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「日本書紀」に、初代天皇は、日向から東征して紀元前六百六十年に橿原神宮で即位したイワレヒコ(神武天皇)としています。イワレヒコは最初は生駒山を越えてヤマトに進軍したのですが、ナガスネヒコに撃退されたので、紀伊半島南端を迂回して熊野に上陸しました。ヤタガラスに導かれてヤマトの東側から攻めようとしましたが、敵の大軍に進軍を阻まれたので、お告げによって天香久山の土で皿を作り、天神地祇を祀って祈ったので、賊たちを討つことができました。最後にナガスネヒコと決戦することになりましたが、そこに、すでに高天原からヤマトの地に降臨していた天神の子ニギハヤヒが義理の兄であるはずのナガスネヒコを討ったので、ようやくイワレヒコがヤマトを支配できたという現実離れした話になっています。神武天皇は武力だけで征服したわけではなく、苦難の末に神の力によってヤマトを手に入れたということです。

(月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画。Wiki「神武東征」より)
似たような話が「日本書紀」神功皇后紀にもあります。神功皇后が三韓征伐の後に九州に戻ってホムタワケを生みました。ヤマト入りをしようとしたところ、すでに崩御している仲哀天皇の二人の皇子麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)が反乱を起こしました。長男の麛坂王は反乱の成否を占ったところ突然現れたイノシシに食い殺されてしまいました。神功皇后は天照大神に祈り進撃したので、次男の忍熊王は撤退し、宇治に陣を布き待ち構えていました。そこで、皇后軍を率いる武内宿禰らは計略を立て和睦を申し出ました。それに応じて武器を捨てた忍熊王をだまし討ちし、ヤマトに入ってホムダワケを即位させたというのが、第十五代応神天皇の東征神話です。

(「御誂座敷幟ノ内 神功皇后と武内大臣」歌川国貞画 ヴィクトリア&アルバート博物館蔵 wiki「神功皇后」より)
神武天皇も応神天皇もヤマト入りして即位する話はあり得ないようなものです。また、どちらも呪力によって戦闘に勝利したとのことですが、どちらの時代にもヤマトで集団戦の証拠は見られませんので、そのような神話は史実ではありません。
すでに(その5)・(その6)で見たとおり、三世紀後半(270年頃)尾張王建稲種命が九州遠征して大国主・台与らを討ち、さらに纏向遺跡に戻った建稲種命らが率いた狗奴国勢が大国主傘下の地方を平定して、卑弥弓呼大王(記紀の第十代崇神天皇)が日本列島を統一し、ヤマト王権が成立したのが史実だと考古学の成果から分かりました。
「日本書紀」では応神天皇の父とされる仲哀天皇は、その父とされたヤマトタケルが薨去して38年後に生まれた計算になるので、ヤマトタケルも仲哀天皇も史実を誤魔化すために創作された架空の皇子・天皇なのです(注1)。ですから実在人物の応神天皇の父でもありません。仲哀天皇は香椎宮で神功皇后が神憑りして告げた住吉大神の神託に背いたために突然崩御したとあります。卑弥呼の死後に男王に立った尾張王乎止与命(おとよのみこと)が、それに不服だったムナカタ海人族を率いる大国主によって討たれた史実から仲哀天皇が創作されたと推理しました。大国主たちへの父の仇討ちのために、尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮の祭神)が大国主らを討った事件が、記紀で仲哀天皇の祖父であるはずの景行天皇の九州遠征のモデルとなった史実だったのです。
このころ東アジアで大きな事件がありました。280年に呉が西晋によって滅ぼされ、すでに蜀も滅ぼされていたので、三国志の時代が終わり、西晋によって統一されたのです。長江下流の呉の人々は、元々同族である江南の倭人を頼りにして日本列島に落ち延びてきたと思われます。纏向遺跡の狗奴国の人々は西晋が三国を統一した情報を知り、西晋に朝貢していた女王台与の倭国を狗奴国が滅ぼしたので、次に西晋に滅ぼされることを皆が怖れ、動揺したのだと推理できます。三角縁神獣鏡はこの頃の呉の職人が造ったものだと考えています。ですからこの鏡は景初三年に魏から賜った卑弥呼の鏡ではないのです。景初三年などの年号のある三角縁神獣鏡が見つかっていますが、卑弥弓呼大王(崇神天皇)がヤマトで作らせたものと考えると、実在しない景初四年銘の鏡(広峯15号墳出土の斜縁盤龍鏡)が出土した謎も解けます(^_-)-☆
上の話は「日本書紀」崇神天皇紀に大己貴神(おおなむち、大国主の別名)の和魂(にきみたま)大物主大神の祟りがあって民が半数以上亡くなくなったという話に対応します。大神の神託が、子のオオタタネコ(「日本書紀」の大田田根子、「古事記」では意富多多泥古命)に自分を祀らせれば収まるということなので、オオタタネコを探し出して祀らせたという記事が応神天皇即位の史実を表していると分かりました(関裕二「神武東征の謎」PHP文庫、2003、pp.216-249)。その後の大和朝廷が大国主と台与らの祟りを最も畏れていることが分かりますから、これは妥当な推論だと思います(「本当は怖い七福神の謎」参照)。
三世紀末から四世紀初頭に桜井市鳥見(とみ)山北山麓の小尾根の先端を切断して造られた、全長200mの巨大前方後円墳茶臼山古墳があります。百面以上の銅鏡や玉類、剣や刀などの武器類に加えて、玉杖(ぎょくじょう)などの豪華な副葬品が見られます。ここの地名は外山と書いて「とび」と呼ばれていますが「へび」の別称なのです(富来隆「卑弥呼」学生社1970, pp.68-112、「大国主はトビヘビだった」参照)。つまり蛇神大物主大神である大国主を示唆しています。上記のナガスネヒコは「古事記」では登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とされており、勿論、トミもヘビのことですから、「古事記」は例によってその正体を暴露しているのです(「日本の古代史が謎な理由?」参照)。ニギハヤヒ大王(先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命、王年代紀第19代王天照大神尊で倉敷市楯築王墓の被葬者、記紀の吉備津彦)の子孫尾張王に討たれた大国主久々遅彦の史実を表していたのです。大国主の祟りによってヤマトの初代祭祀王の応神天皇が即位したことを示唆していたのです。最初の神武天皇の図で、イワレヒコの弓に止まっている金色のトビも、鳥見山も鳥ですが大国主のことを表しています。鳥見山(とみやま)の山麓に鎮座する宗像神社は卑弥呼を祀っていますが、ムナカタ海人族を束ねる大国主久々遅彦のいとこなので、鎮魂の意味もあると思います。卑弥呼の墓「三柱山古墳」の遥拝所の摂社のひとつ、大国主を祀る金毘羅宮と同じ意味でしょう(「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)。
纏向遺跡の最大の前方後円墳の箸墓は、邪馬台国畿内説で卑弥呼の墓とされていますが、畿内説は考古学の成果から間違いと分かります(「【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!」・「【検証11】定説の根拠を疑え」参照)。箸墓について「日本書紀」は第7代孝霊天皇の皇女で大物主大神の妻倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓としていますので、大国主の妃で、記紀で神功皇后とされた女王台与が被葬者だと明記されているのです。ヤマトとトビを何度も何度も唱える姫という名前なのですから、大国主(トビ)にたった13歳で女王にされ、最後はヤマトに殺された可哀そうなお姫様という意味の名前なのです(「箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?」参照)。
上で述べたように、(その5)・(その6)で説明した「日本書紀」の崇神天皇十年の四道将軍派遣から応神天皇が即位するまでの約350年間の話は270年頃の史実を誤魔化すために創作された話だったのです。大国主と女王台与は討たれてそれぞれ、久留米市祇園山古墳と糸島市平原王墓に葬られましたが、狗奴国卑弥弓呼大王崇神天皇が桜井市で茶臼山古墳と箸墓古墳でそれぞれ改葬して鎮魂を行ったのです。二人の子の応神天皇を最初のヤマトの祭祀王=初代天皇としたということなのです(^_-)-☆

神武天皇から41代持統天皇までの漢風諡号は八世紀の淡海三船(おうみのみふね、天智天皇の子孫)が撰進したとされていますが、「神」の名のつく天皇・皇后は神武天皇・崇神天皇・神功皇后・応神天皇の四人だけです。三船は日本建国の史実を知っていて「神」をあてたと考えられます。応神天皇と神功皇后は宇佐神宮をはじめ全国で4万社以上ある八幡神社などで祀られていますが、記紀で皇祖神とされた女神アマテラスを祭神とする神社や初代天皇とされた神武天皇を祀る神社の数と比べれば、圧倒的に上回ります。伊勢神宮へは持統天皇から先、明治になるまで、天皇はどなたも参拝されていないとのことです(「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)・(その2)」)。神武天皇の墓は江戸時代に無理に比定されたと聞く、全く信ぴょう性のないものです。記紀神話は実は、日本民族の古来からの伝承ではなく、江戸時代になって作られた新しいものだったのです。それでは、なぜこのような誤魔化しをしなければならなかったのか?その理由についても推理しています。この後でゆっくりとご説明しますのでまたお付き合いください(^_-)-☆
(注1)日本書紀に仲哀天皇は成務天皇48年に数え31歳で皇太子になったとありますので成務天皇18年が生年となります。しかし、仲哀天皇の父の日本武尊(ヤマトタケル)は景行天皇40年に薨去しており、景行天皇60年に崩御され、1年後に成務天皇が即位していますので、仲哀天皇は日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になります。
(つづく)



通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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「日本書紀」に、初代天皇は、日向から東征して紀元前六百六十年に橿原神宮で即位したイワレヒコ(神武天皇)としています。イワレヒコは最初は生駒山を越えてヤマトに進軍したのですが、ナガスネヒコに撃退されたので、紀伊半島南端を迂回して熊野に上陸しました。ヤタガラスに導かれてヤマトの東側から攻めようとしましたが、敵の大軍に進軍を阻まれたので、お告げによって天香久山の土で皿を作り、天神地祇を祀って祈ったので、賊たちを討つことができました。最後にナガスネヒコと決戦することになりましたが、そこに、すでに高天原からヤマトの地に降臨していた天神の子ニギハヤヒが義理の兄であるはずのナガスネヒコを討ったので、ようやくイワレヒコがヤマトを支配できたという現実離れした話になっています。神武天皇は武力だけで征服したわけではなく、苦難の末に神の力によってヤマトを手に入れたということです。

(月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画。Wiki「神武東征」より)
似たような話が「日本書紀」神功皇后紀にもあります。神功皇后が三韓征伐の後に九州に戻ってホムタワケを生みました。ヤマト入りをしようとしたところ、すでに崩御している仲哀天皇の二人の皇子麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)が反乱を起こしました。長男の麛坂王は反乱の成否を占ったところ突然現れたイノシシに食い殺されてしまいました。神功皇后は天照大神に祈り進撃したので、次男の忍熊王は撤退し、宇治に陣を布き待ち構えていました。そこで、皇后軍を率いる武内宿禰らは計略を立て和睦を申し出ました。それに応じて武器を捨てた忍熊王をだまし討ちし、ヤマトに入ってホムダワケを即位させたというのが、第十五代応神天皇の東征神話です。

(「御誂座敷幟ノ内 神功皇后と武内大臣」歌川国貞画 ヴィクトリア&アルバート博物館蔵 wiki「神功皇后」より)
神武天皇も応神天皇もヤマト入りして即位する話はあり得ないようなものです。また、どちらも呪力によって戦闘に勝利したとのことですが、どちらの時代にもヤマトで集団戦の証拠は見られませんので、そのような神話は史実ではありません。
すでに(その5)・(その6)で見たとおり、三世紀後半(270年頃)尾張王建稲種命が九州遠征して大国主・台与らを討ち、さらに纏向遺跡に戻った建稲種命らが率いた狗奴国勢が大国主傘下の地方を平定して、卑弥弓呼大王(記紀の第十代崇神天皇)が日本列島を統一し、ヤマト王権が成立したのが史実だと考古学の成果から分かりました。
「日本書紀」では応神天皇の父とされる仲哀天皇は、その父とされたヤマトタケルが薨去して38年後に生まれた計算になるので、ヤマトタケルも仲哀天皇も史実を誤魔化すために創作された架空の皇子・天皇なのです(注1)。ですから実在人物の応神天皇の父でもありません。仲哀天皇は香椎宮で神功皇后が神憑りして告げた住吉大神の神託に背いたために突然崩御したとあります。卑弥呼の死後に男王に立った尾張王乎止与命(おとよのみこと)が、それに不服だったムナカタ海人族を率いる大国主によって討たれた史実から仲哀天皇が創作されたと推理しました。大国主たちへの父の仇討ちのために、尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮の祭神)が大国主らを討った事件が、記紀で仲哀天皇の祖父であるはずの景行天皇の九州遠征のモデルとなった史実だったのです。
このころ東アジアで大きな事件がありました。280年に呉が西晋によって滅ぼされ、すでに蜀も滅ぼされていたので、三国志の時代が終わり、西晋によって統一されたのです。長江下流の呉の人々は、元々同族である江南の倭人を頼りにして日本列島に落ち延びてきたと思われます。纏向遺跡の狗奴国の人々は西晋が三国を統一した情報を知り、西晋に朝貢していた女王台与の倭国を狗奴国が滅ぼしたので、次に西晋に滅ぼされることを皆が怖れ、動揺したのだと推理できます。三角縁神獣鏡はこの頃の呉の職人が造ったものだと考えています。ですからこの鏡は景初三年に魏から賜った卑弥呼の鏡ではないのです。景初三年などの年号のある三角縁神獣鏡が見つかっていますが、卑弥弓呼大王(崇神天皇)がヤマトで作らせたものと考えると、実在しない景初四年銘の鏡(広峯15号墳出土の斜縁盤龍鏡)が出土した謎も解けます(^_-)-☆
上の話は「日本書紀」崇神天皇紀に大己貴神(おおなむち、大国主の別名)の和魂(にきみたま)大物主大神の祟りがあって民が半数以上亡くなくなったという話に対応します。大神の神託が、子のオオタタネコ(「日本書紀」の大田田根子、「古事記」では意富多多泥古命)に自分を祀らせれば収まるということなので、オオタタネコを探し出して祀らせたという記事が応神天皇即位の史実を表していると分かりました(関裕二「神武東征の謎」PHP文庫、2003、pp.216-249)。その後の大和朝廷が大国主と台与らの祟りを最も畏れていることが分かりますから、これは妥当な推論だと思います(「本当は怖い七福神の謎」参照)。
三世紀末から四世紀初頭に桜井市鳥見(とみ)山北山麓の小尾根の先端を切断して造られた、全長200mの巨大前方後円墳茶臼山古墳があります。百面以上の銅鏡や玉類、剣や刀などの武器類に加えて、玉杖(ぎょくじょう)などの豪華な副葬品が見られます。ここの地名は外山と書いて「とび」と呼ばれていますが「へび」の別称なのです(富来隆「卑弥呼」学生社1970, pp.68-112、「大国主はトビヘビだった」参照)。つまり蛇神大物主大神である大国主を示唆しています。上記のナガスネヒコは「古事記」では登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とされており、勿論、トミもヘビのことですから、「古事記」は例によってその正体を暴露しているのです(「日本の古代史が謎な理由?」参照)。ニギハヤヒ大王(先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命、王年代紀第19代王天照大神尊で倉敷市楯築王墓の被葬者、記紀の吉備津彦)の子孫尾張王に討たれた大国主久々遅彦の史実を表していたのです。大国主の祟りによってヤマトの初代祭祀王の応神天皇が即位したことを示唆していたのです。最初の神武天皇の図で、イワレヒコの弓に止まっている金色のトビも、鳥見山も鳥ですが大国主のことを表しています。鳥見山(とみやま)の山麓に鎮座する宗像神社は卑弥呼を祀っていますが、ムナカタ海人族を束ねる大国主久々遅彦のいとこなので、鎮魂の意味もあると思います。卑弥呼の墓「三柱山古墳」の遥拝所の摂社のひとつ、大国主を祀る金毘羅宮と同じ意味でしょう(「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)。
纏向遺跡の最大の前方後円墳の箸墓は、邪馬台国畿内説で卑弥呼の墓とされていますが、畿内説は考古学の成果から間違いと分かります(「【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!」・「【検証11】定説の根拠を疑え」参照)。箸墓について「日本書紀」は第7代孝霊天皇の皇女で大物主大神の妻倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓としていますので、大国主の妃で、記紀で神功皇后とされた女王台与が被葬者だと明記されているのです。ヤマトとトビを何度も何度も唱える姫という名前なのですから、大国主(トビ)にたった13歳で女王にされ、最後はヤマトに殺された可哀そうなお姫様という意味の名前なのです(「箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?」参照)。
上で述べたように、(その5)・(その6)で説明した「日本書紀」の崇神天皇十年の四道将軍派遣から応神天皇が即位するまでの約350年間の話は270年頃の史実を誤魔化すために創作された話だったのです。大国主と女王台与は討たれてそれぞれ、久留米市祇園山古墳と糸島市平原王墓に葬られましたが、狗奴国卑弥弓呼大王崇神天皇が桜井市で茶臼山古墳と箸墓古墳でそれぞれ改葬して鎮魂を行ったのです。二人の子の応神天皇を最初のヤマトの祭祀王=初代天皇としたということなのです(^_-)-☆

神武天皇から41代持統天皇までの漢風諡号は八世紀の淡海三船(おうみのみふね、天智天皇の子孫)が撰進したとされていますが、「神」の名のつく天皇・皇后は神武天皇・崇神天皇・神功皇后・応神天皇の四人だけです。三船は日本建国の史実を知っていて「神」をあてたと考えられます。応神天皇と神功皇后は宇佐神宮をはじめ全国で4万社以上ある八幡神社などで祀られていますが、記紀で皇祖神とされた女神アマテラスを祭神とする神社や初代天皇とされた神武天皇を祀る神社の数と比べれば、圧倒的に上回ります。伊勢神宮へは持統天皇から先、明治になるまで、天皇はどなたも参拝されていないとのことです(「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)・(その2)」)。神武天皇の墓は江戸時代に無理に比定されたと聞く、全く信ぴょう性のないものです。記紀神話は実は、日本民族の古来からの伝承ではなく、江戸時代になって作られた新しいものだったのです。それでは、なぜこのような誤魔化しをしなければならなかったのか?その理由についても推理しています。この後でゆっくりとご説明しますのでまたお付き合いください(^_-)-☆
(注1)日本書紀に仲哀天皇は成務天皇48年に数え31歳で皇太子になったとありますので成務天皇18年が生年となります。しかし、仲哀天皇の父の日本武尊(ヤマトタケル)は景行天皇40年に薨去しており、景行天皇60年に崩御され、1年後に成務天皇が即位していますので、仲哀天皇は日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になります。
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