最近はブログばかり読んでいるような気がする。
無料で読めるにも関わらず、レベルの高いブログも多い。
出版不況と言われて久しいが、これだけ有益なブログが無数に存在すれば、出版不況も致し方ないかもしれない。
それに伴って思うのだが、知識人と一般人の壁も低くなったというか、無くなる傾向にあるのではないか。
先般、『新潮45』という雑誌が廃刊に近い休刊に追い込まれたが、
これは、その記事の問題のみならず、
ブログ等の存在のせいではないかと思う。
わざわざお金を出して雑誌を買わなくても、
その雑誌に負けない、あるいは、それ以上の記事がブログで読めるとすれば、
だれも雑誌を買わなくなるだろう。
私は、短歌結社の存在についても同様のことを思う。
結社には、先生と呼ばれる選者がいて、
その選者が会員の歌の選をするというシステムになっている。
が、その選者の選は絶対的なものか。
何をもって、選者と選をされる者の区別はあるのだろう。
これは、現在の雑誌とブログ等、ネット配信される記事との区別と根は同じかもしれない。
別に選者の歌が絶対的に優れているわけでもなく、
雑誌に掲載される知識人の記事が絶対的に優れているわけではないとということと同根である。
ゆゑに、こうした前時代的なシステムは淘汰されてしまうのも、むべなるかなである。
私は、それくらいブログという媒体は優れていると思うし、
書き手である一般人の中に知識人には負けない書き手が潜んでいると思う。
無料で読めるにも関わらず、レベルの高いブログも多い。
出版不況と言われて久しいが、これだけ有益なブログが無数に存在すれば、出版不況も致し方ないかもしれない。
それに伴って思うのだが、知識人と一般人の壁も低くなったというか、無くなる傾向にあるのではないか。
先般、『新潮45』という雑誌が廃刊に近い休刊に追い込まれたが、
これは、その記事の問題のみならず、
ブログ等の存在のせいではないかと思う。
わざわざお金を出して雑誌を買わなくても、
その雑誌に負けない、あるいは、それ以上の記事がブログで読めるとすれば、
だれも雑誌を買わなくなるだろう。
私は、短歌結社の存在についても同様のことを思う。
結社には、先生と呼ばれる選者がいて、
その選者が会員の歌の選をするというシステムになっている。
が、その選者の選は絶対的なものか。
何をもって、選者と選をされる者の区別はあるのだろう。
これは、現在の雑誌とブログ等、ネット配信される記事との区別と根は同じかもしれない。
別に選者の歌が絶対的に優れているわけでもなく、
雑誌に掲載される知識人の記事が絶対的に優れているわけではないとということと同根である。
ゆゑに、こうした前時代的なシステムは淘汰されてしまうのも、むべなるかなである。
私は、それくらいブログという媒体は優れていると思うし、
書き手である一般人の中に知識人には負けない書き手が潜んでいると思う。