400年以上昔に日本に来た蒙古族の足跡を推測している。
カナダホト🎪とは、その蒙古族らが集合的に宿営していた金田地区という集落に、その蒙古族らが定住されられ、そのまま今に至っているのではないか?と思われる
ホトというのはモンゴル語である。宿営地が集中化する所というニュアンスの意味である。
「ホト」という単語がモンゴル語なので、カネダという名前もそれに合わせるべく、モンゴル語化。発音の法則により「カネダ」から「カナダ」になってしまった💧申し訳ございませんでした。
カネディアンとは、カネダ地区に定住させられているのでそれからとり、カネディアンとする。チバリアンというネーミング法則と同じである。
カネディアンというのは和製英語のようなものなのでわざわざカナディアンにする必要がないためカネディアンのまま。
カナダホト🎪の場所が夏営地だとして、冬営地の候補がカナダホト🎪から20km-30kmの愛川町の山あい、山中の南斜面。10km-20kmの厚木市上荻野の山あい及びその周辺、山中の南斜面。5km-10kmの厚木市飯山の山あい及びその周辺、山中の南斜面。
その他にも冬営地の候補になり得る所が沢山あるのである。
伊勢原市や秦野市にもそういった、山脈の南麓の、冬の北西から吹く寒波を避けられる山あいが多数存在する。
以前の記事
「カネディアン宿営地1」
↓
カネディアンの宿営地について - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる
で書いたように、夏季は集合し春・秋・冬は分散するのであれば、彼らは夏以外の季節、これら丹沢山塊や近接する小山塊の山中や南麓で各々過ごし、夏季にはカナダホト🎪に集合し、秋にはまた冬営地へ向かって分散するのであろう。
厚木市の形は、水菜の葉の左半分のような特殊な形をしている。
水菜の葉を想像して頂くと、葉の右端が、大きな川に近い草地。葉の中央部が平原、葉の先の方が山あい。
左半分の形というのが重要な鍵で、北を上にしたとき、北西に山塊があるという事が遊牧にとってとても都合が良いのではないかと思える。
日本では「西高東低」の気圧配置を冬型と言われるが、これは遠く離れたモンゴルでも同じなのではないかと思う。北西から強く寒い風が吹く。
しかし実際には、夏営地というのはカナダホト🎪に限らず他にも夏営地があると考えられる。夏だからとカナダホト🎪に全員集合しなければならないという事はない。カナダホト🎪は集合化しやすい営地だったという事は考えられる。
しかし、あくまでカナダホト🎪は夏営地のひとつにすぎない。
「夏営地の必要条件も草と水であるが、家畜囲いは重要ではない。夏の草原は泉や融雪のような水源の近くに位置している。一般的に夏の放牧に冬営地を使用するのは好まれず、ほとんどの家族はこれを行わない。」
「牧民の話によると営地の場所は、水の状態によって変化し、昨年の場所が、今年は「水が悪い」つまり水の確保が難しいのだという。またここで言う水とは、主に家畜用の水である。
牧民は、雨が多ければ草生が良く、家畜に飲ませる水源と湖が増えるため、旱魃の夏よりも「良い夏」である、という認識を持っていた。」
「昨年の訪問箇所と数100メートルしか離れていない。地名は勿論“ドゥルブンホダグ”前年と全く同じ場所には設営しないものだ。とツェベグは述べていた。」
「アサルマーは隣県のノルドゴビ県の出身である。また、アサルマーは、夏営地の場所というのは大体決まっており、慣れた場所からあまり遠くへ出かけないものだ、と語った。」
《参照: モンゴル遊牧民の移動ルート選定の安定性-モンゴル国スフバートル県の事例- 尾崎孝宏》
スフバートル県オンゴン郡の牧民のホト構成員は家族世帯のゲルと、友人の家族世帯のゲルなど、近しい間柄である事が多いようである。
カネディアン牧民も多分、これと同じような感じで、現代よりもより氏族性が強かったのではないか?
しかし実際に自分は400年前のカネディアン牧民世帯から直接聞き取り調査をしたわけではないので、何も言えることはないが、歩きまわりながら妄想するのは面白い。
カナダホト🎪は親族、友人に限らず、色々な世帯が集合してしまって、近隣協働体:一時的な村落共同体のようになる傾向があったのか?
可なり大きい石堆型オボーが出来ていた事からそれが伺い知れる。カナダホト🎪のゲル数は可変であったと思われる。
カナダホト🎪に宿営しないカネディアンもいるというなんともややこしい。
カネ🌹ディアン🌹とは、チベット仏教とテングリ信仰を併せ持つ蒙古系遊牧民をさす。
このカテゴリーの人達はどこで動き回っていてもカネ🌹ディアン🌹という。
カネディアンとは、蒙古系遊牧民の後裔が定住させられている金田地区の名称から取った。いわば金田という名称のひとり歩きである。
「冬営地の最低必要条件は、高い山の南麓と川沿いの低地の近辺が最も満たしていたようである。(中略)ホトアイルは普通、そのような冬営地を幾つか持っており、それぞれに石囲いと糞の堆積がある。例えば、インフォーマント(情報提供者)の家族は寺の周り、1/2〜3マイルの距離に4、5箇所の冬営地を持っていた。同じ年に全ての営地が使用されるわけではないが、適当そうなものを選んで二つ使うことはしばしばある。」
《参照: モンゴル遊牧民の移動ルート選定の安定性-モンゴル国スフバートル県の事例- 尾崎孝宏》
カネディアンたちの冬営地の候補が、冒頭の丹沢の山中や、愛川町や厚木市上荻野、厚木市飯山、伊勢原市、秦野市…などの丹沢の南麓の山あいの川沿いの低地などが適しているのではないかと考えられる。
冒頭の水菜の葉の先の方に当たる。
ここにもみじクッキー🍁があります。先日KALDIで大量にあったから買った。めちゃめちゃ美味しかった😋から食べ終わったらまた買おう。
これを見て思った。冬営地&平原&夏営地の可視化のようだ。
葉の先が高い山の南麓の山あい。クッキーの葉脈に当たるものが、川。どまんなかの縦断する葉脈が相模川。CANADAの文字の左半分のAとNの下部と葉脈の間の三角地帯がカナダホト🎪
(左半分というのが鍵。右半分の草地を隈なく探したが遊牧遺構は今のところ見つかってない。)
正確にはこのクッキーのように線対称にはなっていないが、丹沢山塊の山あいには必ず川がある。このクッキーは丹沢界隈の牧地の可視化のように見えた。
これらの山あいは冬営地に非常に適しているという事を意味している。
このクッキーの地形は高低差が激しいわけではなく、平原である。このクッキーはカネディアンの為に作られたわけではないが、説明するに丁度良かった。
冬営地の可能性の高いこれらの地域で見つけたい“遊牧遺構”は“石囲い”
家畜を囲うために使ったであろうと思われる。
遊牧民宿営地探しをするに当たって、考慮に入れなければならないのが、水の問題。水の確保や水害の問題。
参考にするのは
・アキドチャンネル
アキドチャンネルは灌漑用水や上水道、水道管や逆サイフォンなどの遺構や水源をひたすら調べて実踏して解説するYouTube 動画。
このチャンネルとの出会いは上郷水管橋について調べた事がきっかけ。アキド氏は色んな所を歩き回って撮影してるので、視聴しながらこちらも遊牧民の生活の手掛かりを探している。水についてとても勉強になる。
2度目、3度目を見る時は遊牧目線で見るようにしている。
アキド氏が作った動画をカルガリーは遊牧目線で視聴する。
遊牧生活も、結局は水か!と気付かされた。
この動画は中の人の顔や声などは一切出て来ないが、動画中に現れるテロップの文体や影や使用する音楽など、アキド氏の人となりが分かりそうな気がするし、アキド氏の水そのものや、現存する土木建造物、土木遺構や田畑、かつての人の生活、ネコなどへの愛がアツい、なかなか刺さる動画である。
アキド氏は地蔵や祠や道祖神などがあれば気に留める。そういうものに敬意を持っている人なんだなとか思いながら、こちらもテングリ祭祀跡がないか探している。
自身もアキド氏に影響を受けているところもある。妄想が止まらないとか、解る。
調べて実踏していると、自分の妄想でも、そうにしか思えない。見えないという現象は解る。
アキド氏は念入りに調べてから歩くので歴史を考慮しながらの旅は色々見えて来るという事を言っており、感慨深い。
動画のオープニング曲が哀愁漂う。灌漑用水編の動画のオープニングは欧州の農民のダンスのような曲で、農民の生活の中での憂いや喜びが伝わってくるようだ。この選曲もアキド氏の意図が入っていると思う。
↓横須賀水道道5日目
この回ではカナダホト地区を通る。
自分のトラス橋についての過去記事で上郷水管橋について書いた。この動画の一文をそのまま使用させて頂きました。
動画を撮影した時のカナダホト地区の河原の散乱ゴミは綺麗に片付いていた。
カナダホト地区には、トラス橋の遺構がある。
ここがいわゆる蒙古系ディアスポラ集落だったと踏んでいる。
この集落にはテングリを祀るオボーの痕跡と、金田神社の中世に行われた祭祀に、ナーダムのような長距離競馬神事があった。
これはおそらく、オボー祭りの一部ではないかと踏んでいる。
金田という名称は、カネダと読もうがカナダと読もうが、中世以降の産鉄名称である。以前「産鉄と遊牧」という記事を書いた。
遊牧と産鉄は深い関わりがあるという事がよく解った。
オボー、ナーダム、産鉄地名。この3つを考慮するとどうしても蒙古系ディアスポラ集落だったと思わざるを得ない。
過去に自分は金田を「アルタンなんとか」というものだと確信していたが、どうやら「アルタンなんとか」は大清帝国(中国・清時代)以降に蒙古人の人名や地名に増えたと言われているらしい。
カネディアンが倭国に移り住んだのは400年以上前なので、まだ大清帝国支配以前である。
次は冬営地。なかなか実踏する機会が無くて。冬営地の可能性のある場所は遠い。
400年前のカネディアン牧民はどれぐらいの範囲で動いていたのだろう?
400年前の日本(倭国)は現在では考えられない程、広かったのだろう。
長文のご精読ありがとうございます。
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