来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
戦死した父親などが帰ってきた!
昨日の話の続きだが、1945年8月に「太平洋戦争」が終わった。もちろん神国日本が「連合国」に対して「無条件降伏」という形でだ。
どこかで書いたこともあったのだが、田舎の小学校(当時は「国民学校」)2年生だった私たちは、夏休みだったからこの「無敵の神国大日本が降伏」したことについて学校の先生たちはどう言っていたか、分からない。ただ爆撃される心配はなくなったな、ということと、あの毛唐人(ヨーロッパ系の人を当時こう呼んでいたように記憶している)がやってきて日本人をどう扱うか、怖ろしい、というような心配があったのではないだろうか。
しかし一番期待していたことは、「戦死したはずの父や叔父、兄などが帰国してきた」という話があって、ウチの父もひょっとしたら生きて帰ってくるかも、と母と語り合うこともあったように記憶している。
まだ東京大空襲や広島、長崎での原爆の被害などがそれほど詳しき報道されていなかったころだからだろう。
しかし昭和20年(1945年)も終わりに近づくと、戦争の悲惨なことがどんどん伝えられてきた。道北の田舎村でも旭川への米軍機の攻撃などが説明されてきた。そのほかの悲惨さが伝えられ、小学校低学年の私たちも、無事だったことを喜ぶとともに戦禍のひどさに怖ろしくなってきたのではないだろうか。
1945年の終わりから翌年の春ころまで、「戦死した人が帰ってきた」といった報道があったのではないだろうか。
どこかで書いたこともあったのだが、田舎の小学校(当時は「国民学校」)2年生だった私たちは、夏休みだったからこの「無敵の神国大日本が降伏」したことについて学校の先生たちはどう言っていたか、分からない。ただ爆撃される心配はなくなったな、ということと、あの毛唐人(ヨーロッパ系の人を当時こう呼んでいたように記憶している)がやってきて日本人をどう扱うか、怖ろしい、というような心配があったのではないだろうか。
しかし一番期待していたことは、「戦死したはずの父や叔父、兄などが帰国してきた」という話があって、ウチの父もひょっとしたら生きて帰ってくるかも、と母と語り合うこともあったように記憶している。
まだ東京大空襲や広島、長崎での原爆の被害などがそれほど詳しき報道されていなかったころだからだろう。
しかし昭和20年(1945年)も終わりに近づくと、戦争の悲惨なことがどんどん伝えられてきた。道北の田舎村でも旭川への米軍機の攻撃などが説明されてきた。そのほかの悲惨さが伝えられ、小学校低学年の私たちも、無事だったことを喜ぶとともに戦禍のひどさに怖ろしくなってきたのではないだろうか。
1945年の終わりから翌年の春ころまで、「戦死した人が帰ってきた」といった報道があったのではないだろうか。
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