

「義昭」の「よの字」も出てはきません。「息子と細川忠興に権力を譲って引退する」と言っているわけです。

「一次資料なんてこんなもの」とは言いませんが、「相手に合わせて自分に利があるように書いている」わけです。

さっき、神田千里さんの本を読んでいたら「信長は天正元年に義昭の居場所が分かったら、義昭のことは、大名で相談して物事を決める。毛利はお味方願いたい」と毛利に書いている。だから「将軍の帰京を認める可能性があったし、天下のことは合議で決めようとしていた」とか書いてあって驚きました。天正元年ならまだ本願寺もいます。敵は多いのです。誰が「将軍を追放してやった。あいつは許さない。毛利も将軍の味方をするな。したら攻めてぶっ潰すぞ」なんて書くでしょうか。

信長は天下支配を狙っていたと言えるのかという持論の補強のため、あえて「裏を読まないで誤読というか、そのまんま真実だと」しているわけです。

大名同士の手紙なんて「裏やウソがある」のが常識で、「持論の補強の為、あえてそれを読まない」というのは、実に不真面目な研究姿勢です。

本能寺四国説は要因の一つに過ぎない・計画性のない明智光秀・本能寺の変は突発的出来事

2019年06月26日 | 織田信長
わけあって同じ文章を違う題名で2つ挙げていることをお詫びします。内容は同じです。

藤田達生「資料でよむ戦国史・明智光秀」は「論理が飛躍しすぎてついていけない本」だとわたしは思います。

1、光秀と家臣である斎藤利三は四国の長曾我部と関係が深かった。
2、光秀たち(これを光秀派閥というそうです)は、長曾我部氏を介して(介してって何?)、西国支配への影響力を行使しようとしていた。(どうやら長曾我部・毛利→毛利にいた義昭ラインというのがあるという前提みたいです)
3、とにかく光秀派閥は四国の長曾我部と関係が深かった。しかも長宗我部元親の正室は斎藤利三の妹(異母?)なので特に関係が深かった。
4、最初信長は長曾我部は殲滅しないつもりだった。光秀派閥は長曾我部とともに四国に勢力を伸ばし、西国へ影響力を行使しようとした。
5、ところが「子供たちへの土地分配=相続問題」に悩んでいた信長?は、四国を殲滅しようとした。
6、そこで光秀派閥は本能寺の変を起こした。「四国討伐」が決まったとしても、光秀が担当するなら「まだ良かった」が?、四国征伐は織田信孝・丹羽長秀の担当となった。全国平定が終わったら光秀派閥は遠国にとばされる。(四国も遠国では?)これではもう織田信長を討つより光秀派閥には進む道がなかった。(なぜ?)それを主導したのは石谷家文章を読む限り、光秀というよりむしろ斎藤利三だ。つまり「光秀派閥だ」。だから「単独犯行説」も「直前に光秀が謀反を利三に打ち明けた」という説も、まったく成り立たなくなったのだ。(そんなことはない、利三にさえ言わなかったほうが自然)
7、今までもこのことを筆者は指摘してきた。しかし江戸時代に書かれた資料(2次資料)を基にしたので検討されることが少なかった。ところが新しく石谷家文章という「1次資料」が2014年に公開された。これを読めば、「四国説」が「検討に値するものである」ことは明らか。光秀派閥が本能寺の変を起こしたのだ。織田家は血みどろの「派閥抗争の場」だったのだ。だから偶然ではなく、本能寺の変は派閥抗争の必然の結果なのだ。(どうして必然という言葉がでてくる?)

たぶん、7割程度は藤田さんの書いていることを「それなりに藤田さんの言う通りにまとめている」と思うのですが、このようにまとめても、何言いたいのかあまり正しくは理解できません。

取次としての面目を潰されたということと、「だから本能寺の変を起こすしかなかった」ということが、すんなりツナガルとは到底思えないからです。

☆四国政策の変換を一因として認めるとしても、あくまで突発的な出来事だったというのが真相だと思います。

石谷家文書とやらも、私の知る限り、本能寺に直接関わるような記述はありません。

さらに長宗我部元親の妻は、家来である斎藤利三の「親戚」に過ぎません。遠いのです。利三の兄貴の義理の弟の娘が元親婦人。家臣の遠い親戚の為に家の存亡を賭けるとも思えません。
ちなみに長宗我部元親の嫡男は信親、その信親の妻は斎藤利三の「めい」です。こっちはやや近い。

そもそも「四国征伐回避」という事態になったのは「たまたま」です。

織田信忠が京都にいて、しかも「たまたま逃げないで」戦ってくれて、死んでくれた。織田有楽も一緒にいましたが逃げています。信忠にも逃げるチャンスはありました。信忠は既に織田家家督でしたから、彼が生き延びていれば長宗我部なんか守っている場合ではありません。ただしなるほど四国派遣は信忠が生きていても一旦中止はされたでしょう。私が言いたいのは信忠が生きていたら「織田家の方針は変わらない」可能性が高いということです。信忠は武田攻めでわかるように、血気盛んな武者です。親父が「ゆっくりでいい」と言っているのに、無視して速攻をかけ、武田を滅ぼしました。戦闘的。いずれは四国征伐です。

さらに大事なのは、四国派遣軍である織田信孝の兵が逃げたことです。「逃げると予想できるわけない」のです。

光秀にとっては「渡海して長宗我部と戦っていてくれたほうが都合がいい」わけです。織田信孝と丹羽長秀が摂津の大名を集め光秀に向かってきたら、秀吉の大返しを待たずして光秀軍は弱体化します。そこに越前から柴田勝家が帰ってきたら、戦いようもありません。

四国派遣軍が消えたことで、光秀はやや延命をしました。

摂津に織田信孝と丹羽長秀が大兵力を抱えていたことは、いつも何故か「無視」されます。前述のように「むしろ四国派遣が始まっていたほうが」光秀にとっては幸いだったはずです。四国征伐を止めても、その四国派遣軍が光秀に向かってきたらどうするのでしょう。

光秀は兵が逃げること読んでいた?本能寺後の大名の動きをことごとくはずした光秀が、この事態だけを読んでいたというのは都合の良すぎる解釈です。

光秀が「明智家は滅んでもいい。とにかく面目を潰されたことが我慢ならない。四国征伐さえ止めれば、自分は死んでもいい。四国派遣軍は自分が迎え撃つ」と考えていたなら成り立ちますが、それはつまり「暴発説」ということで、特に新説というほどのこともありません。あくまで本能寺は偶発的というか突発的な出来事でした。光秀にはいくつかの動機、機会があれば討ってやろうという動機はあったと思いますが、四国もいくつか考えられる動機のたった一つに過ぎない。動機なんかないという見方もできます。状況をみて突然その気になった。つまりたまたまあの機会にチャンスが巡ってきたので突発的に行動したとも言える。それぐらいずさんです。だから織田信孝の四国派遣軍も頭に入っていないし、信忠の存在すら当初は重視していなかったのです。信忠のいる妙覚寺はきちんと包囲されておらず、だからそこ二条新御所に移動できました。きちんと計算された計画ではなく、暴発・偶発・突発。だから数日の天下で終わりました。