かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

スマホは電話機能を減じた

2018-10-25 11:27:38 | ブログ記事
いつも書いている通り、

私は難聴なので、メールが電話替わりである。

長い文章はパソコンのメールにするが、

日常的な電話替わりのメールは、

以前はケイタイのメールにしていた。

が、時代はスマホ時代になり、

ケイタイのサービスがカットされたりするようになったから、

熟考の末、スマホに変えた。

スマホなら、迷子になりやすい私のお助けマンになるとも思ってのことだったが、

使ってみると、

以前のケイタイのほうが使い勝手がよかったという場面も多い。

一番よくないと思うのは、

以前のケイタイなら、メールが入ったら、メロディが鳴って、それと気づかせてくれた。

メロディだけでなく、ブルブルが結構ながかったから、カバンに入れてあっても、その振動で気づけた。

が、スマホでは、「ピッ」と鳴ったら終わりである。

たまには気づくこともあるが、たいがい気づかない。

それで家族から急ぎのメールが入っても気づかないことが多くなった。

これは大変困る。

それから、これは私の使っているYモバイルだけかもしれないが、

コマーシャルのメールが頻繁に入る。

それで、ほかのことをしているとき、
スマホが鳴って、急いでスマホを開いても、コマーシャルであったりして、
腹立たしい思いをさせられる。

コマーシャルなんか要らない。

必要なものがあれば、自分で検索して調べてから買うから。

むしろ、コマーシャルを頻繁にしてくる会社、あるいは店は、

このコマーシャルにお金をかけている分、価格も割高になっているのではないかと疑う。

実際、そうだろう。

莫大な広告料を払って売ろうとするのだから、その値段には、その広告料も含まれるはず。

そんなことは世間知らずの私でもわかる。

それから、スマホにはアプリとかいうものが存在して、

これは便利なものも多いことは事実だが、

しかし、たいして必要でもないものまでインストールさせて、

挙句にその使用料のようなものを請求してくるサイトもあると聞く。

だんだん頭も弱ってくる、われわれ高齢者、あるいは高齢者予備軍は
気を付けなければならないと思う。

こんなことなら、スマホにするんじゃなかったと後悔半分である。


*

追伸である。

スマホの電池切れの速さには泣かされる。

持って出かけても、ブログなど書いて写真を撮っているうちに、あっという間に電池切れになる。

最近の高速バスなどに電源がつけられているわけが分かった。

他の人たちも同様なのだろう。

私は、最近では電源のついた車両を選んで乗るようにしている。

乗車中に充電しておけば、到着してから安心してスマホを使うことができるから。

それにしても、このスマホの電池切れの速さには何か対策みたいなものはないのだろうか?

そもそも、なんでスマホは、こんなに電池の減るのが速い?

たぶん画面を見るからだろうが、
それならそれで、画面を見ても、長時間持つような機能を備えるべきではないか。

これらはスマホの大きな欠陥ではないかと私には思える。

書かずにはいられないから書くけれど、書くから家族からも嫌わる

2018-10-24 23:48:29 | ブログ記事
やっぱりやめないといけないのかな、ブログ。

きれいな景色をアップするだけとか、人生訓だけ書いていれば問題ないのでしょうが、

それでは、私は面白くない。

人のブログを読ませてもらったときも、そう。

きれいごとだけ書いているブログは、すぐに飽きる。

別にひと様の不幸が蜜の味なんてことは決してないけれど、

きれいごとだけ書いているブログには「本当のこと書きなさいよ」と言いたくなる。

写真も、私は、筆者や家族をモザイクなしで出しているブログが好き。

本当のことを書かないで、本物の写真を出さないで、何が面白い?と思ってしまう。

私は、本当のことを書いているから、

書くことで心の癒しが得られている。

封印してあった過去の辛かったことを書きたい。

現在起こっている耐え難い事件を書きたい。

障害を抱えて生きる生きづらさを書きたい。

そう読者の転象さんに言われるように、
火が付けば(感情が爆発すれば)、心の中にある可燃物に、書くという酸素が供給されて、
火はどんどん燃え盛る。

燃え切って、火が消えてしまうまで書かないと気が済まない私。

狂っている?


*

あとで気づいたけれど、今日のタイトル歌になっています。

★書かずにはゐられないから書くけれど書くから家族からも嫌はる

ね。(笑)

今日もお出かけ日和になったから姫路の奥の寺前まで行きました

2018-10-24 19:15:34 | ブログ記事
早朝に、夫は福岡に一泊泊りの出張に出ましたから、
私も羽を伸ばしてきました。

こんないい天気の日に一人で家にいると鬱になるし。

で、最初は私も福岡に行こうかと思いましたが、それはちょっと遠すぎる。

で、前から行きたいと思っていた、

上森三郎さんのブログ「かごめかごめ真実とは」(←クリックすると上森さんのサイトに飛びます)

で、

イエス・キリストの墓があるといわれている、神河町「寺前」まで行くことにしました。

実は、「寺前」は先日の砥峰高原行きのツアーで傍を通ったのでしたが、
バスの中からではよくわからなかったので、じっくり見てこようと思ってのことでした。

本当は上森さんが11月17日に企画されているツアーに参加させてもらうのが一番いいのですが、

私は難聴で、上森さんのお話は聞こえないと思うし、
もし山を登るとすれば、皆さんに歩調を合わせて登るのは無理なので、
一人で見てくることにしたのです。

朝、JR川西池田駅↓ で、10時前の電車に乗りました。


尼崎で姫路行き新快速に乗り換えです。

姫路で播但線に乗り換えます。


乗り換えたのは、たった2両のかわいい電車でした。

途中、福崎という駅で乗り換えなければならなかったのでしたが、
私は、その車内放送が聞こえていなかったので、そのまま座っていると、
とてもきれいな女性が「ここで乗り換えになります」と教えてくれました。

この女性には、この電車に乗るときも間違えないように確かめさせてもらったのでしたが、
そのときも、すごく優しく教えてくれました。

やはりきれいな人は、心もきれいだと確認しました。

以前も書きましたが、心のきれいな人には、きれいなオーラが出ているのですね。

で、福崎駅に降りてみると、

柳田国男の生家があるらしい。

帰途、寄ろうかと思いましたが、徒歩20分は、ちと遠い?

この駅のベンチで、地元のおばちゃんとお友達になれましたが、
早口で喋りはるから、よく聞き取れない。

仕方なく、あいまいに返事するのですが、
このおばちゃん、そんなことには怯まないで、どんどん喋ってくれはる。

で、このおばちゃんも、寺前まで帰られると言うので、ずっとご一緒していただきました。

私が、

「上森三郎さんという方が、そのブログで、この駅からイエス・キリストのお墓が見えると言ってはるらしい」
と、おばちゃんに言ってみましたが、ご存じない様子

それで観光案内所に連れて行ってくれたのですが、なんと今日、水曜日はお休み。

私は、今日の昼食を、
今度、上森さんが企画されているツアーで昼食場所にされるというお店で食べようと決めてきたから
行くことに。

すると、このおばちゃん、遠回りになるのに親切に「連れて行ってあげる」と案内してくれました。

これが駅から徒歩17分と、けっこう遠かったから、私は案内してもらって助かりました。

道中、このおばちゃん、この町のガイドもしてくれはったし。

この店の前で、おばちゃんは、自転車に乗って帰られました。

おばちゃん、おばちゃんと書いていますが、ひょっとすると私と同い年くらいだったかも?



ともかく目的のお店まで来たから入ることに。


「おすすめの献立はありますか?」とお店の人に聞くと、

「とろろご飯セット」と言われるので、それを注文しました。

貧乏性の私は、1500円は少し高いかなと思いましたが、
おなかが空いていたから、おいしくいただきました。

その後、お店の人に

「イエス・キリストのお墓と言われている山はわかりますか?」

とお聞きしてみましたが、わかりませんとのこと。

で、仕方ないから、自分の推測で撮影。

この写真の左の少し尖った山じゃないかと思うのですが、わかりません。


そのついでに、この町では、塀の上にこんな人形の飾りをつけているから撮影。

何のためでしょうね。

イエス・キリストの墓の近くにあるという卑弥呼のお墓もわからないので、
推測で撮影。


やっぱり一人で来たのは失敗だったかと帰ることに。

駅の近くの家の塀にも、くだんの人形が飾られていたから撮影。


寺前駅には午後2時過ぎに戻りましたが、3時14分まで姫路行きがないというので、

反対方向ですが、

それより前に出る「和田山行き」に乗って宝塚まわりで帰れないかと駅員さんに聞くと、

怒ったように「できません」と応える。

わからないから聞いているのに、そんな偉そうな言い方しなくても、と少し不快になりました。

同じ答えるのでも、もう少し優しく言えないものかと思いましたが、

これは他山の石として、自分への教訓とさせていただくことにします。

で、結局、その3時14分発の電車に乗って、川西池田駅には午後5時25分に着きました。

帰途、買い物をして、

帰宅は午後6時ごろになったから、朝の10時前から丸一日楽しませてもらいました。

よく歩いたから、これで、また少しは運動の貯金ができたかな?

*

そうそう、その福崎駅でお友達になったおばちゃん、
私がトイレに行って戻ってきたら姿が見えなくなっていました。

帰られたのかな?と思っていると、
福崎駅のプラットホームにある風よけの建物の中のベンチで横になってはりました。

まあ、私と同じような人がいるものだと、私は嬉しく思いました。

このおばちゃんも、間があれば横にならないと体がもたないのだそう。

それで、人のいないのを確かめて、横にならせてもらったと。

そのくらい駅には人がいませんでした。田舎の駅って、いいなあ。

でも、その割には口の達者なおばちゃんでした。

笑っちゃいますね。^^

私は書くことで心の情念を燃やしているのかもしれない

2018-10-24 03:50:38 | ブログ記事
今朝(というには早すぎるが)起きて、

ブロ友さんのブログ記事を読ませていただいていると、

(勝手に引用させていただいていいかどうかわかりませんが)

炎が燃えて、
木が溶けて灰になっていく過程をただ見ていると、
情熱のような感情が燃えて消えていく過程を
見ているような気になる。


と書かれてあった。

それを読ませてもらって、はたと気が付いた。

私がブログを書くという行為は、情念という炎を燃やすためかもしれないと。

書いているうちに、だんだん情念の炎は鎮まる。

そのために書いている、と気づいた。

一昨日、夫と喧嘩して情念の炎が燃え上がった。

情念の炎が燃え上がると、私は、若いころに溜め込んだ義母への情念も燃え盛る。

が、ブログを書いているうちに、だんだん静まっていった。

静まっていくのと同時に、

夫の伯母さんたちによくしてもらったことを思い出すことができた。

それで、完全に情念の炎は消えた。

昨日の夜は、夫もそれを感じたのか、一緒に和やかに夕食をとった。

夫も、燃え上がりやすいところがあるから、

私が情念の炎を燃やすと、何かが燃え上がるのだろう。

それとも、私の情念に燃やされまいとして、かっかとするのかもしれない。

今朝は、そんなことを思った。

義母が私を虐めたのは義父に対する当てつけであったかもしれない

2018-10-23 13:09:47 | ブログ記事
義父は優秀なエンジニアであった。

それで会社勤めしていたころは高給取りであった。

が、自分で思うように仕事をしたくなって、会社を興して自営した。

が、エンジニアとしては優秀であったが、会社経営は下手であった。

採算を無視したいい仕事をしようとするので、会社は火の車であった。

それを助けてくれたのは、義父の長姉の伯母さんであった。

義父の会社と同じ大阪に住んでいたことと、

開業医の奥さんとして比較的裕福で、さらに子供がいなかったから、

夫たちのお金がかかるときは、この伯母さんが援助してくれていたらしい。

私も結婚してからのち、ずいぶんよくしてもらった。

毎年、春、夏、秋、冬と、季節ごとにブランドの高級服を買ってくれた。

こんなにしてもらっていのかしらと思うくらいよくしてもらったと思う。

が、この伯母さんは、婚家を援助してくれていたこともあり、

義母のぜいたくにはうるさかったらしい。

伯母さん自身は、ごく質素に暮らされていたこともあって・・・。

それで義母は、この伯母さんを嫌っていた。

そして、この伯母さんにうるさく言われる原因は、
義父に甲斐性がないせいと思っていたのではなかっただろうか。

それで、私が里帰りするときなどに、茶の間などで私を異常に怒ったりしているのを

義父は隣の座敷で聞いていたはずだったが、何も言わなかった。

たぶん何も言えなかったと思う。

そのころの義母は、

この伯母さん以外には、だれにも何も言わせないくらいのこわさがあった。

私も義母のことが怖かったが、夫も怖かったらしい。

それで、夫も、若いころは、義母にはあまり反発できなかった。

それで、私は、義母には言いたいように、されたいようにされたが、

仕方なかったとも言える。

が、上記した通り、

義父の長姉の伯母さんは、私にとてもよくしてくれたし、

義父のすぐ上のお姉さんである伯母さんも、私には、すごくよくしてくれた。

義父のすぐ上のお姉さんは義父の実家に家族で暮らしていたが、

私たちが帰省すると高知の郷土料理をいっぱい作って待っていてくれたし、

私たちの子供のお守りまでしてくれた。

この伯母さんも私と同じく難聴でもあったから、よけい私のひいきをしてくれたのかもしれなかった。

義父の長姉の伯母さんのような経済的な援助ではなく、体を使った世話をしてくれた。

私は、どちらの伯母さんにも、感謝してもしきれなくらいよくしてもらった。

それから、義妹は義母と一緒になって私を虐めたが、義弟は昔も今も私に親切だ。

義父に似て根が優しいのだろう。

そんなことを思い出せば、

嫁いできても、決して悪いことばかりでもなかったことに気づく。

子は鎹であり、生きがいである

2018-10-23 08:02:42 | ブログ記事

私が結婚後、姑や義妹からいわれのない虐めを受けても離婚をせずに頑張れたのは、

子供がいたからである。

子供のために離婚は絶対してはいけないと思っていた。

片親になったあと、再婚すれば、子は余分になる。

中には、我が子でなくてもかわいがってくれる再婚相手もいるかもしれないが、

普通の人間は、わが子でない子はかわいくない。

男は、わが子でない子に飯を食わせたくないと思うだろうし、

女は自分の生んだ子でない子の世話はしたくない。

というのが、普通であろう。

さらに悪い男は、義理の娘に手を付けたりする。

それらは、テレビのニュースなどでも、いやというほど目にする。

そのたびに私は、離婚だけはしてはいけないと思ってきた。

が、子供たちも成長して、それぞれよい伴侶に恵まれ、子に恵まれれば、

もう親の私の出番はない。

子供が巣立っても、夫婦で仲良く暮らしていけるのなら、それはそれでよいだろう。

が、年とっても、外へ外へと刺激を求める人と一緒にいて、楽しいことはない。

妻が尽くしても、よその女性に現を抜かす人といて幸せだろうか。

いま思い出だせば、

子育てのさなかも、テニスに情熱を燃やしていた夫は、

あるときは、会社の若いきれいな女性を自分の車の助手席に乗せているのを見たこともある。

テニスのためにお迎えやお見送りをしていたのかもしれないが、

幼い子供たちを抱えた私は、それどころではなかった。

夜は夜で、別の会社のお気に入りの女性とダンスを習いに行ったりしていた時期もあった。

その女性のことを好きだった夫は、会社でもそのことが評判になったりもしたらしい。

一方の私は、今も昔も生活費しかもらわないから、外遊びなどできるはずもなかった。

私は子育てに必死だったから、見て見ぬふりをしてきた。

しかし、最近のように夫婦二人に戻ったら、夫がよその女性と出かけることは面白くないし、

文句の一つも言いたくなる。

これは文句を言う私が間違っているのだろうか?

ブログに書く私が間違っているのだろうか?

私がブログに書くことの仕返しをするかのように、

夫は難聴で電話のできない私の代わりに子供たちに電話をして私の悪口を言う。

掃除が行き届かないとかエトセトラ。

子供たちも内心困っていると思う。

しかし、私は書かずにはいられない。

自分の心を静まらせるために。

半分別居

2018-10-22 22:22:43 | ブログ記事
現在、私は「半分青い」でなく、

「半分別居」の状態です。

というのが、

夫は今年の5月から、

4月までは次男たちが暮らしていて現在は空き家になっている大阪のマンションに荷物を運んで、

週のうち数日をそこで過ごしているからです。

が、大阪のマンションに行くときは、たいがい私の作った料理をもっていきますので、

別に暮らしていても、別々に同じものを食べていたりします。

で、私は、夫が大阪に行っているときは、昼食の時間に家にいなくてもいいから、

最近のように、家探しをしたり、新しくできたバス路線の処女乗車をしたりしているのです。

そうしないと、昼間ひとりきりで家にいると、何となく落ち着かないのです。

雨の日とか、もっと寒くなれば、家にいるほうがよくなるかもしれませんが、

お天気がいいのに、たった一人だけで家にいると取り残された気分になるのです。

それで、せっせと出かけているという次第です。

またこんなことを暴露すると夫と喧嘩になるかもしれませんが、

今夜は、すでに喧嘩してしまいましたから書いています。

書かないと鬱になってしまいそうですから。

最近は、私の気持ちも比較的落ち着いていましたが、

今日、池田市の伏尾台の探索から帰ってきてから、

先日のツアーで夫にお土産に買ってきたマロングラッセが食べたくなって、
夕方、夫の仕事部屋に入って、勝手に一個もらいました。

そのとき、夫が同級生の女性と一緒に収まった比較的最近の写真が見つかりました。

その同級生は、私もよく知っている人なので、疑うわけではなかったのですが、

しかし、夫は、最近は、私を写すということも全くしないのに、

よその人とは、こんなふうに一緒に写されたりしているのかと、少し心がざわついたのです。

まもなく夫から、「今夜帰宅するから夕飯の支度を頼む」とメールが入りました。

やがて、夫は帰ってきました。

私は夫に昼間伏尾台に行った話をしようと話し始めましたが、夫は留守中にたまっていた書類に夢中で私の話は上の空でした。

私も、「まあ仕方ないかな」と思いましたが、

その後、夫はお風呂に入って、出てきてからも、私の話を聞こうとしません。

だんだん私は、昼間見た写真のことが気になってきました。

それで、

「あなたは、最近は私を撮ろうともしないけれど、よその女性とは一緒に写真に収まったりするのですか?」

と言ってしまいました。

夫は突然不機嫌になりました。

そして、

「こんなことを言われるから帰りたくなくなる。ブログにも書かれるし」

と言いました。

一方、私は、昨年の一連のことを思い出して、

「あなたが私にあんな不誠実はことをしなければ、私もブログに書いたりしません。

私は、あなたのように、外で憂さ晴らしができないから、いつまでも思い出すのです」

と言いました。

すると夫は、

「ブログに書くことをやめないのなら離婚だ」と言いました。

私は、

「本当のことを書いているだけです。書かれるのが嫌なら私を裏切ることはしないでください」

と言いました。

言いながら、私は心臓の動悸が激しくなって苦しくなったから、ベッドに横になりました。

一時間ほど横になると収まったので、私は一人で夕食を摂りましたが、

もう離婚になるのならなってもいいかなとも思います。

昨日は西の宝塚、今日は東の池田市へ

2018-10-22 14:17:14 | ブログ記事
きのうは宝塚との境にある川西市花屋敷のマンションを見に歩いて行ったが、

今日はバスで川西市の東隣の大阪府池田市の伏尾台というところに行った。

が、今日は住宅を見に行くのが目的ではなく、

この春、新しくできたJR川西池田駅から池田市の伏尾台まで行く路線に
処女乗車するためだった。

むかしは川西にバスターミナルがなかったから、

川西市内を走るバスは阪急池田駅前から出ていたようだが、

川西能勢口駅前が再開発されてバスターミナルができてからは、
川西、池田間を走るバスはなくなってしまっていた。

これはこれで、また不便でもあったから、私は今春からの川西、池田間を走るバスの復活を喜んでいる。

で、今日は遅れ馳せながら、その復活を祝って処女乗車をすることに。

自宅近くにも停留所があるが、私は、わざわざ始発の川西池田駅前に来た。

乗る前に写真を撮ろうと思っていたが、発車間際だったから撮れなかった。

やっと撮影できたのは、

川西市と池田市の間に架かっている呉服(くれは)橋を渡った最初の池田市西本町の停留所であった。


バスは、ここで右折れして阪急池田駅に向かうが、

昔は、ここを渡ったところからアーケードの商店街になっていた。

この商店街の中に、
浅野ゆう子さんがお母さん役で出ていた朝ドラ『てるてる家族』の舞台になった喫茶店があった。そう、歌手のいしだあゆみさんの実家である。

阪急池田駅前に来たが、駅が大きいので、全貌を写すことはできない。



阪急池田駅を出たら、バスは、すぐそばの駅前バスターミナルに長い時間止まった。



中橋、絹延橋、木部と阪神高速に沿ってバスは走る。


阪神高速空港線の終点は木部である。

木部を過ぎたら、中川原。


写真に写っている川は、猪名川ではなくて余野川であるらしい。

中川原を過ぎ、東山の次の赤い鉄橋の吉田橋を渡ったら、山に登っていく。

山と思っていたら、住宅地になっていて、川西市に負けないくらい多くの住宅が建っていた。

終点、伏尾台五丁目。


ただの住宅地で何もないところだった。

記念に道端に咲いていたコスモスを撮影。


それにしても、こんなに山奥とも思えるところまで開発されていることに驚いた。

これじゃ、ますます住宅が余るはずだ。

が、この住宅地の家々も、バブルのころは、1憶くらいしたかもしれない。

池田市の中心地が昔よりさびれていると思っていたら、こんなところに家が立て込んでいたのね、と思った。

川西池田駅からここまで約40分。

すぐまた来たバスに乗って帰ったが、今度は川西池田駅まではいかないで、

阪急池田駅で降ろされた。

が、いつも書いているように、

阪急池田駅と川西能勢口駅は歩けるくらいの距離だから、歩いて帰るのに問題はなかった。

が、私は、きのう花屋敷の坂道を歩いた疲れが残っていたのか、やっと歩いた。

情けない私。

*

★山奥と思ひし場所に住宅があまたありけり驚かされる

★旧市内さびれてきしと思ひしがこんなところにたくさんの家

★もしバスがなければいかにして帰る池田奥山伏尾台へは

★台のつく住宅地とは山奥の住宅地とぞ知りたりわれは

★伏尾台、鶯台に家あれば登山をせねば帰れぬ家族


日本は農業国に戻ったら?

2018-10-22 05:18:44 | ブログ記事
昨日の記事に、

中古のマンションが3000万と書くと、

読者の方は土地百坪つきの住宅を150万で売られたと。

いくら過疎地とはいっても、それは安すぎるのでは?

その一方、きのう見た中古のマンションの3000万は、あまりにも高すぎる。

どうして同じ日本の国内なのに、こういうふうなことになっちゃうのかしら?

政治が悪いのでは?

現在、どんどん移民を受け入れているらしいけれど、

大丈夫なのかしら?

オリンピックのために人手が必要というのなら、オリンピックなんてやめちゃえと思う。

だいたい今の日本にオリンピック開催のメリットなんか、そんなにないのでは?

オリンピックのために、平和が失われるようなら、そんなものは要らない。

どうせ得するのは一部の政治家だけでしょうから。

そのために、この瑞穂の国を売り渡したくない。

現在、日本で土地が、家が余っているのなら、元の農業国に戻ればいい。

農業といっても、
米や野菜を作るだけでなく、酪農も盛んにすれば、現代日本人の生活に合致する。

その一方でIT技術者とか科学者は残せばいいのだ。

とにかく、現在の都市集中を改めなければならない。

現在、あちこちで廃線になっている地方の鉄道を復活させることも視野に入れて。

*

★百坪の土地付き家が百五十万でマンション三千万で

★日本はどこか狂つてきてゐぬか無駄な五輪を誘致などして

★国民が幸福になることに寄与せぬ五輪など必要でなし

★過疎対策無策のままに放置する政治家たかい給料とりて

★役立たぬ政治家やめよやめて田舎で農業をせよ

★農業で国建て直す計画を立てよ役には立たぬ政治家

★景色よき地方の廃線やめるべしやめて復線せよ政治家は

★皇室も京都に戻し東京をただの都市へと戻せ政治家

★東京に人が集まりすぎるゆゑ過疎の過疎化がますます進む

★地方都市ちからをつけて地方こそ活性化して過疎なくすべし


今日も天気がよかったから、また散歩を兼ねて

2018-10-21 18:32:31 | ブログ記事
次男の住まいを探しに行っていた。

今回は、最初に見にいったのと同じ川西市内の花屋敷であったことと
比較的大規模な分譲マンションだったので、すぐに見つけることができた。

雲雀丘花屋敷駅からは徒歩6分。

前回の一戸建ての物件は徒歩3分だったから、少し(私的にはだいぶん)遠い。

が、その分、我が家のある川西能勢口駅には近いから一長一短である。

物件は南西の角部屋で3280万。

中古マンションにしては高いような気がするが、最近のマンション人気のせいだろうか?

それと比べれば、川西能勢口駅からバスで行かないといけないが、
鶯台の一戸建ての2180万は安いと思う。

来たついでに、北側からも撮影しておいた。


阪急雲雀丘花屋敷から徒歩6分だが、
この物件はJRも利用できるから、複合的に判断しないといけない。
JRの川西池田駅には坂道を徒歩10分も歩かないといけないけれど。

*

こうして私が探したところで、
息子夫婦やお嫁さんのご両親が賛成しなければ、ただの徒労になる。

が、季節はいいし、私の運動になるから、これはこれでいい。

冬になると、また家に閉じこもりきりになるから、
今の間に歩けるだけ歩いて体力の貯金をしておかなければ!


*

★むかしから家を見るのが好きなれば趣味で息子の家を探して

★坂道を登りていかねばならぬゆゑよき運動になる家探し

★高級な住宅地とぞ聞きにしが坂道多く汗かきのぼる

★運転のできぬ私は住めないと思(も)ひつつ登るこの住宅地

★駅の名は雲雀丘と花屋敷合はせてひばりがおかはなやしき

★マンションも安くはあらぬ雲雀丘花屋敷なりお屋敷街の

★庶民には暮らせぬ街と思ひつつ登りてをりぬ運動兼ねて

★まつさらでなきマンションの一室が三千万を超えるはいかが


柿の木

2018-10-21 05:53:37 | ブログ記事
私の実家は現在ビルになっているが、

私が子供のころは平屋の一戸建ての家であった。

祖父の家とは庭続きで、祖父の家のほうには立派な築山があったが、

我が家のほうの庭には柿の木とイチジクの木があった。

兄は、たしか小学校の2年か3年のときに、その柿の木のことを作文に書いて何かの賞をもらった。

私は、まだ幼稚園児か小学1年くらいだったけれど、母が喜んでいたことが記憶に残っている。

その作文の書きだしを少し覚えている。

「僕の家には柿の木があります。

いつのまにか、勝手にそこに生えていたそうです。

桃栗三年、柿八年と言いますから・・・」

というような書き出しだった。

今こうして書きながら、

小学2年か3年にしては上手すぎるような気もするが、

私が小学2年に上がるとき、その家をいったん引っ越したから間違いない。

母が喜んでいたのは、その家に住んでいたときの記憶だから。

なぜ、その家を引っ越したかというと、

私が小学1年のときに祖父が亡くなって、父の長兄が、その財産を独り占めしたから、

父が怒って引っ越したと聞いている。

だから、私のその家での記憶は、小学1年までしかない。

その後、その平屋の家はずっと近所の商家に貸していたけれど、

私が二十歳のときにビル(といっても小さなビル)に建て直して戻ってきた。

だから、その柿の木のこともイチジクの木のことも、兄の作文のことも忘れていたけれど、

昨日、ブロ友さんの子供のころに食べた柿の話を読ませてもらって、思い出が蘇った。

兄は作文が上手であっただけでなく、勉強もよくできた。

兄が小学6年のときに公務員だった父の転勤が決まって高松に引っ越すことになっていたが、

兄が、

「合格しても行かないから、受けるだけ受けさせて」と、

県下一の進学校だった土佐中の受験をしたがったので、受けるだけならと両親は受けさせた。

塾にも行っていなかった兄が合格するとは誰も思っていなかったから、合格した時、みな驚いた。

それでも約束通り、一家で高松に引っ越す予定だった。

が、

兄の6年のときの担任の先生の「もったいない」の一言で、兄だけ高知に残ることになった。

そのとき最初に下宿したのは、祖父の家、すなわち父の長兄の家だった。

仲たがいしていたとは言っても、そこはやはり兄弟である。

そして、さらにおかしいことは、

父の長兄は、自分の息子より、私の兄のほうを可愛がって、

下宿させてもらっている間は、兄だけ映画に連れていってもらったりしていたらしい。

伯父は、決して優しい人ではなかったが、
それでも、
親と離れて下宿している甥を慰めてやろうと映画に連れていってやったりしていたのだろうか?

思い出とは不思議なもので、

一つ思い出したら、芋づる的にいろいろ思い出される。

*

★イチジクと柿の木ありしふるさとの古い平屋を思ひだしたり

★イチジクの枝に座りてゐし兄と兄の作文おもひ出だして

★柿の木の作文書きて受賞せし兄の作文おぼえてゐるよ

★あのころは家族四人があの家に揃ひてゐたり平屋のあの家

★わが家の庭と祖父母の家の庭つづきてあちらこちらで遊びき

★いとこらと庭で遊びて外遊びせざりしわれら風呂も一緒に

★祖父母ゐてわれら姉妹のごとありしあのころのわれと従姉妹ら

★わんぱくな兄でありしが勉強もよくでき我は自慢でありき

★いぢめられやすきわたしが虐められ帰れば兄は家を飛び出し

★わが兄の姿みゆれば苛めつ子蜘蛛の子散らすやうに逃げゐき

聴覚障碍者に不妊手術を強制したことについて思うこと

2018-10-20 17:40:29 | ブログ記事
私の難聴が判明したのは中学2年のときであった。

いつから難聴になったのかは定かでない。

が、一応中高一貫校に通っていて、成績もそこそこ取っていたから、それまでは問題なかった。

が、中2のときの社会(歴史)の先生の声が聞き取りにくくて、
母に言うと母の友人のお連れ合いの経営する耳鼻科に連れていってくれた。

そこで難聴であることが判明した。

それ以前は、どうだったかというと、

少しは聞こえにくかったかもしれないが、

しかし、

子供のころは、いとこたちと一緒にラジオドラマなどを聞いていた記憶があるから、

難聴であったとしても、ごく軽かったと思う。

中学2年で、難聴らしいことがわかったので、

母が岡山大学の付属病院に検査に連れて行ってくれたのは、確か中学3年だったと記憶している。

岡山大学の医学部には親戚のおじさんが教授をしていたので、その伝手で行ったのだった。

そこで、難聴ということがはっきりして、

「生涯、これより悪くなることはあっても、治ることはありません」と宣告された。

私は、まだ半分子供だったから、それほど深刻に受け止めなかったが、

両親は、かなりショックを受けたようだった。

その後は、難聴のために苦労の連続であった。

大学進学のときも行きたい学科があったが、肝心の科目の授業がよく聞き取れなかったりしたから、
あきらめざるを得なかった。

その後、就職のときも、学科試験は合格したが、身体検査の聴力検査でひっかかって、

母と私は、父の友人であった人事部長に呼ばれて、

「まことに申し訳ないですが、聴覚に問題がありますので」と、やんわり断られそうになった。

が、ここで母が、「難聴でも働ける部署があるのでは?」と頑張ったため、合格してしまった。

その後、結婚適齢期になり、お見合いするのだが、

もらってくれようとする人には私の気に入った人がいなくて、難航した。

やっと23歳の終わりごろお見合いした夫と、お互いが気に入って結婚の運びになったが、

夫の母親は大反対だったらしい。

それで、結婚してからは、先日来書いている通り、いわれのない虐めを受けた。

その後、子供を産む度に、どんどん聴力は落ちて、

ついに33歳のときに障碍者手帳がもらえるまでになった。

が、私は障碍者手帳がもらえたことを、これ幸いと、

障碍者枠の就職試験を受けた。

34歳のときのことだった。

というのが、私のおおまかな障碍者歴であるが、

しかし、もし私が、もっと早い段階で障碍者手帳がもらえていたなら、

あるいは、

今回問題になっているような不妊手術を受けさせられたであろうか?

私は聴覚に障害があるが、

私の子供たちは三人とも特に問題はない。

優生保護法のもとに不妊手術を受けさせられていたとすれば、

私の子供三人は生まれていなかった。

なんと恐ろしい、悲しいことだろう。

強制的に不妊手術を受けさせられた方々の怒り、悲しみは察して余りある。

人として生まれて、子を持つことは、生きがいである。

子がいるから、つらいことがあっても頑張れるのである。

その子を産むことを取り上げられたら、何を楽しみに生きていけばよいのか。

世の中には、さまざまな楽しみがあることは知っている。

が、子を持つこと以外の生きがいはおまけである。

と、私は思う。

働くことも、もちろん生きがいになるが、

しかし、育てる子をもたずに、ただ働いても、ある意味むなしい。

人とは、そういう存在であると思う。

その意味では、

不妊手術を強制した政府は、いくら謝罪しても謝罪しきれるものではないと思う。

しかも、こういう事件のあったことが、遠い明治時代とかではなく、

ついこの間の昭和の時代であったことを知るにつけ、

人間の愚かしさを思わずにはいられない。

*

なにかの本で、女性は血の道に絡んで難聴が進むという記事を読んだことがあるが、

それが正しければ、

私の難聴の始まりは生理の始まりと軌を一にしているから、それが原因か遠因だったかもしれないし、

出産のたびに聴力がガクンと落ちたのも、そのせいだったかもしれない。

かてて加えて、私は心臓弁膜症でもあったから、それが主原因であったことも十分考えられる。

それから、最近、風疹が流行っているそうだが、

妊娠中に風疹にかかると、聴覚に障害のある子や、心臓に障害のある子が生まれやすいと聞くから、

ひょっとしたら、母が私を妊娠中に風疹にかかったかもしれないと思ったりもする。

ご参考→「風疹とは?大人で感染したときの症状と妊娠中への悪影響まとめ」


三世代同居は今の時代に合わない?

2018-10-20 09:50:32 | ブログ記事
昔は当たり前だった三世代同居の家は最近では稀なようだ。

三世代同居の悲劇は、昔は嫁いできたお嫁さんの専売特許であったが、

近年は、むしろ逆で、姑のほうが弱い立場であることも珍しくないようだ。

これは何が原因だろうか?

家制度がなくなって若い世代に年寄りを大事にするという意識が消えたことによるのかもしれない。

総じて経済的に豊かになって、
一緒に暮らさなくても若い夫婦だけでやっていけるようになったということもあるからだろうか。

で、何が言いたいかというと、

三世代同居は過去の悪しき家族の形のように思われたり、言われたりしているが、


本当に、そうだろうか?

これは私が姑の立場になったから思うことかもしれないが、

私は、三世代同居の利点もたくさんあると思う。

まず、家事に馴れていない若嫁さんは姑に家事のやり方を学べる。

子供ができても、子供のお守りがしてもらえる。

本格的な世話はしてもらえなくても、買い物に行くときなど置いていったりできるのは助かると思う。

孫にとっても、親世代より長く生きてきた祖父母は孫にも親世代より深い知恵を授けることができる。

「おばあちゃん子は三文やすい」などと祖父母に育てられた子を揶揄することわざがあるが、
決してそんなことはない。むしろ「三両くらい高い」かもしれないと思う。

私なども、父方の祖父母と庭続きで家は隣り合っていたから、日常的に祖父母に触れあっていたせいで、
今でも、祖父、祖母のしていた生活のもろもろが記憶にとどめられている。

生活の仕方には思想があるから、思想を受けついていると言えるかもしれない。

ただ祖父は私が小学1年のときに亡くなったので、かわいがってもらった記憶しかないから、
もっともっと長生きしてほしかった。

経済的にも核家族の食事より大勢の食事をいっぺんに作ったほうが一人分の食費は安く抑えられる。

何よりのメリットは、

子供世代が若いころは親世代に助けてもらえるが、

親世代が年取ってきたら、今度は子供世代に助けてもらえる。

病院通いなども、足腰が立たなくなったら、子世代に連れていってもらえたりする?

そのころは子供世代も、もう子育ての時期を過ぎているから親世代の世話ができるのである。

私自身が、そうだったから、私は義母の世話をさせてもらった。

また、そのころになると、孫たちもけっこう祖父母を助けることができるようになっているはずだ。

一緒に暮らしているほうが、孫の敬老の精神を養うにも好都合であると思う。

さらにさらに三世代同居がよいと思われることは、

近年多いといわれている老人世帯の限界的な貧乏が緩和されるのではないか。

昔は、子供を育てることは一種の保険であった。

すなわち、自分が老いたときに面倒を見てもらえるという拠り所であったのだ。

近年は年金制度ができて、その骨組みが瓦解しているが、

本来の親子関係はそうであったはずである。

三世代同居というと時代に逆行するようであるが、

しかし、私は、これは旧いようではあるが、やり方によっては一番新しいやり方ではないかと思う。

国が貧乏になってきている時代の一番合理的な新しい家族の在り方かもしれないと思ったりするのである。


若い人たちには年寄りのたわごとのように聞こえるかもしれないが、

なに、あと20~30年もすれば、若い世代も年寄りになるのだ。

因果は巡るで、若いころにしておけば、自分が年取ってからしてもらえる。

と、現在、すでに年寄りになった私は思う。

必ずしも我田引水からだけでもないと思っている。

祖父母と孫

2018-10-19 19:30:22 | ブログ記事
さきほどブロ友さんのブログを読ませていただくと、

ブロ友さんの子供のころの、そのお祖母さんとのことが書かれてあった。

なんでも、そのお祖母さんの剥いてくれる柿には、そのお祖母さんの使っていたハンドクリームのにおいがして、

ブロ友さんがキツイ調子で注意したとかいうことを書かれてあった。

思い出してみれば、私は、祖母にそんなキツイ言い方をしたことは一度もない。

母方の祖母が私を大事にしてくれていたことは事実だったが、

しかし、

このブロ友さんほどは祖母と私は親密ではなかったといえるかもしれない。

たぶん祖母のほうにも私に遠慮みたいなものがあったと思うし、

私も、ブロ友さんと比べれば、祖母に遠慮があったと思う。

父方の祖母のほうは、祖父の後妻さんで、義理であったせいもあって、もっと遠慮があったかもしれない。

当時は、義理だということを知らなかったが、こちらの祖母にもキツイ言い方をした記憶はない。

だから、今日、そのブロ友さんの記事を読ませてもらって、そんなに遠慮なく言える関係をうらやましくさえ思った。

それで気づいたが、

今年亡くなった母に対して、

兄の息子である甥は、母の生前、ずいぶんキツイ調子で母を怒ったりしていた。

母の実娘である私は、何もそんな言い方をしなくてもと思いながら見ることもあったが、

しかし、見方によれば、それだけ母と甥の関係は濃密だったのかもしれない。

私は、実子であることもあって、晩年の母のわがままに対して、ずいぶんキツク叱ったりしたものだったが、

甥は甥で、やはり祖母である母に遠慮がなかったから、ああいうキツイ口調になったのかもしれなかった。

母が亡くなったとき、この甥がその手で自らの涙をぬぐっているのを見た。

私は、「おや、あんなに私の母にキツイ言い方をしていたのに?」と訝しく思ったが、

母に一番かわいがられていた甥であったから、

心底悲しくて泣いたのだろう。

今日、ブロ友さんの記事を読ませてもらって、甥の気持ちがわかったような気がした。

さらに思い出してみれば、私の従弟が、その父親である私の叔父亡きあと、

私の祖父でもある、その祖父に、きつい調子で叱っていたことも思い出した。

私は、そのときは、年取っている祖父がかわいそうと思ったが、

今から考えてみれば、それだけ祖父と従弟の関係は濃かったのかもしれない。

勉強がよくできて医師になった従弟は、祖父の自慢の孫でもあったし・・・。

それから言えば、私と祖母の関係は、見方によれば、他人行儀であったといえるかもしれない。

祖父母と孫の関係は、はたからは窺い知れないものがあるように思った。

『馬上の男』を観て・・・西部劇についての考察

2018-10-19 12:42:35 | ブログ記事
西部劇とは、「女の奪い合い」劇かと思った。

もともと私は西部劇は好きでないので、あまり見なかったが、

たまたま観た、火曜日の『去り行く男』がよかったから、

水曜日の『ララミーから来た男』も観て、今日は、昨日木曜日に放映された『馬上の男』の録画も観た。

それで思ったのだが、西部劇って「女の奪い合い」の物語だったの?

偶然かもしれないけれど、三作とも、そのように思えた。

そうよね、アメリカって、もともとイギリスのピューリタンが移民してできた国だから、

建国当初は圧倒的に女性の数が少なかったから、必然的に、そういうことになったのでしょうね。

納得です。

それと同じ事情で、江戸も、徳川家康が都を作った当初は男ばかりで、

それで、吉原のような女衒ができたと聞いたことがあるし・・・。

アメリカは、そういうシステムがなかったのかしら?

たぶんあったでしょうが、

しかし、

やはり、自分の家庭を持ちたいと思ったら、

そういう商売上の女性でなく、

まともな女性の伴侶を求めるのが、男性の性なのでしょうね。

それで、まっとうな女性の奪い合いになった?

それにしても、西部劇の時代の女性は女らしいですね。

髪の毛はきれいにカーリングされているし、服装は、ズボンなど穿かずにロングスカートだし。

男性も、カウボーイの恰好って男性的ですね。

で、思うのだけど、

女らしい女は、男らしい男によって作られる。

逆も真なりで、

男らしい男は、女らしい女によって作られる。

なのでしょうね。

そういうことを考えていると、

最近のユニセックスの、男か女かわからない風潮は、どうなんでしょうね。

これは、時代の要請でしょうか?

それとも?

昔の西部劇は、私に、そんなことを考えさせてくれました。