先週は、縄文時代から脈脈と受け継がれてきた「和」の精神について書いた。
「和」の精神の根本とは「隣人に対する恐怖心」と結論づけた。
これは、日本人独特のものだと思う。
日本人のタテマエとホンネというのも「和」の精神の裏返しと言われるが、これも説明がつく。
タテマエでは「貴方に対して敵意はありませんよ」という友好的な態度で接するが、内心は、相手の悪口、罵詈雑言。そして、家族や親友や、職場の信用できる女子社員なんかにホンネの陰口を叩く。
これも直接相手とのトラブルを防止する為であるが、女子社員が背信したら喧嘩になる。
これも日本人独特なものである。
これは西洋人、東洋人、東南アジア人関係なく、外国人であれば、速攻ホンネを直に相手に、直接的表現で言ってしまう。外国人は、本当に敵意のない相手にはそこそこ友好的に接するが、敵意のある相手には直接敵意を剥き出しに接する。嫌いな人には挨拶をしない。無視するという事がザラである。心にもない挨拶をしたり、社交辞令を言ったり、お世辞を言ったり、相手に興味もないのにエレベーターの中でお天気の話をしたりはしない。
日本人、特に昭和前半世代の方は、自分から話し掛けなければ相手に対して失礼という感覚があるようなので、顔見知りでも何でも無い人間に対しても儀礼的に話し掛ける。「相手に対して失礼」という感覚も古今東西の外国人には存在しない。
(*外国人と一括りにしているが、個体差はある。)
外国人は、「日本人はハッタリをよくかます」と言うが、これも「和」の精神、相手に対する畏怖から来るのである。
そこらへんも「日本の常識、世界の非常識」である。中年日本人男性に、軽いエレベータートークをされた英語圏出身の女性ユーチューバーは驚いて、途中でエレベーターを降りてしまったというエピソードがあった。エレベータートークがセクハラに聞こえたらしい。ナンパされたような気がしてとても怖かったという。
自分が思うに、彼は英語圏女性(ガイジン)に個人的には何の興味も無かったと感じる。ただ、慣習的に「これから何処行くの?」と何の気なしに、挨拶程度に聞いてしまったのだと思われる。これは日本人にしか理解出来ないだろう。
(*個体差はある)
ガイジンは、ナンパぐらいにしか捉えない頭の中身である。日本文化の洗礼を受けましたね艸としか思えない。
これがもし若いイケメンだったらガイジンの女の態度も違っただろう。多分彼も貴女に興味も関心もないと思います。
日本人は実は外交上手なのかと思える。
しかしバブル崩壊以降、互いに「儀礼トーク」や「ハッタリといわれるトーク」がかませなくなってしまった。タテマエ、ホンネの日本人だったものが、変容してしまった。互いに疎遠になり何かにつけてプライバシー侵害だのハラスメントだの言うようになってしまった。そして、社内の人間との飲みニケーション的な交流も拒否するようになった。企業風土が、無味乾燥で、職場には仕事の為だけに来ている、個人情報を相手に聞いてはいけないというコンプライアンスが出来る。何かにつけて規則。古き良きアットホームな仲の良さは無くなった。
(*全体としての傾向という話で、企業文化による)
古き良き企業は、人脈の力で営業が上手く行っていた。しかし現在の令和日本では、人脈の力が企業に影響をあたえるという事はない世知辛い時代である。
現代人が大好きなハラスメントやプライバシーという言葉。
(*人による)
高校ときの英語の授業で、とても印象深かった内容がある。「プライバシー」という言葉は、ガソリンスタンドと同様に和製英語である。ネイティブ英語では「ガス・ステーション」という。
「ガソリンスタンド」という和製英語は、日本人だけが日本で使い、ネイティブが使う事はない。
しかし「プライバシー」という言葉は日本で生まれた和製英語だが、欧米に渡り現地では本来とは違う意味で使われ日本に逆輸入されてきた。
そういう語がいくつかあると言っていた。「フレンドリー」も和製英語で、欧米に渡り、これも本来と違った意味で現地で使われ日本に逆輸入された。「バウンダリー」という言葉も和製英語である。
先生はこの3つは元々「和」の精神と関わりが深いと言ってた。
「プライバシー」というのは、英語の「プライベート」という言葉を日本語化した。「プライバシー」の元々の日本語の意味は、「隠居」や「他人に邪魔されない生活」である。この概念を一語に表現したかった日本人は英語を借用し、この言葉を作った。
欧米でのプライバシーの捉え方は「個人情報」という限定的な意味で使われる。
「フレンドリー」は「フレンド」という言葉を日本語化した。日本語での本来の意味は「友好的」である。「貴方に敵意はありません」という態度を一語で表したかったのだろう。友好的という本来の意味がありながら、横文字化している。
欧米でのフレンドリーの捉え方は「気さくな」とか「誰とでも友達になる」という友達100人出来るかな?のようなニュアンスだ。欧米は過剰な競争社会で、成功者をはじめとする上流階級では、友達が多い事でマウントをとる。成功者は友達が多い事がステータスである。彼らは盛大な社交パーティーを開き、友達の多さを自慢する。
パーティー参加者は皆仲が良いわけではなく成功者の「友達」というサクラとして利用されている。まるで政治パーティーだ。いわゆる「サクラ」は高級食材などの餌に釣られて参加しているだけである。欧米人は日本人に比べてチョロいので、釣られやすい。雑魚欧米人(平民階級)はこじんまりとホームパーティーをする。
社交界文化(貴族文化)のある欧米諸国では、友達をたくさん作る必要性があるので、フレンドリーが、ズカズカと相手に踏み込み強引に友達になるようなニュアンスになる。どちらかというと「対人積極性」というニュアンス。欧米の貧富格差は凄ましい。しかし欧米人は総じて友達を作ることに「積極的」だ。
(*個体差はあるが、欧米ではそういう風潮がある)
日本の採用人事界隈では、ごく親しい知人が2〜3人いると言えば心象が良い。友達がたくさんいると言うと、八方美人で、信用がない人だという印象がある。更に「友達」という言葉が“マブダチ”のようで心象が悪いと感じる人もいる。
(*採用担当による)
元来日本には「友達」という概念が無かった。明治まで、横並びの社会が歴史上全く無く、幼い頃は横並びに付き合うが、一生付き合う事は少ない。「幼馴染」という概念はあるが、年をとり生活段階が進むにつれてその段階に合わせて関わる相手が変わる。そもそも日本には社交界文化がなく、家族や親族との関わりが主であった。武士も農民も職人も縦社会であった。身分制の他にも、武士は言うまでもないが、農民、職人にも一族毎にそれぞれ階級があった、商人以外の日本人は階級社会で暮らしていた。
日本は伝統的に横の繋がりが社会的に存在しなかった為、並列の人間関係が苦手である。学校のクラスなどで友達を作るのが下手糞とよく言われるのもそれに起因する。並列関係の同期(同級生)に警戒をし、互いに距離を置いてしまう。よく、部活に入らなきゃ友達出来ないと言われるが、部活は上下関係がある為、人間関係が構築しやすい。日本人は、自分の友人を「知人」と表現する人が多い。
(*個人差はある)
「友達」が少ない、或いはいない人の方が誠実な人間な気がする。この人は誠実で不器用だから友達が出来ないのだと思えて、とても魅力的である。自分と同類だと思えて好もしい。
(*完全に私見)
欧米では友達が出来ない人は馬鹿だし、口数が少ない人はつまらない人間だと見做される。
(*そういう風潮はある)
ある欧米人が言うには、日本人ほど単純に友達になりやすいのはいないという。日本人はNoとはっきり言わないし、英語で話しかけても無視をせず、誠実に答えてくれる。それに人当たりが優しい。欧米人が言うには、欧米人というのは日本人とは比べ物にならない程、気性が難しく、意地が悪いのだと言う。話し掛けても無視をする人はザラにいる。
(*あくまで欧米人個人の意見なので、信頼性は高くない)
日本人は、人に話しかけられる事は大好きである。
日本人が最も社交的だった時期は、開国からバブル崩壊までと言われている。「ハッタリトーク」が上手かった時期は長い長い日本の歴史の中でほんの一時期。崩壊後は、本来の日本人らしさに戻りつつある。
開国・文明開花で欧米の社交性が取り入れられ、そこに和の精神が融合、日本人は心にもないハッタリトークをするようになった。戦後アメリカの尻を追う。昭和中それは続いた。
しかし、バブル崩壊でダメージ。経済縮小に伴い内向き指向に。年を追う毎に欧米指向どころではなくなり、意識せずとも本来の日本人らしさを取り戻す。
今後もし、日本の経済が復興しても外向き指向(海外に目が向く)にはならないし、かつてのように欧米の尻を追う事はないと思う。インバウンドもそのうちいなくなってしまうし、移民の顔ぶれも変わる。
「バウンダリー」は「バウンド(縛られる)」という英語を日本語化した。「バウンダリー」の日本語での意味は、「境界」。これは物理的な「境界」ではなく、「目には見えないが、侵害してはいけない概念的な境界」である。
先記事の「和の精神」で触れた、縄文人の原初的な「和」の在り方の、「自他の線引き」に近い。
個人を尊重し、他を干渉しない。また、他から干渉されたくはない。という話を連想させられる。先記事の縄文の話は、アフリカのシャーマンが言った、まゆつばな話なので、本当のところは分からないが、「バウンダリー」という言葉がある事によって、この話が本当だったのかも知れないという裏付けになる。
ソーシャルワーカーによる、コミュニケーションと心の問題について書かれた記事↓
自分と他者を区別する境界線「バウンダリー」とは?ソーシャルワーカー鴻巣麻里香さんによる解説 | こここ
「バウンダリー」は対人支援専門職の間で飛び交う言葉だ。記者はエヴァンゲリオンの内容を専門的な目で解釈している。この記事も、「和」の精神とは「自分と他者との線引き」と言っているようである。非常に深い内容である。
「バウンダリー」という言葉も欧米に渡り、日本での「境界」の概念を削ぎ落とされ、物理的な「境界」のみという事で捉えられている。欧米人にはこのような深い日本人特有の心を理解出来るとは到底思えない。例を挙げれば、もみじ ブリティッシュ・コロンビア州 クートニー・バウンダリー地域。
《掲載:Wikipedia》
もみじの行政が、和製英語を使用しててとても面白い。ここは、アメリカとの国境に接している。国境を指して「バウンダリー」と言っていると考えられるが、国境の訳はボーダー(Border)である。何故ボーダーではなくバウンダリーなのか謎である。よく読めば「バウンダリー“地域”」という。バウンダリーというのは固有名詞の地名ではなく、市とか町というような行政区分のようにも見える。“クートニー”というのが固有名詞の地名だと思う。行政区分で“境界地域“とはどういう事だろう。国境だから境界なのか?別の意図があるのか分からない。もみじの幹部は日本的な、侵害してはならないという概念的な“境界”という意図ではないと思うので、物理的な“境界”だと思う。クートニーという広範囲に渡る地域があり、アメリカともみじに国境で分断。クートニーという地名の地域の国境側の地域という事だと思う。アメリカ側にも同じものがあると思う。
国境。
国境とは「和」の精神の極みだと思った。海に囲まれ国境を持たない日本人とは相反するが、縄文人は、氏族が国のようなものだったのかも知れない。他人に対しては個々人が概念的な国境を持ち、つまり侵害してはならない目には見えない境界を持ち、各氏族が国のような責任を持って生きていたのではないかと考えられた。他氏族との力関係や均衡を考えながら活動し、交渉していたのではないのかと考えられた。各氏族は、大戦に発展しないように外交努力をしていたのではないかと考えられる。
縄文の平和はただ与えられたのではなく、自ら築いていったのだろう。
縄文人の親が子供に責任というものを叩き込むのも、氏族、つまり国の幹部のようなものの一員として責任を持てという教育だったのかも知れない。
アフリカのシャーマンの言ってた事だから実際どうか知らんけど、嘘でも本当でも凄い話だ。
因みに「フレネミー」という言葉も和製英語で、これはまだ日本でしか使われていない。表面的に友好的に見えるがホンネは敵意を持つ人を指す。その逆もあり、競争相手であるが、協力関係もあるという意味もある。
長文のご精読、ありがとうございます😭
もみじブリティッシュ・コロンビア州 クートニー・バウンダリー地域については、もみじ、トレイル市が自分の居所である相模原市のかつての友好都市だったので、検索した。
バウンダリーという名前が出てきた。
これはトンデモな説だが、バスク人やケルト人も縄文人の一部だという説がある。氷河期より前の太古の昔、バスク人、ケルト人の祖はユーラシア大陸の広範囲に渡って居住していた。氷河期に大陸と日本が地続きになり、日本に渡った。その後孫の一部が日本に存在しているという。バスク人、ケルト人の祖は、西洋人ではなく、彫りが深く毛深いアジア人である、古モンゴロイドで、赤毛だったと言われている。ハプログループYアダムR1bタイプがこれに該当。日本人の約2%がこれに属している。西アジア中心に拡散したというが、西ヨーロッパと南ヨーロッパに顕著に分布している系統であり、バスク人やケルト人に80%以上の高頻度で見られる。
大航海時代以降の人の流動に伴って南北アメリカ大陸やオーストラリアにも分布を拡大した。
またバシキール人にも86%の高頻度である。
高頻度民族・地域は西ヨーロッパ、アルメニア、カメルーン、バシコルトスタン、北米東北部等。
また、R1b 系統は赤毛遺伝子とも言われるように、バスク人、ケルト人、バシキール人に赤毛頻度が多く、血液型Rh-遺伝子であるとも言われている。日本人に少ないRh-の人は、赤毛の縄文人(古モンゴロイド)の後裔である可能性が非常に高い。東北地方には、赤毛が多いと言われているが、この影響もあるのかも知れない。
《Wikipedia一部抜粋》
その為、一時は「日英同祖論」などというものが流行った。英国人(ブリテン島)には、バスク人、ケルト人に由来のある人が多くを占めているため、日本人と遺伝子が近いのではないか?というトンデモ説が流行った。しかし日ユダヤ同祖論の方が沸いた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます