散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

「長篠の戦い」・「鉄砲三千挺の三段撃ち」・「藤本正行氏の悲惨な戦い」

2019年06月25日 | 織田信長
藤本正行氏、「長篠の戦い・信長の勝因・勝頼の敗因」(歴史新書y)を読んでみました。「勝頼側の敗因は情勢分析の失敗であり、信長の勝因は、鉄砲だけでなく、総合的な戦力差を利用した作戦勝ちだった」という説明が、表紙裏についています。

難しくはないのです。でも最初「何が言いたいのか」が分かりませんでした。

何故かというと、

藤本氏は
1、信長が多数(千挺以上の鉄砲)を使って、武田を敗ったことを否定していない。
2、長篠の戦いの結果、武田家の名将が多く死んだこと。その原因が鉄砲であったことも否定していない。

のです。つまり「長篠の戦いにおいて、信長徳川軍が多数の鉄砲を投入し、その結果、武田は敗れた」と言っているわけです。無論鉄砲だけでなく「柵」とか「弓矢」の効果も認めています。「鉄砲だけで勝ったのではなく、追撃戦においても多くの敵の首を奪った」と書いてもいます。

でも、鉄砲が大きな力を発揮したこと自体は否定しません。なぜなら氏が信奉する「信長公記」にそう書いてあるからです。

にもかかわらず「鉄砲三千挺の三段撃ち」ということになると、言葉を尽くして「否定」します。「鉄砲三千挺の三段撃ち」という「信仰を持った人がいる」とまで書きます。

つまり本書を通じて「三千挺という数字」と「三段撃ちという戦術」を「ひたすら否定」するのです。
61ページには不思議な記述もあります。「(織田側が)一人でも撃たれれば、それだけで通説のような千人ずつの交代射撃を連続して行うことが不可能になるわけだ」という記述です。
?????。つまり1000人が999人になるから、「千人ずつの交代射撃は不可能」という理屈なのでしょうか。そんな馬鹿な。(私は三千挺支持者ではありませんが)

何故に「そこ」をそこまで否定する必要があろうかと私などは思います。旧日本陸軍参謀部の「日本戦史」が憎いのか。大河ドラマの「演出」が憎いのか。例によって「通説」の源泉として「司馬遼太郎氏」の名前をさりげなく挙げています。結局そこか、という感じがします。

まあ「ライフワークだから執念をもってやっている」わけで、そこは理解できるのですが、、、。

さて、最近の「いろんな学者の見方」を「なんとなくまとめてみると」、こうなると思います。

1、信長は「千挺ばかりの鉄砲」(信長公記)+予備の鉄砲隊を用意していた。まあ1500挺ばかりであろう。

2、三段撃ちは「最初の1クールだけは、350挺×3段撃ちで成立する」が、その後は各自が自分のタイミングで撃った。玉込めの時間差を考えると、自然とそうなる。つまり、戦闘を通して、ほとんどの時間は、各自が「自分のタイミングで撃っていた」。

3、それでも1500挺の鉄砲があれば、100~200発程度の弾丸が絶えずとびかっていた。

4、武田も鉄砲隊は用意していたが、玉と火薬が不足しており、撃ち続けることはできなかった。ので、「突進」した。で、鉄砲でやられてしまった。ちなみに関西では騎馬武将は「下りて戦う」が、関東では「馬上のまま戦う」ことも多かった。騎馬隊はないとしても、騎馬で戦う武将はいた。

5、追撃戦もあった。武田は追撃戦において多数の死者を出した。全員が鉄砲で死んだわけではない。

となるでしょう。「この程度の理解でいいのでは」と思うのです。「完全に史実を確定する」ことは不可能です。

ただし「鉄砲三千挺の三段撃ち」を小説家や大河ドラマが採用するのは「自由」でしょう。なぜならフィクションだからです。三千挺の三段撃ちを描いても、それで「死ぬほど迷惑を受ける人」はあまりいないはずです。

そもそも、藤本氏は「鉄砲三千挺の三段撃ち」を「信仰のように信じている人が沢山いる」と思っているらしいのですが、ほとんどの日本人は「長篠の戦いのことなんか考えてもいない」わけです。

藤本氏のやっていることは「不毛」とまでは言いませんが「悲惨な戦い」(なぎらけんいち)のような気がします。藤本氏自身「数は実はわからない」と書いています。信長公記には「千挺ばかり」とあるが、予備の鉄砲数が「わからない」ので「わからない」わけです。

だったら3000挺かも知れません。それを「各自が自分のタイミングで撃つ」としたら、「三段撃ちに似たような状況になるかも」しれません。

私は鉄砲三千挺の三段撃ちという「整然とした戦術はなかった」と思います。でも「沢山の鉄砲と玉と火薬を用意して、敵の名将を沢山倒した」わけです。で「追撃戦が可能になって」、そこでも槍刀弓で多くの敵を倒した。

それぐらいでいいのでは、それ以上にこだわるべき問題ではないのでは、と思えてなりません。

藤本氏が「歴史家ではなく小説家である司馬遼太郎氏」と「フィクションである大河ドラマ」によって、「間違った戦国史観を多くの国民が持ってしまった」ことに「憤激」しているのは分かるのですが、、、、。

私も大河ドラマが「露骨に史実と違うことを描く」ことに不快を感じることはあります。しかしそれは「西郷どん」のような近代史の場合です。戦国史においては、ある程度フィクションが入るのは当然ですし、「演出の面白さ」を考えるのも、視聴率との関係を考えると、仕方ないことだと思います。そもそも資料が少なくて「史実の完全なる確定」は「ほぼ無理」なのです。

補足
「鉄砲三千挺の三段撃ち」を極めて「濃密に」描いたのは、大河「信長、キングオブジバング」、緒方直人さん主演です。新説も入ってましたが、長篠は見事なまでの三段撃ちでした。(三千挺なのかは不明)
最初、お諏訪太鼓が鳴り響く。そして柵の彼方から「武田の騎馬隊の第一陣」が現れます。太鼓の音も小さくなり、静寂の中、騎馬隊が押し寄せてきます。
ここで、第一段の千挺が火を吹きます。武田の騎馬隊はことごとく倒れます。また「静寂」がおとずれます。すると「武田の騎馬隊第二陣」が押し寄せてきます。
鉄砲隊第二段が銃撃します。第二陣の騎馬隊もことごとく倒れます。そしてまた静寂。
武田は整然と押し寄せ、織田徳川はそれを「整然」となぎ倒していきます。

やがて柴俊夫さん演じる滝川一益が「撃つのをやめよ」と叫びます。

なぜ「やめよ」なのかの説明は番組内では「ない」のですが、私なりにこの滝川一益の「叫び」を解釈するなら、
「これは自分が知っている、いくさ、というものではない。ただの大量虐殺ではないか。」ということになろうかと思います。

見事なまでの「鉄砲三千挺の三段撃ち」です。この作品全体はさほど面白くはないのですが、このシーンは実に印象的でした。史実かどうかではありません。印象に強く残るシーンだったというお話です。

天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった・一次資料の限界と論争

2019年06月25日 | 関ヶ原
「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった: 一次史料が伝える“通説を根底から覆す"真実とは」

乃至正彦さんと高橋陽介さん。

題名は「著者がつけたものではない」ようです。出版社が主導。まあ「気になる題名」ではあります。

関ヶ原の合戦がなかったというのは、色々な理由に基づくようですが、もっとも最大の理由は、

・そもそも毛利と徳川の戦いであり、その毛利と徳川は合戦の前日に講和がなっていた。関ヶ原で天下が決まったわけでない。戦場も関ヶ原ではなく山中という場所。
・毛利が仕掛けた。家康の方から積極的に天下を狙ったわけではない。三成は主戦派でもなかったし、総大将でもない。

ふーん。さてどうなんだろというところです。

関ヶ原新説のもう一人の立役者、白峰旬さんは「論の根拠となった一次資料が信用できない」としています。

・「古今消息集」の「慶長五年九月十二日付増田長盛宛石田三成書状」
・吉川広家自筆書状案(慶長五年九月十七日)『吉川家文書之二』

高橋さんはこれを一次資料として重視するわけですが、「三成の書状は後世の偽作である可能性がある」「吉川広家の書状案は本物だが、広家自身が捏造をしたもの」と指摘します。特に吉川文章には厳しく吉川広家が合戦の前日(9月14日)に急遽、家康との和平を取り付けたというのは吉川広家による完全な捏造・合戦の前日に御和平を取り付けたとする起請文(3ヶ条)の2ヶ条目を完璧に、本物の起請文とは別の文にすり替えた(確信犯的おこない)とします。

☆こっからが感想なんですが

上記の三成の書状は、『古今消息集』に掲載されている「写し」とされるもののみ現存です。原本はありません。白峰説が成立する可能性があります。が偽物か本物かを断定することは永遠に不可能でしょう。多数決の問題になるように思います。

吉川文章が捏造である根拠としては本藩の毛利にはそういう文章が一切残っていないことがあげられています。ただ白峰説でなるほどと思うのは「吉川広家に毛利を代表して徳川と交渉する全権などない」という部分です。

別に白峰氏の肩を持つわけではないのです。白峰説だって使用しているのは「合戦に参加した島津家家臣が残した文章」です。本人も一次資料とは言えないと認めています。さらに「一次資料だけでは限界がある」とも書いています。

もし私が歴史学者でもうちょっと頭が良ければ「上記の三成文章は偽造、吉川文章は捏造、島津家家来文章は記憶に頼った二次資料の上、島津の立場で書かれた信用できないもの」とすることは可能だと思います。

そうすると高橋説も白峰説も否定可能となります。

ある説が出ても「根拠とした一次資料は怪しい」と言えば、その説はたちまち怪しいものとなっていきます。といって「一次資料ならなんでも信じる」わけにもいきません。

何かと言うと「一次資料に基づいて」と言いますが、おのずと限界があることを知るべきです。

磯田道史氏の書評を読んで・長篠の戦い・逆転の逆転

2019年06月25日 | 長篠の戦い
「長篠合戦と武田勝頼」平山優氏の著作に対して磯田道史さんが書評を書いています。以下全文引用

戦国画期の通説をくつがえす歴史家の挑戦
本書は、戦国末期の日本史研究について、重要な問題をいくつも提起する書物である。1575年の長篠合戦は、織田信長・徳川家康連合軍三万人が、武田勝頼軍一万五千人を破った戦いだ。織田軍は鉄砲三千挺(ちょう)を交代々々「三段撃ち」し、圧倒的火力で武田軍の騎馬隊を破った、というのが「通説」だった。

ところが、近年、在野の研究者もまじえて、これに疑義を唱える研究が多数出て、大方、支持を得ていた。(1)織田軍の鉄砲は三千挺でなく千挺である。(2)鉄砲「三段撃ち」は、信ぴょう性が低い小瀬甫庵(おぜぼあん)(1564~1640年)の『甫庵信長記(しんちょうき)』等の記述を、明治に参謀本部編『日本戦史・長篠役』がひろめたもの。(3)武田軍に騎馬だけで編成された騎馬隊などなかった。(4)日本の在来馬は馬体が小さく騎馬突撃は無理、下馬して戦闘した――という説も出た。

評者も数年前だったか、とある中世史の大学教授が学生に「鉄砲の三段撃ちなんて、ないんだからな」と、さも常識のように、叱り口調でいったのを目撃した。そのとき、少し悲しい気持ちになった。長篠合戦関係の史料記述からして、まだ、そんな断定的なことは言えないのではないかと思ったのだ。

本書は、この通説否定を、さらに否定する書物である。(1)織田信長研究の基本文献・太田牛一『信長記』の近年の写本調査から織田軍の鉄砲は三千挺あった可能性が高いとし、(2)の「三段撃ち」についても長篠合戦図屏風(びょうぶ)をみても二列射撃(斉射)はあると指摘。「鉄砲三段」は鉄砲隊三列の交代斉射でなく、単に三か所に配置したことを意味するが、「三段撃ち」は完全に虚構ではない。久芳崇『東アジアの兵器革命』(2010年)など、最近の研究によれば、秀吉の朝鮮出兵の日本軍が輪番射撃をし、明(みん)軍がその技術を習得したことが明らかにされてきている。三列射撃の図は、明の『軍器図説』(1638年)にもあるという。

さらに(3)武田に騎馬隊はなかったとするのも早計だという本書の論説は、戦国大名の軍隊編成についての最新研究をふまえたもので傾聴に値する。近年、戦国大名が領内の豪族からかき集めた兵を、武器ごとに兵種別編成した史料が注目されている。「馬之衆」などとして武田・北条の史料には騎馬隊編成がみられる。上層武士だけが騎馬武者になるのは固定観念であって、史料を精査すると、武田の騎馬武者は「馬足軽・馬上足軽」を含んだ貴賤(きせん)混合であったことがわかるという。

(4)の問題にしても、たしかに、武田軍の騎馬突撃が脅威でないならば、織田軍は「馬防」の柵など用意する必要はない。馬防柵があることが、武田軍の騎馬の威力を逆に証明している、という本書の論法には、一理あるように思われる。

本書の著者である平山優氏は、勇敢である。これからこの平山説が精査をうけていくことになろう。現在、東京大学史料編纂(へんさん)所でも「関連史料の収集による長篠合戦の立体的復元」という共同研究がなされ、これからその成果もさらに出てくるだろう。あとがきによれば、著者は長篠合戦についてもう一冊『検証・長篠合戦』を用意しているという。

長篠合戦による論争は、第二幕がはじまろうとしている。歴史ファンのみならず、読書人はこれに注目せねばならぬ。

昨今の日本史は既に評価の定まった史料の反復利用に終始する保身の安全運転が多い。固定観念を疑い、史料を博(ひろ)くみて自身で評価を下すこの著者の如(ごと)き誠実な勇敢さに拍手したい。


引用終わり。

平山優氏は「西国では馬を降りて戦ったが、東国では乗って戦うこともあった」とTVで発言していて、へえと思った経験があります。
わたしはブログで藤本氏はあまりに三千挺三段撃ちの否定にこだわり過ぎだと書きましたが、これは一読者としての感想です。
学者さんの中にも同じ思いを持つ人はいるようです。

ただ気になるのは「誰かが言い出してある説が通説化すると」、必ずそれを否定する見解が出るということです。むろんそれは学問の発展とも言えます。

「逆転の日本史」的なものが流行し、本が売れます。しかし逆転も限度があるので、ネタに困ります。すると「逆転の逆転」が出てくる。

むろん平山氏が「ネタに困って書いた」なんて言ってるわけではありません。逆転に惹きつけられる読者がいて、でも飽きっぽい。すると今度は逆転の逆転をしてひきつけようとする。平山氏のことではなく、そういう歴史本の法則が気になるのです。藤本正行氏は平山優氏に対して研究倫理まで踏み込んだ反論をしているようです。帯に第二幕は始まったのかとありますが、第二幕は始まっているようです。一応。