来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
「熟議の国会」
政府与党は「熟議の国会」にしたいという。私は、昨年来しばしば使われる熟議という語をそれほど真剣に考えることなく、要するにしっかり議論していこうという程度の意味でとらえていた。だから熟議の国会というのは、まさにいわずもがなであって、議員さんたちが真剣に議論しあって結論をだしていくことだろう。当然すぎるほど当然のことだ。
ところが、この熟語は主として文科省サイドから出されている。「熟議カケアイ」ということで、インターネット上のオープンな討論から始まった。私もごく早い段階から発言者になって意見を述べた。公教育のしばりの問題に関してである。しかし数回発言してすぐやめてしまった。あまりにも空しい「議論」だったからである。文科省の鈴木寛副大臣は次のようにいう。
「『熟議カケアイ』は、今までに例のない、まったく新しい政策形成の取組です。取り組む中で、困難や改善を要する点が出てくるかもしれません。一生懸命議論するなかで、時には激しい議論があるかもしれません。
しかし、私は思います。大人たちが、子どもたちのために、少しでも良い学校づくり、地域づくりをしようと真剣に議論し行動していく、その背中を見せていくことが、子どもたちに対して最も心に響く取組であり、これからの子どもたちのための教育政策を描く上で欠かせない議論となるでしょう」。
早い話、問題を感じ発言したい人たちの率直で真剣な議論(本音の議論)の中から、一定の政策的な提言をまとめ上げて、これを政治的に実現していくということである。
当面これをインターネット上にやっていこうという趣旨で1年前ころから始まった。
国会もこういうように議論しあって、一定の方向性を絞り出していこうと菅首相が提起しているのだろう。
しかし教育的な問題でいえば、こういう「ああでもないこうでもない議論を積み上げて…なにかしらの方向性を出していく」(「熟議」に基づく教育政策形成の在り方に関する懇談会座長金子金子郁容氏)というより、もっと前から長年議論を重ねてきたたくさんのテーマがあったはずである。教育条件の問題もそのひとつだ。
熟議方式を積み上げることの意味はあるだろうが、何かガス抜き的なにおいがしてしかたがない。今求められる国民主権地域主権という民主主義は、少人数でああでもないこうでもない、という昔ながらの井戸端会議的議論の段階なのかしら、と疑問に思う。
こういう目新しい言葉を使わなくても、子どものためになること、例えば今私たちが行政に提起している不登校の子どものための環境づくりの提言など、しっかり検討を重ねてきているテーマだ。
もっとも以前の政権下では「政策の提案」を提出してほしいというメッセージなどなかったのだから、まだ前進しているともいえるのだろう。
とにかく事態は複雑だ。単純にダメともいえないし、「熟議」は印籠でもない。自分たちが取り組んできたこれまでの経験を大事にしていくことが何よりも大切ではないか。
« 「発寒・和寒... | 道と道教委に... » |