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#2022-05-22 00:40:41に公開し、本文の最後に「日本書紀が隠した歴史の真相はこれから必ず明らかになるのだと思います(^_-)-☆」と書きましたが、その後いろいろと分かったことがありますので、【関係記事】を追加しました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)
最近この動画仁徳天皇陵に入れなくなった驚愕の理由…調査で発見された歴史を覆す埋葬者の正体【都市伝説】【ミステリー】【ぞくぞく】
115,924 回視聴 2022/05/17 ぞくぞく家族団RUNチャンネル@YouTube をアップしていただいお陰で話題に事欠きません。そして、今回もタイトルのとおり、古代史を揺るがす大発見をしてしまいました。ウップ主様には心より感謝いたします。どうぞ最後までお付き合いください(*^▽^*)
刮目天
とても興味深く拝見しました。
仁徳天皇の陵墓ではない可能性が指摘されています。
実在人物ではなく仁徳天皇は偶像かも知れません。
日本建国を解明して、応神天皇を初代天皇(ヤマトの祭祀王)と考えており、崩御後に後継者を決めるための抗争があったと考えています。菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ)の話など不可解で日本書紀は信用できませんよ。当時の実権を持っていた大王はニギハヤヒ大王直系の王で、物部氏と尾張氏が支え、そして、応神帝の両親大国主と台与の一族(葛城氏などと息長氏)そして卑弥呼の一族(和邇氏)が有力で、応神帝の皇后や妃を出しており、これらが二つに分かれて相続争い・権力争いをしていたと考えています。
大仙陵古墳は、これらの抗争が一段落して生駒山・金剛山・葛城山系の西側の無防備な場所に都を置くことができるようにした大王(倭の五王のだれか)だと思います。民のかまどの煙が立っていなかったのは、長引く騒乱の為でしょう。応神陵も大和のはずですから虚偽かも知れませんね。もっと陵墓の発掘調査をしてもらわないと日本書紀の内容は真相には程遠いと思いますよ。日本書紀は藤原不比等が藤原氏のために作ったデタラメな歴史書だったからですよ(^_-)-☆
さて、wiki「菟道稚郎子」によれば、郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。とあり、上で述べた不可解な話というのはWikiによれば次のとおりです。
郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。
『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。
なぜこのような謎があるのかを、よくよく考える必要があります(;一_一)
日本書紀は知られたくない何かを隠そうとしているようです。
上の図のとおり、神武天皇と応神天皇のそれぞれ崩御後の話がよく似ているのです。天皇が崩御すると弟が皇太子になっていたのを不満に思った兄が反乱を起こします。しかし、反乱した兄が殺され弟が即位しないで、その弟か兄に皇位を譲る話になっているのです。
古事記もそうなっていますが、神武天皇崩御後のことが少しだけ異なります。古事記は歴史の真相を日本書紀と少し違う話で、それとなく暴露しようとする意図があるようです。神武の皇子に『古事記』では「日子八井命」(他文献では「彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)」等とも表記される)という、その事績が分からない人物を挿入しています。これがなければ応神天皇の皇子たちの話とほとんど同じです。つまり古事記は、宇治天皇に気付くようにそれとなく導いているようです。応神天皇は初代のヤマトの祭祀王だと突き止めました。だから、神武天皇の神話は史実を誤魔化すために作られたものなのです(「正しい建国史を知ろう!(^_-)-☆」参照)。(2022.5.22 赤字追加)
ではなぜ、日本書紀が宇治天皇を隠さねばならないかを考えてみると、本当は表に出ていない別の人物が天皇だった事実を隠すために、宇治天皇の存在が邪魔だったと気付きます。
さあ、一体その人物はどなたでしょうか?
実は、「日本書紀だけでなく続日本紀までもが?(*´Д`)」で紹介した長屋親王説、つまり父の高市皇子が本当は天皇だったと思われる話です(注1)。
日本書紀と続日本紀からは、以下のように考えられています。
686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉天武天皇が崩御されて、皇太子だったと思われる大津皇子を、皇后鵜野讃良が藤原不比等と謀り、自害に追いやりました。皇太子だったとされる皇后の子草壁皇子は689年に病死してしまいました。そこで、皇后が草壁の幼い子珂瑠(軽、かる)が成人するまで持統天皇として即位しました。結局701年に持統天皇が譲位して、当時15歳という先例のない若さで文武天皇が即位する話になっています。
ところが、高市皇子が天皇に即位しているとしたら、通説のこの話は少し違うものになります。鵜野讃良と不比等は草壁皇子に即位させる(皇太子とする)条件で、大津皇子謀殺の代わりに高市皇子に即位させたのかも知れません。ところが高市皇子は持統天皇10年7月10日(696年8月13日)に薨去したとされています。生年ははっきりとしないようですが、四十そこそこの若さで他界したとあります。そこで、高市皇子が即位すると草壁皇子が薨去したために、優秀な長男長屋王を皇太子にしようと考えたので、二人は天皇を弑逆した可能性が考えられます。(2022.5.27 赤字追加)
高市皇子は天武天皇の長男で、壬申の乱でも父を助けて活躍した人物ですが、母が宗形徳善の娘で、その位が低いために即位できないとされています。ところが、応神天皇の皇子菟道稚郎子の母は和邇氏の日触使主(ひふれのおみ)の娘なのです。和邇氏はムナカタ海人族で、卑弥呼の弟の赤坂比古の子孫です。赤坂比古が日触使主のことではないかと考えています。ですから菟道稚郎子が皇太子となっているということから、高市皇子の母が身分が低いために皇位に付けないというのも怪しい話です。
ですから、宇治天皇として即位したことを隠す理由は、宗形氏の一族が天皇であったことを知られないため。つまり高市皇子が即位していた事実を隠ぺいするために作った話だと考えられます。
そして、応神天皇の皇后仲姫命は景行天皇の孫品陀真若王の娘としていますが、景行天皇は実は尾張王建稲種命のことなのです。和邇氏の祖赤坂比古が、卑弥呼が難升米に暗殺されたことを知り、副将として倭国追討軍に参加していたムナカタ海人族の王狗古智卑狗に投降したと考えられます。そのため難升米は半島に逃亡し、無傷で倭国を手に入れた景行天皇の孫の仲哀天皇とされた尾張王乎止与命(おとよのみこと、「先代旧事本紀」の尾張国造の祖で『新撰姓氏録』では小豊命)が狗奴国を裏切って倭王に立ったと推理しました。そのために、狗古智卑狗のムナカタ族と内戦となって、赤坂比古が直接乎止与命を討ったと推理しています。乎止与命の墓が鳥栖市赤坂古墳です。九州最古級の前方後方墳です。
ですから、父の敵討ちで九州に遠征した尾張王建稲種命が赤坂比古を討ち、赤坂比古は鳥栖市愛宕神社古墳に葬られたと推理しています。直径約140mの大型円墳です。この史実を隠すために建稲種命を景行天皇としたわけです。景行天皇の孫の仲哀天皇は父のヤマトタケルが薨去して38年後に生まれた計算になりますから、直ぐバレる杜撰な作り話なのです( ^)o(^ )(2024.4.21赤字修正)
ということで、皇太子だった菟道稚郎子が宇治天皇に即位している可能性が高いので、仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したという話は真っ赤なウソだと分かります。つまり、聖帝とされた仁徳天皇大鷦鷯(おおさざき)の母仲姫命は尾張王建稲種命の孫ですから和邇氏とは仇同士なのです。大山守皇子も母は仲姫命の同母姉ですから尾張氏の系統でした。応神天皇崩御後の抗争は建国時代の確執だったようです。
【付録】
【関連記事】
血塗られた女帝の秘密(*´Д`)
日本書紀では女帝の前例を創作しましたが、二人とも即位していないこともわかりましたよ。持統天皇の後の女帝も誰一人天皇にはなっていないことは京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺の祭祀の記録からも判明しています。
空白の世紀と倭の五王の謎(その1)・(その2)・(その3)
古事記の暗号を解いて謎を解明したら二人も天皇が隠されていましたよ(^_-)-☆
神話が隠した不自然な史実(;一_一)
抹殺された尾張氏の謎(その1)~(その3)
卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)
愛宕権現の正体は赤坂比古か?
(注1)高市皇子の長男長屋王は、「官位は正二位・左大臣。 皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。」(wiki「長屋王」より)とあるが、同wikiの以下の長屋親王説にあるとおり、長屋王は親王宣下を受けているので、高市皇子が天皇に即位していたと考えられる。ということは持統天皇も即位していないことを意味する。
【長屋親王説】
長屋王の邸宅跡から発掘された木簡に「長屋親王宮鮑大贄十編」の文字があったこと、『日本霊異記』の長屋王の変に関する説話では「長屋親王」と称されていることなどから、在世時には長屋親王と称されていたとする学説もある。長屋王と吉備内親王の間の子供達が外祖母にあたる元明天皇によって二世王の待遇(元来は天武天皇の三世王)を受けていることなどから長屋王に対しても特別待遇がされていた可能性もある。通常の律令解釈によれば、親王は天皇の息子または孫に対して天皇から親王宣下を受けない限り名乗れなかったとされる。
つまり、桓武天皇の命により編纂され、最終的に延暦16年(797年)に成立した続日本紀も藤原氏に不都合な史実を隠ぺいしたと考えられる。京都の天皇家の菩提寺の泉涌寺では明治時代になるまで、天智天皇から江戸時代までの女性天皇を誰一人祀っていないことが知られている(関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」(ワニ文庫)2016、p.243)。
最初の女帝とされた推古天皇は、隋書に倭の大王が男であることが明記されているから、フェイクであることは明らか。また、次の皇極(斉明)天皇も、万葉集研究家渡邊康則氏が「聖徳太子は天皇だった」(青空出版)で実在しないことを突き止めているから、すべての女性天皇はフェイクだったと考えられる。
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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#2024-08-19 18:52:17に公開した「記紀が編纂された本当の理由?(@_@)」でこのタイトルの内容を説明しましたが、別の動画にも少しだけ別の視点から説明しました。よろしければお付き合いください(#^.^#)
【ゆっくり解説 】邪馬台国はなぜ滅びたのか...
やばい古代史@YouTube
@katumoku10
興味ある話題をありがとうございます。
おっしゃるとおり、日本書紀は天皇の歴史書ではなく藤原氏による勝者の歴史書ですからね(^_-)-☆
卑弥呼が日本書紀で隠された理由は、2.3世紀の日本建国の過程を解明しないと分かりません。
藤原氏の蘇我氏への遺恨というのはあるかも知れませんが、不比等が一番隠したかったことは、これでした。
天武天皇崩御後に即位したと推理できる高市皇子(仮称宗形天皇)を暗殺して、持統天皇だったことにした鵜野讃良(天武天皇の妃、天智天皇皇女)の15歳の孫を文武天皇に即位させて、不比等の娘の宮子を妃とさせて、藤原氏に都合の好い律令制を作って権力を握った事実を隠したのです。
藤原氏の出自を隠し権力の正統性を主張するために高天原神話を作って、都合の悪い建国時代の史実を隠し、歴史を改ざんしています。
卑弥呼は和邇氏の祖赤坂比古の娘でムナカタ海人族の姫巫女市杵島姫です(天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神)。不比等は宗形腹の高市皇子が出自が低いので天皇になれないとウソをついたことが、長男の長屋王が親王宣下を受けていたことからバレていますので推理できました。
先に完成したとされる古事記は、実は9世紀に突然表に出てきたもので、古事記に関して正史に何も記録はないし、日本書紀が古事記を参照したと分かる痕跡もないのです。日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露するための暗号書だったことが分かりました。(2024.8.29 赤字追加)
【卑弥呼の死の直前の倭国と狗奴国の対立】
これによって卑弥呼の死後に13歳の台与(記紀の神功皇后のモデル)を倭国女王に立てて倭国を支配した大国主久々遅彦(倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、記紀の武内宿禰)を、纏向遺跡を王都とした狗奴国大王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇、スサノヲの弟ニギハヤヒ大王の子孫)が討って、270年頃に列島を統一しました。その後に大国主の祟りによって大国主と台与の子応神天皇をヤマトの祭祀王にして、狗奴国を邪馬台(ヤマト)と呼ぶことにしたのです。この史実を国譲り神話にしています。
日本神話は不比等によって8世紀に作られたものなのです。
そして記紀神話となると江戸時代にできたものなのです。
それまでの神話は、日本書紀の神話が神仏習合や修験道、道教などの影響を受けた、ナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀と呼ばれるものでしたが、明治の廃仏毀釈運動で徹底的に破壊され、国史が学校教育で教えられたので日本国民に浸透しているのです(詳細は「卑弥呼と天照大御神が同一人物?(@_@)?」参照)。
そこがわかれば、日本書紀のウソは見抜けますよ。解明の科学的手法は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください(^_-)-☆
【関連記事】
国譲り神話は都合の悪い史実を隠すためだった!(^_-)-☆
実際に起こったことは卑弥呼の死後に倭国王に立った尾張王乎止与命(おとよのみこと)を大国主が討ったので、父の仇で九州遠征した建稲種命(熱田神宮祭神、ヤマトタケルのモデル)が大国主を討って列島を狗奴国が支配したという話でした。建稲種命の活躍を国譲り神話でタケミカズチの話にしましたが、さらに加えて景行天皇の九州遠征として二重に隠しましたよ。でも、纏向遺跡の外来土器の半数を占めるのが東海のものでしたので、尾張王の活躍が判明しましたよ(^_-)-☆
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
神話が隠した不自然な史実(;一_一)
不都合な史実を隠すために持統天皇を登場させ、皇后が即位する前例も作りましたので、多くの皆さんは騙されて女性天皇を待望しているようです。しかし、日本の歴史上、女性天皇などは存在しないことがバレてしまいました。日本の皇位継承は皇統の男系男子だと紀元前四世紀の最初の奴国王天御中主の時代から決まっているのですよ(^_-)-☆
天智天皇とは何者だ?( その4 )
最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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#2024-08-04 23:18:06に記事にしましたが、以下の重要な点を書き洩らしたので(注1)を追加します。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)
#本題に関連して、すでに「隋書にある倭王の謎?」に記事にしました。開皇二十年(600年)に倭国王アメノタリシヒコが隋の高祖文帝(楊堅)に倭国の政治理念を「俀王以天為兄以日為弟(天は倭王の兄、日は倭王の弟)」と述べ、さらに「天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟(天が未だ明けざる時に出でて政(まつりごと)を聴き、跏趺(かふ)して坐す。日出ずれば、すなわち理務(政務)を停め、我が弟に委ねむと云ふ)」と説明した一見不可解な話ですが、結論は以下のとおりでした(塚田敬章「隋書俀(倭)国伝」より引用)。
実は、このことは倭国の史実に基づく倭王の政治理念ではないかと考えられます。107年に後漢に朝貢した奴国宮廷楽師帥升(正しくは師升、詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)らに奴国王スサノヲが殺され四百年以上続いた筑紫の奴国が滅ぼされました。奴国を脱出した弟ニギハヤヒが、師升の倭国とも変わらず、交易によって潤っていた裏切り者の吉備の在地勢力を倒し、奴国を再興しました。そして兄神スサノヲの霊力によって弟のニギハヤヒ大王の子孫である倭王(大王、オオキミ)が師升の子孫を倒し、大和(大倭)で政権を打ち立てました。纏向遺跡の旧奴国は魏志倭人伝では狗奴国とされました。
隋書では高祖文帝(楊堅)が崩御した後の煬帝の大業三年(607年)にアメノタリシヒコは「日出處天子致書日没處天子無恙云云(日出ずる所の天子、書を日没する所の天子に致す。恙なきや、云々。)」という有名な手紙を送っています。日本書紀から推古天皇(在位:593-628年)の皇太子の聖徳太子だとされています。聖徳太子の父用明天皇(生年不詳 、 崩御:587年5月21日?)は即位元年(585年?)春一月一日の記事に、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を立てて皇后としたとあります。そして、四人の皇子を産んだとあり、
一番目を厩戸皇子(うまやどのみこ)という。
またの名を豊耳聡聖徳(とよとみみしょうとく)という。
あるいは豊聡耳法大王(とよとみみののりのおおきみ)という。
あるいは法主王(のりのうしのおおきみ)という。
この皇子は初め上宮(かみつみや)にお住みになった。
のちに斑鳩(いかるが)に移られた。
推古天皇の御世に皇太子となられた。
すべての政務を統括して、天皇の代理をされた。
そのことは推古天皇紀にある。(「日本書紀・日本語訳「第二十一巻 用明天皇 崇峻天皇」より)
とありますから、聖徳太子は推古天皇の皇太子だが、政務を統括し、天皇の代理の実質的な大王(おおきみ)なので、隋書(656年完成)を読んでいるはずの日本書紀の編纂者は倭国大王アメノタリシヒコは聖徳太子のことだという布石をしたようです(注1)。
しかし、推古天皇は、日本書紀で天武天皇皇后だったとする鵜野讃良(持統天皇)が即位する前例として創作した最初の女帝ですので、架空の天皇と突き止めています。ですから、上の文章も虚偽と考えています。そうすると、隋と交流した倭国王アメノタリシヒコはいったい誰なのか?ということなのです。
聖徳太子の正体については、すでに「天智天皇とは何者だ?( その1 )」で、万葉集研究家渡辺康則氏の蘇我蝦夷が聖徳太子で蘇我馬子とされた用明天皇の後に即位した豊浦天皇だという説を紹介しています。
もしも、聖徳太子とされた豊浦天皇が開皇二十年(600年)のアメノタリシヒコだとするとスサノヲ・大国主の子孫の本当のヤマトの大王ですので、「天を兄、日を弟」と言うはずはありません。ということは、ニギハヤヒ大王の子孫と推理した敏達天皇が年代的に、アメノタリシヒコの可能性があります。敏達天皇は日本書紀では、生年538年?〈宣化天皇3年?〉、即位が572年4月30日<37歳>?で崩御が585年9月14日<47歳>?とこれも確実ではないようです。もしも、敏達天皇が開皇二十年(600年)まで生きていても、63歳ですからおかしくはないと思います。つまり開皇二十年(600年)に隋の高祖文帝に使者を送ったアメノタリシヒコは、ニギハヤヒ系大王(龍蛇神国の大王)敏達天皇だったと考えられます。
隋書の開皇二十年(600年)のつづきの記事に、「王の妻は雞彌と号す。後宮は女、六、七百人有り。太子を名づけて利歌彌多弗利と為す。城郭無し。内官は十二等あり。一は大徳と曰ふ。次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信。員は定数無し。軍尼一百二十人有り。なお中国の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼を置く。今の里長の如くなり。十伊尼翼は一軍尼に属す。」(塚田敬章「隋書倭国伝」訳より)とあるので、聖徳太子の官位十二階は中央集権化したヤマトの大王(雄略天皇か、その後の用明天皇以前のスサノヲ系大王)によってすでに制定されていたと考えられます。ですから、これが本当だとしたら十七条憲法も同様だと思います。
また、アメノタリシヒコの大業三年(607年)の手紙で、自分自身も隋の皇帝も共に天子としたので煬帝を怒らせていますが、上述のとおり、天は兄スサノヲ大王のことなので、天子はスサノヲの子孫という意味なのです。
そうすると、開皇二十年(600年)のアメノタリシヒコと大業三年(607年)のアメノタリシヒコは同じ名前ですが、違う人物でないとつじつまが合いません。つまり、600年から607年の間に政変があって、ニギハヤヒ系の大王(敏達天皇)からスサノヲ系の大王(蘇我馬子とされた用明天皇)に倭国王が入れ替わったことを意味します。
すでに仁寿四年(604年)に文帝が崩御して煬帝に代替わりしていますが、アメノタリシヒコ敏達天皇が新皇帝へ祝賀の使者を送った記録がないのです。ですから、倭国の政権交代に多少の混乱が続いたので、政情が沈静化した時期にアメノタリシヒコのまま用明天皇が遣使したと考えられます。とすれば敏達天皇崩御は604年の直前と推理できます。604年ならば敏達天皇は67歳で崩御ということです(^_-)-☆
結局、アメノタリシヒコは二人いたということなのです(^_-)-☆
下図は日本書紀に記された継体天皇の後の27代安閑天皇から37代斉明天皇までの系図です。
上述のアメノタリシヒコ敏達天皇の皇太子「利歌彌多弗利」はワカタラシヒコの間違いだと思います(注2)。皇太子ワカタラシヒコは押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)のことでしょう。
「雞彌(キミ)」は敏達天皇の皇后広姫のことです。息長真手王の娘となっていますが、息長真手王は息長氏とあるだけで両親は不明です。継体天皇の曽祖父の意富富杼王(おおほどのおおきみ、生没年不詳)の弟息長沙禰王の子という文献があるとwiki「息長真手王」にあります。意富富杼王は、応神天皇の皇子稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の子ですが、その母息長真若中比売は、架空の人物である日本武尊の曽孫なのです。恐らく息長真手王もニギハヤヒ大王の子孫の尾張氏の系統だと考えられます。記紀の神功皇后のモデルの倭国女王台与が息長氏の祖であることを隠すために創られた系図だと思います(下図の左側の継体天皇の系図参照)。
仲哀天皇の皇后が気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)ですから息長氏と尾張王はかなり親密な関係ではあったようです。共に前方後方墳を営んでいますから分かります。
(「空白の世紀と倭の五王の謎?(その3)」より)
武烈天皇は皇太子を決めずに崩御したので、有力豪族の大伴金村や物部麁鹿火などの推戴を受けて、応神天皇の五世孫の継体天皇を即位させたとなっています。
しかし、大伴氏は大国主・応神天皇系大王に従う大倭(ヤマト)の豪族ですが、物部氏はニギハヤヒ大王の子孫なのですから当時は敵対関係にありました。
もしも和解して継体天皇が即位したのであれば、直ぐに大倭(ヤマト)入りして即位儀礼を行うはずです。ところが507年に58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位し、その後19年間は大倭(ヤマト)入りせず、ようやく526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷ったとあります。極めて不自然なのです。また、崩年についても日本書紀では、531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に史上初の生前譲位し、同日に82歳で崩御したとあります。古事記では43歳と大きく異なります。継体天皇を迎えた場所も日本書紀は越前、古事記では近江と異なります。
「天智天皇とは何者だ?(その2)」で述べましたが、天智天皇はヤマトでは即位していないので、その前例として継体天皇を創作したのではないかと考えています。日本書紀はおかしな話を隠すために必ず前例を創作するようです(^_-)-☆
ですから、スサノヲ・大国主・応神天皇系のヤマトの大王は武烈天皇から安閑・宣化天皇に皇位継承されたと考えられます。そこにニギハヤヒ大王系の欽明天皇が吉備・筑紫の物部勢などを後ろ盾にして大倭(ヤマト)に乗り込んできたので、スサノヲ系のヤマトの大王を継承した用明天皇が欽明天皇の次の敏達天皇を討ってヤマトの大王を復活させたと推理しています。
ですから日本書紀では用明天皇の一族に「我れ蘇(よみがえ)り」という意味の蘇我氏(うじ)を与え、しかも「どこの馬の骨か?」と言わんばかりに「馬子」と名付け、そして、その子をヤマト朝廷にまつろわぬ者「蝦夷(えみし)」という名前を付けて不比等たちは楽しんだようです(^^♪
しかし蘇我氏がもしもランクが下る渡来人ならば、はっきりと分かるように言うはずですが、そうしていませんので、れっきとした大王の血筋だったのでしょう。蘇我氏は和風諡号や諱に豊(トヨ)が付きますので近江の台与(トヨ)の息長氏(縄文系ムナカタ海人族)に繋がっている応神天皇・台与の子孫だと考えられます(;^ω^)
一応、おおざっぱな推論ですので、今後詳細を詰めていきたいと考えています。越前地方で大人気の継体天皇が架空の天皇という新説はご当地の方にはショックかも知れません。たいへん申し訳ありません。すでに明らかにした建国の歴史からの推理ですので、どうかお許しくださいネ。またよろしくお願いいたします(#^.^#)
(注1)ところが、用明天皇がアメノタリシヒコであることが「新唐書 日本伝」に「次海達、次用明、亦日目多利思比孤 直隋開皇末、始興中國通(次は海達(敏達の誤)、次は用明、また(ア)メノタリシヒコという。隋の開皇(581-600)の末ごろにあたる。中国と初めて通交した)」と一部内容は不正確ですが、明記されていました。
用明天皇は上述のとおり、文帝ではなく607年に煬帝への手紙を使者に持たせています。
新唐書は北宋の欧陽脩らによって1060年に成立していますので、その情報源は、雍熙元年(984年)に入宋した東大寺の僧奝然(ちょうねん)からだと考えられます。720年完成の日本書紀の編纂者は知らない情報です。
奝然は太宗に王年代紀を提出しており、隋に朝貢したアメノタリシヒコはどの天皇かと太宗が奝然に聞いた時に、敏達天皇と言うべきところを用明天皇だとうろ覚えで誤って答えたようなのでその記録が残っていたと考えられます。今のところ、奝然が分かっていて意図的に間違って伝える理由は思いつきません。
ところが、新唐書では王年代紀の筑紫城に奴国王が三十二代居たと間違って記録されているのを、1345年に完成した「宋史 日本国」には筑紫日向宮に居た二十三代の奴国王の名前を列記して正しています。宋史には、新唐書に書かれていないない奝然の記録がありますが、アメノタリシヒコのことがありません。代わりに、用明天皇の子の聖徳太子が開皇年間に使者を遣わしたとありますので、通説はアメノタリシヒコは聖徳太子のこととされているのです。
新唐書に聖徳太子の記事がなぜ書かれなかったのかは不審です。このことも新唐書の信頼性が損なわれている理由のひとつのようです。しかし、不思議ですが、アメノタリシヒコが用明天皇というのは半分正解ですね。(#^.^#)
(注2)第10代崇神天皇の次の垂仁天皇もニギハヤヒ大王系のヤマトの大王です。そして、次の景行天皇・成務天皇・仲哀天皇は尾張王だと推理していますのでニギハヤヒ系の王です。景行天皇の和風諡号が大足彦尊(おおたらしひこのみこと)、成務天皇が稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)で、仲哀天皇が足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)なのです。
タラシヒコはニギハヤヒ系の王のようですが、奴国(龍蛇神国)王の意味ではないかと思います。ですから奴国大王スサノヲの子孫の用明天皇もそのままアメノタラシヒコを名乗ったのだと考えられます(^_-)-☆
ちなみに新唐書日本伝で紹介された日本の王年代紀で奴国王の初代が天御中主で、姓はアメ(天)氏、「尊(みこと)」を号とするとあります(^_-)-☆
なお、成務天皇の宮は志賀高穴穂宮で現在の滋賀県大津市穴太とされています。ヤマトの大王ではありません。天智天皇とされた中大兄の宮も近江大津宮なのです。
最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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#いつも勉強させていただいている人気ブログsazanamijiro様の「神秘と感動の絶景を捜し歩いて」の以下の記事にコメントしましたら、早速お返事を頂きました。よろしければ、お付き合いください(#^.^#)
豪渓・そびえ立つ岩塔に謎の文字
2024/08/19 06:00
豪渓(ごうけい)は、岡山県の総社市北端から吉備中央町にかけて、高梁川支流槙谷川の上流に位置する渓谷です。
豪快な渓谷ですね!
またまた、良いところを教えていただき有難うございます。吉備の鬼ノ城よりももっと山奥ですね。
真言宗天柱山豪渓寺は修験道の修行場ですね。ネットで豪渓寺について調べたらご本尊の中に役小角そっくりの「じんべんさま」の像があったのでびっくりしました。
(「国土地理院地図」より)
「日神」と書かれた岩は雲梯峰?剣峰?どちらですか?
(写真をクリックするとこの記事に飛びますのでご覧ください(^^♪)
吉備は藤原不比等によって吉備津彦として隠されたスサノヲの弟のニギハヤヒ大王にゆかりの場所ですから。第19代奴国王(龍蛇神ナーガ国王)で天照大神尊、先代旧事本記で天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊ですね。
天柱山は多分、国生みの神伊弉諾尊の天之御柱から採ったのではないかと思います。スサノヲ・ニギハヤヒ兄弟の父で第17代奴国王です。真言僧が彫ったのでしょうね。
中山の天柱岩も龍蛇神(ナーガ)国王伊弉諾尊を意味しますね。
どうも有難うございました。今度機会があれば行ってみたいと思います(;^ω^)
katumoku10様
どの観光案内をみても、「雲梯峰と剣峰」としか書いてないので、記事の岩の名前がはっきりしないまま載せました。ところが高梁市役所に問い合わせると「烏帽子岩」なのだそうです。ついでに、「その烏帽子岩に神という字が彫られていますが何なのでしょうか?」と聞きましたが、どなたもその事実をご存じなかったようです。
え!烏帽子岩?(@_@)
驚きました(^^♪
日本ピラミッド葦嶽山の烏帽子岩と同じ名前ですね。
葦嶽山のほうはその名のとおりのような形状していますが、豪渓の烏帽子岩は角のある岩です。烏帽子ではないような形状ですので、なぜこの名前なのか?
それで、葦嶽山は日神天照大神尊ニギハヤヒが、殺された兄スサノヲを弔って、裏切り者の師升に復讐を誓うために作った巨石群の祭祀場だと推理していますので、そのことと関係があるのかも知れないと思っているところです。
方角がヒントになるかも知れないと思い、国土地理院の地図などで確認しています。
天柱山が329mですが、ほぼ真北の山の山頂が302mですので、そこが烏帽子岩のある場所でしょうか?烏帽子岩の方角まではわかりませんよね。撮影した場所は、屋根が左側に映っていますので、豪渓寺でしょうか?どのあたりになるのでしょうか?わかればお教えください(;^ω^)
今度秋になったらまた葦嶽山で天狗岩の鼻の方角をちゃんと測定して、その後、平津豊氏の論文にある鬼叫山の、特に方位岩の方角などを確認しようと考えているところです(#^.^#)
豪渓の烏帽子岩にはとても登れませんが、ドローンで撮影すれば測定できるかもしれませんね(^_-)-☆
いやあ、また楽しみが増えました!
お手数をお掛けして申し訳ありませんでした。どうもありがとうございました(^^;)
【関連記事】
日本ピラミッドの謎?(@_@)?
備後・吉備のストーンサークルと日本ピラミッド葦嶽山(@_@)
熊野信仰の秘密?【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その24)
【葦嶽山の秘密】能ある鷹は爪で指す?の巻!(;^ω^)
(クリックするとGoogle のMyMapに飛びますので、是非ご確認ください(#^.^#)
【葦嶽山の秘密】多婆那国は丹波の奴国!の巻( ^)o(^ )
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
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古事記日本書紀が編纂されるに至った経緯と本当の理由とは!?
進撃の信政2nd@YouTube
@katumoku10
とてもよく整理されていたので最後まで拝見させていただきました。有難うございます。
しかし、残念ながら記紀に関するご主張は誤りだということが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から判明しています。
日本書紀の中で創られた神話は、藤原氏にとって不都合な史実を隠ぺいする目的だったことが分かりました。また人代についても不比等やその父鎌足らが行ったヤマト王権に対する蛮行を隠すために歴史を改ざんしたのです。そして、藤原不比等は権力を握り、藤原氏にとって都合の好い大宝律令を制定させて、藤原氏が神社行政を握りますので、神社の由緒、祭神、社名までことごとく創作した神話に合わせて変更させています。近江八幡市日牟禮八幡宮に不比等がわざわざ出かけて社名を変えさせた証拠が、不比等の歌として残っていました。卑弥呼を隠すためでした(^_-)-☆
日牟禮(ひむれ)八幡宮 滋賀観光ホームページより
(「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)」参照)
しかし、当然、史実を隠されたことを不満に思う人々がいます。本当の祭神を摂社や末社や小さな祠でひっそりと祀っているのです。古史古伝についても、藤原氏に発覚した際の保険のために日本神話に沿う部分も作って、荒唐無稽な話の中で真実を伝えようという努力がされているという見方が正しいのです。
おっしゃるとおり、日本書紀よりも先に作られたことにした古事記は9世紀に突然表に出てきたのものです。正史に古事記の記録はありません。日本書紀が古事記を参照したと分かる痕跡もありません。古事記は日本書紀が隠した史実を、日本書紀の内容に沿って藤原氏に悟られないようにして暴露する目的の暗号書だったのです。(2024.8.29 赤字追加)
建国時代の事実と古事記の日本書紀と異なる部分を参考にすると暗号が解け、史実が浮び上がってきました。高天原神話のもとになった2世紀・3世紀の史実や空白の4世紀と倭の五王の謎や富雄丸山古墳の被葬者も判明しています。
皆さんは記紀が天皇の歴史書だと洗脳されているので、折角の史実にも気が付かないのです。例えば、日本の最初の王墓は紀元前4世紀初頭の福岡市吉武・高木遺跡です。弥生前期末から中期初頭の三代の王墓が見つかっています。宋史 王年代にある初代天御中主・二代目天村雲尊・三代目天八重雲尊とそれぞれの王妃や王子たちの墓があり、二代目王の墓からは三種の神器が揃って出土しているのです。そして4代目天爾聞尊(あめのににぎのみこと)から糸島平野・福岡平野を平定して春日市須玖岡本遺跡に王都を遷した史実が、天孫降臨神話の元ネタだったことが分かりました。つまり、日本の皇祖神とされた奴国王の史実が浮かび上がって来ました。
新唐書にある「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」というのが正しかったと判明したのです。
これによってその後の日本の歴史と隠された古代史の謎はほとんど解明できました。不比等が隠さねばならなかった史実も分かってきました。
よろしければ「刮目天の古代史」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)
【関連記事】
卑弥呼と天照大御神が同一人物?(@_@)?
記紀神話って江戸時代にできたの?(@_@)
空白の世紀と倭の五王の謎(その1)・(その2)・(その3)
これを解明したら二人も天皇が隠されていましたよ(^_-)-☆
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