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地図の件のコメントを受けて鍛冶遺跡の分布図を修正しました。ご確認ください(^^;)
倭国が魏を後ろ盾にしたことを知った狗奴国王(記紀の崇神天皇)は、ようやく倭国征討軍を送る決心をしました。軍を率いるのは比古御子(卑弥弓呼)と同じニギハヤヒ大王の子孫の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、記紀では仲哀天皇)と推理しました。副将を倭国大乱で戦死した英雄の狗古智卑狗の子久々遅彦(記紀では五代の天皇に仕えたという三百歳の武内宿禰)として、東海・山陰・近江・北陸・畿内などの人々の混成部隊だったことが、三世紀中頃の纏向遺跡や北部九州の遺跡の外来土器から推理できます。先日話題になった吉野ヶ里遺跡には近江の武将が使う手あぶり土器が出土していますし、東近江市神郷亀塚古墳がその発祥と考えられる前方後方墳が南内郭付近の丘陵部に4基見られます。近江・北陸のムナカタ海人族を率いるのが息長宿禰王(オキナガスクネノミコ、記紀の神功皇后の父、神話の少彦名命)でその娘台与(記紀の神功皇后)が姫巫女として従軍していたと推理しています。その謎のエリアの石棺墓の被葬者はこの人物だと考えています(「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?」)。「日本書紀」は建国時代の史実が不都合ですので誤魔化していますが、仲哀天皇の熊襲征伐の話にしています。
魏志倭人伝によると、正始八年(247年)に帯方郡に新しい太守が着任したので、倭国王は使者を送り、以前から仲が悪かった狗奴国との争いを報告しました。それを受けて帯方郡から塞曹掾史の張政が倭国に派遣されました。到着した時にはすでに卑弥呼は死んでいて、急いで径百余歩の大きな塚(直径約150mの日本最大の円墳「三柱山古墳」)を造って卑弥呼を葬り、百人ほどの奴婢を殉葬したと魏志倭人伝に述べられています(「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。また、難升米に魏の正規軍の軍旗「黄憧」を授け詔書も渡し、張政が激を告げていますから、難升米が軍事を預かる、自ら卑弥呼の男弟とした人物で、儺升米は師升の一族の頭(かしら)という意味ですので伊都国男王だったことも分かります(注1)。
それでは卑弥呼に何があったのかですが、247年3月24日日没前に北九州で皆既日食があったことが分かっています。伊都国に居た難升米は夕日が欠けながら海に沈む現象を見たようです(「卑弥呼の日食は珍しい日没帯食だったのか!」参照)。丁度、狗奴国の大軍が攻め寄せて来る情報を聞いたので、日食を不吉な予兆と考えたようです。魏志倭人伝にある持衰(じさい)と同様に、太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎で霊力が衰えたからと考えて、部下に暗殺を命じたと推理しています。卑弥呼の世話をする男が一人いたと魏志倭人伝にありますが、難升米のスパイだったと考えられます。伝令から暗殺を命令されたその男は卑弥呼の生活を熟知しているので、河原の露天風呂でいつものように入浴している卑弥呼を襲って殺害したと考えられます。卑弥呼を警護する部隊長には卑弥呼が急死したということにしたのでしょう。上で述べたとおり、急いで土を20mほど盛り上げさせて円墳を作り、石棺を据えて卑弥呼を埋葬し、その後、暗殺の口封じもあるかも知れませんが、百名ほどの奴婢を西側の原野で惨殺して殉葬したと推理しています。「血野」という地名が残されていました。卑弥呼の墓の遥拝所と見られる河原の地名が日食示唆するヒカケで、そこに三女神の石塔が墓に向けて建てられていることなどから推理できます(「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)。
卑弥呼の死後、代わって男王が立つも国中が従わず、千人以上が死ぬ戦闘が起こったと魏志倭人伝にあります。この男王が難升米であるならば、最初から倭国王だったと考えていますので、そうでないことは明らかです。ですから、狗奴国軍が到着したと考えると、卑弥呼が死んだことを知った弟赤坂比古(和邇氏の祖、記紀の日触使主)は、琉球神道で見られるおなり神信仰がこの時代の縄文系の信仰を受け継いだものと考えられますので、難升米と共に戦う気力が一気に失われたのだと思います。そうなると難升米ひとりで戦うことができないので、司馬懿の援助によって再起を図るために金印を持って帯方郡に逃亡したと考えられます。
そうであれば、この戦闘は狗奴国軍内部の抗争・内戦だと推理できます。もしも狗奴国王が直々に軍を率いていたのならば、狗奴国勢の中に不服な者など居るわけありません。ですから、先に述べたように尾張王乎止与命が大将であったと考えると自然です。奴国を滅ぼした恨みがある師升の倭国を無傷で手に入れることができたので、捕らえられた魏使張政の誘いもあって狗奴国を裏切って倭国王に立とうとしたのだと考えられます。それに不満を示したのがムナカタ海人族を束ねる久々遅彦だったのでしょう。尾張王に従う勢力と戦うことになったので、赤坂比古は先代が狗奴国を裏切ったことの償いのために同族を率いる久々遅彦の軍に加わったと考えられます。そのために尾張王の軍勢は劣勢になり、赤坂比古が所領としていた鳥栖市まで追撃されて討たれたと推理しました。九州の最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬られたと考えられます。この事件はヤマト王権の歴史に大きな影を残すことになりますが、また後で述べます。
そして、卑弥呼の宗女で13歳の台与が女王に立てられて、争いがようやく収まったとあります。倭国大乱の時と同様で、外交上立てられた女王に統治力などあるはずないと分かります。内戦に勝利した久々遅彦は狗奴国王の親族の有力者だった尾張王乎止与命を討ってしまったことの処分を恐れ、再び張政の進言によって、息長宿禰王の姫巫女台与を、外交上女王に立てて、魏を後ろ盾にして狗奴国を裏切ったと考えられます。久々遅彦はすでに配下としていた日本海沿岸部のムナカタ族に加えて、赤坂比古が味方に加わったので邪馬台国連合倭国の人々も従ったと思います。半島南部の鉄資源を独占でき、帯方郡との交易によってたちまち隆盛になり、畿内と東海などの狗奴国の勢力を除き、列島のほとんどを支配下に置いたので、久々遅彦は、後世、大国主命と呼ばれるようになったのです。このことは、下図のとおり博多遺跡で見られる高温鍛冶炉と同じ技術の鍛冶炉が見られるようになりますから、大国主が各地に先端技術を与えたと分かります。気前のいい大国主は死後も日本で一番人気の神様になっていますね(^_-)-☆。
(注1)後漢光武帝が奴国王に授けた金印に倭を委としています。当時の流行だったことが師升王が作ったと推理した室見川銘板にも二か所ニンベンを省略する例が見られましたから分かりました(「【わかった!】室見川銘板のなぞ」参照)。師升は宮廷楽師時代の名前ですので、儺升という名前に変えたと分かります。「儺」は追儺(ついな)、つまり鬼やらい、神やらいを意味する言葉です。師升らが奴国王スサノヲを殺して倭国王となった史実を意味する文字なのです。そして、「日本書紀」の仲哀紀に博多を儺縣(なのあがた)としていることから、「日本書紀」の編纂者だけでなく日本建国で活躍した豪族の子孫もその史実を知っていたと考えられます。スサノヲの怨霊を多くの人々が畏れていたことは、今も残る祇園祭や茅の輪くぐりの行事からも伺えますね(^_-)-☆。
(つづく)
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魏志倭人伝によると、正始八年(247年)に帯方郡に新しい太守が着任したので、倭国王は使者を送り、以前から仲が悪かった狗奴国との争いを報告しました。それを受けて帯方郡から塞曹掾史の張政が倭国に派遣されました。到着した時にはすでに卑弥呼は死んでいて、急いで径百余歩の大きな塚(直径約150mの日本最大の円墳「三柱山古墳」)を造って卑弥呼を葬り、百人ほどの奴婢を殉葬したと魏志倭人伝に述べられています(「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。また、難升米に魏の正規軍の軍旗「黄憧」を授け詔書も渡し、張政が激を告げていますから、難升米が軍事を預かる、自ら卑弥呼の男弟とした人物で、儺升米は師升の一族の頭(かしら)という意味ですので伊都国男王だったことも分かります(注1)。
それでは卑弥呼に何があったのかですが、247年3月24日日没前に北九州で皆既日食があったことが分かっています。伊都国に居た難升米は夕日が欠けながら海に沈む現象を見たようです(「卑弥呼の日食は珍しい日没帯食だったのか!」参照)。丁度、狗奴国の大軍が攻め寄せて来る情報を聞いたので、日食を不吉な予兆と考えたようです。魏志倭人伝にある持衰(じさい)と同様に、太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎で霊力が衰えたからと考えて、部下に暗殺を命じたと推理しています。卑弥呼の世話をする男が一人いたと魏志倭人伝にありますが、難升米のスパイだったと考えられます。伝令から暗殺を命令されたその男は卑弥呼の生活を熟知しているので、河原の露天風呂でいつものように入浴している卑弥呼を襲って殺害したと考えられます。卑弥呼を警護する部隊長には卑弥呼が急死したということにしたのでしょう。上で述べたとおり、急いで土を20mほど盛り上げさせて円墳を作り、石棺を据えて卑弥呼を埋葬し、その後、暗殺の口封じもあるかも知れませんが、百名ほどの奴婢を西側の原野で惨殺して殉葬したと推理しています。「血野」という地名が残されていました。卑弥呼の墓の遥拝所と見られる河原の地名が日食示唆するヒカケで、そこに三女神の石塔が墓に向けて建てられていることなどから推理できます(「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)。
卑弥呼の死後、代わって男王が立つも国中が従わず、千人以上が死ぬ戦闘が起こったと魏志倭人伝にあります。この男王が難升米であるならば、最初から倭国王だったと考えていますので、そうでないことは明らかです。ですから、狗奴国軍が到着したと考えると、卑弥呼が死んだことを知った弟赤坂比古(和邇氏の祖、記紀の日触使主)は、琉球神道で見られるおなり神信仰がこの時代の縄文系の信仰を受け継いだものと考えられますので、難升米と共に戦う気力が一気に失われたのだと思います。そうなると難升米ひとりで戦うことができないので、司馬懿の援助によって再起を図るために金印を持って帯方郡に逃亡したと考えられます。
そうであれば、この戦闘は狗奴国軍内部の抗争・内戦だと推理できます。もしも狗奴国王が直々に軍を率いていたのならば、狗奴国勢の中に不服な者など居るわけありません。ですから、先に述べたように尾張王乎止与命が大将であったと考えると自然です。奴国を滅ぼした恨みがある師升の倭国を無傷で手に入れることができたので、捕らえられた魏使張政の誘いもあって狗奴国を裏切って倭国王に立とうとしたのだと考えられます。それに不満を示したのがムナカタ海人族を束ねる久々遅彦だったのでしょう。尾張王に従う勢力と戦うことになったので、赤坂比古は先代が狗奴国を裏切ったことの償いのために同族を率いる久々遅彦の軍に加わったと考えられます。そのために尾張王の軍勢は劣勢になり、赤坂比古が所領としていた鳥栖市まで追撃されて討たれたと推理しました。九州の最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬られたと考えられます。この事件はヤマト王権の歴史に大きな影を残すことになりますが、また後で述べます。
そして、卑弥呼の宗女で13歳の台与が女王に立てられて、争いがようやく収まったとあります。倭国大乱の時と同様で、外交上立てられた女王に統治力などあるはずないと分かります。内戦に勝利した久々遅彦は狗奴国王の親族の有力者だった尾張王乎止与命を討ってしまったことの処分を恐れ、再び張政の進言によって、息長宿禰王の姫巫女台与を、外交上女王に立てて、魏を後ろ盾にして狗奴国を裏切ったと考えられます。久々遅彦はすでに配下としていた日本海沿岸部のムナカタ族に加えて、赤坂比古が味方に加わったので邪馬台国連合倭国の人々も従ったと思います。半島南部の鉄資源を独占でき、帯方郡との交易によってたちまち隆盛になり、畿内と東海などの狗奴国の勢力を除き、列島のほとんどを支配下に置いたので、久々遅彦は、後世、大国主命と呼ばれるようになったのです。このことは、下図のとおり博多遺跡で見られる高温鍛冶炉と同じ技術の鍛冶炉が見られるようになりますから、大国主が各地に先端技術を与えたと分かります。気前のいい大国主は死後も日本で一番人気の神様になっていますね(^_-)-☆。
(注1)後漢光武帝が奴国王に授けた金印に倭を委としています。当時の流行だったことが師升王が作ったと推理した室見川銘板にも二か所ニンベンを省略する例が見られましたから分かりました(「【わかった!】室見川銘板のなぞ」参照)。師升は宮廷楽師時代の名前ですので、儺升という名前に変えたと分かります。「儺」は追儺(ついな)、つまり鬼やらい、神やらいを意味する言葉です。師升らが奴国王スサノヲを殺して倭国王となった史実を意味する文字なのです。そして、「日本書紀」の仲哀紀に博多を儺縣(なのあがた)としていることから、「日本書紀」の編纂者だけでなく日本建国で活躍した豪族の子孫もその史実を知っていたと考えられます。スサノヲの怨霊を多くの人々が畏れていたことは、今も残る祇園祭や茅の輪くぐりの行事からも伺えますね(^_-)-☆。
(つづく)
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