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「空白の150年」に何があったのか?(その8)ヤマトの大王と豪族たち?

2023-09-30 02:33:33 | 古代史
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卑弥弓呼大王は大国主・台与の倭国を滅ぼして列島を統一しました。しかし、前回(その7)で述べたように西晋が三国を統一したので、親晋倭国を滅ぼした狗奴国は次に西晋に滅ぼされるかもしれない状況になりました。狗奴国王卑弥弓呼(ひこみこ、以下、崇神天皇と書きます)はこれも大国主の祟りと考え、大国主(武内宿禰)と台与(神功皇后)の子ホムダワケ(応神天皇、大田田根子)を探し出してヤマトの祭祀王にし、二人の鎮魂のために巨大前方後円墳を造ったことまでお話ししました。

崇神天皇はこれによって心配の種が解消できたので、次にやるべきことは大国主の支配下にあった半島南部の鉄資源を手に入れることです(「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)。応神天皇を表向き、ヤマトの大王に立てることにより、半島南部もヤマトの支配下にできるので一石二鳥です。そのために、玄界灘を活動域として鉄資源を供給していた赤坂比古(和邇氏の祖、日触使主)を尾張王建稲種命が討ったので、和邇氏を懐柔するために宇佐氏安心院町三女神社の伝承にあるとおり、宮ノ原遺跡(旧邪馬台国)を同じムナカタ海人族の水沼氏に預け、卑弥呼の奉斎を命じたと推理しました。

遺跡内の第5石棺群(大平古墳)の1号棺から鉄刀と管玉の首飾りと直径8.9cmの方格規矩鏡、2号棺では平縁神獣鏡の破片、3号棺から三角縁神獣鏡の破片が発見されています。前回推理したように三角縁神獣鏡はヤマトで作らせたものですので、水沼氏に与えたものを破砕して被葬者に副葬したものと考えられます。また大平古墳の形は明確ではないですが、前方後円墳ではなく、恐らく円墳のようです。つまり、ムナカタ族は卑弥呼の三柱山古墳(第8石棺群)や卑弥呼の父の先代赤坂比古の奥城古墳(第6石棺群)と同じ円墳を好みますので、水沼氏も卑弥呼に所縁のあるムナカタ族とみていいようです(「本当に卑弥呼の墓なのか?」参照)。



崇神天皇はさらに和邇氏に対して尾張王を始め狗奴国勢に族長を殺された恨みを和らげ、狗奴国ヤマトのために半島南部の鉄素材を供給させるために日触使主(赤坂比古)の女宮主宅媛(みやぬしやかひめ)を応神天皇の妃にしたものと推理しています。一方、建国の功労者である尾張王建稲種命の孫娘仲姫命(なかつひめのみこと)を皇后としてバランスとったようです(注1)。しかし後で話題にしますが、残念ながら皇子が生まれると後継者争いが生じますね(;´Д`)

「古事記」は、前回(その7)で述べたように、ナガスネヒコがトビヒコという蛇神大国主を示唆する別名を記して「日本書紀」が隠した歴史を藤原氏に悟られないようにして暴露するのが目的で九世紀の学者多人長(おおのひとなが)が書いたものだと分かりました。天皇の崩御の年を表す干支「崩年干支」も「日本書紀」と所々違えていますので史実を教えているのだと考えられます(注2)。

崇神天皇は実在人物と考えていますが、「日本書紀」には「即位されてから、六十八年の冬十二月五日、崩御された。時に、年百二十歳」とあり、紀元前30年に崩御したとことになります。「古事記」の戌寅(つちのえとら)は318年ですから妥当な崩年と思われます。ちなみに247年の卑弥呼の死の直前に倭国遠征軍を派遣した狗奴国の卑弥弓呼大王と推理していますので、仮に崇神天皇が二十歳代だったとすると、その約70年後となり、九十歳代ということで長生きですが妥当な享年となります。(20023.10.1 赤字訂正)

また、「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)」にこの時代の天皇の系譜を「古事記 崩年干支」に基づいて推理して図にしましたので、詳しくは記事を参照してください。



応神天皇ですが、「古事記 崩年干支」の甲午年(394年から60年引いて334年)に七十歳で崩御したとありますので、逆算すると265年生まれとなります。母は近江・北陸などを根拠地としていたムナカタ海人族の姫巫女台与(とよ)で、記紀の神功皇后です。「日本書紀」に仲哀天皇が応神天皇の父となっていますが、本当の父はムナカタ海人族を束ねる大国主久々遅彦(魏志倭人伝の狗古智卑狗、王の襲名、豊岡市久久比神社祭神、木霊イタケルの子孫)です。記紀では、神功皇后の傍らに居て常に皇后を助けた三百歳の老人武内宿禰とされた人物です。応神天皇の生まれ年の翌年、倭の女王台与が朝貢した記録が西晋の起居注にあります。247年に13歳の台与が女王に立ったとして265年は18年後ですから三十歳ころの子ですので妥当です。大国主久々遅彦は五十歳代で仲哀天皇こと尾張王乎止与命(おとよのみこと)を討って倭国王に立ったので七十歳代の高齢者パパということになります。だから道祖神(金精神)として男性のシンボル的な存在として祀られているのでしょう(道祖神もやっぱり(^_-)-☆

ということで、崇神天皇が日本統一をしましたが、それまで敵対関係だった大国主・台与や卑弥呼の一族を懐柔し、大きな和をもって国を治めたので、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)とされました(注3)。ですから王の都(纏向遺跡)をヤマト(邪馬台国)と呼ぶことしたと推理しています。後世に「大和」と書かれたのです。318年に崩御されて、「日本書紀」に「山辺道上陵(やまのへのみちのえのみささぎ)に葬った」、「古事記」に「御陵は山辺道(やまのべのみち)の勾(まがり)の岡のほとりにある」とあります。宮内庁は天理市柳本町の墳丘長242メートルの前方後円墳「行燈山古墳」に治定しています。

崇神天皇崩御後、応神天皇が正式に、政治権力を持つヤマトの大王になったと考えられ、崇神天皇の皇子たちも父の遺言に従って形の上で応神天皇の臣下(物部氏)となったと考えられます。大和盆地は物部氏の氏神を祀る天理市石上神宮とその辺りを支配地とし、ほとんどが大国主(武内宿禰)を祖とする波多氏(記紀の秦氏、機織りや土木技術などを持つ半島南部の渡来系倭人を配下にした)・葛城氏(尾張王とつながりがある)・巨勢氏・平群氏などです。また卑弥呼の弟赤坂比古(日触使主)を祖とする和邇(和珥)氏が天理市など盆地の北部を支配しました。大伴氏の出自がよく分かっていませんが、ヤマトに呼ばれる前から応神天皇の親衛隊だった大国主・台与配下のムナカタ海人族ではないかと考えています。



物部氏は、さらに河内(交野市磐船神社祭神饒速日命)・吉備(吉備津神社吉備津彦神社祭神大吉備津彦=饒速日尊)・石見(物部神社祭神宇摩志麻遅命)・筑紫(詳細は鳥越憲三郎「弥生の王国」中公新書1994、pp.171-189)などを領地としたようです。同じニギハヤヒ大王の子孫の尾張氏は東海(熱田神宮祭神建稲種命)・駿河(沼津市高尾山古墳「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)・信濃(松本市弘法山古墳)・諏訪(洲羽国造建沼河別命「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)・下越(弥彦村弥彦神社)・丹波(豊岡市鷹野神社)など東国を支配地としたようです。また、台与の父息長宿禰王(記紀神話の少彦名命)を祖とする一族は元々近江一帯(伊勢遺跡、守山市内二十社以上の稲荷神社で台与を祀る)と越前・北陸などを支配していましたが、和邇氏に近江八幡市日牟禮八幡宮(「卑弥呼は何故隠された?」参照)あたりから琵琶湖の西沿岸部を譲ったのだと考えています。息長氏は野洲川から琵琶湖の東沿岸部(米原市日撫神社【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?」参照)などを支配地としたと考えています。このように、日本列島を統一したとは言っても、各地に豪族が割拠していた模様ですので、七世紀末に天武天皇が登場するまで豪族はそれぞれの思惑で動いていたはずです。

(注1)wiki「仲姫命」によれば、「仲姫命(なかつひめのみこと、生没年不詳)は、応神天皇の皇后。『古事記』は中日売命に作る。品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は金田屋野姫命(建稲種命の女)。応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。仲津姫命とも。ちなみに同母姉の高城入姫命や同母妹の弟姫命も応神天皇の妃となっている。」とあります。しかし、景行天皇は尾張王を隠すために登場させた架空の天皇ですので、品陀真若王も実在人物ではないかも知れません。ですから仲姫命、高城入姫命、弟姫命の三姉妹も建稲種命の子かも知れません。だとすれば三姉妹の母の金田屋野姫命は建稲種命の妻ということになりますが、今の段階でははっきりとは分かりません。

(注2)垂仁・景行・成務の三代の天皇について「日本書紀」では三人とも崩年干支がすべて庚午(かのえうま)ですので不自然です。崩御の年と享年はそれぞれ西暦70年で百四十歳、130年で年百六歳、190年で年百七歳ですから百歳を超える享年を見ても架空の天皇だと直ぐに分かります。

景行天皇について「古事記」でも「百三十七歳に崩御し、御陵は山辺道(やまのべのみち)のほとり」とあるだけで、干支は記載なしです。尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと)をモデルとしているのですが、百六歳を百三十七歳として、さらにあり得ない年齢にしているので、「日本書紀」に記載された庚午年に崩御というのは怪しいと示唆しているようです。

同じく架空の成務天皇について「古事記」は「天皇の年齢は九十五歳である。乙卯(きのとう)の年の三月十五日に崩御した。御陵(みはか)は狭城(さき)の盾列(たてなみ)にある。」と記されていますので、乙卯の年355年か一運戻して295年に亡くなったことになりますので妥当な崩年干支です。今はよく分かりませんが、何かを示唆しているのかも知れません。

同様に架空の天皇の仲哀天皇についても「およそ仲哀天皇の年齢は五十二歳。壬戌(みずのえいぬ)の年の六月十一日に崩御になった。御陵は河内国の恵賀(えが)の長江にある。」と「古事記」に記されています。247年卑弥呼の死の後に男王に立った尾張王乎止与命(おとよのみこと)がモデルで、同じ年に赤坂比古(卑弥呼の弟、和邇氏の祖、日触使主)に討たれたと推理していますので、壬戌(みずのえいぬ)は365年から二運(120年)戻すと245年となり、卑弥呼よりも二年も先に亡くなったことになり矛盾し、正確ではないですが、享年五十二歳も妥当な年齢ですから概ね正しいと見ることもできます。

ということで「古事記」の「崩年干支」にも問題はありますが、「日本書紀」に記載された初期天皇の「崩年干支」を修正することにより、史実への暗号書となっていることが、応神天皇崩御から雄略天皇崩御までの天皇の系譜について調べることにより分かりました。次回に述べるつもりです。



(注3)「天皇」号は通説では七世紀末に日本が中央集権国家となってから用いられたとしていますが、倉敷市楯築王墓の神社に祀られるご神体が中国神話の人類の始祖神の天皇伏羲と同じ人面蛇体の弧帯文石なのです(「【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!」参照)。天皇伏羲を意識していたと思われますので、初代奴国王天御中主の子孫で狗(旧)奴国王からヤマトの大王まで当時の人は天皇と見ていたとも考えられます。しかし、日本統一後のヤマトで大国主・台与を祀る祭祀王が天皇陛下の本来の役割だと思います。記紀でも神武天皇の子孫のヤマトの大王を天皇ということにしていますので混乱しますが、その後の日本の歴史の中で日本民族を統合する祭祀王というのが天皇の位置づけとして相応しいと考えます。戦後GHQに押し付けられた日本国憲法に規定された条文は、そのことを全く無視したものですので、日本国民は正気に戻る必要があります(^_-)-☆

(つづく)




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