古い「熱血教師」はまだ生きていた?

帰宅後食事をして開いたチャンネルはフジテレビ系の「金曜プレステージ・熱血教師SP」という番組だった。その中で、声を出せない子どもに対して迫る熱血教師とその生徒たちの話だった。
私はこの種の番組は好きでないので、あえて見ることはなかった。教育実践のほんの一部の「成功話」をさも一般的な教訓まがいに組み立てて、今の教育は情熱が足りないのだ、と言わんばかりの番組の主張にアレルギーを感じるからである。多分多くの教師たちも同じなのではないだろうか。

今回の「熱血教師」も同じ軌道にあるものだ。「弱い自分を何とか克服しろ」「このままではいつまでも弱い人間にとどまるのだ」「オレは徹底的にお前を信じる」「仲間たちも同じだ」「へこたれるな、頑張れ」、等々。そして寝食をすてて子どもの生き様に迫る熱血教師がいて、終わってこれを見ていたコメンテーターが涙ながらに「私もこういう先生に出会っていれば良かった」「今の教育現場への大きな問題提起」「人間捨てたものではない」などという感動的な結末でくくられる。

ここにあるのは、終始「甘えは許さない」「学校の役割と責任」「人間成長は訓練に基づく」という論理である。
子どもたちがこういう大人の対応でどれだけ苦しみ、学校から心を遠ざけてきていることをどうして感じないのだろうか、情けなくなる。
たしかに、教育というのはどういう指導にもプラスがある。極端にいえば、「あの先生の心のこもった体罰があったからこそ今の自分があるのだ」といった『感動話』すら少なくない。

しかし番組を認める人たちに知ってもらいたい。そういう「感動的な熱血教師」の指導が不登校を生み、学校ぎらいをつくり出し、そして子どもの中に「自分はダメ人間」という気持ちをつくってきているか、を。
何度も言うが、時代は変わってきているのである。シゴキで自分を奮い立たせた時代ではない。(ただ上に記したようにちょっとしたカゲンでそういう機微に反応する子どももいるから複雑なのだが)。学校が聖なる存在であるとか、蛍の光・窓の雪で困難艱苦を克服してくる時代でないことを確認した上で、教育のあり方を想定していくべきである。そういう多様な子どもの育ち方に日々思いをこらすという意味での、新しい「熱血教師」がこれからの必要な姿である。
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