「共稼ぎ」の始まりのころのこと。「この家はきたないね」

大学を終えた1960年、私は札幌の私立高校に勤めた。当時は女子高。まだまだ私立高校が公教育の一翼であるという認識はそれほど一般化されていなかったのではないだろうか。しかし人口急増期、高校が足りないこともあって私立高がどんどん増えてきた。私も、クラス担任をし、授業を週20時間もち、分掌の仕事(教務とか生活指導など)、クラブ活動(当時は新聞局)を援助する、その上で私立学校の教職員組合の活動の最前線で仕 . . . 本文を読む
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