「分断」、民主政治は常に国民の分断を前提としているのでは?

ブラジルの大統領選で、ルラという左派系の人が僅差で勝利したという。しかしこれまでのボルソナロ大統領は敗北を認めないらしい。アメリカの元大統領のトランプは右派のボルソナロを支持している。

報道によると、選挙管理当局によると、30日の決選投票の得票率は、左派のルラ元大統領が50.90%、ボルソナロ氏が49.10%。1985年の民政復帰後に実施された大統領選の上位2候補の得票率を比較すると、今回が最も差が小さかった。

ボルソナロ氏は敗北を認めない可能性もあるという。かつてアメリカ大統領も似たような状況だった。トランプは選挙で負けたことを認めようとしなかった。

こういう事態は、いわゆる民主主義国家ではしばしば見られる。あっち派とこっち派がきびしく対立し、選挙で決着がつくはずだが、この結果を認めたくないといって争いが起きる。これを「国民が分断された」といった言葉で表現されることがある。

しかしかかる事態は「総選挙」が行われ、国民の間に対立する大きな意見が二つ以上あれば、当然のこととしてこの「分断」は一時的に起こり得るのだ。

逆に、ロシアその他の専制国家では、独裁者の一存が「神の声」となって国民を統制する。だから対立は表面上は出ない。つまり「分断」はおきないだろう。しかし、国民のすべてが良識と判断力と国政決定の最終権限をもっている国家としては当然のことだ。分断は国民すべてが自らの未来に対して小さいながらも判断力と責任をもっているからあり得る現象だ。分断は民主制の前提条件として認容されるのだ。そして国民の一定の「分断」はまた議論と選択の進む中で解決される。これを、その昔哲学を勉強していたときに知った「止揚」という語で理解したことを思い出した。「対立」と「分断」が、次のステージで新しい展開をつくる、という意味だろう。
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