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古代史ランキング

どうも有難うございます。多くの文献史学者がたどり着いた結果ですが、残念ながら魏志倭人伝に記された急造りの径百余歩の卑弥呼の冢(塚、墓)が見つからないのですから、書かれたものから導かれた場所は邪馬台国とは違うのです。
何故、こういう結果になるのか?書かれたものを正しく解釈しても、正しい結果にたどり着けないのはどうしてでしょうか?答えはこれしかありません。
①陳寿は邪馬台国の場所を知っていながら、後世の史家を騙したのか?
あるいは
②陳寿も知らないのですが、陳寿が元にした資料から、陳寿が考える間違った場所に誘導した?
のどちらかでしょう。
①ですが、陳寿がそこまで騙さねばならない理由があるとは思えません。ですから②が正解だと思います。
どうしてそこまで言えるのか、根拠が見つかりました。その結果、卑弥呼の墓も見つけることができました。
一言で言うと、倭国に出入りしていない陳寿があのような行程記事を書ける内容ではないからです。特に不弥国から邪馬台国への水行・陸行の表現からも分かりますが、もっと端的な証拠は、イト国を伊都国ととても深い意味のある国名にしていることです。これにより、行程記事を書いた人物を特定しました。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください。
そして、日本の歴史書と考古学や民俗学の成果から卑弥呼の日本最大の円墳「三柱山古墳」のある邪馬台国の場所を発見しました。そこには数々の不思議な伝承などがありました。
邪馬台はヤマ国に住む女王(台)を意味します。詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。
ここから、逆に邪馬台国への行程記事のトリックの正体も分かりました。どうもお邪魔しました(#^.^#)

【関連記事】
卑弥呼の墓は見つかってるよ!
卑弥呼の墓と推定できるものです。親魏倭王の金印や、鏡などは人が容易に持ち運べるものですから決定的な証拠ではありません。卑弥呼の墓の付近にはそれなりに数々の持ち運べない遺構・遺物・伝承などがあるはずです。畿内説の箸墓の伝承は大物主大神(大国主)の妻「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)」のものですから卑弥呼ではありません。たった13歳で女王にされ大国主の妃とされて、最後はヤマトに殺された気の毒な台与の話なのです。「ヤマトとトビ(大国主の別名トビヒコ)を何度も何度も唱えるお姫様」という意味なのですから。
古代史解明の科学的方法とは?(#^.^#)
陳寿も邪馬台国の位置を知らなかった!(^_-)-☆
文献史学者が間違った原因は、陳寿ですら邪馬台国の正確な位置を理解していないながら、自らが想像した場所にそれとなく後代の史学者を誘導したのが原因ではないかと思います。それは、陳寿も帯方郡の報告書の中の邪馬台国への行程記事がデタラメだと気づいていたのですが、西晋の創業者の司馬懿が作らせた文章をあからさまに否定するなどできなかったからなのでした。
投馬国へ水行してみませんか?

【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆
古代史を解明するための基本的な考え方と科学的な推論方法アブダクションを解説しました。

【邪馬台国問題】真実に合理的に迫るには!(^_-)-☆
文献に矛盾があるということは、原因は著者(または編纂者)の意図かさもなければ著者は気付いていたが不可抗力なのか?あるいは著者が気付かなかったか?ですが最後の可能性はほとんどないとすれば、先の二つのうちのひとつです。
どうやって真実に到達できるかを考えると、二つの仮説でそれぞれ何故なのかを合理的に説明できる仮説を選ぶべきです!
そして、それぞれの仮説を事実、つまり考古学や民俗学などの成果によって検証するとどちらが有望なのか分かってきます。
有望な方をさらに検証し続けると、仮説が信念に変わってきます。
信念がどのようにして形成されるかについてはC.S.パースが論文「信念の固着」(The Fixation of Belief 1877)で分析していますが、このような科学的手法から生まれた信念は多くの人々に受け入れやすくなります(詳細は「なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?( ゚Д゚)」参照)
最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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何故、こういう結果になるのか?書かれたものを正しく解釈しても、正しい結果にたどり着けないのはどうしてでしょうか?答えはこれしかありません。
①陳寿は邪馬台国の場所を知っていながら、後世の史家を騙したのか?
あるいは
②陳寿も知らないのですが、陳寿が元にした資料から、陳寿が考える間違った場所に誘導した?
のどちらかでしょう。
①ですが、陳寿がそこまで騙さねばならない理由があるとは思えません。ですから②が正解だと思います。
どうしてそこまで言えるのか、根拠が見つかりました。その結果、卑弥呼の墓も見つけることができました。
一言で言うと、倭国に出入りしていない陳寿があのような行程記事を書ける内容ではないからです。特に不弥国から邪馬台国への水行・陸行の表現からも分かりますが、もっと端的な証拠は、イト国を伊都国ととても深い意味のある国名にしていることです。これにより、行程記事を書いた人物を特定しました。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください。
そして、日本の歴史書と考古学や民俗学の成果から卑弥呼の日本最大の円墳「三柱山古墳」のある邪馬台国の場所を発見しました。そこには数々の不思議な伝承などがありました。
邪馬台はヤマ国に住む女王(台)を意味します。詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。
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卑弥呼の墓と推定できるものです。親魏倭王の金印や、鏡などは人が容易に持ち運べるものですから決定的な証拠ではありません。卑弥呼の墓の付近にはそれなりに数々の持ち運べない遺構・遺物・伝承などがあるはずです。畿内説の箸墓の伝承は大物主大神(大国主)の妻「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)」のものですから卑弥呼ではありません。たった13歳で女王にされ大国主の妃とされて、最後はヤマトに殺された気の毒な台与の話なのです。「ヤマトとトビ(大国主の別名トビヒコ)を何度も何度も唱えるお姫様」という意味なのですから。
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文献史学者が間違った原因は、陳寿ですら邪馬台国の正確な位置を理解していないながら、自らが想像した場所にそれとなく後代の史学者を誘導したのが原因ではないかと思います。それは、陳寿も帯方郡の報告書の中の邪馬台国への行程記事がデタラメだと気づいていたのですが、西晋の創業者の司馬懿が作らせた文章をあからさまに否定するなどできなかったからなのでした。
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どうやって真実に到達できるかを考えると、二つの仮説でそれぞれ何故なのかを合理的に説明できる仮説を選ぶべきです!
そして、それぞれの仮説を事実、つまり考古学や民俗学などの成果によって検証するとどちらが有望なのか分かってきます。
有望な方をさらに検証し続けると、仮説が信念に変わってきます。
信念がどのようにして形成されるかについてはC.S.パースが論文「信念の固着」(The Fixation of Belief 1877)で分析していますが、このような科学的手法から生まれた信念は多くの人々に受け入れやすくなります(詳細は「なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?( ゚Д゚)」参照)
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