私の難聴が判明したのは中学2年のときであった。
いつから難聴になったのかは定かでない。
が、一応中高一貫校に通っていて、成績もそこそこ取っていたから、それまでは問題なかった。
が、中2のときの社会(歴史)の先生の声が聞き取りにくくて、
母に言うと母の友人のお連れ合いの経営する耳鼻科に連れていってくれた。
そこで難聴であることが判明した。
それ以前は、どうだったかというと、
少しは聞こえにくかったかもしれないが、
しかし、
子供のころは、いとこたちと一緒にラジオドラマなどを聞いていた記憶があるから、
難聴であったとしても、ごく軽かったと思う。
中学2年で、難聴らしいことがわかったので、
母が岡山大学の付属病院に検査に連れて行ってくれたのは、確か中学3年だったと記憶している。
岡山大学の医学部には親戚のおじさんが教授をしていたので、その伝手で行ったのだった。
そこで、難聴ということがはっきりして、
「生涯、これより悪くなることはあっても、治ることはありません」と宣告された。
私は、まだ半分子供だったから、それほど深刻に受け止めなかったが、
両親は、かなりショックを受けたようだった。
その後は、難聴のために苦労の連続であった。
大学進学のときも行きたい学科があったが、肝心の科目の授業がよく聞き取れなかったりしたから、
あきらめざるを得なかった。
その後、就職のときも、学科試験は合格したが、身体検査の聴力検査でひっかかって、
母と私は、父の友人であった人事部長に呼ばれて、
「まことに申し訳ないですが、聴覚に問題がありますので」と、やんわり断られそうになった。
が、ここで母が、「難聴でも働ける部署があるのでは?」と頑張ったため、合格してしまった。
その後、結婚適齢期になり、お見合いするのだが、
もらってくれようとする人には私の気に入った人がいなくて、難航した。
やっと23歳の終わりごろお見合いした夫と、お互いが気に入って結婚の運びになったが、
夫の母親は大反対だったらしい。
それで、結婚してからは、先日来書いている通り、いわれのない虐めを受けた。
その後、子供を産む度に、どんどん聴力は落ちて、
ついに33歳のときに障碍者手帳がもらえるまでになった。
が、私は障碍者手帳がもらえたことを、これ幸いと、
障碍者枠の就職試験を受けた。
34歳のときのことだった。
というのが、私のおおまかな障碍者歴であるが、
しかし、もし私が、もっと早い段階で障碍者手帳がもらえていたなら、
あるいは、
今回問題になっているような不妊手術を受けさせられたであろうか?
私は聴覚に障害があるが、
私の子供たちは三人とも特に問題はない。
優生保護法のもとに不妊手術を受けさせられていたとすれば、
私の子供三人は生まれていなかった。
なんと恐ろしい、悲しいことだろう。
強制的に不妊手術を受けさせられた方々の怒り、悲しみは察して余りある。
人として生まれて、子を持つことは、生きがいである。
子がいるから、つらいことがあっても頑張れるのである。
その子を産むことを取り上げられたら、何を楽しみに生きていけばよいのか。
世の中には、さまざまな楽しみがあることは知っている。
が、子を持つこと以外の生きがいはおまけである。
と、私は思う。
働くことも、もちろん生きがいになるが、
しかし、育てる子をもたずに、ただ働いても、ある意味むなしい。
人とは、そういう存在であると思う。
その意味では、
不妊手術を強制した政府は、いくら謝罪しても謝罪しきれるものではないと思う。
しかも、こういう事件のあったことが、遠い明治時代とかではなく、
ついこの間の昭和の時代であったことを知るにつけ、
人間の愚かしさを思わずにはいられない。
*
なにかの本で、女性は血の道に絡んで難聴が進むという記事を読んだことがあるが、
それが正しければ、
私の難聴の始まりは生理の始まりと軌を一にしているから、それが原因か遠因だったかもしれないし、
出産のたびに聴力がガクンと落ちたのも、そのせいだったかもしれない。
かてて加えて、私は心臓弁膜症でもあったから、それが主原因であったことも十分考えられる。
それから、最近、風疹が流行っているそうだが、
妊娠中に風疹にかかると、聴覚に障害のある子や、心臓に障害のある子が生まれやすいと聞くから、
ひょっとしたら、母が私を妊娠中に風疹にかかったかもしれないと思ったりもする。
ご参考→「風疹とは?大人で感染したときの症状と妊娠中への悪影響まとめ」
いつから難聴になったのかは定かでない。
が、一応中高一貫校に通っていて、成績もそこそこ取っていたから、それまでは問題なかった。
が、中2のときの社会(歴史)の先生の声が聞き取りにくくて、
母に言うと母の友人のお連れ合いの経営する耳鼻科に連れていってくれた。
そこで難聴であることが判明した。
それ以前は、どうだったかというと、
少しは聞こえにくかったかもしれないが、
しかし、
子供のころは、いとこたちと一緒にラジオドラマなどを聞いていた記憶があるから、
難聴であったとしても、ごく軽かったと思う。
中学2年で、難聴らしいことがわかったので、
母が岡山大学の付属病院に検査に連れて行ってくれたのは、確か中学3年だったと記憶している。
岡山大学の医学部には親戚のおじさんが教授をしていたので、その伝手で行ったのだった。
そこで、難聴ということがはっきりして、
「生涯、これより悪くなることはあっても、治ることはありません」と宣告された。
私は、まだ半分子供だったから、それほど深刻に受け止めなかったが、
両親は、かなりショックを受けたようだった。
その後は、難聴のために苦労の連続であった。
大学進学のときも行きたい学科があったが、肝心の科目の授業がよく聞き取れなかったりしたから、
あきらめざるを得なかった。
その後、就職のときも、学科試験は合格したが、身体検査の聴力検査でひっかかって、
母と私は、父の友人であった人事部長に呼ばれて、
「まことに申し訳ないですが、聴覚に問題がありますので」と、やんわり断られそうになった。
が、ここで母が、「難聴でも働ける部署があるのでは?」と頑張ったため、合格してしまった。
その後、結婚適齢期になり、お見合いするのだが、
もらってくれようとする人には私の気に入った人がいなくて、難航した。
やっと23歳の終わりごろお見合いした夫と、お互いが気に入って結婚の運びになったが、
夫の母親は大反対だったらしい。
それで、結婚してからは、先日来書いている通り、いわれのない虐めを受けた。
その後、子供を産む度に、どんどん聴力は落ちて、
ついに33歳のときに障碍者手帳がもらえるまでになった。
が、私は障碍者手帳がもらえたことを、これ幸いと、
障碍者枠の就職試験を受けた。
34歳のときのことだった。
というのが、私のおおまかな障碍者歴であるが、
しかし、もし私が、もっと早い段階で障碍者手帳がもらえていたなら、
あるいは、
今回問題になっているような不妊手術を受けさせられたであろうか?
私は聴覚に障害があるが、
私の子供たちは三人とも特に問題はない。
優生保護法のもとに不妊手術を受けさせられていたとすれば、
私の子供三人は生まれていなかった。
なんと恐ろしい、悲しいことだろう。
強制的に不妊手術を受けさせられた方々の怒り、悲しみは察して余りある。
人として生まれて、子を持つことは、生きがいである。
子がいるから、つらいことがあっても頑張れるのである。
その子を産むことを取り上げられたら、何を楽しみに生きていけばよいのか。
世の中には、さまざまな楽しみがあることは知っている。
が、子を持つこと以外の生きがいはおまけである。
と、私は思う。
働くことも、もちろん生きがいになるが、
しかし、育てる子をもたずに、ただ働いても、ある意味むなしい。
人とは、そういう存在であると思う。
その意味では、
不妊手術を強制した政府は、いくら謝罪しても謝罪しきれるものではないと思う。
しかも、こういう事件のあったことが、遠い明治時代とかではなく、
ついこの間の昭和の時代であったことを知るにつけ、
人間の愚かしさを思わずにはいられない。
*
なにかの本で、女性は血の道に絡んで難聴が進むという記事を読んだことがあるが、
それが正しければ、
私の難聴の始まりは生理の始まりと軌を一にしているから、それが原因か遠因だったかもしれないし、
出産のたびに聴力がガクンと落ちたのも、そのせいだったかもしれない。
かてて加えて、私は心臓弁膜症でもあったから、それが主原因であったことも十分考えられる。
それから、最近、風疹が流行っているそうだが、
妊娠中に風疹にかかると、聴覚に障害のある子や、心臓に障害のある子が生まれやすいと聞くから、
ひょっとしたら、母が私を妊娠中に風疹にかかったかもしれないと思ったりもする。
ご参考→「風疹とは?大人で感染したときの症状と妊娠中への悪影響まとめ」