天皇のなりそこなった道鏡について(続)

いつかも記したことと重なるのだが、自分の「復習」を兼ねて。
歴史書によると、初代天皇は神武天皇だ。この天皇が「ワシが天皇で日本を支配するのだ」と宣言したのが、西暦前660年の2月11日だったとのこと。所は奈良県(その昔大和の国といった)。これから数えて今の天皇は126代目。周知のように、神武以来約1000年近い期間は後世の創作に近い。

永井路子さんの書いた「歴史小説全集第一巻」の「氷輪」を参考にして。
前回記したようにこの長編小説の第一の主人公は唐僧鑑真だ。そして奈良時代後期(8世紀後半期)を彩る僧侶は道鏡。この人について前回は「悪僧」と言う語で詠んだのだが必ずしも適切ではないかも知れない。道鏡自らが「オレは天皇になりたいのだ」といっていたわけではない。
この僧侶を天皇の位につけようと一生懸命に努力したのは女帝孝謙(718-770)であってこの人の道鏡への思いは、実に悲しいほど一生懸命だ。

この女帝は30歳を過ぎて、孝謙天皇として即位(749)したが758年に退位し、また764年に第48代目の称徳天皇として重祚(ちょうそ)する。そして770年に逝去。
天皇は独身。道鏡以前に男性関係はなかった。45歳の孝謙は病気になった。このころ病に対する治療は薬草と祈祷なのだそうだ。そして彼女の病い快復のために懸命に祈祷したのは道鏡という坊さんだった。これを契機として彼女は道鏡と密接な関係になった。道鏡は女帝にとっては初めての男だった。このこともあって彼女はこれまでの律令制のきまりなどなんのその道鏡の地位向上のためになんでもやった。そして法王という地位まで与えた。そして最後の切り札、道鏡を天皇にまで格上げすべく努力した。

宇佐八幡宮(大分県)の神託があった(神のお告げ)。「道鏡を天皇の地位につければ天下は太平になるだろう」と。そして称徳の信頼する臣の和気清麻呂(わけのきよまろ)が八幡宮の神託を受けに彼の地に赴いた。称徳にとってこの神託は最大の力だった。しかし和気清麻呂は「八幡宮はそのようなことは仰せになりませんでした。皇統は天皇家が受け継ぐべきとのことです」と言ったので称徳はアタマにきた。信頼すべき清麻呂に裏切られた思いだった。

しかし称徳女帝は敗北したとは思っていない。いろいろ工作をしたのだが、結局は道鏡を帝位に就けることはできなかった。
著者永井路子さんは次のように記す。
彼女(称徳)が聡明かつ狡猾な理由は「いうまでもなく道鏡への愛がその支えである。……王者の座にあるがゆえに与えられることのなかった性の快楽を、彼は心ゆくまで味わわせてくれた。……四十の坂を半ばすぎてから初めて手に入れた歓喜の世界が、彼女にみずみずしい意欲を与える。古来、愛欲を貪ったとき、その中に溺れこんで、判断力を失うものと、それが不思議な活力となって、より逞しくなるものと二とおりあるが、まさに彼女は後者に属するタイプだった。

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