来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
豊臣秀頼は秀吉の実子ではなかった?
テロ事件や昨今のあれこれから離れて…。
豊臣秀吉は自分の死を間近にして有力大名に切々と訴えた。「わしの息子の秀頼はまだ5歳。一人前になるまでみんなでしっかり見守ってやってくれ。よいか、くれぐれも頼む。この通りじゃ」と切望した。5人の大老、5人の奉行。それぞれが「すべて了解です。どうぞご心配されますな」と言った。それで秀吉は安心して死んだ(と思う)。1598年8月5日。
そしてそれからまもなく「関ヶ原の戦い」(1600年)を経て、ほぼ秀吉後の政治権力を確立した徳川家康が「征夷大将軍」の地位につき、幕藩体制を確立していく。しかし秀吉の遺言に従わねばならないと考えていた大名やすでに徳川から棄てられたかつての有力な武将たちは、「家康は汚い、秀吉公との誓いをやぶって自己中の体制をつくることは許せない、という気持ちを強くしていた。この動きを逆手にとって、豊臣の勢力の一掃をはかり、自分の死後の徳川体制を盤石なものにしたいと考えていた家康は最後のいくさを挑発した(1614年の大坂冬の陣と15年の夏の陣)。これによって豊臣氏とこれにつながる勢力を一掃した家康は、安心して「東照神君家康公」になった。
記したいことは、「どうして秀吉亡き後の諸大名などは秀吉との約束をチャラにして、豊臣から徳川に鞍替えしたのか」の疑問だった。中には真田幸村などの忍者の家来をもった元大名の活躍も物語上としてあるのだが。
澤田ふじ子という作家の書いた「女人絵巻」の中の「淀君と秀頼」を読んで、秀頼は秀吉の実の子でないことを当時の武将たちはうすうす知っていて、どこの馬の骨がわからない人間のために我が身と我が一家を犠牲にすることはない、ということで徳川方についたのだ、という説を理解しえたからだ。
淀君の母は今でいえば「ミス日本」とされるだろう美女お市(おいち)。秀吉はたくさんいた側室たちとの間に後まで生きる実の子を作っていない。しかし淀君は秀頼を産んだ(1593年8月3日)。秀吉は大喜び。しかし澤田さんによると、この頃秀吉は健康にすぐれず、生殖能力はなかったという。当時、10人以上の側室たちで懐妊は淀君だけだった。
多くの秀吉の周辺はこのことを知っていて、どこの馬の骨かわからない男の子のために闘うなどは問題外だと思ったはずだ。そういうことを知ることのなかった秀頼は元和元(1615)年5月8日、落城する大坂城の土蔵で母とともに自害する、淀君49歳、秀頼23歳だったという。
秀吉の家臣だった大名たちは、ほとんどが徳川方についた。彼等は内心、秀頼の出生に疑問をいだき、忠誠を尽くすことに狐疑逡巡していたためではないか、と澤田ふじ子さんは結論している。
実の父は誰だったと推量するか、は上の書を参照してください。
豊臣秀吉は自分の死を間近にして有力大名に切々と訴えた。「わしの息子の秀頼はまだ5歳。一人前になるまでみんなでしっかり見守ってやってくれ。よいか、くれぐれも頼む。この通りじゃ」と切望した。5人の大老、5人の奉行。それぞれが「すべて了解です。どうぞご心配されますな」と言った。それで秀吉は安心して死んだ(と思う)。1598年8月5日。
そしてそれからまもなく「関ヶ原の戦い」(1600年)を経て、ほぼ秀吉後の政治権力を確立した徳川家康が「征夷大将軍」の地位につき、幕藩体制を確立していく。しかし秀吉の遺言に従わねばならないと考えていた大名やすでに徳川から棄てられたかつての有力な武将たちは、「家康は汚い、秀吉公との誓いをやぶって自己中の体制をつくることは許せない、という気持ちを強くしていた。この動きを逆手にとって、豊臣の勢力の一掃をはかり、自分の死後の徳川体制を盤石なものにしたいと考えていた家康は最後のいくさを挑発した(1614年の大坂冬の陣と15年の夏の陣)。これによって豊臣氏とこれにつながる勢力を一掃した家康は、安心して「東照神君家康公」になった。
記したいことは、「どうして秀吉亡き後の諸大名などは秀吉との約束をチャラにして、豊臣から徳川に鞍替えしたのか」の疑問だった。中には真田幸村などの忍者の家来をもった元大名の活躍も物語上としてあるのだが。
澤田ふじ子という作家の書いた「女人絵巻」の中の「淀君と秀頼」を読んで、秀頼は秀吉の実の子でないことを当時の武将たちはうすうす知っていて、どこの馬の骨がわからない人間のために我が身と我が一家を犠牲にすることはない、ということで徳川方についたのだ、という説を理解しえたからだ。
淀君の母は今でいえば「ミス日本」とされるだろう美女お市(おいち)。秀吉はたくさんいた側室たちとの間に後まで生きる実の子を作っていない。しかし淀君は秀頼を産んだ(1593年8月3日)。秀吉は大喜び。しかし澤田さんによると、この頃秀吉は健康にすぐれず、生殖能力はなかったという。当時、10人以上の側室たちで懐妊は淀君だけだった。
多くの秀吉の周辺はこのことを知っていて、どこの馬の骨かわからない男の子のために闘うなどは問題外だと思ったはずだ。そういうことを知ることのなかった秀頼は元和元(1615)年5月8日、落城する大坂城の土蔵で母とともに自害する、淀君49歳、秀頼23歳だったという。
秀吉の家臣だった大名たちは、ほとんどが徳川方についた。彼等は内心、秀頼の出生に疑問をいだき、忠誠を尽くすことに狐疑逡巡していたためではないか、と澤田ふじ子さんは結論している。
実の父は誰だったと推量するか、は上の書を参照してください。
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