風のたより

電子計算機とは一極集中の現象が大であるが、その合間を縫って風の一頁を

2020-02-19 16:51:36 | 世評
昨日の朝日新聞の天声人語に書いてあった。滝田栄が大河ドラマの「徳川家康」で主役を一年間演じたが、直後のミュージカルでオーディションにあったと

俺ほどの男が何でオーディションを受けなければならないのかとカチンときたと。然りだな。一年も主役の家康をやると、自分が将軍のようになったと思ったと、あるラジオで語っていたと

ラジオとは顔が見えないだけに、語りあるいは語り口が全てだな。聴取者は音を通して、声によって、語り部から醸し出すことを想像する。昔のアナウンサーには特に深夜放送には名物と言われる男がいた。

糸居五郎、土居まさる、斉藤安弘、ロイジェームスは日本語もうまく、物識りだった。今のテレビは語りよりも映像が主体になったな。

滝田栄の場合には、芝居という自分の分野でのことである。しかし、普通の人は一つの分野で功成し遂げると全ての分野に波及するように思ってしまうこともあるな

男がなりたい職業、憧れるものは、オーケストラの指揮者か野球監督、あるいは映画監督だと。指揮者によって音楽とは変わると。まず人選から人事権から始まって、自らの手足となって他者を動かすことができる。自分が想像する音楽をあるいは制作できるんだな。指導者にとってこの上ない幸せであろうな

城山三郎は戦前には軍国少年であった。その反省からか旗のもとに集まるなと、個人情報保護法に身体を張って反対した。その城山三郎が「官僚たちの夏」を描いた。それも人事権から書き出している。組織のトップとナッバーツーでは全然違うと。トップは人事権を持っていると。駒を動かすように、自らの考えで部下を配置出来得る。

「西遊記」に孫悟空がいた。どんなに高度な術を使っても玄奘三蔵の手の上にいたと。手下とか手配、手先、手の内、追手とか言う言葉がある。目は口ほどに物を言うという言葉もあるが、手も眼ほどでは無いにしても手の範囲も多い。

人事権だけでなく、組織のトップは自分の考えを部下に浸透させ、自らの何倍もの力を発揮出来得る。一人一人の楽器では単発だが、タクトにかかると見違えるようになると、ソロが合奏になって複雑で重厚な音を醸し出す。組織でもそうだな。この人のためならと、人が人を呼ぶ現象も起きてくる。あるは人を呼び寄せてくる。

アベノミクスと言う言葉があった。造成語があった。

平成24年(2012年)12月26日に安倍晋三が総理大臣になると、日銀総裁に黒田東彦が平成25年3月20日に白川方明から変更になった。日銀の金融緩和が推進され円を湯水のごとくジャブジャブ作った。札が増えれば価値は下落する。円も100円を割っていたのに、あっという間に110円を超え、下手をすると120円を超えた時もあった。

この国の大企業は電気、自動車、製造業にしても輸出でもっている。それが同じ物を輸出して2割も手取りが増えるんだな。輸出頼みの大企業は、座っていても利益が増えた。おまけに消費税は輸出免税である。黙っていても利益が上がった。

円を下げた男として、安倍晋三は歴史に残ったな。日本に来る、外国人の観光客も増加して当然だな。同じ金額で円安のため自国の貨幣価値が上がったので笑いが止まらなかったな。観光政策よりも外国人の観光客増加は円安を原因としたな

消費税とは西欧で定着した。消費税とは本来消費者が負担する。かっては売上税などと言われたが、事業者は売上に係る消費税額から仕入れに係る消費税を差し引いて納税する。最終的には消費者が税負担をする。輸出割合の高い企業では、輸出免税のため、仕入れに係る消費税を還付される。その額は何兆円にもなるであろうな

人形は顔が命である。テレビなどの映像も声よりも映像主体である。政治家もそうだな。選挙ポスターもそうだが、顔を売るんだな。芸人もそうだな。いやセールスマンもそうかな。顔を売って、顔役になるな

高橋和巳がいた。伊豆に行った折に富士霊園を訪ねた。霊園事務所は個人情報など関係ないように教えてくれる。文学者の中でなく、一般の墓地の中にあった。高橋和巳、和子の墓はあった。墓前には一輪の真っ赤な花が活けてあった。供花台が左右対称に二つあるのは、仏教だと教えられた

確か高橋和巳の葬儀委員長は埴谷雄高であった。生前に埴谷雄高の勧めもあって、たか子は富士霊園に求めた。自らもここに眠っている。たか子は晩年修道院にいたが、その後近代文学館が引き継いだと

憂鬱なる党派を描いた。あれを読むと、政党とはパーティーとは党派とは教団に似ている要素がある。教団とは言っても経典はあるだろうが、教団とは論理よりも感情に力点がある。あるいは理論と感性か、あるいは理想と現実の両方を兼ね備えた組織であるとも言える

高橋和巳は晩年、インドの宗教を研究していたと。邪宗門は大本教をモデルにしていたであろう。教団を母体にして政治を志した。あるいは五木寛之も戒厳令の夜を描いた。

滝田栄は芝居の分野で将軍を演じ切ったために、自らも将軍になったかと語った。昔の田舎では法律が無ければ、法律上違法であるならば、法律を作っちゃえと。田舎ではそういうことも考えられた。王様が何事でも王様なんだな。自分に反するものは、行政が立法まで支配する

裸の王様があった。新藤兼人が制作して、殿山泰司が演じた「裸の島」もあったな