goo blog サービス終了のお知らせ 

風のたより

電子計算機とは一極集中の現象が大であるが、その合間を縫って風の一頁を

八月(3) 季節.二十四節気.季語

2021-08-29 13:59:35 | 文化
横浜市長選挙で立憲民主党及び日本共産党の推薦・支持を受けた山中竹春が当選した。自民党は小此木八郎と林文子と割れたので、一本化出来なかったので負けた。割れた二人を合わせれば山中竹春の票を上回るが、何故割れたかを問うてない。

小此木八郎は菅義偉と両輪のごとくIRを推進してきた。それが政治屋だな。コロリと反対に転じた。林文子も反対から賛成へ転じた。政治屋とは主義主張がコロリコロリと変わっていく。安倍晋三からの路線であるが菅義偉に代わって、この男は説明をしない。理由を言わない、言えない。総理になってから日本学術会議の会員任命拒否から説明出来ない。記者からの質問をはぐらかす。官房長官からの姿勢は変わってない。親分に忠実に習うこともあろうが、原稿の棒読み、いや原稿さえ読めない

取りも直さず敗因は説明が無い、出来ないことに気付いてない。報道関係者も言わないが、今までIRに賛成が反対に転じても説明しない、出来ない。これじゃ人ならば言うことを聞かないな。こんな簡単なことが分からないな。これは菅義偉だけでなく、自民党の体質になりつつあるな。論理が無いと言うことは、感情で物事が決まるということだ

我が国には四季がある。気象庁のHPによると、知識・解説→気象に関する観測と予報の技術の解説→天気予報で用いる用語(予報用語)→予報用語について→時、地域、気象要素に関する用語→時に関する用語によると、春とは3月から5月まで、夏とは6月から8月まで、秋とは9月から11月まで、冬とは12月から2月までとなっている。一般的な認識であり、現実に即している

日本では明治6年(1873年)から暦を太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦(新暦)に切り替えたと。太陰暦とは月の満ち欠けを基準にし、太陽暦とは太陽の運行に沿っての暦であると。新暦8月31日は旧暦では7月24日であり、新暦の方が1ヶ月少々遅くずれている。そして国立天文台HPによると、季節が変化するのは、地球が自転軸を約23.4°傾けたまま公転することが原因であると。二十四節気(にじゅうしせっき)とは、1年の太陽の黄道上の動きを視黄経の15度ごとに24等分して決められていると。また七十二侯は二十四節気を細分化したもので、二十四節「気」と七十二「侯」をあわせて「気候」となったと

国立天文台HPでは、今年2021年の二十四節気を公表している
春とは、「立春」は2月3日、「雨水」は2月18日、「啓蟄」は3月5日、「春分」は3月20日、「清明」は4月4日、「穀雨」は4月20日、である
夏とは、「立夏」は5月5日、「小満」は5月21日、「芒種」は6月5日、「夏至」は6月21日、「小暑」は7月7日、「大暑」は7月22日である
秋とは、「立秋」は8月7日、「処暑」は8月23日、「白露」は9月7日、「秋分」は9月23日、「寒露」は10月8日、「霜降」は10月23日である
冬とは、「立冬」は11月7日、「小雪」は11月22日、「大雪」は12月7日、「冬至」は12月22日、「小寒」は1月5日、「大寒」は1月20日であった

俳句とは、季語のない自由な俳句もあるが、一般的には季語・季題があると。季語とは、季節とは、歳時記があると。歳時記によると、季節は二十四節気によっている。春とは立春から立夏の前日まで、夏とは立夏から立秋の前日まで、秋とは立秋から立冬の前日まで、冬とは立冬から立春の前日までとなっている

NPO法人「きごさい(季語と歳時記の会)」によると具体的には、春は二月、三月、四月、旧正月(陰暦の正月)、睦月(旧暦1月)、如月(旧暦2月)、弥生(旧暦3月)、安吾忌(2月17日)多喜二忌(2月20日)、兼好忌(陰暦 2月15日)、八十八夜(今年は5月1日)、薪能、等々である

夏は五月、六月、七月、卯月(旧暦4月)、皐月(旧暦5月)、水無月(旧暦6月)、柏餅、隠元忌(陰暦4月3日)、御柱祭(信州諏訪大社では、寅年、申年の5月4日、5日に開催)、府中祭(暗闇祭、府中市の大國魂神社の祭礼、4月30日から5月6日に開催)、佞武多(元は陰暦7月7日の七夕の行事、現在は8月に開催)、草田男忌(8月5日)、等々である

秋は八月、九月、十月、文月(旧暦7月)、葉月(旧暦8月)、長月(旧暦9月)、爽やか、月、竿燈、盂蘭盆会(旧暦7月3日から16日)、風の盆(9月1日から3日)、国男忌(8月8日)、原爆忌、終戦記念日(昭和20年8月15日)、宗祇忌(旧暦7月30日)、西瓜、新酒、文化の日(11月3日、明治節)、白秋忌(11月2日)、等々である

冬は十一月、十二月、一月、神無月(旧暦10月)、霜月(旧暦11月)、師走(旧暦12月)、蕎麦掻、竹馬、小春(旧暦10月の異称)、達磨忌(旧暦10月5日)、節分(立春の前日)、覚如忌(旧暦1月19日)、義仲忌(旧暦1月20日)、

小生は、季語とは旧暦を基にしたのかなと思っていたが、そうでもないな。旧暦が新暦より1ヶ月ほど早くなってることを加味している

国立天文台HPでは過去の暦を保存して公表しっている。因みに明治5年(1872年)の旧暦では、雨水が1月12日、啓蟄が1月26日、春分が2月12日、清明が2月27日、穀雨が3月13日、立夏が3月28日、小満が4月15日、芒種が4月30日、夏至が5月16日、小暑が6月2日、大暑が6月17日、立秋が7月4日、處暑が7月20日、白露が8月5日、秋分が8月21日、寒露が9月6日、霜降が9月21日、立冬が10月7日、小雪が10月22日、大雪が11月7日、冬至が11月21日、小寒が12月7日、大寒が12月22日になっている。何故か立春が見当たらない

明治6年(1873年)の新暦では、小寒が1月5日(旧暦12月7日)、大寒が1月20日(旧暦12月22日)、立春が2月4日(旧暦1月7日)、雨水が2月18日(旧暦1月21日)啓蟄が3月5日(旧暦2月7日)、春分が3月20日(旧暦2月22日)、清明が4月5日(旧暦3月9日)、穀雨が4月20日(旧暦3月24日)、立夏が5月5日(旧暦4月9日)、小満が5月21日(旧暦4月25日)、芒種が6月6日(旧暦5月12日)、夏至が6月21日(旧暦5月27日)、小暑が7月7日(旧暦6月13日)、大暑が7月23日(旧暦6月29日)、立秋が8月7日(旧暦7月15日)、處暑が8月23日(旧暦7月1日)、白露が9月8日(旧暦8月17日)、秋分が9月23日(旧暦8月3日)、寒露が10月8日(旧暦9月17日)、霜降が10月23日(旧暦9月3日)、立冬が11月7日(旧暦10月18日)、小雪が11月22日(旧暦10月3日)、大雪が12月7日(旧暦11月18日)、冬至が12月22日(旧暦11月3日)となっている。

因みに明治5年12月3日の旧暦が明治6年1月1日に変えた。これらは国立天文台がHPで公表している。市民は国立国会図書館に出向かなくても、居ながらにして拝見することが出来る。民主主義とは面倒で不合理な、いや非合理な制度であるが、これは民主主義国家においては基本の基である。埴谷雄高は不合理ゆえに吾信ずと言ったが、そういうことはあるな。公文書とは公務員の手を離れたら市民の共有財産になる。権力者の都合で改竄や隠蔽することは、民主主義国家とは言えない。ましてやこういう者を選挙で投票すると言うことは、自ら主権者を辞することになることになり恥ずかしい行為である。それは選出した者とともに、それを容認する者も羞恥心を持つべきである

二十四節気の月日は太陰太陽暦(旧暦)でも太陽暦(新暦)でもほぼ同じ時期になっている。太陽の黄道上の視位置によるため旧暦でも新暦でもほぼ同じとなるため、歳時記においても旧暦と新暦の月日のずれは考慮済である。「暦の上では」とか言われるが、現実の季節感からずれている。その理由について、株式会社ONWAが運営している「記念日のしおり」「二十四節気の一覧とそれぞれの意味をわかりやすく解説」によると、二十四節気は諸説あるが、春秋戦国時代の中華大陸、黄河下流域で誕生したと、そのため名前や語源は黄河下流域の気候を元に作られたと、その後飛鳥時代だった6世紀ごろ日本に伝来したと、名前や時期も含めて、ほぼそのまま取り入れたと、そのため黄河下流域とは気候も違うので、名前や時期・語源と実際の気候がズレていると

ウィキペディア「二十四節気」では、このような事情から2011年、日本気象協会は現代日本の気候に合わせた新しい二十四節気を創造する事を目標とした準備委員会を設けた。一般からも意見を募り、2012年の秋頃には「21世紀の二十四節気」を発表し、周知させていきたいという意向を示していたが、「これまで培われた微妙な季節感を混乱させる」として反対の声が多く寄せられ2012年9月に計画は中止となり、現在でも二十四節気はそのまま使われている。一方、中国における「二十四節気」は、2016年10月31日ユネスコが無形文化遺産への登録勧告を決定していると

然れども昨今は気象変動が激しいが、やはり日本独自の季節を反映させることが必要であろうな。令和3年から気象庁は生物季節観測指針を大幅に変更した。生物季節観測の目的では、「その目的は生物に及ぼす気象の影響をしるとともに」が削除され、方法でも「目視又は聴力によって行い」から聴力が削除されている。観測対象種目も植物は34種類があじさい、いちょう、うめ、かえで、さくら、すすきの6種類に減少し、動物の観測は無くなっちゃった。柿、落葉松、栗、百日紅、水仙、たんぽぽ、チュ-リップ、椿、梨、桃、りんごなどは削除された。開花、満開、紅(黄)葉、落葉を目視していたがこれも発芽日を削除した。昔の気象庁は大変な仕事であった。機器による観測でなく、目視だから街や村に直接出向いていた。動物が鳥が虫が削除されたので聴力も無くなった。気象官も一見風流であったが、現実に即応せざるを得なかったかな。それなら二十四節気も現実に対応してもらいたいな。ユネスコの勧告が影響しているのであろうかな

春分は太陽黄経が0°であると。観測点はどこか分からない。太陽黄経は観測点によっても異なるだろう。中国からでも日本からでも異なるだろう。標準時間は日本においては、東経135°子午線と定めている。物語では木下順二、山本安英の「子午線の祀り」もあったがな

天文学、測量に関しては伊能忠敬がいた。商人、名主であったが、50歳で隠居して江戸へ出て天文学・暦学を学んだ。56歳から日本全土に測量に出かけ74歳没するまで測量を続けたと。偉人とは数多くいるが伊能忠敬ほどの偉人は見当たらないな

気象庁とは、かって久保栄が「日本の気象」を描いた。気象庁は官営であったが、今では民間で気象予報を手掛けるようになった。気象庁の気象予報官が資料や情報に基づき予報を行い、それに基づいて民間(気象庁以外の者)の気象予報士でも予報業務が出来るようになった。そのさまは、雲泥の差と言える

山桜

2020-10-17 11:21:53 | 文化
山桜、1時間30分ほどの映画である。原作は藤沢周平の「山桜」である

藤沢周平の原作は映画、映像の世界では良いんだな。映像にし易いのかも知れない

小説の原作を映画化した場合には、原作より落ちるのが多い。原作を参考にして映画を作るのだろうが、映画監督にすれば原作とは別物で監督の作品なんだろうな。オーケストラも指揮者によって作品は異なってくると

浦山桐郎がいた。「私が棄てた女」ではミツをオーディションにて小林トシ江を起用した。まるでタコ部屋なんだな。外部との接触を一切禁じ、浦山桐郎のイメージ通りの女を作成した。小栗康平も泥の河だったかな、少年を公募で起用し、同じく外部との接触は出来得る限り断ち切った。終わった後に少年から思いっ切りぶん殴られたと

「山桜」の冒頭で、磯村野江(田中麗奈)が墓参りの帰りに山桜の枝を折ろうとする。しかし手が届かず足袋を汚してしまう。そこへ手塚弥一郎(東山紀之)が通りかかり手を伸ばして山桜を折って野江に渡す

櫻切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿と言われる。桜を折る行為とはと思い、小生には違和感があった。昔は桜と言えば山桜、吉野の桜なんだな。明治になって染井村の植木職人が新しい品種の桜を改良した。染井村の桜からソメイヨシノと言われた

従来の山桜は花が開花すると同時に葉も伸びる。葉の伸びはじめは緑色だが次第に赤くなると。吉野の山桜は花と赤い葉が一緒である。「山桜」の葉は緑、若葉、青葉と薄桃色の花、気品がある。どこで撮影したか知らないが、1本だけの山桜は気品がある

小林秀雄は明治の文部省の役人は尋常小学校の校庭に染井吉野を植えたと、品が無いと。「山桜」の桜の花と木を見ると、小林秀雄の説も大いに納得するな。吉野の山桜は赤茶けた葉であったので、染井吉野の絢爛豪華さとは比べようがないが、「山桜」の山桜を見ると、間近に見ると良いものだわ

山桜は山に群生している。山では肥料が無いだろうが、春を告げると花開く。遠くに見えるので、山笑うようでもある。里で山桜に会うことは余り無い。しかし桜を切るのは?

櫻切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿とはソメイヨシノを指したのであろうか。確かに染井吉野は寿命が短いと。三春には枝垂れ櫻が多い。滝桜も養生して蘇生したと

「山桜」は極端に台詞が少ない。役者の動作と周りの情景だけである。山桜にしても花瓶に生けても生きてくるんだな。そういう意味では華道も存在意味があろうかな

手塚弥一郎(東山紀之)は母一人、子一人の家、しかも剣の達人。以前に出戻った野江に縁談を申し込んだが、断られた。家庭環境と剣一筋では人柄までは考えが行きつかない。どこの藩でもそうだろうが、腹黒い私腹を肥やす重臣はいる。重臣ゆえに改革者であるゆえに家臣たちは異を唱えられない。代案もないし、改革の流れに乗らざるを得ない

手塚弥一郎(東山紀之)は下級藩士。職務には忠実である。陰では重臣の考えを批判する者もいるが、批判者には群れをなさない。農業とは天候に作用される。長雨がたたり不作になる。百姓とは百種類の作物を育てると言われるが、稲作が最も腹を満たすし、年貢は米である。しかも凶作に乗じて年貢率は増加する

長雨で凶作になったので、婆さんや子は弱いものゆえに腹をすかして死んでゆく。ある時手塚弥一郎(東山紀之)は意を決して悪徳重臣と道で会い刀を抜く。重臣の手下をあっと言う間に峰打ちで倒し、重臣に刃を向ける

重臣は逃げない。やはり腐っても武士だな。逃げずに刀を抜いて手塚弥一郎(東山紀之)に立ち向かう。手下も倒され援軍もいないため、剣の達人に立ち向かう。現代に例えると、論理でくれば論理で戦うんだな。手塚弥一郎(東山紀之)は悪徳重臣を切り殺し、黙って大目付の屋敷まで歩いていく

普通では藩内で上司に剣を抜く。刃を向ける。良くて切腹、悪ければ斬首刑だな。しかし多分、悪徳重臣は切り殺されたのであろうな。殺されたから重しが無くなったので、裁きも出来なくなった。裁きをする者が居なくなった。刑を強行すると百姓の反感を買う

手塚弥一郎(東山紀之)は自己弁護もせず、弁解もせず、助けも請わず淡々として黙している。まさに忍だな。何を忍んでいるか。耐えてはいない

人名で「忍」と言う名がある。普通は女性の名だが、男にもいる。知り合いに「忍」と言う名前の男がいた。若い頃は忍という名前が嫌だったと。分かるな

小生の出身の高校も校訓が「忍」だった。小生も何故「忍」としたか分からない。まあ忍ぶも良いかな。忍ぶ忍ぶれば、偲ぶにも通じるかな

「山桜」の登場人物は科白が少ない。また人の良い悪いがはっきりしている。良い人間はどこまでも良いし、悪い人間、下賤な人間はどこまでも卑しいな。しかれども勧善懲悪とも違うな。物語は淡々として進行していく

時代劇にしても西部劇にしても、良い人物と悪い人物がいる。現代劇と違い、人の良い悪いが色分けされている。はっきりしている。それが人の好さが清々しい、清涼感が漂ってくる。それが時代劇の好さかもしれない。また限界かも知れない。しかし、さっと一服の薫風の感がある

小説だけでなく、世とは理不尽なことがまかり通る。加藤唐九郎はかって、芸術の上では何をやっても良いと。寺山修司は芝居とは演劇とは一つの実験だと。訳も無く、一刀両断とはあり得る。論理では解明できないことも多い。しかれども胸に秘めることもあり得る

榎本三恵子の蜂の一刺しではないが、言葉に出したら消えてしまうこともあり得る。シャボン玉のように口にしたら飛んでいっちゃうこともある

高橋治が語っていたが、無法松の一生をベネチアに持って行ったが、口に出さない恋愛感情が分からなかったと。黙して語らずとは恋愛だけでないだろうな


2015-11-30 20:11:57 | 文化
明日からは師走、時の移りは早いものだ。

方丈記の冒頭は、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは・・・・。

方丈とは一丈四方の面積である。鴨長明は方丈庵で考えた事をしたため方丈記として世に出した。丈とは尺貫法なんだな。1間は6尺、1尺は約30.3センチ、1坪は1間四方である。物の本に寄れば、1丈は約3.03メ-トルであると言う。方丈は四畳半よりは若干広い面積である。

昔の大工は、曲尺や鯨じゃくをもって建造した。尺貫法とは面白いもので、メ-トル法に換算すると、端数がでるんだな。10進法で言えば割り切れない。1間は6尺だので、1÷6は割り切れない。面積でも1畝は30歩で平方メ-トルでは端数が残る。

この尺貫法廃止運動に逆らったのは永六輔。孤立無援の戦いだったな。文化人と言う言葉は軽薄に感じる。文人と言うと重厚な感じになる。同様に芸能人と言うと軽薄な感じ、芸人と言うと深みを増す。

もっとも、永六輔が言っていたが、助平一筋で紫綬褒章を頂いた小沢昭一がいたから、芸人と言う言葉も当てにはならない。しかし、あの尺貫法推進運動をした永六輔は勲章ものだったな。

パソコンとは正反の二進法。丁半の博打の世界に似ている。あの尺貫法廃止法から日が経って、今ではメ-トルが板についてきた。三分一湧水のように二分の一と比べ、割り切れないものが多かった。

しかれどもパソコンの浸透に寄って、この世は良いか悪いか、正か反かの世界に慣れてしまった。そう言えば、パンなどは今でも一斤、二斤と斤を使っているんだな。職人の世界もメートルに慣れ、尺貫法を知らない世代も生まれつつある。

昔は110ヤ-ドハ-ドルがあったが、今ではどうかな。ゴルフの世界でも昔はヤ-ドでやったが今はどうかな。段々と世界は一局化されてきている。ゴルフなどは昔は精神論を言うシンシがいたが、今は若者が台頭してきたので、精神論を述べる老人はいなくなったな。何瀬、水泳のように筋肉そのもののスポ-ツそのものかも知れない。

もっとも、城山三郎もゴルフをやっていたそうな。城山三郎の、盗聴法反対運動もたった一人の反乱だったな。国家に楯を付いた者には、国家からの勲章は似つかわしくない。乱それ自体が勲章だな。加藤唐九郎の永仁の壺のように。


丁か半かは選挙に虚実に現れる。俺などは、どうせ選挙ならば、鉛筆の代わりに賽子を置けと言っているがのう。小選挙区制になってからは、まさに丁か半かだな。パソコン慣れした現代人にとっては、国政小選挙制では政党の中から、首長選ではどちらかの首を選ぶ。

あの変態小泉純一郎の時も、郵政と言えば民営化と忍びの暗号みたいだった。まさに正か反だな。しかも投票前にあらかた決まってしまう。何がすごいかと言うと、戦後当たるようになったのは、マスコミの選挙予報と天気予報かな。

テレビを筆頭に新聞でもマスコミとは宣伝だな。最近では映画も自治体が出資して宣伝している。レイルウェイ、鉄道も富山県が出資したとか。スパイダ-スの井上順が出演した映画も埼玉県本庄市が出資したとか。大鹿村騒動記もそうだったな。

昔、四国を旅した折に大洲市に立ち寄った。伊予の小京都と言われる美しい町。おはなさんや肱川のほとりの臥龍山荘、静かで美しい町だった。その町で大洲は宣伝が下手だ。隣の内子町は宣伝が巧いと聞いた。そう言う見方もあるかと妙に耳に残っている。

千利休が起こした茶の道だが、お茶には茶々を入れるとかお茶を濁すとか道に相応しくない言葉もある。小生も権力者には等しく茶々を入れる。権力者である故に川柳のように茶々を入れるしかないな。

地方選挙にしても国政にしても、このところ選挙には参加していない。若かりし日に椿三十郎のように選挙の日に二階から眺めていると、投票所に向かっているのは年寄りが多い。若者だと、多分創価学会か共産党だろうな。

しかし、新人類さながら、今の人には選挙は面白いらしいな。今回の大阪では相変わらず、橋の下とか松の井とかの集団が制覇したとか。

このところ、小用で武蔵野市とか三鷹市に通った。武蔵野市役所の前の道は街路樹は桜。白洲正子が桜は人間臭い木と言ったが、見事な樹木である。地元の人と無駄話をしたが、やはり玉川上水は昔は怒涛のごとく流れていたと。千川上水もあるんだな。

上水と言うからには農業用水だったろうな。水の豊富な地である。川のある所は良きところ。政治家は、選挙で選ばれたら、民意によって住民から支持されたと思っちゃう。あの橋のない川を描いた住井すゑでさえも、過ちを犯した事があった。

浅川マキに赤い橋がある。不思議な橋を渡った人は帰らないと。北山修の作だな。いつかきっと私もこの橋を渡ると。


疎開

2015-11-23 13:31:15 | 文化
今日は新嘗祭。収穫のお祭りだな。国家の宮中での儀式だな。それがどういう訳か勤労感謝の日になったか。誰が誰に勤労を感謝するのかな。国民の祝日に関する法律では、11月23日とし、勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあうと規定されている。祝日が月曜日にずれたのではないな

疎外と言う言葉が、昔は流行ったな。一種の哲学用語だったな
疎遠と言う言葉もある。
疎開も一昔前の戦争では都会から離れた

疎とは、訓読みではウトイ。自ら進んでの能動的な行動でなく、止むに止まれぬ受動的の要素が大きい

先日、小諸文化センタ-へ行った。大浅間火煙太鼓の30周年記念公演である。館の前に永六輔作詞、小林亜星作曲の「小諸 わが想い出」の碑があった。みすずかる信濃の国のだな

みずずかるは信濃の国の枕言葉。マクラだけで本を出した小三治ではないが、枕は良いな。藤原新也などは自称、枕評論家などと言われるが、丸谷才一などは笹まくらを記したが、絶品だったな。軍人を描いた中では、神聖喜劇と並んで双璧であるな

疎開っ子は、勉学が出来、言葉が違う。田舎者としては異質なんだな。当然いじめにもあった。永六輔にしても良い想い出はなかったろうな。どこのお寺は分からないが、浅草とは気候から違う、人種も違うで戸惑ったろう。ただ自然が全然違ったな。

戦争中では、学童は言うに及ばず、大人も疎開したな。谷崎潤一郎も熱海へ、津山へと空襲から逃れて疎開した。永井荷風も疎開して一緒になったな。いつも有り金を身に纏い、一時は盗まれたこともあったとか

伊豆は東京から近いし温暖な土地。江戸から疎開して、気候、風土、土地柄にあってそのまま東京に帰らず、住み着いてしまった者も少なくなかったと。それほど良い土地柄だったかもしれない。今で言えば移住に適していたかも知れない。

みすず書房と言う出版社がある。信濃の国の枕言葉、みすずから命名した。筑摩書房と言う出版社もある。これも安曇野にある筑摩の地名から命名した。どちらも志は高い

因みに安曇野と言う言葉は筑摩書房の創設に関わった、臼井吉見が命名したかと思っていたが、昔から安曇野と言う地名はあったかと

小諸近辺では、疎開で移住したと言う話は聞かないな。まあ一時の避難地。気候、人柄にも寄るかな。永六輔にとっても苦い想い出であったろうに

小諸文化センタ-から眺めると、向うの崖の上に家が建っている。中棚荘は崖の中腹に建っているが、小諸とは坂の町だな。この文化センタ-は云わば山を切り開いて谷底に建っているようだな

昔は能や狂言で鼓を使ったな

平家物語で人間50年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり
織田信長が好んで、鼓を打ちながら歌ったと

その鼓を大きく太くしたのが太鼓である。洋風に言えばドラムであろうな。ドラムを叩く人、ドラマ-にフランキ-堺がいた。役者とすれば、私は貝になりたいと

ドラマ-は太鼓やシンバルと色々叩く。従って口が自然に開いてしまうと、叩いている時は自分でも分からないこともあるだろう

太鼓は聴衆の耳にガンガンくる。やっている本人はもっとすごいだろうと聞くと、耳に抜けていくと

大勢で打っても、指揮者がいないのに合っているんだな。何を基準にして合わせているのか分からない

小諸は浅間山の麓、浅間連峰と言われているようだな、まあ周りには山が峰を連ねるが、代表が浅間山と言うことかな。そして活火山だな

数年前、浅間山が噴火した時、赤く溶岩が見えた時に地元ではわざわざ見に行った御仁もいたと、浅間に三度雪が降ると、里にも雪が下りてくると、地元民の経験かな

まあ、良くも悪しきも浅間山に代表される里かな。大浅間火煙太鼓が30年経たのは商工会議所の援護もあろうが、地元民に根付いたことだろうな

感謝、感謝だな

佐渡に鬼太鼓座がある。八丈島には八丈太鼓がある。太鼓とは太古にも通じるし、一種の怨念を背負っているかも知れない


みやこ

2015-11-16 16:59:45 | 文化
あざみの歌があった

山には山の 愁(うれ)いあり
海には海の 悲しみや
ましてこころの 花園に
咲しあざみの 花ならば

1970年代だったかな、あがた森魚の「赤色エレジ-」が、あざみの歌に似ていた

一頃、エレジ-という言葉が流行った。日本語に訳すと、哀歌とか悲歌とか挽歌と訳される。

若い頃、銀巴里で歌っていた、北原ミレイに石狩挽歌があった。古くには古賀政男が湯の町エレジ-を作った。

浅川マキだったかな、エレジ-みたいなという歌を歌っていた記憶があるが、思い出せない

ブル-スは金の無い時に聞くと、心に残ると言ったのは寺山修二だった

忍者などの符丁で、山といえば川なんだな。しかし、山と言えば、それに反する、対する言葉は海だろうな。山には川は付き物である。山のあるところには川はある。本来、川は山から流れてくる。そして海に注ぐ。

冒頭の「あざみの歌」は戦後、爆発的にヒットした。あざみの花には棘がある。遠くから見ている分には、美しい。また歌を聞いている範囲では棘など連想しない。

もっとも、綺麗なバラには棘があると言われているように、バラにも棘がある。花屋は市場に出す際には、棘を削ってしまう

まあ、山に対して海だろうな

海も時々によって表情を変える。瀬戸内や東京湾の海は波がないんだな。まるで皿のようだな。台風や暴風では海の表情を変えるが、普段は穏やかだ。

浅草生まれの沢村貞子が、晩年、ようやく連れ合いと一緒になり、旦那が海が見えるところで晩年を暮らしたいと、湘南の海の見えるところに移った。海は色も変えるんだな。

以前、五木寛之が日本民族は山の民と海の民と二種類あると言っていた。山をよりどころとした、サンカ、山窩がかっていた。三角寛が書いていた。また海をよりどころにした海の民もいた。瀬戸内の村上水軍などであろう。

この国の神話にも、海彦、山彦が登場していた。互いに相手に対して願望を抱くが、うまくいかない。しかし、自己以外の他者には興味をもつ
都落ちと言う言葉がある。東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花
大宰府は京都から見れば、東だった。西から吹けばニシカゼか。何故、ヒガシカゼをコチと読むか知らない

歌人で坊主で西行がいた。俗名は佐藤義清
願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ の辞世の歌がある

幕末の風雲児 高杉晋作はもじって、東行と言った。
三味線を抱えて、三千世界の 烏を殺し 主と朝寝がしてみたい と
まあ、戦に明け暮れた戦国さながらであったろうな

日本では、東西南北と言うな。隣の中国から渡ってきた麻雀ではトン、ナン、シャ-、ペイ東南西北だな。同じ方位でも国が違えば、言い方、調子も違うな

春夏秋冬で海や山も表情を変える。裏日本、日本海の冬の海はどんよりと暗い。同じ海でも季節や場所によって違う

みやこでは山が無い。例えば街路樹をとっても銀杏のかすかに黄色い黄葉ぐらいだな。しかし、山に囲まれた地方では、夏では考えられなかったが、街路樹が真っ赤に紅葉する。もみじと躑躅、どうだんつつじとか。

山も紅葉する。山が燃えるという表現がある。石川さゆりも天城越えで、山が燃えると歌っていたな。これは紅葉なのか夕陽、落陽なのか分からない

春になると、山が笑うと言う表現もある。亡くなった土井たか子は山が動いたと言ったが、小選挙区制度を導入した時は、衆議院議長に祭り上げられていた

そう言えば、森進一が歌った歌に阿久悠が作詞したのに、北の蛍があったな

山が泣く 風が泣く 少し遅れて 雪が泣く

森進一は唸ってるんだな。山が泣くという表現もあるんだな