かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

ブログを書くことで心の均衡を保っている私

2018-10-09 05:27:13 | ブログ記事
ブログなんて書いて何になるの?

と言う人も、心の中で思っている人もいると思う。

私も、そう思わないこともない。

だって、過去、ブログが家庭争議の元に何回かなったし、

子供たちにも私がブログを書くことはよく思われていないし。

それでも私は書きたい。

書くことで癒されるから。

書くことで心の平安が保たれるから。

私は普通の人より心の均衡を失いやすい人であると自覚している。

難聴であることも関係しているが、

しかし、それ以上に、生まれつきのものが大きいと思う。

難聴の人でも、皆が皆、心の均衡を失いやすいことはないだろうから。

難聴ではなかった私の兄は、アルコール依存症になり、最後は腎臓を悪くして亡くなったが、

兄の場合は、アルコールで心の均衡を保っていたから、依存症になったのではなかったかと思う。

子供のころは自慢の兄だったから、人工透析を受けるまでになった兄を見るのは辛かった。

が、兄も心に傷を負いやすい人だったと思う。

私たち兄妹は、何かに過敏にできているようだった。

その過敏を、私は、現在、ブログを書くことで宥めているような気がしている。

以前は、歌を作ることがそれであったが、

結社に入って歌を作っていると、

無駄に競争心を煽られて、返って心の均衡を失わせる原因にもなるから、やめることにした。

ブログのランキングも、多少はその傾向があるかもしれないが、

歌のように、下手だからと見下げられるとかいうことはない。

自分では下手と思っていないのに?(笑)

もちろん上手いとも思っていないし、

それより、

私は、人が心を込めて詠った歌を上手下手に分けることを認めていない。

また、上手いと評価される人が、いつのまにやら天狗になるということが許せない。

天狗になって人を見下げるのが許せない。

だから、皆、技を磨いて磨き上げるのであろうが、それが何になる?

従来の歌が形式に流れると短歌革新運動を唱えたのが正岡子規であったのではないか。

技ばかり競うと、短歌革新運動以前の歌に逆戻りしてしまう。

自分の詠いたいように詠っている歌を批判するのは間違っているのである。

上手い上手いと言われている歌が誰かの真似のようであったとしたら、
何をもって上手というのかと聞きたくなる。

その点ブログは自分の書きたいことを書きたいように書くことができる。

たまには変なコメントも入るが、歌の批評の不快さとは別物だ。