来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
妻を思い子を思う歌人
万葉集の中で山上憶良(660~733)は最も著名な人ではないだろうか。彼の詠んだ「貧窮問答歌」は奈良時代の一般庶民の暮らしぶりを、実にいきいきと今に伝えてくれている。「日本史」の教科書に載っている。
この人は、60を過ぎて九州の今でいう知事になった(筑前守・ちくぜんのかみ・福岡県の長官)。そして72歳で帰京し翌年亡くなった。当時としては大層長寿だったといえる。筑前に赴任して間もなく妻に死なれた。
・ 妹(いも・妻のこと)が見し 楝(おうち・センダン)の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干(ひ)なくに
(妻が見た楝の花はきっと散ってしまうだろう。私が泣く涙はまだ乾いていないのに)。
・ 銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも
(金や銀やダイヤ、それらは一体何になるだろう、これにまさる宝といえば、子以上のものがあるだろうか)。
先に記した「貧窮問答歌」の反歌(まとめの歌といえるだろう)として憶良は次の歌を載せている。
・ 世間(よのなか)を 厭(う)しと恥(やさ)しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
(世の中は辛いし悲しい、できれば飛んで逃げたい、しかし鳥でないからそれもできない)。
さいごに、憶良はおさな子を急に亡くしてしまう不幸に見舞われる、その時の悲しい歌を紹介する。
・ 若ければ 道行き知らじ 賄(まひ)はせむ 黄泉(したへ・死者の世界)の使(つかひ) 負(お)ひて通(とほ)らせ
(まだこの子は幼いから、死後の世界への道がわからない、贈り物をしますので、黄泉の国の使者よ、どうかこの子をおぶってやってください)。
この人は、60を過ぎて九州の今でいう知事になった(筑前守・ちくぜんのかみ・福岡県の長官)。そして72歳で帰京し翌年亡くなった。当時としては大層長寿だったといえる。筑前に赴任して間もなく妻に死なれた。
・ 妹(いも・妻のこと)が見し 楝(おうち・センダン)の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干(ひ)なくに
(妻が見た楝の花はきっと散ってしまうだろう。私が泣く涙はまだ乾いていないのに)。
・ 銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも
(金や銀やダイヤ、それらは一体何になるだろう、これにまさる宝といえば、子以上のものがあるだろうか)。
先に記した「貧窮問答歌」の反歌(まとめの歌といえるだろう)として憶良は次の歌を載せている。
・ 世間(よのなか)を 厭(う)しと恥(やさ)しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
(世の中は辛いし悲しい、できれば飛んで逃げたい、しかし鳥でないからそれもできない)。
さいごに、憶良はおさな子を急に亡くしてしまう不幸に見舞われる、その時の悲しい歌を紹介する。
・ 若ければ 道行き知らじ 賄(まひ)はせむ 黄泉(したへ・死者の世界)の使(つかひ) 負(お)ひて通(とほ)らせ
(まだこの子は幼いから、死後の世界への道がわからない、贈り物をしますので、黄泉の国の使者よ、どうかこの子をおぶってやってください)。
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