来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
モンゴルの帝王のこと(2)
数日前の続き。
クビライ・カンが日本に興味を抱き服属させようと思い立ったきっかけは、高麗人の進言によるものだったらしい。「高麗の隣国に日本という島国があります。豊かな国で金銀米穀に恵まれ、高麗や南宋との通商にも慣れています。使者をおくってみてはいかがでしょう」と。
1266年、クビライ・カンは日本に朝貢を促す使者を送った。
高麗王の使者がモンゴル皇帝の国書を携えて日本にやってきた。九州太宰府へ。1268(文永5)年1月1日だった。鎌倉へ40日後。朝廷も愕然とした。しかし幕府は「帰れ、無礼の国書なので返書はない。」と。使者はむなしく高麗へ帰り7月にモンゴルへ報告に赴いた。
日本にとっては、外国からの圧力に対して、朝廷・貴族たちはただ伊勢の皇大神宮へ祈祷、諸国の寺社へ異国降伏の祈祷を命じた。
幕府、西海道、南海道の諸国の守護に蒙古襲来の防御を命じた。
クビライは日本の態度に疑問をもち1268年9月、高麗の対して再度日本へ使者を送れと要求。
高麗王は対馬の島民2人を捕虜とし、これを蒙古の宮廷へ送った。捕虜の塔次郎、弥次郎の二人。クビライ・カンに面謁を許され、都の見物にも案内された。土産までもらい大喜びで高麗の船で帰国。二度目の国書。日本とまじめに交易をしようというもの。しかし高麗王は、幕府の「拒否」の返書はにぎりつぶした。
高麗の使者は再度訪日(文永10・1273)。また追い返された。ついにクビライは、アジアの大王であるメンツをつぶされた、との怒りをもって、日本を踏みにじるべく侵攻を実施。この手先になったのは高麗王(朝鮮)。文永11年正月から造船工事。大船・300,その他を含め計900艘。6月に工事完了。「高麗様式の簡略な船」だったという。総計3万4千人。
文永11(1274)年10月5日、元軍900艘の艦船。対馬はむざんなことに、島民の多くは殺され家は焼かれ生き残った者は捕虜に。その後壱岐島へ。元軍の殺戮は凄惨をきわめた。男は皆殺され、女はとらわれて掌に穴を穿たれその穴に鋼を通して数珠つなぎとされ船縁に吊り下げられた。
幕府は対馬と壱岐の防衛については何の対策もうっていない、全くの無能だった。
日本の惨敗。しかし嵐が来た。900艘のうち半数近くが沈没、戦死、溺死は3万の軍勢のうち約半数だった。
クビライ・カンが日本に興味を抱き服属させようと思い立ったきっかけは、高麗人の進言によるものだったらしい。「高麗の隣国に日本という島国があります。豊かな国で金銀米穀に恵まれ、高麗や南宋との通商にも慣れています。使者をおくってみてはいかがでしょう」と。
1266年、クビライ・カンは日本に朝貢を促す使者を送った。
高麗王の使者がモンゴル皇帝の国書を携えて日本にやってきた。九州太宰府へ。1268(文永5)年1月1日だった。鎌倉へ40日後。朝廷も愕然とした。しかし幕府は「帰れ、無礼の国書なので返書はない。」と。使者はむなしく高麗へ帰り7月にモンゴルへ報告に赴いた。
日本にとっては、外国からの圧力に対して、朝廷・貴族たちはただ伊勢の皇大神宮へ祈祷、諸国の寺社へ異国降伏の祈祷を命じた。
幕府、西海道、南海道の諸国の守護に蒙古襲来の防御を命じた。
クビライは日本の態度に疑問をもち1268年9月、高麗の対して再度日本へ使者を送れと要求。
高麗王は対馬の島民2人を捕虜とし、これを蒙古の宮廷へ送った。捕虜の塔次郎、弥次郎の二人。クビライ・カンに面謁を許され、都の見物にも案内された。土産までもらい大喜びで高麗の船で帰国。二度目の国書。日本とまじめに交易をしようというもの。しかし高麗王は、幕府の「拒否」の返書はにぎりつぶした。
高麗の使者は再度訪日(文永10・1273)。また追い返された。ついにクビライは、アジアの大王であるメンツをつぶされた、との怒りをもって、日本を踏みにじるべく侵攻を実施。この手先になったのは高麗王(朝鮮)。文永11年正月から造船工事。大船・300,その他を含め計900艘。6月に工事完了。「高麗様式の簡略な船」だったという。総計3万4千人。
文永11(1274)年10月5日、元軍900艘の艦船。対馬はむざんなことに、島民の多くは殺され家は焼かれ生き残った者は捕虜に。その後壱岐島へ。元軍の殺戮は凄惨をきわめた。男は皆殺され、女はとらわれて掌に穴を穿たれその穴に鋼を通して数珠つなぎとされ船縁に吊り下げられた。
幕府は対馬と壱岐の防衛については何の対策もうっていない、全くの無能だった。
日本の惨敗。しかし嵐が来た。900艘のうち半数近くが沈没、戦死、溺死は3万の軍勢のうち約半数だった。
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