明日からは師走、時の移りは早いものだ。
方丈記の冒頭は、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは・・・・。
方丈とは一丈四方の面積である。鴨長明は方丈庵で考えた事をしたため方丈記として世に出した。丈とは尺貫法なんだな。1間は6尺、1尺は約30.3センチ、1坪は1間四方である。物の本に寄れば、1丈は約3.03メ-トルであると言う。方丈は四畳半よりは若干広い面積である。
昔の大工は、曲尺や鯨じゃくをもって建造した。尺貫法とは面白いもので、メ-トル法に換算すると、端数がでるんだな。10進法で言えば割り切れない。1間は6尺だので、1÷6は割り切れない。面積でも1畝は30歩で平方メ-トルでは端数が残る。
この尺貫法廃止運動に逆らったのは永六輔。孤立無援の戦いだったな。文化人と言う言葉は軽薄に感じる。文人と言うと重厚な感じになる。同様に芸能人と言うと軽薄な感じ、芸人と言うと深みを増す。
もっとも、永六輔が言っていたが、助平一筋で紫綬褒章を頂いた小沢昭一がいたから、芸人と言う言葉も当てにはならない。しかし、あの尺貫法推進運動をした永六輔は勲章ものだったな。
パソコンとは正反の二進法。丁半の博打の世界に似ている。あの尺貫法廃止法から日が経って、今ではメ-トルが板についてきた。三分一湧水のように二分の一と比べ、割り切れないものが多かった。
しかれどもパソコンの浸透に寄って、この世は良いか悪いか、正か反かの世界に慣れてしまった。そう言えば、パンなどは今でも一斤、二斤と斤を使っているんだな。職人の世界もメートルに慣れ、尺貫法を知らない世代も生まれつつある。
昔は110ヤ-ドハ-ドルがあったが、今ではどうかな。ゴルフの世界でも昔はヤ-ドでやったが今はどうかな。段々と世界は一局化されてきている。ゴルフなどは昔は精神論を言うシンシがいたが、今は若者が台頭してきたので、精神論を述べる老人はいなくなったな。何瀬、水泳のように筋肉そのもののスポ-ツそのものかも知れない。
もっとも、城山三郎もゴルフをやっていたそうな。城山三郎の、盗聴法反対運動もたった一人の反乱だったな。国家に楯を付いた者には、国家からの勲章は似つかわしくない。乱それ自体が勲章だな。加藤唐九郎の永仁の壺のように。
丁か半かは選挙に虚実に現れる。俺などは、どうせ選挙ならば、鉛筆の代わりに賽子を置けと言っているがのう。小選挙区制になってからは、まさに丁か半かだな。パソコン慣れした現代人にとっては、国政小選挙制では政党の中から、首長選ではどちらかの首を選ぶ。
あの変態小泉純一郎の時も、郵政と言えば民営化と忍びの暗号みたいだった。まさに正か反だな。しかも投票前にあらかた決まってしまう。何がすごいかと言うと、戦後当たるようになったのは、マスコミの選挙予報と天気予報かな。
テレビを筆頭に新聞でもマスコミとは宣伝だな。最近では映画も自治体が出資して宣伝している。レイルウェイ、鉄道も富山県が出資したとか。スパイダ-スの井上順が出演した映画も埼玉県本庄市が出資したとか。大鹿村騒動記もそうだったな。
昔、四国を旅した折に大洲市に立ち寄った。伊予の小京都と言われる美しい町。おはなさんや肱川のほとりの臥龍山荘、静かで美しい町だった。その町で大洲は宣伝が下手だ。隣の内子町は宣伝が巧いと聞いた。そう言う見方もあるかと妙に耳に残っている。
千利休が起こした茶の道だが、お茶には茶々を入れるとかお茶を濁すとか道に相応しくない言葉もある。小生も権力者には等しく茶々を入れる。権力者である故に川柳のように茶々を入れるしかないな。
地方選挙にしても国政にしても、このところ選挙には参加していない。若かりし日に椿三十郎のように選挙の日に二階から眺めていると、投票所に向かっているのは年寄りが多い。若者だと、多分創価学会か共産党だろうな。
しかし、新人類さながら、今の人には選挙は面白いらしいな。今回の大阪では相変わらず、橋の下とか松の井とかの集団が制覇したとか。
このところ、小用で武蔵野市とか三鷹市に通った。武蔵野市役所の前の道は街路樹は桜。白洲正子が桜は人間臭い木と言ったが、見事な樹木である。地元の人と無駄話をしたが、やはり玉川上水は昔は怒涛のごとく流れていたと。千川上水もあるんだな。
上水と言うからには農業用水だったろうな。水の豊富な地である。川のある所は良きところ。政治家は、選挙で選ばれたら、民意によって住民から支持されたと思っちゃう。あの橋のない川を描いた住井すゑでさえも、過ちを犯した事があった。
浅川マキに赤い橋がある。不思議な橋を渡った人は帰らないと。北山修の作だな。いつかきっと私もこの橋を渡ると。
方丈記の冒頭は、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは・・・・。
方丈とは一丈四方の面積である。鴨長明は方丈庵で考えた事をしたため方丈記として世に出した。丈とは尺貫法なんだな。1間は6尺、1尺は約30.3センチ、1坪は1間四方である。物の本に寄れば、1丈は約3.03メ-トルであると言う。方丈は四畳半よりは若干広い面積である。
昔の大工は、曲尺や鯨じゃくをもって建造した。尺貫法とは面白いもので、メ-トル法に換算すると、端数がでるんだな。10進法で言えば割り切れない。1間は6尺だので、1÷6は割り切れない。面積でも1畝は30歩で平方メ-トルでは端数が残る。
この尺貫法廃止運動に逆らったのは永六輔。孤立無援の戦いだったな。文化人と言う言葉は軽薄に感じる。文人と言うと重厚な感じになる。同様に芸能人と言うと軽薄な感じ、芸人と言うと深みを増す。
もっとも、永六輔が言っていたが、助平一筋で紫綬褒章を頂いた小沢昭一がいたから、芸人と言う言葉も当てにはならない。しかし、あの尺貫法推進運動をした永六輔は勲章ものだったな。
パソコンとは正反の二進法。丁半の博打の世界に似ている。あの尺貫法廃止法から日が経って、今ではメ-トルが板についてきた。三分一湧水のように二分の一と比べ、割り切れないものが多かった。
しかれどもパソコンの浸透に寄って、この世は良いか悪いか、正か反かの世界に慣れてしまった。そう言えば、パンなどは今でも一斤、二斤と斤を使っているんだな。職人の世界もメートルに慣れ、尺貫法を知らない世代も生まれつつある。
昔は110ヤ-ドハ-ドルがあったが、今ではどうかな。ゴルフの世界でも昔はヤ-ドでやったが今はどうかな。段々と世界は一局化されてきている。ゴルフなどは昔は精神論を言うシンシがいたが、今は若者が台頭してきたので、精神論を述べる老人はいなくなったな。何瀬、水泳のように筋肉そのもののスポ-ツそのものかも知れない。
もっとも、城山三郎もゴルフをやっていたそうな。城山三郎の、盗聴法反対運動もたった一人の反乱だったな。国家に楯を付いた者には、国家からの勲章は似つかわしくない。乱それ自体が勲章だな。加藤唐九郎の永仁の壺のように。
丁か半かは選挙に虚実に現れる。俺などは、どうせ選挙ならば、鉛筆の代わりに賽子を置けと言っているがのう。小選挙区制になってからは、まさに丁か半かだな。パソコン慣れした現代人にとっては、国政小選挙制では政党の中から、首長選ではどちらかの首を選ぶ。
あの変態小泉純一郎の時も、郵政と言えば民営化と忍びの暗号みたいだった。まさに正か反だな。しかも投票前にあらかた決まってしまう。何がすごいかと言うと、戦後当たるようになったのは、マスコミの選挙予報と天気予報かな。
テレビを筆頭に新聞でもマスコミとは宣伝だな。最近では映画も自治体が出資して宣伝している。レイルウェイ、鉄道も富山県が出資したとか。スパイダ-スの井上順が出演した映画も埼玉県本庄市が出資したとか。大鹿村騒動記もそうだったな。
昔、四国を旅した折に大洲市に立ち寄った。伊予の小京都と言われる美しい町。おはなさんや肱川のほとりの臥龍山荘、静かで美しい町だった。その町で大洲は宣伝が下手だ。隣の内子町は宣伝が巧いと聞いた。そう言う見方もあるかと妙に耳に残っている。
千利休が起こした茶の道だが、お茶には茶々を入れるとかお茶を濁すとか道に相応しくない言葉もある。小生も権力者には等しく茶々を入れる。権力者である故に川柳のように茶々を入れるしかないな。
地方選挙にしても国政にしても、このところ選挙には参加していない。若かりし日に椿三十郎のように選挙の日に二階から眺めていると、投票所に向かっているのは年寄りが多い。若者だと、多分創価学会か共産党だろうな。
しかし、新人類さながら、今の人には選挙は面白いらしいな。今回の大阪では相変わらず、橋の下とか松の井とかの集団が制覇したとか。
このところ、小用で武蔵野市とか三鷹市に通った。武蔵野市役所の前の道は街路樹は桜。白洲正子が桜は人間臭い木と言ったが、見事な樹木である。地元の人と無駄話をしたが、やはり玉川上水は昔は怒涛のごとく流れていたと。千川上水もあるんだな。
上水と言うからには農業用水だったろうな。水の豊富な地である。川のある所は良きところ。政治家は、選挙で選ばれたら、民意によって住民から支持されたと思っちゃう。あの橋のない川を描いた住井すゑでさえも、過ちを犯した事があった。
浅川マキに赤い橋がある。不思議な橋を渡った人は帰らないと。北山修の作だな。いつかきっと私もこの橋を渡ると。