風のたより

電子計算機とは一極集中の現象が大であるが、その合間を縫って風の一頁を

2015-11-30 20:11:57 | 文化
明日からは師走、時の移りは早いものだ。

方丈記の冒頭は、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは・・・・。

方丈とは一丈四方の面積である。鴨長明は方丈庵で考えた事をしたため方丈記として世に出した。丈とは尺貫法なんだな。1間は6尺、1尺は約30.3センチ、1坪は1間四方である。物の本に寄れば、1丈は約3.03メ-トルであると言う。方丈は四畳半よりは若干広い面積である。

昔の大工は、曲尺や鯨じゃくをもって建造した。尺貫法とは面白いもので、メ-トル法に換算すると、端数がでるんだな。10進法で言えば割り切れない。1間は6尺だので、1÷6は割り切れない。面積でも1畝は30歩で平方メ-トルでは端数が残る。

この尺貫法廃止運動に逆らったのは永六輔。孤立無援の戦いだったな。文化人と言う言葉は軽薄に感じる。文人と言うと重厚な感じになる。同様に芸能人と言うと軽薄な感じ、芸人と言うと深みを増す。

もっとも、永六輔が言っていたが、助平一筋で紫綬褒章を頂いた小沢昭一がいたから、芸人と言う言葉も当てにはならない。しかし、あの尺貫法推進運動をした永六輔は勲章ものだったな。

パソコンとは正反の二進法。丁半の博打の世界に似ている。あの尺貫法廃止法から日が経って、今ではメ-トルが板についてきた。三分一湧水のように二分の一と比べ、割り切れないものが多かった。

しかれどもパソコンの浸透に寄って、この世は良いか悪いか、正か反かの世界に慣れてしまった。そう言えば、パンなどは今でも一斤、二斤と斤を使っているんだな。職人の世界もメートルに慣れ、尺貫法を知らない世代も生まれつつある。

昔は110ヤ-ドハ-ドルがあったが、今ではどうかな。ゴルフの世界でも昔はヤ-ドでやったが今はどうかな。段々と世界は一局化されてきている。ゴルフなどは昔は精神論を言うシンシがいたが、今は若者が台頭してきたので、精神論を述べる老人はいなくなったな。何瀬、水泳のように筋肉そのもののスポ-ツそのものかも知れない。

もっとも、城山三郎もゴルフをやっていたそうな。城山三郎の、盗聴法反対運動もたった一人の反乱だったな。国家に楯を付いた者には、国家からの勲章は似つかわしくない。乱それ自体が勲章だな。加藤唐九郎の永仁の壺のように。


丁か半かは選挙に虚実に現れる。俺などは、どうせ選挙ならば、鉛筆の代わりに賽子を置けと言っているがのう。小選挙区制になってからは、まさに丁か半かだな。パソコン慣れした現代人にとっては、国政小選挙制では政党の中から、首長選ではどちらかの首を選ぶ。

あの変態小泉純一郎の時も、郵政と言えば民営化と忍びの暗号みたいだった。まさに正か反だな。しかも投票前にあらかた決まってしまう。何がすごいかと言うと、戦後当たるようになったのは、マスコミの選挙予報と天気予報かな。

テレビを筆頭に新聞でもマスコミとは宣伝だな。最近では映画も自治体が出資して宣伝している。レイルウェイ、鉄道も富山県が出資したとか。スパイダ-スの井上順が出演した映画も埼玉県本庄市が出資したとか。大鹿村騒動記もそうだったな。

昔、四国を旅した折に大洲市に立ち寄った。伊予の小京都と言われる美しい町。おはなさんや肱川のほとりの臥龍山荘、静かで美しい町だった。その町で大洲は宣伝が下手だ。隣の内子町は宣伝が巧いと聞いた。そう言う見方もあるかと妙に耳に残っている。

千利休が起こした茶の道だが、お茶には茶々を入れるとかお茶を濁すとか道に相応しくない言葉もある。小生も権力者には等しく茶々を入れる。権力者である故に川柳のように茶々を入れるしかないな。

地方選挙にしても国政にしても、このところ選挙には参加していない。若かりし日に椿三十郎のように選挙の日に二階から眺めていると、投票所に向かっているのは年寄りが多い。若者だと、多分創価学会か共産党だろうな。

しかし、新人類さながら、今の人には選挙は面白いらしいな。今回の大阪では相変わらず、橋の下とか松の井とかの集団が制覇したとか。

このところ、小用で武蔵野市とか三鷹市に通った。武蔵野市役所の前の道は街路樹は桜。白洲正子が桜は人間臭い木と言ったが、見事な樹木である。地元の人と無駄話をしたが、やはり玉川上水は昔は怒涛のごとく流れていたと。千川上水もあるんだな。

上水と言うからには農業用水だったろうな。水の豊富な地である。川のある所は良きところ。政治家は、選挙で選ばれたら、民意によって住民から支持されたと思っちゃう。あの橋のない川を描いた住井すゑでさえも、過ちを犯した事があった。

浅川マキに赤い橋がある。不思議な橋を渡った人は帰らないと。北山修の作だな。いつかきっと私もこの橋を渡ると。


疎開

2015-11-23 13:31:15 | 文化
今日は新嘗祭。収穫のお祭りだな。国家の宮中での儀式だな。それがどういう訳か勤労感謝の日になったか。誰が誰に勤労を感謝するのかな。国民の祝日に関する法律では、11月23日とし、勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあうと規定されている。祝日が月曜日にずれたのではないな

疎外と言う言葉が、昔は流行ったな。一種の哲学用語だったな
疎遠と言う言葉もある。
疎開も一昔前の戦争では都会から離れた

疎とは、訓読みではウトイ。自ら進んでの能動的な行動でなく、止むに止まれぬ受動的の要素が大きい

先日、小諸文化センタ-へ行った。大浅間火煙太鼓の30周年記念公演である。館の前に永六輔作詞、小林亜星作曲の「小諸 わが想い出」の碑があった。みすずかる信濃の国のだな

みずずかるは信濃の国の枕言葉。マクラだけで本を出した小三治ではないが、枕は良いな。藤原新也などは自称、枕評論家などと言われるが、丸谷才一などは笹まくらを記したが、絶品だったな。軍人を描いた中では、神聖喜劇と並んで双璧であるな

疎開っ子は、勉学が出来、言葉が違う。田舎者としては異質なんだな。当然いじめにもあった。永六輔にしても良い想い出はなかったろうな。どこのお寺は分からないが、浅草とは気候から違う、人種も違うで戸惑ったろう。ただ自然が全然違ったな。

戦争中では、学童は言うに及ばず、大人も疎開したな。谷崎潤一郎も熱海へ、津山へと空襲から逃れて疎開した。永井荷風も疎開して一緒になったな。いつも有り金を身に纏い、一時は盗まれたこともあったとか

伊豆は東京から近いし温暖な土地。江戸から疎開して、気候、風土、土地柄にあってそのまま東京に帰らず、住み着いてしまった者も少なくなかったと。それほど良い土地柄だったかもしれない。今で言えば移住に適していたかも知れない。

みすず書房と言う出版社がある。信濃の国の枕言葉、みすずから命名した。筑摩書房と言う出版社もある。これも安曇野にある筑摩の地名から命名した。どちらも志は高い

因みに安曇野と言う言葉は筑摩書房の創設に関わった、臼井吉見が命名したかと思っていたが、昔から安曇野と言う地名はあったかと

小諸近辺では、疎開で移住したと言う話は聞かないな。まあ一時の避難地。気候、人柄にも寄るかな。永六輔にとっても苦い想い出であったろうに

小諸文化センタ-から眺めると、向うの崖の上に家が建っている。中棚荘は崖の中腹に建っているが、小諸とは坂の町だな。この文化センタ-は云わば山を切り開いて谷底に建っているようだな

昔は能や狂言で鼓を使ったな

平家物語で人間50年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり
織田信長が好んで、鼓を打ちながら歌ったと

その鼓を大きく太くしたのが太鼓である。洋風に言えばドラムであろうな。ドラムを叩く人、ドラマ-にフランキ-堺がいた。役者とすれば、私は貝になりたいと

ドラマ-は太鼓やシンバルと色々叩く。従って口が自然に開いてしまうと、叩いている時は自分でも分からないこともあるだろう

太鼓は聴衆の耳にガンガンくる。やっている本人はもっとすごいだろうと聞くと、耳に抜けていくと

大勢で打っても、指揮者がいないのに合っているんだな。何を基準にして合わせているのか分からない

小諸は浅間山の麓、浅間連峰と言われているようだな、まあ周りには山が峰を連ねるが、代表が浅間山と言うことかな。そして活火山だな

数年前、浅間山が噴火した時、赤く溶岩が見えた時に地元ではわざわざ見に行った御仁もいたと、浅間に三度雪が降ると、里にも雪が下りてくると、地元民の経験かな

まあ、良くも悪しきも浅間山に代表される里かな。大浅間火煙太鼓が30年経たのは商工会議所の援護もあろうが、地元民に根付いたことだろうな

感謝、感謝だな

佐渡に鬼太鼓座がある。八丈島には八丈太鼓がある。太鼓とは太古にも通じるし、一種の怨念を背負っているかも知れない


玄人と素人

2015-11-20 17:18:57 | 世評
玄人とは誰が言い出したのだろう。

「玄」の字が使われた由来は、「黒」よりも奥深く容易でない意味合いが強い事から当てられたと言われている。

幻冬舎の見城徹が角川から独立する際に、五木寛之に社名を相談したところ、玄冬社の案があがった。しかし、玄冬と言う右翼結社が九州にあったそうな。その結果、今の社名に落ち着いたと言われている。

見城徹は五木寛之だけでなく、石っ原慎太郎にも接している。同じ生年月日であるが、考えている事は正反対。まるで見城徹が手玉にとっているようである。

一昔前には、埴谷雄高派か吉本隆明派かと言われたが、飛島で育った深夜叢書社の齋藤慎爾とは大違いだな。齋藤慎爾は埴谷雄高にも吉本隆明にも重宝がられた。


昨今では趣味は多様だな。趣味と言うか素人離れをしている。特に写真だな。カラ-写真だな。

土門拳などは待ちの土門拳などと言われたが、得てして写真は撮るまでのセットと言おうか瞬間を撮るために待ったんだな。今じゃデジタルカメラで下手な鉄砲でも数撃てば当たるんだな。

数を撃てば当たる確率も増えるし、腕も上がる。しかし、腕よりも道具の進歩が大きいだろうな。アナログからデジタルへ、素人趣味の中で、写真が一番手っ取り早いかな。

写真にしても絵画にしても構図が8割とも言われる。観光地など行くと多くの素人が写真を撮っている。その中で三脚を構えた人は一か所に集まる。彼らはどこから撮れば良いかが分かっているのだろう。

俳句や短歌も素人がやるんだな。結構良いんだな。5,7,5は難しい。慣れもあるんだな。尾崎方哉を書いた吉村昭が、若い頃療養した時に散文を読むのは疲れるので、俳句を読んでいたとか。

俳句にしても、英語にしても、作ったり言う事より、読む事、聞く事から入るんだな。数多くあたれば、眼も肥えるし見えてくる。藝術や芸能は、多く接すれば芽がでてくるだろう。
だからいわゆる二代目は、最初はポンでも長くやれば、また二代目の宿命で一生だろうな、次第に良くなってくる。

写真の道具の進歩は驚くほどだが、素人の腕が上がったのか、玄人の腕が下がったのかどちらだろうか。
一頃、相撲は素人と玄人では段違いの世界だったが、今では学生相撲あがりでも本相撲を充分とれるほどになっている。その代り草相撲や草拳闘は残っているのだろうか。

明日のジョ-の矢吹丈は一時、プロの世界から草拳闘に落ちぶれたが、今じゃあまり聞かな。近頃の餓鬼は草野球さえもやらないかな。

昔は、原っぱがあれば、三角ベ-スで草野球をしたものだがな。原っぱと言えば、株屋だった池波の正ちゃんが「原っぱ」を書いている。短編だが良い作品。上田の池波正太郎記念館で買った。

池波正太郎は日本家屋の良さを語っていた。昔の町家は当然日本家屋で障子や襖でできている。そして入り口はドアじゃない、引き戸なんだな。引き戸は第一面積を取らない。そして迷路みたいに、他人と出会わないように設計されていると。

また、食事も独特なんだな。献立表も作るし、まず自分一人で食膳につく。自分が終わったら、妻と母が食事をすると。

TBSに安住紳一郎がいる。ラヂオでは面白いんだな。好奇心が強く声も良いし、話も面白い。パンダとか味噌とかゴミとか、時々の話題が面白い。自己中心の男だが、ラヂオでは聞かせる。その上主義主張がない。まさにマスコミ受けする。

その安住紳一郎がテレビでは駄目なんだな。面白くも何ともない。同一人物かと見間違えるほどである。本人は分かっているかな。

テレビはコマ-シャルとコマ-シャルの間に番組を作る。だから細切れになる。その特性を生かしたのが大橋巨泉。それだけである。

テレビは報道番組でも細切れ。しかし、出演者には銭が入る。テレビの宣伝効果は絶大である。だから出演者には銭を払える。それは報道番組でも同じである。

しかし、素人と玄人の差が無くなった。むしろ素人は一発当てる事ができる。風俗でも一時素人が持て囃された時期があった。今じゃ、どちらが素人か分からないが。

しかし、幇間は玄人の世界だな。素人にはまねできない。

生計を成り立てる事が玄人と言うのだろうかな。法曹界の検察審査会は従来からあったが、裁判法廷にはプロ、その道を業とする者しかたてないが、必要に駆られ素人の助言を求めている。あくまでも助言である。意見である。見解である。それは参考までである。なぜなら業としていないからであろうな。

政治はどうだろうか。政治の世界ほど素人と玄人の差が無くなった。当選回数が増えれば増えるほど、玄人になればなるほど、質は落ちてくる。利権が絡んでくる。

いっその事、素人が政治をできないものか。東北の地震に限らずボランティア精神は奉仕精神はこの国でも流行にしても根付いてきたかな。

しかし、政治は違うかな。丁か半かの世界は、大衆は無理かな。小選挙区制での地盤、看板、鞄を武器にするとはいえ、渡世人の世界に似ている。受かるか落ちるかどちらかである。しかも一人しか当選しない。

自営業者には雇用保険はない。政治家はもっとひどい。落ちたらただの人である。だから元をとらなくちゃならない。

所詮、堅気の衆には無理かな。ただ桟敷から見ているだけかな。

寺山修二が職業は何ですかと聞かれたら「寺山修二です」と答えた。寺山修二が思考した舞台と見物席と街との区分をなくす事、そして政治を業としない(金銭を得ない)事しかあるまいな。



みやこ

2015-11-16 16:59:45 | 文化
あざみの歌があった

山には山の 愁(うれ)いあり
海には海の 悲しみや
ましてこころの 花園に
咲しあざみの 花ならば

1970年代だったかな、あがた森魚の「赤色エレジ-」が、あざみの歌に似ていた

一頃、エレジ-という言葉が流行った。日本語に訳すと、哀歌とか悲歌とか挽歌と訳される。

若い頃、銀巴里で歌っていた、北原ミレイに石狩挽歌があった。古くには古賀政男が湯の町エレジ-を作った。

浅川マキだったかな、エレジ-みたいなという歌を歌っていた記憶があるが、思い出せない

ブル-スは金の無い時に聞くと、心に残ると言ったのは寺山修二だった

忍者などの符丁で、山といえば川なんだな。しかし、山と言えば、それに反する、対する言葉は海だろうな。山には川は付き物である。山のあるところには川はある。本来、川は山から流れてくる。そして海に注ぐ。

冒頭の「あざみの歌」は戦後、爆発的にヒットした。あざみの花には棘がある。遠くから見ている分には、美しい。また歌を聞いている範囲では棘など連想しない。

もっとも、綺麗なバラには棘があると言われているように、バラにも棘がある。花屋は市場に出す際には、棘を削ってしまう

まあ、山に対して海だろうな

海も時々によって表情を変える。瀬戸内や東京湾の海は波がないんだな。まるで皿のようだな。台風や暴風では海の表情を変えるが、普段は穏やかだ。

浅草生まれの沢村貞子が、晩年、ようやく連れ合いと一緒になり、旦那が海が見えるところで晩年を暮らしたいと、湘南の海の見えるところに移った。海は色も変えるんだな。

以前、五木寛之が日本民族は山の民と海の民と二種類あると言っていた。山をよりどころとした、サンカ、山窩がかっていた。三角寛が書いていた。また海をよりどころにした海の民もいた。瀬戸内の村上水軍などであろう。

この国の神話にも、海彦、山彦が登場していた。互いに相手に対して願望を抱くが、うまくいかない。しかし、自己以外の他者には興味をもつ
都落ちと言う言葉がある。東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花
大宰府は京都から見れば、東だった。西から吹けばニシカゼか。何故、ヒガシカゼをコチと読むか知らない

歌人で坊主で西行がいた。俗名は佐藤義清
願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ の辞世の歌がある

幕末の風雲児 高杉晋作はもじって、東行と言った。
三味線を抱えて、三千世界の 烏を殺し 主と朝寝がしてみたい と
まあ、戦に明け暮れた戦国さながらであったろうな

日本では、東西南北と言うな。隣の中国から渡ってきた麻雀ではトン、ナン、シャ-、ペイ東南西北だな。同じ方位でも国が違えば、言い方、調子も違うな

春夏秋冬で海や山も表情を変える。裏日本、日本海の冬の海はどんよりと暗い。同じ海でも季節や場所によって違う

みやこでは山が無い。例えば街路樹をとっても銀杏のかすかに黄色い黄葉ぐらいだな。しかし、山に囲まれた地方では、夏では考えられなかったが、街路樹が真っ赤に紅葉する。もみじと躑躅、どうだんつつじとか。

山も紅葉する。山が燃えるという表現がある。石川さゆりも天城越えで、山が燃えると歌っていたな。これは紅葉なのか夕陽、落陽なのか分からない

春になると、山が笑うと言う表現もある。亡くなった土井たか子は山が動いたと言ったが、小選挙区制度を導入した時は、衆議院議長に祭り上げられていた

そう言えば、森進一が歌った歌に阿久悠が作詞したのに、北の蛍があったな

山が泣く 風が泣く 少し遅れて 雪が泣く

森進一は唸ってるんだな。山が泣くという表現もあるんだな


魚付林

2015-11-04 15:29:24 | 文化
昨日は文化の日とか

爺さん、婆さんにとっては、戦前は明治節だったな。明治の時代は天長節だった。明治節には歌まで歌ったな

そうだな年輩の爺さん、婆さんにとれば、
年の始めのためしとて
終わりなき世のめでたさを
と元旦に登校して紅白饅頭を頂いた記憶があろうが、明治節もそんなところかな

因みに、戦後はどういう訳か文化の日になってしまった。1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布された。そして6ヵ月後の5月3日に施行され、憲法記念日になった。その11月3日は日曜日だったな

戦後の動乱期は、民たちは生きていくのが精一杯、明日の食べることしか考えなかったが、この国の政治を司る人は、もちろん民によって選抜されたが、日曜日に大事な憲法を公布したな

それも恐れ多くも明治天皇の生誕の日に公布した。ひろく告げ知らせたな。

まあ戦後憲法は自主的な憲法でない押し付けられた憲法であったと言う論があるが、少なくても公布日において、この国の意地を通したと言えるな

文化勲章自体は戦前からあったが、文化の日には様々な勲章を国家によって与えている。小沢昭一が紫綬褒章を受章した際に、永六輔が助平一筋で紫綬褒章と言ったが、言い得ているかな。貰った本人も助平一筋で国家から勲章を受け賜わるのでは、まあいいかとなるであろうな

もう紅葉も人里まで降りてきつつある。柿は果実だけでなく赤く紅葉した様も美しい

先日、木守柿という言葉を教えられた。キモリガキともコモリガキとも読むとか。収穫を終えた柿の木に、ぽつんと一つだけ残された柿の実だと。良く見かけるんだな

俳句の季語にもなってるそうだから、全国的な光景であろう。冬の光景だな。

柿はもともと渋柿であったらしい。何かの拍子に甘柿が出来たらしい。柿渋は防腐剤としても用いられ、また染めると良い色合いに成る

また、柿の木坂は地名にも多い。東京は目黒区にある。また柿の木坂は駅まで三里という歌にもあったように、柿の木坂の地名は多い。白洲正子の武相荘も、住所は東京都町田市であるが、邸内には大きな柿の木があった。電車では隣の駅が柿生であり、隣町は川崎市麻生区である。ここも柿の産地である
白洲正子の父方の祖父は、薩摩の軍人。示現流の使い手だったと。ある時、薩摩の要人が斬られた折に、用心棒が逃げてしまったと。その要人の葬式の際に逃げた用心棒を一刀両断に斬り捨てたと。周りの者は何も発しなかったと。明治だな

明治と言う時代は、卑怯者と言われたら、生きるの値しなかったな

正岡子規も柿が好きだったと

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

柿の季語は秋だが、木守柿は冬とか

もう一つ、冬の光景として、吊るし柿がある。甲州では吐露柿とも、ころ柿とも言われる。渋柿を干すと、渋みが取れて甘くなる。甘柿よりも旨くなるんだな。先人たちの知恵だな

木守柿で思い出した。東海道を下ると、天下の剣の箱根を超えると三島の宿である。三島女郎衆はノ-エと歌われた農兵節の地である。農兵節の歌詞は延々と続いていく

その三島から沼津の間に柿田川湧水がある。今は立派な公園になったが、昔は汚かった。蓼科に御射鹿池がある。東山魁夷の「緑響く」のモデルになったという池である。今じゃ、周辺は綺麗になり、風情がなくなった。往年の雰囲気を喪った。

柿田川湧水も風情が無くなったな。大昔は富士の裾野で湧き水が豊富であった。しかし上流に製紙工場が乱立して、湧き水は途絶えた。製紙工場は大量の水を使うので、湧き水は出なくなった

小生は、復活した湧水の脇で爺さんの説明を聞いていた。湧き水が途絶えて、周辺も汚くなった。そして水域の流域周辺を市民たちが買い占めた。この国のトラスト運動の奔りであったと

そして、製紙工場も廃業したら、途絶えていた水が湧き出したと。一時は駿河湾は製紙工場のヘドロで臭いがしたと

柿田川の湧水が復活し、大昔の湧水群が出だすと、不思議なことに駿河湾に桜海老が戻ってきたと

元禄の頃の代官はある意味、有能な者もいたと。先年亡くなった高橋治が書いていた。江戸時代の元禄の頃は文化の花が咲いたと。代官も海を守るため、森林を育てたと。ウオツキリン 魚付き林と言ったと。

現代の為政者よりも、自然の働きを昔の人は肌で感じていたようだな