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前回は倭国大乱から卑弥呼の登場するところまでおはなししましたが、初めての方は、そんな馬鹿な!魏志倭人伝にはそんな風に書かれていない!卑弥呼はそんなところに居るはずない!とそっぽ向かれた方も居たと思いますが、申し訳ありません(^^;)
「日本の古代史が謎な理由?」で述べましたが、文献に書かれたことと、事実、つまり考古学や民俗学などの成果とが合致しないから謎が存在するわけです。事実に基づいて文献を正しく解釈するのが、万人が理解できる科学的な手法ということですのでご理解くださいネ!それでは、この先に進めましょう。お付き合いください( ^)o(^ )
狗奴国王卑弥弓呼は、正しくは比古御子(ひこみこ)という名前だと思いますので、偉大な大王の子孫(御子)という名前の男(比古)の王という意味です。その大王とは、前回見たスサノヲの王子イタケルと同様に奴国を脱出したスサノヲの弟で、両親はスサノヲと同じと推理しました。父は第17代奴国王伊弉諾尊(イザナギノミコト)です。母はムナカタ族の姫イザナミですから、恨みのある師升一族の倭国に交易に出かける裏切り者たちを集めて繁栄している吉備の勢力を、ムナカタ族の支援を受けて討ったニギハヤヒです(記紀では鬼退治をした吉備津彦としている)。記紀の国生み神話で大八洲のひとつの吉備子洲(児島)の周辺地域は当時は海でしたので吉備穴海と呼ばれ、重要な海洋交通路でした。汐待ちなどで人々が集まり、交易も行われる港町ですので、ニギハヤヒが吉備を抑えたことで隆盛となりました。吉備で奴国を再興し、ヤマト王権の基礎を築いた大王なので、王年代紀で第19代王天照大神尊とされ倉敷市楯築遺跡に葬られたと推理しました。物部氏の歴史書「先代旧事本紀」では物部氏と尾張氏の祖神「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)」とあり、その子孫らは畿内や東海などに勢力を伸ばしました。今上天皇はニギハヤヒ大王の子孫だと推理しています(「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。
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古代吉備の推定海岸線 - 弥生中期~古墳期を想定 -(☆岡山 古代吉備の地勢復元 より)
したがって、邪馬台国連合倭国が成立したことで半島南部の鉄まで倭国に奪われたニギハヤヒ大王の子孫の狗奴国王卑弥弓呼(比古御子、記紀の開化天皇)は衰退の危機を乗り切るために、前回述べたとおり、各地の旧奴国の勢力を呼び集めて邪馬台国連合倭国に対抗するために、三世紀初頭より築造した、祭祀に特化した纏向遺跡に王都を遷したと推理しました。築造に直接携わり、食料などを供給したのは狗古智卑狗配下の縄文系の人々の大集落唐古・鍵遺跡などの人々でしょう。纏向遺跡の大型建物の中では各地から集まった首長クラスの人々と連日、祈祷と軍議を行った様子が大量に出土した桃の種からも想像できます。
景初二年(238年)8月魏の太尉司馬懿によって、公孫淵が遼東で建てた燕国の都襄平が落とされました。降伏を申し出たにもかかわらず公孫淵と王族・部下三千名の首を撥ね、15歳以上の男子を皆殺しにして死体を高く盛り上げた「京観(けいかん)」を築きました。公孫氏敗北の報告を受けた明帝曹叡は楽浪郡と帯方郡を部下に占領させました。明帝が12月、若い跡継ぎの少帝曹芳の後見役を司馬懿に任せて崩御しました。司馬懿は部下の劉夏を帯方郡太守として派遣し、倭国に朝貢させるように指示しました。倭国王難升米は公孫氏に朝貢していたから、残虐な魏軍に討たれることを怖れていました。翌年6月に、劉夏から朝貢するように促され、早速自ら帯方郡に出向きました。明帝の喪が明けるまでの約半年、帯方郡に滞在し、司馬懿の功績を持ち上げるための談合を劉夏と行ったと推理しました。
魏の最大のライバルの呉を東方海上から圧迫する戦略的に重要な位置にある七万戸の大集落が女王の都邪馬台国だとしました。遠い大国に朝貢させるのは皇帝の徳の高さを示すものであり、戦略的に最重要な位置にある倭国を朝貢させた司馬懿は魏最大の功労者として朝廷の実権を握ることに成功しました。最終的に、司馬一族が西晋を興したので、「晋書」でも東夷を朝貢させたのは西晋宣帝と諡号を贈られた司馬懿の功績だとされています。魏の朝廷の人々の注目を集めるために、倭国が鬼道によって女王に統治されているエキゾチックな東夷の大国としたのです。難升米が帯方郡に滞在していた間に、司馬懿は尚書省を抑え、卑弥呼の朝貢を絶賛した詔勅を書かせたので、西晋の史官陳寿はこの詔勅をほぼ全文記載するという異例な内容にしています。さらに、意図的に西域伝を省いたことなどからも、陳寿は司馬懿を称揚するために「魏志倭人伝」を書いたのだと分かります。これが「三国志」を編纂した大きな目的だったのです(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社1994,pp.16-25)。
このようにイチキシマヒメ卑弥呼は、実際は倭国を統治する女王ではなく、前回見たようにムナカタ海人族赤坂比古(和邇氏の祖)の姫巫女です。政治的な理由で倭国女王にする必要があったのですから吉野ヶ里遺跡のような大規模な集落ではなく、要害堅固な山城だった宇佐市安心院町宮ノ原遺跡を居城としていたと推理しました。女王の都の邪馬台国までの行程記事も政治的な理由で作られたものなのです。倭国の地名・人名などは、孟子を読む教養人の難升米が書いて教えたものだったことは、回土国(ウィトコク)を深い意味のある伊都国と書いてあることから分かりました。魏の役人が書けるような国名ではないのです。邪馬台国というのは、前回述べた野麻国(ヤマコク)に住む女王の都という意味なのです。(「景初三年問題が謎を解く鍵でした!」、「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。
ということで従来から魏志倭人伝にある行程記事を解釈して邪馬台国の位置を決めたとしても、21世紀になっても万人が納得する場所が定まらなかったのです。ですから、考古学や民俗学などの成果である事実を基にして邪馬台国の場所を推理することにより、難升米が政治的な理由で作った邪馬台国への行程記事のトリックも解けました(「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」、「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。
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(つづく)
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通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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「日本の古代史が謎な理由?」で述べましたが、文献に書かれたことと、事実、つまり考古学や民俗学などの成果とが合致しないから謎が存在するわけです。事実に基づいて文献を正しく解釈するのが、万人が理解できる科学的な手法ということですのでご理解くださいネ!それでは、この先に進めましょう。お付き合いください( ^)o(^ )
狗奴国王卑弥弓呼は、正しくは比古御子(ひこみこ)という名前だと思いますので、偉大な大王の子孫(御子)という名前の男(比古)の王という意味です。その大王とは、前回見たスサノヲの王子イタケルと同様に奴国を脱出したスサノヲの弟で、両親はスサノヲと同じと推理しました。父は第17代奴国王伊弉諾尊(イザナギノミコト)です。母はムナカタ族の姫イザナミですから、恨みのある師升一族の倭国に交易に出かける裏切り者たちを集めて繁栄している吉備の勢力を、ムナカタ族の支援を受けて討ったニギハヤヒです(記紀では鬼退治をした吉備津彦としている)。記紀の国生み神話で大八洲のひとつの吉備子洲(児島)の周辺地域は当時は海でしたので吉備穴海と呼ばれ、重要な海洋交通路でした。汐待ちなどで人々が集まり、交易も行われる港町ですので、ニギハヤヒが吉備を抑えたことで隆盛となりました。吉備で奴国を再興し、ヤマト王権の基礎を築いた大王なので、王年代紀で第19代王天照大神尊とされ倉敷市楯築遺跡に葬られたと推理しました。物部氏の歴史書「先代旧事本紀」では物部氏と尾張氏の祖神「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)」とあり、その子孫らは畿内や東海などに勢力を伸ばしました。今上天皇はニギハヤヒ大王の子孫だと推理しています(「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。
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古代吉備の推定海岸線 - 弥生中期~古墳期を想定 -(☆岡山 古代吉備の地勢復元 より)
したがって、邪馬台国連合倭国が成立したことで半島南部の鉄まで倭国に奪われたニギハヤヒ大王の子孫の狗奴国王卑弥弓呼(比古御子、記紀の開化天皇)は衰退の危機を乗り切るために、前回述べたとおり、各地の旧奴国の勢力を呼び集めて邪馬台国連合倭国に対抗するために、三世紀初頭より築造した、祭祀に特化した纏向遺跡に王都を遷したと推理しました。築造に直接携わり、食料などを供給したのは狗古智卑狗配下の縄文系の人々の大集落唐古・鍵遺跡などの人々でしょう。纏向遺跡の大型建物の中では各地から集まった首長クラスの人々と連日、祈祷と軍議を行った様子が大量に出土した桃の種からも想像できます。
景初二年(238年)8月魏の太尉司馬懿によって、公孫淵が遼東で建てた燕国の都襄平が落とされました。降伏を申し出たにもかかわらず公孫淵と王族・部下三千名の首を撥ね、15歳以上の男子を皆殺しにして死体を高く盛り上げた「京観(けいかん)」を築きました。公孫氏敗北の報告を受けた明帝曹叡は楽浪郡と帯方郡を部下に占領させました。明帝が12月、若い跡継ぎの少帝曹芳の後見役を司馬懿に任せて崩御しました。司馬懿は部下の劉夏を帯方郡太守として派遣し、倭国に朝貢させるように指示しました。倭国王難升米は公孫氏に朝貢していたから、残虐な魏軍に討たれることを怖れていました。翌年6月に、劉夏から朝貢するように促され、早速自ら帯方郡に出向きました。明帝の喪が明けるまでの約半年、帯方郡に滞在し、司馬懿の功績を持ち上げるための談合を劉夏と行ったと推理しました。
魏の最大のライバルの呉を東方海上から圧迫する戦略的に重要な位置にある七万戸の大集落が女王の都邪馬台国だとしました。遠い大国に朝貢させるのは皇帝の徳の高さを示すものであり、戦略的に最重要な位置にある倭国を朝貢させた司馬懿は魏最大の功労者として朝廷の実権を握ることに成功しました。最終的に、司馬一族が西晋を興したので、「晋書」でも東夷を朝貢させたのは西晋宣帝と諡号を贈られた司馬懿の功績だとされています。魏の朝廷の人々の注目を集めるために、倭国が鬼道によって女王に統治されているエキゾチックな東夷の大国としたのです。難升米が帯方郡に滞在していた間に、司馬懿は尚書省を抑え、卑弥呼の朝貢を絶賛した詔勅を書かせたので、西晋の史官陳寿はこの詔勅をほぼ全文記載するという異例な内容にしています。さらに、意図的に西域伝を省いたことなどからも、陳寿は司馬懿を称揚するために「魏志倭人伝」を書いたのだと分かります。これが「三国志」を編纂した大きな目的だったのです(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社1994,pp.16-25)。
このようにイチキシマヒメ卑弥呼は、実際は倭国を統治する女王ではなく、前回見たようにムナカタ海人族赤坂比古(和邇氏の祖)の姫巫女です。政治的な理由で倭国女王にする必要があったのですから吉野ヶ里遺跡のような大規模な集落ではなく、要害堅固な山城だった宇佐市安心院町宮ノ原遺跡を居城としていたと推理しました。女王の都の邪馬台国までの行程記事も政治的な理由で作られたものなのです。倭国の地名・人名などは、孟子を読む教養人の難升米が書いて教えたものだったことは、回土国(ウィトコク)を深い意味のある伊都国と書いてあることから分かりました。魏の役人が書けるような国名ではないのです。邪馬台国というのは、前回述べた野麻国(ヤマコク)に住む女王の都という意味なのです。(「景初三年問題が謎を解く鍵でした!」、「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。
ということで従来から魏志倭人伝にある行程記事を解釈して邪馬台国の位置を決めたとしても、21世紀になっても万人が納得する場所が定まらなかったのです。ですから、考古学や民俗学などの成果である事実を基にして邪馬台国の場所を推理することにより、難升米が政治的な理由で作った邪馬台国への行程記事のトリックも解けました(「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」、「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。
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(つづく)
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通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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