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「空白の150年」に何があったのか?(その4)青谷の悲劇とは?

2023-09-13 00:06:13 | 古代史
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魏志倭人伝は、前回述べた事件も含めて、卑弥呼が死んだ正始八年(247年)から年号を明記せずに、以下の文章で締めくくられています。

壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還
因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

(台与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を遣わし、張政等が帯方郡に帰還するのを送らせて、臺(朝廷)に詣り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢いだ。)

ここで率善中郎将の掖邪拘は卑弥呼の弟赤坂比古だと推理しています。魏志倭人伝に、正始四年(243年)に一緒に朝貢した正使伊聲耆(いせぎ)が、すでに述べたとおり「伊聲・伊勢(イセ)」がシャーマン王の意味がありますので先代赤坂比古だと推理しています。率善中郎将の官位を貰っていませんので、途中で亡くなって、後継の赤坂比古が遺骸を卑弥呼のもとに連れ帰り、家族旅行村「安心院」内の奥城古墳(直径約120mの巨大円墳、現在ブドウ園の展望台)に葬ったものと考えています。掖邪拘は副使だったので「わきやく」と読めますが、すでに述べたように、魏志倭人伝に登場する倭国の地名や人名などはすべて倭国王難升米が書いて帯方郡太守劉夏に教えたものなのです。もしかしたら赤坂比古が頼りなさげな若造だったので馬鹿にして稚児の意味で「ややこ」としたのかも知れませんよ。ムナカタ族に対しては味方であっても、漢字を読めないので馬鹿にして、貶める文字を多用していますので分かります(^_-)-☆(「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」参照)。

卑弥呼が死んだ後の事件が日食が原因で起こったことに因み恐らく赤坂比古の子孫(和邇氏)は赤坂比古を日蝕彦(ひはえひこ)などと呼んで祖神として祀っていたようです。七世紀の末に藤原不比等が、和邇氏の所領地である現在の近江八幡市日牟禮八幡宮にわざわざ押しかけて社名を日群社(ひむれのもり)と強引に変えさせていたことが、残された不比等の歌から分かります。従って記紀では赤坂比古の名前を日触使主(ひふれのおみ)としていると推理しました。日蝕に類似した日触などという言葉は他に例が見当たりませんので、誤魔化すために無理に付けた名前だと分かります(「【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた」、「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)。

張政の部下の帯方郡太守への報告によって、司馬懿は倭国の状況を知り、この先も倭国を魏に従わせる必要があるので、有能な張政を直ぐに帯方郡に帰還させるわけにはいかないはずです。

司馬懿は251年に亡くなりますが、司馬氏一族が権力を握りつづけ、魏の帝位が司馬懿の孫の司馬炎に禅譲されて泰始元年(265年)に西晋が興ります。翌年(266年)に倭女王が朝貢した記録が西晋の起居注にあります。「日本書紀」神功皇后紀の注にもこの年に倭女王遣使とあります。

台与は西晋の建国を祝うために最高の贈り物をしたはずですので、王勇「中国史のなかの日本像」(農山漁村文化協会〈人間選書〉、2000, pp.68-71)にも、泰始二年の倭女王は台与で、従来の献上品に宝石類が加えられたので、日本には珍しい宝石が採れるということがシナ人に知られるようになったとあります。近江・越(こし)を支配する台与が献上した青大句珠二枚は、下の図のような珍しい糸魚川産青ヒスイの大きな勾玉でしょう。この倭国女王の朝貢は西晋時代の記事になりますので本来は魏志には載せられないのですが、卑弥呼の死後も倭国が朝貢し、珍しい産物を献上していた事実は、司馬懿の功績を称揚する上でとても重要だと陳寿は判断し、年号を明記しなかったと考えられますよ。陳寿は一流の歴史家である前に宮仕えということですね(^_-)-☆。



それにしても二度も殺されるかもしれない窮地を上手く脱して活躍した張政という人物は相当のやり手ですね。後に帯方郡太守にまで出世したと考えられる証拠が出てきています。それから、張政の報告を受けた司馬懿にとって、難升米はすでに用済みですので、苦労して帯方郡にたどり着いたとしてもそこで抹殺されたはずです。一緒に持って行ったはずの金印はどうなったか謎ですが、いつか帯方郡付近で発見されるかもしれませんね(「【検証23】魏使張政って?」参照)。

しかしこの張政によって、後でまた述べますが、この日本建国時代の抗争・戦乱が原因で、不幸な殺し合いの歴史が奈良時代まで続きますので、とても複雑な気持ちになります。

難升米も若いころから切れ者で、公孫氏の支援を受けて、狗古智卑狗を討ち、先代赤坂比古も懐柔して邪馬台国連合によって、一度は消滅しかかった倭国を復活させ、さらに司馬懿と渡り合い、洛陽では一緒に杯を交わしたはずです。しかし、ミスは卑弥呼を暗殺したことと、最後に張政と一緒に帯方郡に行かなかったことですね。その後の日本の運命にも影響したはずです。卑弥呼が登場する205年頃に難升米は、25歳くらいの卑弥呼よりも少し若かったはずですから、20歳くらいでしょうか。ですから、ほぼ50年後ですから難升米はすでに70歳近くだったようです。卑弥呼は70歳を過ぎて亡くなったのでしょう。温泉と山海の珍味に濁り酒の快適で健康な生活をしていたようなので何もなければ、まだまだ、元気で生きていられたはずですね(;´Д`)

大国主は、父が亡くなった時にはまだ10歳くらいの少年だったと思います。因幡の白兎の大国主神話は、父が亡くなって叔父の先代赤坂比古が狗奴国を裏切ったので、恐らく北九州市の和邇氏の陣屋だった八束髪(やつかひげ)神社から身ぐるみ剥がされて追放されたときの話が基になったのだと思います。宇佐市安心院町佐田で大国主が最初に国造りをしたので、兎(菟、ウサギ)が大国主の代名詞だったと思います(「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。伊勢神宮内宮門前の宇治という地名は兎(大国主)が治める土地の意味か、あるいはまた後で述べますが、菟遅はヤマトに殺された大国主の呪いという意味にもとれます。

大国主が尾張王を討って狗奴国を裏切り、魏を後ろ盾にして隆盛になったこの時代に、大国主らに裏切られた狗奴国勢の激しい恨みが想像できます。大国主の出身地である豊岡市竹野町や拠点だった丹後半島から大国主の勢力圏だった山陰地方の、兵士が駐屯していない、のどかな集落を狗奴国の部隊が狙って襲ったと見られます。

この時代のこれらの地方では、鉄製品が普及していたと考えられますから、兵士が護っていたならば鉄鏃が使われているはずですが、京丹後市函石浜遺跡、鳥取市青谷上寺地遺跡、江津市波来浜遺跡(ならはまいせき)などに鉄鏃は見られず、銅鏃がたくさん出土しています。

特に、青谷上寺地遺跡では、調査報告書では弥生後期とされていますが、老人、女性や子供のものとみられる百体ほどの遺骸が溝に捨てられた模様で、人骨が多数発見されました。最近、DNA解析によって被害者の男性の顔の復元がされて話題になっています。現代人と同じ顔つきですので似た方のコンテストまであったようです。突然兵士が襲ってきて虐殺されたと分かりますので、古墳時代初頭(三世紀後半)の大国主への復讐のために狗奴国勢が起こした無差別大量殺人事件だと推理しました(「【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?」参照)。



大国主が半島南部の鉄資源を抑えたために、狗奴国勢は鉄が不足していたので、集団戦で大量に使う矢じりは青銅器を溶かして製造した銅鏃を使用していたと分かります。特に尾張においては、二世紀末の倭国大乱期からすでに、鉄があまり供給されなかったことが弥生後期に鉄鏃が出土していないことから分かりますので、大国主の先代久々遅彦と尾張王とは疎遠のようでした。つまり尾張は鉄のネットワークから外されていたようです。ですから、尾張王と大国主の間には、もともと抗争が起きる素地があったのでしょう。

しかし尾張王は、近江の息長宿禰王とは親密であったことは、すでに述べたとおり近江発祥と考えられる前方後方墳を尾張王が採用していることから分かります。恐らく、吉備から葛城山麓に根拠地を移した後に、尾張への進出を息長宿禰王が支援したのではないかと思います。伊勢の地は元々息長氏の祖が開拓したと考えています(「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)(その2)参照)。ですから、「日本書紀」では尾張王を仲哀天皇、台与を神功皇后という設定にし、さらに系譜を誤魔化すために息長氏を開化天皇の子孫としています。しかし、大国主が台与を女王に立てたことから、尾張氏と息長氏も対立関係になってしまいました。結局、記紀に書かれていることや神社伝承などを素直に信じると訳が分からなくなるので、物証などから書かれた内容を調べる必要があるということなのですよね(;´Д`)


(つづく)





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