風のたより

電子計算機とは一極集中の現象が大であるが、その合間を縫って風の一頁を

水戸黄門

2016-12-31 18:47:06 | 世評
大晦日 暦の最後の晦日。テレビで昔は水戸黄門をやっていた。旅に出て宿屋に入って風呂から上がると、水戸黄門の再放送をやっていた。旅先で紛争が起こると、「鎮まれ、鎮まれ。この紋所が目に入らぬか」と葵の印籠を掲げる

田舎の爺さんだと馬鹿にしていた悪代官は印籠の前にひれ伏す。お決まりの場面である。スポンサ-はナショナル、松下電器であった。長寿番組であった。勧善懲悪を地で言った番組であった。悪を懲らしめ、善を奨める。見ていても痛快だし、安心する

人生楽ありゃ 苦もあるさ
涙の後には 虹も出る
歩いてゆくんだ しっかりと
自分の道を ふみしめて

 主題歌も永く歌われた。いや永く聞こえてきた。耳に残っている。ナショナルがパナソニックと変えたが、昔の日本製品は欧米を参考にして真似て作り出してきた。松下電器は一頃マネシタ電器とも言われていた。真似をして想像力、独創力を養ってきた。今の中国もそのようであろうな

 世相とは何であろうな。風潮、世論、社会、時勢、時代とか色々な言葉がある。この年末に東京都議会議員が、新会派「新風自民党」を結成したと。当選一回あるいは二回の議員が来年の選挙を見据えて、自民党のまま自民党在籍のまま新会派を結成したと。そして「都民感覚の政治を実現したい」と。(今までは都民感覚よりも政治家感覚だったのだろうな)

 一昔前、右翼民族主義者の野村秋介が参議院選挙に際し「たたかう国民連合・風の会」を結成した。その時、山藤章二が「虱の党」と称した。野村秋介は抗議した。山藤章二はどう言ういきさつがあったか分からないが謝った。山藤に取っては、ペンは剣より弱かったな。不思議なことにそれ以降も文筆活動はしていたな

 政治評論家に言わせると、政治家は時代を見る、政治屋は選挙をみると。小生に言わせると選挙民が住民が政治家、政治屋を作る。商店街と同じなんだな。商店街も閉めてシャッタ-通りと言わしめたのは、住民であろうな

都知事の小池百合子は、「改革を一緒に目指せればうれしい。三人の勇気に報いたいと」。水戸黄門の主題歌の二番

人生 勇気が必要だ
くじけりゃ 誰かが先に行く
あとから来たのに 追い越され
泣くのがいやなら さあ歩け

と聞こえてくる。どうも改革、変革とは耳に優しい言葉である。一頃、自民党に小泉純一郎がいた。今も過去形でなく、多分自民党員であろう。田中真紀子の名言、凡人、軍人、変人と称したが、小渕恵三、梶山静六、小泉純一郎はピッタリの人物像であった。変人なら許せるが、変態だと許せないんだな

あの当時も改革ばやりであった。テレビでは連日連夜郵政民有化、改革と。選挙民にとって選択の余地は無かった。改革止まりなら許せる。革命だと許せないんだな。片足は塀の上、刑務所の内と外との間であるが、軸足は自民党であった。いや自民党の中の最も自民党であったかも知れない

小池の百合子も、石っ原の「日本の新しい世代の会」を起点にしている。カイロ大学を経て、細川護熙の日本新党から政界入、小泉内閣では、小林興起の刺客として東京を選挙区にしたが、当選した。人生の節目節目で世を賑わすが、キャスタ-出身だけあって、マスコミの思考を分かっているようだ

自民党も、選挙民の支持率が高い者を除名できない。本来なら自民党の公認候補を差し置いて立候補であるので、除名であろうな。しかし、不思議なことに小池、ともう一人の国会議員はお咎めなし、区会議員は除名。同じことでも結果は違ってくる

パソコンでの索引は色々あるが、もうグ-グルなくしては進まないであろう。「日本会議、小池百合子」で検索すると、結構出てくる。民主主義とは何だカンダと言っても、最終的には多数決で決すると。

AIとは人工知能であると。動物とは経験で物を覚えていく。精神病患者もそうだな。医者にとっては本当に精神に障害があるか、神経に異常をきたしているか分からない。患者の言動によって判断する。患者は、経験に寄って、こう言う事をあるいはこう言う行動をすれば、と結果が分かってくる。AIもそうだな、過去の統計によって結果を導く。

良いか悪いかでなく、良い悪いの判断が難しい物も統計によって判断していく。電子計算機もそうだな。特殊なものよりも多数の数による。民主主義に似ている

日本会議とは、戦後の学生運動の狭間から生まれた。論理よりも良識に訴えた。戦後の学生運動は民主化から始まったが、先進的、戦闘的な面もあった。いわゆるノンポリの良識に訴えて伸びていったと

テレビから池上彰の声が聞こえてきた。トランプはイデオロギ-なきビジネスマンだと。日本語に翻訳すると「商人」だな。古来、商人にとって政治家を蔑視していたが、昨今では違うようだな。日本でも諮問委員に商人がどんどん入ってくるな

トランプとは日本では花札だな。花札では四季が現れる。俳句ではないが、月と花が密接している。まあ我が国から見た感覚であるがの。花札には花だけでなく、動物もいる。猪、鹿、蝶もある。人の身近の花や動物だな。短冊も「あかよろし」もあるし、こいこいも出来るな。奥が深いと思うな

日本会議とは、生長の家から発したが最近では違うようだな。左翼も居なくなった。昨今の左翼団体は爺さん婆さんの集まりだな。右翼も無くなった。三島由紀夫も野村秋介も消えた。唐牛健太郎も、北小路敏は敗血症で消えた
 テロと言われる。昔のテロはロシアが発祥であったが、一人を狙った。集団など襲いはしなかった。要人の警備が厳しいこともあろうが、今じゃ民を巻き込む。沢木耕太郎に「テロルの決算」がある。論理でなく、剣に訴えたが、赤尾敏の影響を受けようが一人で行動した。しかし、二矢とは「おとや」と読めないな。まあ最後のテロリストだったな。そう言う意味で沢木耕太郎は良い題材、ニュ-ジャ-ナリズムと言えたかな

座頭の市ちゃんは、剣は達人だが、相手がじっとしていては勝負にならない。相手が襲った場合に威力を発揮する。そういう意味では守りとも言える。日本会議とは宗教が起点である。谷口雅春は若い頃、大本教にいたと。高橋和巳は邪宗門で大本教を描いた。大本教は時の権力者に徹底的に弾圧された。それは権力者側の思考に似通っていた、あるいは同じような思想であったため、上を行くとも捉えられたのであろうな

インタ-ネット、電子計算機とは多数が善になってしまう。政治も民主主義も数であろうな。猫も杓子も数である。数を得るのは右でも左でもなく、平均値であろうな。平均値ではあるが、一方反権力に片足を置いて、軸足は権力者側にだろうな。丁度、田原総一朗が反権力を掲げて、半権力側に成り、軸足はあくまでも権力側に置く。そうすると聴衆は安心する。丁度、水戸黄門のようにだな



冬至

2016-12-20 19:00:13 | 文藝

明日、12月21日は冬至。二十四節気の第22と。北半球ではこの日が一年のうちで最も昼の時間が短いと。旧暦だと11月23日である。二十四節気とは中国からきたと。中々理にかなった暦である。一年を春夏秋冬の四季に分け、季節を更に六つの節目を設けている。

昔は農業が主であったので、農事暦であろうが、今では自然を感知できる。自然の移ろいが分かる。一年の始まりの立春の前日が節分である。二十四節気を眺めると、小雪、大雪、冬至の後が小寒、大寒である。雪の降り始めは寒くなく、大雪の後に寒が来るかな

冬至は年末、年の瀬である。東京の早稲田大学の近くに穴八幡宮がある。冬至のお祭りは全国的にも珍しく地方からバスを仕立てて来る。ボケ封じも手伝って昔は、早稲田通りは、さながら年末の渋滞となる

寺や神社も商売である。お守りを買い、お守りの寿命は一年で毎年売り買いする。売る方も買う方も納得している。一陽来復のお守りを恵方の壁に貼る。ご利益があるなしに関わらず、毎年の習慣なんだな。坊主丸儲けと言われるが、そこまでの過程が苦労であろうな

坊主と神官は異なるが、いつしか「男はつらいよ」でも寅さんが演じていたが、死者を相手に来るから苦情がない。しかし本来、修行が辛く、肉体そのものであろうな。真冬でも薄着だし、剛健でなければ持たないだろうな。精神よりもまず肉体だな

高田馬場駅から早大正門まで、バスが昔から出ている。東京都の経営である。いつ頃からか地下鉄が通り出した。昔の学バスは片道7円50銭、往復15円であった記憶がある。地下鉄が通過した頃は、乗合自動車よりも地下鉄料金の方がはるかに高かった。今では、学バスは片道180円、地下鉄は170円である。料金では逆転した

信州に小梅線がある。小諸から小淵沢までの高原列車である。途中の野辺山では国鉄の標高最高地点がある。小梅線に沿った国道を走っていると、「秩父事件戦死者の墓」の標識が立っていた。信州で秩父事件とはと思いつつ立ち寄った

今では小梅町教育委員会の解説文があった。墓は馬流という駅の向こう側の山の中腹にあった。長閑な場所であった。秩父事件戦死者の墓だけでなく、あの辺りは墓地が多い。地元の爺さんに聞くと、昔は千曲川がもっと山の方にあったとか。そのせいか墓地が多いと。最後の激戦地となったと。地図でみると、秩父は山の向うである

秩父事件については、いつだったかなTBSで秩父の観光を取り上げていた。司会は大沢悠里、対談相手、助手は見城美枝子であった。ジャーナリストと言われる見城美枝子はコクミントウと発音していた。番組の最中で、大沢悠里は見城美枝子に向かって、台本ではコンミントウと書いてあると嗜めていた

ラジオとは言え、台本があるんだな。朝日の羽鳥慎一も頭は良いが、取材先の温泉旅館の女将が台本はあると言っていた。まあ、台本通りに進行する場合もあるが、見城美枝子が「困る」と言う事が分からなかったな

最近、ふとした事で秩父事件を耳にした。「草の乱」という映画を上映したと。秩父事件にはホ-ムペイジでオフィシャルサイトがある。「草の乱」の映画は知らなかった。従って見ていない。明治の頃、あるいはその前でも農民一揆や蜂起はあった。それは生かさず殺さずの国家権力の圧制に対する怒りであった

国家権力も騒動、騒乱が起これば武力を持って制圧し、首謀者を見せしめに殺す。明治以前の島流しなどは無いんだな。しかし、秩父事件には生き永らえた者がいた。草の乱で描かれた会計長の井上伝蔵は欠席裁判で死刑を宣告されるものの、秩父の地元民に匿われて、名を変えて北海道に定住して、六十年以上生きていたと

今の国家体制では考えられない。今じゃ、国民一人ひとりに背番号を付けている。最近の病院では名前でなく、番号で呼ぶが、国家は民に番号を付けて一生付き纏う。そいが国家の勤め、民を縛る努めであろうな。ただ憲法だけが為政者を縛るな

小栗康平が語っていたが、師匠である浦山桐郎が「哀切なら誰でも撮れる、それが痛切であるかどうかだと」と話していたと

秩父事件では皆、殺したわけではないんだな。生き延びた者に興味をもった。生き延びて世に出した。事件で多かれ少なかれ例えば会津の白虎隊、赤穂浪士四十七士、新撰組でも後世まで生き延びた者がいた

文化勲章を受章した丸谷才一が昭和41年に「笹まくら」を河出書房から刊行した。徴兵忌避者を描いた。実際に丸谷才一自身、徴兵令から逃げるような体験をしたらしい。軍隊から逃げる、片や軍隊に入り論理的に軍人を追い詰めていく様を大西巨人が「神聖喜劇」で描いた

笹まくらも河出書房の書き下ろしの記憶がある。同じ書下ろしで高橋和巳の「憂鬱なる党派」があった。坂本のワンカメさんだったかな

民は圧制に堪えかねた時に蜂起する。起ちあがらぜるを得ない時に立ち上がる

起てよ 飢えたる者よ 今ぞ日は近し

今じゃ、インタ-ナショナル、グロ-バルと叫んでいるのは右翼だな

民の武装蜂起は高橋和巳の「邪宗門」だな。大本教を題材にしたが、面白かったな。それと五木寛之の「戒厳令の夜」だな。いずれも虚構であるが、あり得るし、あり得なかったことがむしろ不思議であるかな


思想

2016-12-09 19:05:17 | 世評
思想とは哲学用語であるかな。カ-ル・マルクスは下部構造が上部構造を規定すると言った。どうも昨今の世は経済によって世が成り立つようであるな

「哲学」や「思索」や「思想」や「思惟」や「考察」や「概念」や「知識」と言う言葉は日本には無かったな。江戸から明治になり西欧から文化や文明が移入された。あの当時の西周らの学者は日本語に無い言葉を作ったな。

今は、報道機関に寄れば、年末に流行語大賞とか設けている。いや報道機関ではなく「ユ-キャン」が設定した企画に、報道機関が乗っかっている。それも一社だけでなく、右にならえだな。もっともだから報道と言われるかな。報道とは道を報ずるだな。各社の行き着く道は一緒であるかな

今の流行語大賞は日本語ではなく、一種の広告、宣伝だな。宣伝だから質でなく数だな。数多く撃てば当る。丁度、変態の奔りだった小泉の純一郎の、郵政民有化、改革だな。それは言葉ではなく、坊主が何回も唱える標語のようなものだ。数多く撃てば、段々と真実味を帯びてくる。嘘でも何回も何回も唱えれば、本当になってしまうな。それが道を報ずると言うことだな

まあ、あの明治初頭の知識人からすれば、報道機関とは恥ずかしさを感じ入る。言葉を作る方が、日本語を作っていく作業の方が、はるかに面白さはある。流行歌はそれなりに時代を感じるが、流行の大賞は時代を超えているかな

まあ、時代のせいにするなと茨城ののりこの声が聞こえてくるが。声なき声が、つぶやきでなく、お叱りだな

電子計算機とはコンピュ-タとは従来二進法と言われた。正か反だな。あるいは丁か半かな。コンピュ-タが出始めの頃は少数意見を吸い上げると言われたな。いや有識者が言ったのだな。コンピュ-タがパ-ソナルコンピュ-タになり、電話機が黒電話から多数から個の携帯電話に変わった

集団から個に移った。全体主義から民主主義に移行したと。日本の憲法も集団の公共の福祉から個の基本的人権に変わった。全体主義から個人主義に移行された。結構毛だらけ猫ハイだらけかな

昨今のテレビも面白いものもある。昔は俳句や川柳などは大衆のテレビには適さなかった。夏井いつき、やはり松山だな。先生とはいるものだな。解説が面白い

松山と言えば、正岡子規かな。鶯谷のラブホテル街の中に子規庵がひっそりと建っている。辞世の句は 糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな

子規の友人であった夏目漱石、坊ちゃんの「そんで もし」松山弁は江戸っ子には、まどろっこいな。子規は松山中学出身。今の松山東高校とか。大江健三郎も内子町大瀬から出て松山東高へいったな。大瀬の森からは松山までは毎日通えない。松山には、ハイカラな伊丹十三がいた。友が友をよんだ

物識りはいる。インタ-ネットの世では恐ろしく物識りは存在する。テレビの世界でも映像でもクイズ番組が華やかである。予備校の教師だった林修がいる。日本放送教会あがりの池上彰も色々知っているな。また変わり者のアナウサ-安住紳一郎はパンダとか詳しいんだな

昔は生き字引と言う言葉があった。博学で博識で学識もあり、思想もあった。しかし今の物識りはただ物を知っているだけなのだな。点だけで線になっていない。まさに報道機関が求める人材だな。一点は知ってる、次の点も知ってる。しかし点と点を繋いで線にならない。現代の時代を表している

翻って、政治家、政治屋を見回していると、腹の中が分かってしまう。考えがわかっちゃうんだな。昔の政治家は腹芸が出来た。いや政治家とは腹話術じゃなく、腹芸家だったな。何を考えているか分からない。今の政治家は利権が諸に出てしまう

政治家とは利権屋なんだな。新型の政治屋、維新の橋の下、小池の百合子は報道によると支持率は高いあるいは高かった。しかし、思想が強く出しすぎる。橋の下は歯切れは良いが国家意識を丸出し。経済優先である。経済優先は安倍の小倅と同じだな。あるいはお友達。カジノ法案は橋の下の発案かな

小池の百合子も、予算の復活枠を議員経由でなく、都知事の直轄とすると。議員にすれば選挙民との接点が無くなってしまう。選挙民とは支持者とはマルクス言う所の下部構造で繋がっている。それが無くなる事は大問題だな。利権の取り合いだな。

都議会議員の七人の侍は自民党から除名されたと。お池の百合子も検事あがりの若狭なにがしも除名なし。自民党をぶっつぶすと言っていた小泉の純一郎と同じだな。組織に役に立つ人間は残しておく。あるいは残った方が利益になるとの思惑があると、組織から出ないな

お笑いだな。現実のテレビのお笑いよりも面白いな。これも報道機関次第だな。